表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
〇〇は誰だ  作者: 北崎世道
一章
6/42



 書類を差し出されたので、受け取り、中身を確認してみる。

 すると、特に何の問題もなく文字は読めた。


 明らかに日本語でもないのに何故か頭の中で勝手に翻訳されて読める事については、まあ、異世界ものあるあるだから、それほど驚きはない。

 理事長室のプレートも読めたし。


 そもそも会話などの言葉が通じてる時点で、そういう危惧は排除しても良かったはずだ。


 それよりも僕の名前についてだが、ぶっちゃけマジでどうしよう。

 特にまだ何も、本当にまだ何も決まってない。

 締め切り前の原稿用紙のようにまっさらだ。


 こういう時はRPGでの主人公の名前を決める時によく使う名前を挙げたいのだが、基本的に僕はそのゲームでのデフォルト名、もしくはデフォルト名が定まってない時は『うんこしたい』系を使うので、今回に限っては却下だ。


 じゃあ何にするか。


「…………」


 僕のパチモンゲーム機よりも不出来な脳髄ではすぐには思いつかないので、一旦保留し、ブルババの言う通り紙に手を置く感じて契約を進める事にする。

 幸い、先程言った通り書類の文字は読めるので、契約内容自体はこちらにもちゃんと解かる。


 一通り目を通してみるが、特に何の問題もなさそうだ。

 むしろこちらに都合がよすぎるくらいの内容だと思う。

 …………ホワイト企業? 

 裏面やら書面の端やら、いろんなところを目を皿にしてしっかり読んだり、探したりするが、ガチで問題なさそうだ。


「…………大分こちらに都合がいい内容みたいだけど、本当にいいのか?」


「問題ないさ。それだけアンタを買ってるという事さ。まあ、察しの悪いあんたにもはっきり解るように言ってやると、あんた程度なら口八丁手八丁でどうにでもやり込める自信があるんだよ」


「やっぱやめようかな」

 部屋を出ようかと、回れ右してブルババに背を向ける。


「あのコ達とお近づきになるチャンスを棒に振るのかい?」


「…………」

 再度、回れ右してブルババに向き直る。


「そうそう。あんたは腹の探り合いに向かないんだから、自分の欲望に素直になっとけばいいんだよ」


 悔しいがブルババの言う通り。僕は腹の探り合いが苦手だ。

 いくら姿かたちが変わって、チート能力を得ようと、中身が変わらないとどうしようもない事ってあるものだといういい例だ。

 今回ブルババにそれを指摘されただけだ。


 むしろ今回はそれを指摘されただけで済んだ事に感謝しよう。

 これもチート能力があっての事だ。

 チート能力がなければ、腹の探り合いの段階にすらいかなかったのだから。

 今はチート能力の恩恵で高く買ってもらってる事に感謝しよう。


「あれこれ考えるのは、せめて脳みそが鳥よりも大きくなってからにしな」


 やっぱ納得いかないかな。



 ◆



「ほら、そこの印のところに手を置きな」


 ブルババに言われるとおり、僕は指定されたところに手を置く。


 すると、印の描かれた紙が発光し、その光が線となり帯となり、僕の手に結び付いた。


 この光の帯がもう少し色鮮やかだったらハ●●タや●ィ●ニーみたいな演出のように感じられたかもしれないが、残念ながら僕の目の前で起きた現象はどこか機械的で、陳腐といってもいい感じのものだった。


 魅せる為の演出ではなく、あくまで事務手続きの為の発光というのが大きな要因だろう。

仮に演出の為に行っても、あっちの会社の技術力に勝てるとは思えないが。


 ともあれ、これで僕の転入手続きが終わった。


 転入。


 というのも、僕はこれからあの五人のボディガードをする際、ここの学園の生徒である方が都合がいいので、ここの学園生になった訳だ。


 適当な理屈で学園の生徒となるのは異世界あるあるというか、異世界に限らず創作物あるあるだから気にしない。

 てか、僕ってガチで創作物の中のキャラなのか? 

 考えても仕方のない事だけど。


「それじゃあ事務手続きも終えたし、これからあんたが住む寮に案内してやろうかね。

 …………あ、でもその前に」


 ブルババは悪代官みたいに口端を歪めて、


「飯でも食うかい? 腹、減ってるんだろう?」


 僕はインコのように頷いた。



 ◆



 ブルババが机の上にある電話機で飯を理事長室に持ってくるよう注文する。


 僕は電話機なんてあるのかと驚き、尋ねてみると、どうやらあるにはあるがそこまで普及しているものでもないらしく、なんだったら近くにしか掛けられない仕様で、遠くに掛けるにはそれなりに準備が必要らしいとの事。


 魔法があってもまだそこまで文明は発達してないようだ。少なくとも元の世界のようなスマホ等は存在しないとみていいだろう。


 飯が来るまで、僕はブルババからこれまでどういう生活を送ってきたかについて尋ねられた。

 僕はそれを記憶がないの一点張りでやり過ごした。

 どこぞの社長とかも記者会見では似たような対応でやり過ごすから問題ない筈だ。(何が?)


 とまぁ、そんなこんな話しているうちに注文していた飯が来て、僕はブルババと一緒に飯を食べ始めた。


 異世界初の食事がこんなブルドッグとオークの子孫みたいなババアと一緒だと思うと少し気が滅入ったが、現実はこんなもんかと、僕はこれからの生活に思いを馳せながら、飯を腹に詰め込み、夢を胸に詰め込んだ。


 ちなみに飯は手足の生えた焼き魚に眼球が三個浮いたゼラチンみたいな薄紫色のスープ。

 見た目はともかく味は美味だった。


 飯を食べ終えた後は、これから僕が住む寮に案内してもらった。


 理事長室を出て、建物を出て、学園の敷地を歩く。

 既に日が落ちて外は暗く、すれ違う人はほとんどいなかった。


 学園の雰囲気は運動公園のような、大学のような印象があった。

 今こそ人は見かけないが、日が昇ってる時には散歩をしている人とかたくさんいるだろう。

 ただ、建物は小学中学高校の校舎みたいで、そこが僕の頭をバグらせる原因となった。

 大学の中に高校がある、みたいな。

 おそらくすぐに慣れるだろう。


 十分ほど夜の学園を歩き、どんどん人気のなさそうな、建物の数も少ない、おそらくは学園敷地の隅であろう場所に来たところで、ようやくブルババが


「あれがあんたの住む寮だよ」

 と指さして言った。


「……随分と小さいな」


 ぽつんと置かれた白い真四角の建物。

 外観からの第一印象は薬とか作ってそうな研究所だ。

 人によっては公民館と思ったかもしれない。

 マイ●ラ民なら豆腐と称しただろう。


「あんなんで学園生が暮らせると思わないんだが。暮らせるといっても精々、十人前後じゃないか?」


「話を聞いてなかったようだね。一応、説明しておいたんだが」

 そうだったか?

「あそこに住んでるのはあの五人だけだよ。あの五人はちょっと特殊でね。他の生徒とは別の建物で暮らしてるんだ」


「そうなのか」


「そもそも特殊でも何でもない生徒のボディガードをあんたに頼むと思うかい?」


 ボディガードは僕を引き留める為の口実でしかなかったと思うが……。


「……まぁ、そうだね」


 口実であろうとなかろうと、そういう対象に選ばれるだけで、普通の生徒とは一線を画すともいえる。

 もしかして顔が良いからだろうか。全員美少女だったし。


「気にならないのかい?」

 とブルババが尋ねてくる。


「うーん。気にならないと言えばウソになるが、今はまだそこまで興味はそそられないかな。

 現状、僕はまだ彼女達全員の名前も知らないんだ。

 ある程度交流を深めた後なら興味を惹かれると思うが、やはり今はまだと言うしかない。どうせ教えてくれないんだろう」


「ほう、よく見抜いたね」


 感心したようにブルババが笑う。


「やっぱりね」

 当てずっぽうだったが、見栄を張って、それっぽく振る舞う。

 最初から知ってたという風に。なんて思ってたら、


「当てずっぽうかい」と、ブルババ。


「ほう、よく見抜いたな」


 感心したように僕は笑う。

 が、内心、苦笑気味だ。


「年季が違うさ。あ、それと見栄を張らなくてもいいんだよ」


 僕の内心まで見抜かれていた。

 ぐぬぬと唇を噛む。

 勝てない。


「腹の探り合いばっかりやってきたアタシに勝てると思わない事だね」


「最初から思ってなかったが…………まぁ、肝に銘じておくよ」


 警戒はどれだけやっても足りない事はないだろうから。


「あ、しまったさね。そうだった」


 急にブルババが手を叩き、少し足を進めて僕の前に立つ。


 ブルババの醜い顔が目の前に来て、僕は吐きそうになる。

 ネットで誤って焼死体見た時よりも数段強い吐き気だ。

 グロさ的には五分五分といったところだが、ブルババの顔にはネットの画像にはないドギツイ加齢臭がある。

 それこそ死体のような腐った臭いだ。

 ウンコよりも臭い作業着を着た今の僕とタメを張る。


 更にブルババはあろうことか、僕の顔を両手で掴み、まるでキスをするかのような態勢をとってくる。


「ま、待ってくれ。本当に待ってくれ。それ以上近づくと、ガチでっ、ガチで…………ホント、本当にやめて。お願いだから。その気色悪い顔をこっちに近付けないでくれ。

 死にたくない。ブルババみたいなクリーチャーにキスされるとか肥溜めにキスするようなもんだろ。

 大量殺人者くらいじゃないと罰の重さが釣り合わないだろ。ほんとマジやめてくれ! ぎゃああああああああッ!」


「何か勘違いしてないかい?」

 ブルババの怪訝そうな反応を見て、僕は自分が勘違いしている事に気付く。


「やれやれ」


 とラノベ主人公でもないのにブルババがぼやいた。

 それから何やら呪文のようなものを呟き始めた。

 ようなもの、というかもしかすると呪文そのものかもしれない。

 ブルババの周りで何かが蠢ているような感覚がある。

 おそらく魔力だ。

 今日の昼頃、竜と戦った時に似たような感覚を得た覚えがある。

 アレとは魔力の量やら密度が大きく異なるけど、根本的なモノは同一だ。


 ブルババの猿みたいなしわくちゃな手が熱を帯びていく。

 するとその手の熱が、現在進行形で掴んでいる僕の頬ではなく、そのすぐ上、僕の額に熱が集まっていく。

 熱はぼんやりとした不定形なものではなく、点としてのはっきりとしたカタチがある。

 凝縮された点だ。

 熱の点は額の中心、それも皮膚の上ではなく脳の中にあると感じる。


 点がやや拡がり始めた。

 かと思えば、ブルババがおもむろにしゃがみ込み、僕の足元にさらっと何かを描く。

 そしてそのままの態勢で振り返り、建物の方の地面に色々なモノを描きこんでいく。

 模様か。いや、これは文字か。


 何処からか風が吹き、ふわりと砂煙が舞う。

 ブルババを中心に微かな渦が舞い始める。

 渦の中心でブルババが一心不乱に文字を描き続ける。


 ブルババの指の動きが複雑になり始めた頃、突如その地面が様々な線として光り輝き、それが伸びていって、建物の周りを囲んでいく。


 囲む事で気付いた。

 これは魔法陣だ。

 魔法陣が建物を囲んでいる。


 ブルババが掠れた声で呪文を唱えた。

 呪文の声に合わせて魔法陣の発光が流動する。

 淡く光ったり、激しく光ったり。波のように光輝く場所が揺れ動いたり。

 呪文を唱え終えると、魔法陣が発光を止め、辺りは何事もなかったかのように暗さと静けさを取り戻す。


「ふぅ」

 とブルババが汗を拭う。

「あんた、どれだけ魔力を持ってんだい。本来、魔力量なんて関係ない魔法だった筈だよ。それなのになんで普通の三倍以上の魔力を持っていかれるんだが。規格外にも程がないかい?」


「ああ、うん。ごめん」

 ブルババの文句を適当に聞き流し、謝罪する。

「てか、今の何? 何の魔法を唱えてたの?」


「ただの警報器みたいなものさね」

ブルババが自嘲するように答える。

「許可のない者がこの建物に入るとビービーと警報が鳴る仕組みさ。アタシに気付かれずに建物に入る術はないと思ってもらっていいよ」


「ふぅん。魔法による防犯装置か。それってあの五人が特別だから?」


 ブルババが難しい顔をした。


「うーむ。その問いにはイエスと答えるべきなんだが、この文脈だとちょっと違うくなるさね。

 というのも、あの五人が特別だからわざわざ魔法陣を張ってる訳じゃなくて、あの五人を住ませるのに丁度いい建物がこの魔法陣を張ってる建物だった訳さ。

 つまり逆なんだよ。

逆。

あの五人の為に防犯ではなく、防犯装置のあるところにあの五人が偶々やって来たんだよ。

 それでもあの五人が特別扱いなのは間違いないんだけどね。他の生徒とは別のところに住ませてる訳だし」


「成程」

 特別なのは間違いないが、特別だから護ってると訳ではないのか。


 僕をボディガードに雇ってるのも、盗賊に襲われたのが原因だし。

いや、あれは口実だっけか。


「でも、一応特別扱いの女の子達に、今日あったばかりの僕なんかを近づけてよかったのか? こう言っちゃなんだが、僕って正体不明の不審者だぞ?」


 僕の指摘をブルババが鼻で笑う。


「あんたもあれだけの盗賊を一蹴したんだから、一応特別扱いなんだよ。それに、あんたはあの五人に危害を加えるとは思えないからね。

 これはあんたを信用しているという意味ではなく、あんたがそういうタイプではないと判断したアタシ自身の目を信用している意味さね」


 成程。それなら納得。


 要は、僕は小物扱いされてる訳だ。確かにブルババのその判断は正しいと言わざるを得ない。確かに僕はあの五人に襲い掛かるつもりはない。


 ちなみにこれは僕が他人を思いやるような理知的な人間だという意味ではなく、単なる臆病者だという意味だ。

 匿名性の高いネット上でも、誰かを誹謗中傷する事もできないコミュ障である。

 いつも腹の中でため込んでるだけ。

 第三者から見たら無害な傍観者なんだろうけど。


「とりあえず、僕はこの寮に入れるんだよな」


「そうさね。ほら、部屋の鍵」


 そう言ってブルババが鍵をこちらに放り投げる。

 僕はそれを受け取り、首を傾げる。


「…………なんだこれ? ただの棒にしか見えないんだけど?」


 渡されたのはシャー芯みたいな針金の棒。

 クリップを伸ばしたやつを半分くらいの長さで切ったと言われても何の違和感もない、ただの棒である。


「まさかこれを鍵穴に指してピッキングしろと?」


「違う違う。そうじゃなくて扉の隙間に刺して、そこから鍵の部分である針金を上に押し上げる為の棒さ。棒がなければその辺の紙でも充分開けられるから安心しな」


「…………どういうこと?」


「見れば解るさ。部屋番号は104さね」


 説明してほしいと思ったが、楽しみに取っておくのも悪くないと思い直し、あえて追及するのはやめておいた。

 大した事でもないと思ったし。


 ブルババを見送り、建物の中に入ろうとするが、ふと背中側から声がする。


「ああ、そういや言い忘れてた。寮内の共用浴場の時間はきっちり守るんだよ」

 とブルババの忠告。


 成程、お風呂でドッキリイベントのフラグですね。

 分かります。


 僕は手を振り、了解の意思を示す。勿論、フラグを守るという意味で。


 そんな感じで今度こそブルババと別れ、僕は指示された部屋の前に向かう。建物の入り口を潜り、ロビーを抜け、廊下を歩く。


 寮内は外観と同様、ほとんどが白で統一されている。壁も床も天井も殆ど白。

 まるでパンツだ。


 でも、よく見たらお飾り程度に黒のラインが入っている。

 やはりパンツだ。


 デザインというよりは、この空間の縦と横を見失わないようにする為の印みたいな感じだ。

 やはりパンツか?


 これがなければ自分の立ち位置を見失って、廊下を歩く度に壁に激突するかもしれない。

 ただまぁ、それはこの建物が新しくて清潔だったらの話で、よく見たら壁も床も大分汚れて、中には黄ばんだところもある。

 やっぱりパンツだ。


 更にはヒビが入った壁、カビの生えた床も散見されるので、歩く度に壁に激突する恐れもない。ぶつかるのはよほどのポンコツさんだけだろう。


 そんな、やや黄ばんだ白の廊下、学校廊下よりもわずかに狭い廊下を歩き、指示された部屋の前に立つ。

 番号を確認。104号室。

 異世界語は分からない筈なのに、数字も何故だか当たり前のように読める。

 この世界が十進数って事も解かる。

 意識しないと気付かないレベルの翻訳能力だ。意識したら明らかに僕の知ってる文字じゃないってのは分かる筈なのに。


 扉をノックする。が、当然誰も出ない。

 ドアノブを見る。金属製。

 だが、触ると元の世界と比べて若干手触りが悪い。

 こういう細かいところに文明の差が出るのかと少し思う。


 ────パチリ、とどこかで音がする。何の音だろう。


 まぁ、いいかと僕は手触りが若干悪いノブを回す。

 すると、普通に開いた。

 鍵は掛かっていなかったようだ。


「ん?」


 室内は暗い。

 だが、ぼんやりと光が見えた気がした。

 幽霊だろうか。

 異世界にも幽霊がいるのか。

 それとも異世界だから幽霊がいるのか。


「気のせいかな」


 そう思い、壁に手を当て、スイッチを探る。

 あった。

 突起の感触。

 押すと、パッと電気がついて、部屋が明るくなる。

 ここら辺は元の世界と変わらない。

 普通の電気スイッチだ。

 もしかすると何かしら仕組みが違うのかもしれないが、使用感だけなら元の世界と一緒だ。


 僕は明るくなった部屋を見渡す。


 部屋の中は案外広く、右側に備え付けのベッドと机、左側の壁中央にタンスが置かれている。

 それらは全て木製で、色は白ではなく茶色。パンツじゃないので安心だ。


「ほほぉ」これが我が城。


 僕だけのプライベート空間。

 異世界に来て初めて、自分だけの場所を手に入れたという感慨が湧き、その余韻に浸る。

 が、なんとなく引っ越し後みたいな感覚よりも、初めて泊まるホテルの部屋を見た時の感じに近いと思う。

 家具が備え付けられてるからだろうか。


 いや、家具付き物件もそう珍しくない。

 なら何故か。

 おそらくここに来るまでの過程のせいだろうか。

 引っ越しの為の掃除やら家具の運搬などがなく、初めてくる未知の場所への移動がメインだったからだと思う。


 異世界はまだ僕にとってこれから暮らす場所ではなく、初めて訪れる旅の場所みたいな感覚があるのだろう。

 まだ。そんな感覚もここで過ごしているうちに徐々に消え、少しずつ異世界が異世界ではなく、こっちが僕が暮らす世界と感じていくに違いない。


 てか、そうじゃないと困る。

 僕には元の世界に戻るつもりなんてさらさらない。

 髪の毛が頭皮に戻る事がないように、僕も元の世界には決して戻らないのだから。


「そういえば」

 と振り返り、鍵を見る。


 すると成程、確かに解った。

 鍵。てかこれ、アレだ。

 あおり止めだ。


 田舎のばあちゃん家のトイレとかにありそうなやつ。

 たぶん百均でも売ってあるだろう。

 ネジ頭部分を円形に曲げたネジ釘とそれに引っ掛けるように先っちょをひん曲げただけの棒、とそれを扉に着ける為のネジ釘。

 見れば絶対、ああこれか、と分かるやつ。

 正直、部屋の鍵として使うにはあまりにちゃっちい仕掛けである。


 これならブルババから渡されたただの棒でも開ける事ができるし、なんならただの紙でも開ける事ができる。

 更に言えばちょっと力を込めて扉を開ければパキッと簡単に壊す事もできる鍵……あおり止めである。

 なんなら小学生でも扉に体当たりすれば簡単に壊せるだろう。


 大仰な魔法陣で囲ってる建物なのに、このちゃっちさはいかがなものか。


 防犯意識はどうした。防犯意識は。


「……まぁいいか。この部屋に入るモノ好きなんていないだろうし」


 プライバシーがないのは少々困るが、折角の異世界で、姿も中性的なイケメン(というには少し派手さが足りないような気もするが)になった訳だから、自分の殻に閉じ籠るのはできるだけ避けたいとも思う。

 完全に閉じ籠れるプライベートな空間があれば、僕みたいな人間はすぐに閉じ籠ってしまうだろうし、鍵がちゃっちいのは僕にとってある意味好都合なのかもしれない。


 目指せ、脱引きこもり。

 目指せ、脱コミュ障。

 目指せ、陽キャ。


 ここに来るまでもほとんどコミュ障の発作が出てこなかったから、たぶんイケると思う。


 来たばっかで精神が高揚していたのもあるだろうけど。


 すぅ、と息を吸い、ふぅ、と息を吐く。ぶぅ、と放屁もする。


 意外と埃はない。

 ここは空き部屋だったはずだ。

 それなのに埃っぽくないのはこんなところにまで清掃が行き届ているからなのか。

 綺麗なことに越したことはないので、特に気にせずベッドに腰掛け、一息つく。


「…………ふぅ」


 さて、部屋に到着したのはいいが、今の僕はスマホやパソコン、それどころかテレビや本さえもないから、暇を潰す道具がなさ過ぎる。

 一応、今日は一日中歩いていたから疲れてはいるし、それこそベッドで寝そべったらそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。


 だが、ダメだ。


 夕食は食べた。

 だが、風呂も入ってないし、他の寮生達に挨拶もしていない。

 他の寮生といってもあの五人だから、顔を合わせてない事もないが、一応挨拶をしておくに越したことはない。

 それに脱引きこもり。脱コミュ障運動の一環としてもいい機会だと思う。


「…………」


 僕はベッドに下ろした腰を上げて、部屋を出る。

 やるのは勿論、引っ越し後のあいさつ回りだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ