ごほうび中華と青い夏(1)
《あれぇ? なんでだろ・・・・・・》
電話の向こうから、南羽さんのいぶかしげな声が聞こえてきた。
「・・・・・・なにか、ありました、か・・・・・・?」
俺はノートパソコンから目を離さずに、一応話は聞いていますよというアピールをする。あと数百字で、『行動心理学基礎』の期末レポートが完成するのだ。借りてきた参考図書の中から、使えそうな部分をピックアップして文字に起こす。ほとんどまとめの段階だった。
南羽さんが、たしかめるようにゆっくりつぶやく。
《今、実習の実験結果をまとめてるんだけどね、計算予測と実績数値が合わなくて・・・・・・》
理系学部に所属する南羽さんも、今日はレポートに取り掛かっているようだった。『実験』と聞いて、白衣に身を包んだ南羽さんが怪しげな色をした薬品を混ぜているところが思い浮かぶ。
実のところ、『実験』という言葉に俺はあまり馴染みがない。
高校時代、理科は選択制で、文系の俺は迷わず生物を選択した。というか、実質それしか選択肢がなかった。1年生の頃、『化学基礎』や『物理基礎』といった、いわゆる入門レベルの授業はあったが、先生が話す言語は、まるで遠い銀河の向こうから来た人が話す言葉のようで、何ひとつ理解できなかった。定期考査は、教科書の単語をとにかく丸暗記して乗り切った。
「・・・・・・予測と結果が合わないのはよくあることでは・・・・・・?」
分からないなりに、あいまいな感想を述べる。
《えっと、それはそうなんだけど、そうじゃないっていうか》
「はぁ」
《初歩的っていうか、簡単な実験だから、結果はほとんど確定してるの。予測の数値は多分間違ってなくて、実験の手順も合ってると思うんだけど・・・・・・》
実際に集まったデータが、思うような結果におさまらないのだと、彼女は言う。
俺は、『実験』にまつわる数少ない経験の中から、おぼろげな記憶を引っ張りだす。
ゼラチンと寒天でそれぞれ作られたゼリーの上にパイナップルを置いて、一定時間経過後、ゼリーがどうなったかを観察する……そんな実験を、高校の初期の頃にやったような気がする。たしかどちらかのゼリーだけが溶けていたような記憶がある。とある物質の特性を確認するための実験——というか、実演——だったと思うが、詳細はすっかり忘れてしまった。
とにかく、南羽さんが陥っているのはきっと、俺が経験した実験で言うところの、当然溶けるはずのゼリーが何故か溶けていない……というような状況なのだろう。数字は嘘をつかないというから、難儀なものである。
ぼんやりとそんなことを考えていると、南羽さんの《あ、待って》という声が聞こえた。そのまま何やらぶつぶつつぶやいたかと思うと、《あぁ、これかぁ》と安堵したようなため息を漏らした。
「解決しましたか」
《うん、データの引用範囲がおかしかったみたいで、そこ直したらうまくいった。ありがとね、真北くん》
俺は特に何もしていないが、なぜか南羽さんに感謝されている。
《誰かに話すとさ、頭の中が整理できて、あっさり解決するってこと、結構あるんだよね》
南羽さんの声は、少し疲れているようではあったが、明るかった。
南羽さんとこうして通話するのは、もう何度目かわからないほどだ。週末に電話がかかってくることが多く、ラーメンを食べに行かないかという誘いから、日々の出来事や新しく見つけた外出スポットの共有など、ほとんどが他愛もない会話だった。
前期の試験期間に入ってからは、21時頃から2時間程度、毎日のように通話している。といっても何か話すわけではなく、無料の通話アプリを繋ぎっぱなしにして、今日のように、レポート作成や試験対策など、思い思いに作業する——そんな日々だった。
《よーし、あとはまとめの部分だけ。もうひとがんばりしますか。真北くんは?》
休憩のために離席していた南羽さんが帰ってきたようだ。俺は書き上げたばかりのレポートを上書き保存して答える。
「一応完成したので、今日のところは終わろうかと思います」
《そっかそっか。おつかれさまー》
南羽さんの朗らかな声がした。しばしの沈黙のあと、パンダのアイコンが静かに話し出す。
《あのさ、真北くん》
「はい」
《私ももう少しで終わると思うんだけど・・・・・・それまで繋いでてもいい?》
想定内の申し出に、そう答えるのが当たり前であるかのように、「もちろん」と俺は返答する。電話の向こうで、南羽さんが小さく喜ぶ声が聞こえた。
《ありがと! 電話が繋がってると、ひとりじゃないって思えるから、頑張れる気がする!》
ぱぱっと終わらせちゃうよーと集中し始めた南羽さんにエールを送り、俺はパソコンで動画サイトを開く。
あの実験で、結局ゼラチンと寒天のどちらが溶けたのか、無性に気になってしまったのだった。
彼女を邪魔しないよう、スマホをミュートにしてから、動画の再生ボタンを押す。
パイナップルと隣り合っても形が崩れないのは、寒天だった。




