6書に選ばれし者
それは、ほんのわずかな“違和感”から始まった。
象徴魔法の訓練から数日。
瑞希は授業の合間に、ひとり演習場の片隅で魔紋を再現しようとしていた。
(あの時みたいに……書けば、きっと)
指先で空に綴るように言葉を走らせる。
けれど、浮かび上がった魔紋は微かに“滲んで”いた。
(……なに? うまくいかない……)
再度試みようとしたその時。
瑞希の胸の奥が、ズキン、と脈打った。
──「また、ひとりにならないよね?」──
脳裏に響いた、誰かの声。
いいえ、それは確かに、“自分の声”だった。
次の瞬間、魔紋が一斉に黒く染まった。
「なっ……!?」
魔力が逆流した。
感情が暴走するように、過去の記憶が次々とフラッシュバックする。
──居場所がなかった教室
──背中に突き刺さる冷たい視線
──「お前には、魔女の資格がない」
──「ゼロのくせに、期待するな」
(……やだ……こんなの、やだ)
感情の奔流が、魔紋の中に溢れ出す。
もはや制御不能。記憶と感情が魔力を膨張させ、暴走状態に突入する。
「魔法暴走、発生!」
リミナ先生の警報が鳴り響く。
空間が歪み始めた。瑞希を中心に、空間そのものが“彼女の内面”へと変貌していく。
演習場は突如として瓦礫の街と化し、
空からは破れたノートや、誰かの手紙が雨のように降ってくる。
「こ、ここは……瑞希の“心象風景”!?」
急行してきたエルフィリアが、空間の異常さに眉をひそめる。
「これはもう、訓練レベルじゃない……精神構造がむき出しになってる。瑞希、このままだと――!」
瑞希の両目は虚ろで、涙を流しながら宙を見ていた。
「……やだ……わたし、また……ここにいていいって、信じたかっただけなのに……」
その呟きと共に、彼女の体から黒い炎が噴き上がる。
感情エッセンスの暴発。周囲の空気が歪み、他者の“感情”すら引き寄せ始めた。
「瑞希……目を覚ましなさい!!」
その時――誰よりも早く、ノアが瑞希の腕を抱きしめた。
彼女の手には、瑞希が書いた最初の“手紙”のコピーが握られている。
「『ここにいてもいいですか?』……それを、私に書いたんじゃないの?」
「だったら、勝手に一人で閉じこもらないでよ」
その言葉が、瑞希の中に染み込んだ。
世界が、止まる。
暴走の中心で、瑞希の心象世界が、ふっと息を吐くように静かになる。
──一枚の紙が、舞い落ちた。
それは、「わたしはここにいたい」と書かれた、瑞希の“第二の呪文”。
暴走が、止まった。
◆
瑞希は目を開ける。
見上げる先には、涙ぐみながらも微笑むノアと、すぐそばで肘をつきながらため息を吐くエルフィリア。
「……ったく、手間かけさせんじゃないわよ。全力で殴りかかるとこだったんだから」
「瑞希……あなた、本当に“星織りの書”に選ばれてるんじゃないかしら」
リミナ先生がつぶやく。
瑞希の初めての《エモーショナルブレイク》
それは、彼女の中の“檻”を暴き出したと同時に、確かな絆を結び始める第一歩だった。
──それは、光と影の狭間に落ちる、白い夢だった。
瑞希はふわりと虚空に立っていた。地も天もなく、すべてが薄墨色の空気で満ちている。感覚は曖昧で、体すら曖昧で、けれど確かに“ここに在る”という実感だけがあった。
(……ここはどこ?)
ふと、何かが足元に落ちてきた。
一冊の本だった。真っ白な表紙に、金の糸が糸綴じされた古めかしい本。
《星織りの書》。
瑞希はそれを見た瞬間、胸の奥がずしんと重くなった。怖い、のに、懐かしい。まるで自分の過去がそこにすべて記録されているかのように。
指先が勝手に表紙に触れた。
ぱら……とページが開く。
中には、自分の記憶の断片が、文章でも映像でもなく、“感情のかたち”として綴られていた。
──“泣かないようにうつむいた日”
──“うまく笑えなくて、自分だけ浮いていた放課後”
──“誰にも見つけられなかった、最初の手紙”
(どうして……全部、知ってるの?)
そのときだった。
《星織りの書》の中心から、声がした。
「あなたは、“観測者”だ」
空間が震えた。
瑞希の足元に、円環の文字が浮かび上がる。見たこともない言語。だけど、なぜか読める。
──「書く者は、書かれる者。観測する者は、世界そのものを変える力を持つ」──
(……“観測者”? わたしが?)
「Emotion Break」の暴走時、瑞希の魔法が“他者の感情”までも巻き込んだのは、偶然ではなかった。
彼女は魔力の根幹に、“記録”と“共感”を宿している。
その能力は、時に感情の因果律すら書き換えることができる。
それが、《星織りの書》に選ばれし魔女の特異な資質――
“感情改編(Emotive Rewrite)”。
「……でも、わたしなんかに、そんな大それた力……」
言いかけたその瞬間、また声がした。
今度は、瑞希自身の声だった。
「“わたしなんか”をやめるために、あなたは書き始めたのでしょう?」
ページがめくれる。
次のページには、まだ何も書かれていなかった。
──まっさらな未来。
瑞希はゆっくりと、手を伸ばした。
そのページに、最初の一行を綴るように、心の中で呟く。
「わたしは、この世界に存在する」
ページが淡く光り、瑞希の身体がふわりと持ち上がる。
次の瞬間、視界が真っ白になった。
◆
「……っ、ぅ……!」
瑞希は飛び起きた。見上げた天井は、学園の医務室。
「目が覚めたのね」
そばでノアが、いつものクールな顔で言った。
……夢じゃなかった。
《星織りの書》が、わたしを選んだ。
そして、わたしは……この物語を、書き始める者になった。
窓の外には、星のように小さな光がひとつ、ゆっくりとまたたいていた。
それはきっと、瑞希という少女が、自分の物語に初めて意味を与えた夜だった。