プロローグ、崩壊の序曲
その日、日本列島全土を覆う異変が発生した。
未明に起きた地震は、従来の地震とは異なる奇妙な震動だった。
震源地は岐阜県。
揺れ自体は大したものではなかったが、その直後、空が赤黒い膜に覆われ、日本列島全体が不気味な雰囲気に包まれた。
膜の内部では突如として異形の生物が現れ始めた。
それらは街中に出現し、次々と人々を襲撃した。
獣のような姿、無数の触手を持つもの、まるで悪夢から飛び出したかのような存在たち。
都市部はパニックに陥り、ニュースは怪異の報告一色となった。
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橘大河は、岐阜県の山奥に隠された施設で目を覚ました。
そこは長年、秘密裏に運営されてきた人体実験施設であり、大河もまた被験者の一人だった。
施設は一見、山中の古い研究所のような外観を持っていたが、内部は高度なセキュリティと最新のテクノロジーが張り巡らされていた。
この施設の存在は一般には知られておらず、その資金源や背後関係については多くの謎があった。
ただ一つ明らかだったのは、そこが「倫理」を遥かに超えた実験を行う場所だということだった。
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大河がここに連れてこられた理由は、彼自身の過去に遡る。
幼い頃から家族との関係は希薄で、学校でも孤立しがちだった。
暴力的な家庭環境の中で育った彼にとって、周囲とのつながりは重荷でしかなかった。
大人になってからも社会に馴染めず、転職を繰り返しては孤独な生活を送っていた。
そんな折、ある「アルバイト募集」の広告が彼の目に留まる。
破格の報酬に惹かれ応募した彼を待っていたのは、「身体を使った研究協力」という名目で行われる人体実験だった。
当初、大河は軽い気持ちで参加していたが、次第に実験の異常性に気づくようになる。
過剰な採血や薬物投与、極限状態に追い込む精神的な刺激など、実験の内容は日に日に過酷さを増していった。
しかし、それでも彼は逃げることを選ばなかった。
理由はただ一つ──彼には帰る場所がなかったからだ。
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ある日、大河はいつものように拘束された実験室で目を覚ました。
体中が鈍い痛みに包まれ、頭がぼんやりしている。
だが、その静寂を破るように警報音が鳴り響いた。
「警告、警告。コードブラックが発生しました──」
施設内のスピーカーから流れる機械的な声と共に、白衣を着た研究者たちが慌ただしく走り回る。
モニターには、日本列島全体を覆う赤黒い膜の映像が映し出されていた。
「……これが、原因なのか?」
研究者たちは画面に映る膜と施設の実験データを見比べ、何かを確認していた。
その中の一人が叫ぶ。
「エネルギー波の流出が確認されました! やはり実験体No.17の影響が……」
「実験を中止するべきだったんだ! あれが漏れ出したら……!」
その「実験体No.17」とは、大河のことだった。
彼の体内に蓄積された未知のエネルギーが、外部に影響を及ぼしているというのだ。
施設の上層部は、即座に施設の「放棄」を決定した。
責任を隠蔽し、痕跡を完全に消すため、施設を破壊しようとしていたのだ。
施設内のシステムが次々とダウンし、拘束室のロックも解除される。
大河はふらつきながら部屋を出た。
廊下の天井からは薄い煙が漂い、赤色の非常灯が点滅している。
あちこちで壁面のモニターが火花を散らし、警告音が空間を切り裂くように鳴り響いていた。
「警告、警告。崩壊まで残り15分──」
施設の奥からは、金属が軋むような音と共に、爆発音が響く。
その音に反応して、施設のあちこちの扉が勢いよく閉じたり、逆に開放されたりしている。
大河が足を踏み入れた広いホールには、緊急避難用の小型ヘリが準備されていたが、
すでに白衣の研究者たちが乗り込み、次々と飛び立っていく。
一人の研究者が大河の姿を見つけ、叫んだ。
「何をしている!? 早く逃げろ、ここはもう終わりだ!」
だが、大河はその場に立ち尽くしたままだった。
逃げ惑う人々の姿を目にしながら、彼は胸の奥から湧き上がる奇妙な感覚に気づいていた。
それは不安でも恐怖でもなく──むしろ心地よさに近い感情だった。
ホール全体が揺れ、天井からは細かい破片が降り注ぐ。
施設の外に目を向けると、赤黒い霧が渦を巻くように広がり、霧の中で無数の影が動いているのが見えた。
それは魔獣たちだった。
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施設の外に出た瞬間、大河の目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
赤黒い霧の中を歩き回る魔獣たち。
その姿はそれぞれ異なっていた。
一匹は巨大なオオカミのような姿をしていたが、背中にはまるで溶岩のような赤い筋が脈動しており、その瞳には常に燃え盛る炎が宿っているように見えた。
別の魔獣は、無数の触手を持ち、触手の先端に鋭利な刃のような突起がついている。
その触手が地面を叩くたびに、硬いアスファルトが粉々に砕けていく。
さらに奥には、鳥類を模したような生物が空を飛んでいた。
その翼は異常に大きく、羽根一枚一枚が金属のように光を反射している。
飛ぶたびに甲高い音が鳴り響き、その音は耳障りなだけでなく、耳鳴りを引き起こすような不快さを伴っていた。
近くにいた魔獣が大河の存在に気づき、その巨大な頭を彼に向ける。
体毛はなく、黒光りする表皮はまるで蛇のようだった。
その口からは、牙とともに濃い霧が漏れ出ている。
それは毒か、あるいは何か別の未知の物質であるように見えた。
「……何なんだ、こいつら……」
だが、その中の一匹がゆっくりと大河に近づくと、興味深そうにその瞳で彼をじっと見つめた。
その瞳は、どこか知性を感じさせるような光を宿していた。
それは単なる本能ではなく、大河の何かを察知したかのような動きだった。
試しにその魔獣に意識を集中させると、再び脳内にあの声が響いた。
「感じろ。ただ、果たせ。」
その瞬間、魔獣はゆっくりと頭を下げるような仕草を見せた。
ただし、それは従順というよりも、あくまで一時的な「協力」のような感覚だった。
その仕草が終わると、魔獣は再び身を翻し、赤黒い霧の中に消えていった。
「干渉……できるのか。」
大河は一歩を踏み出した。
足元にはいまだに崩壊の余韻が残る施設の残骸が広がり、周囲を取り囲む魔獣たちは自由に動き回っている。
その中で彼にだけ注目するものもいれば、興味を示さないものもいる。
だが、いずれにせよ彼に危害を加えようとはしなかった。
「これが俺の舞台か……悪くない。」
赤黒い霧が渦を巻きながら彼を包み込む。
大河はその中を歩み続ける。