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第02/15話 照れ性

 紺斗は「問題ないよ、これくらい。ちょっと捻っただけだ」と言い、椅子を元の位置に戻した。「医者に診てもらう必要もないね。放っておいても二、三日で治るはずだ。ほら、おれは生命力というか回復力というか、そういうものが強いだろう? 二年前に例の事故に遭遇した時だって、病院に担ぎ込まれてから二週間も経たないうちに全快したし、後遺症の類いもまったくなかったもんな」

 例の事故というのは、自宅近くにある三階建てスーパーがガス爆発により崩壊した件のことだ。当時店内にいた紺斗は瓦礫に埋もれ、ひどい怪我を負った。ろくに身動きもとれず、飲まず食わずのままひたすら助けを待った。救助されたのは事故発生から五日が経過した頃のことだ。

 妃乃は「ならいいんだけど」と言ったが、顔にはまだ不安そうな雰囲気が残っていた。どことなく気まずいムードになった。

 紺斗は雰囲気をよくしようとして「そういえば」と喋り始めた。「リュックサック、講義室に置きっぱなしなんだよな。逃げるのに必死だったから。後で取りに行かないと」

「一人で平気? 事件のことがトラウマになっているんじゃない? よかったら付き添うけど」

「いや、問題ない」首を横に振った。「そりゃまあ、トラウマになってはいるが、行動に支障をきたすほどじゃないよ。……妃乃のほうこそどうなんだ?」今度は紺斗が心配する番だった。「血を見るのが大の苦手だろう? 講義室から離れる前、部屋の中に視線を遣った時も倒れかけたしさ」

「今は大丈夫だよ。あの時は気が遠くなりかけたけど……さいわい障害物のおかげでよくわからなかったから」そう言いながらも妃乃は表情をやや強張らせていた。

(しまった、不快なことを思い出させてしまったな)紺斗は話題を転換しようとして考えを巡らせた。「……というか、リュックサックは回収できるんだろうか? なにしろ事件現場の内部にあるからな。警察が現場検証やら何やら行っているだろうし」

「まあ、事情を説明する必要はあると思うよ。さすがに、いつまでも返してくれない、なんてことはないだろうけど。戻ってくるまで時間がかかるかもしれないね」

「だよな……厄介だなあ」顔をしかめた。「リュックサックにノートパソコンを入れてあるんだよな。今朝の講義で使ったやつ。あれが要る講義は他にもあるから早く取り戻したいんだが」

「でも明日以降の講義ってどうなるんだろう? 今日はもう全面休講、とは大学のホームページに書かれていたけれど。もしかしたらしばらく休みが続くかもしれないね」

「言われてみればそのとおりだな。拳銃殺人事件なんて起きたわけだし」紺斗は唸った。「いちばん心配なのはリュックサックを盗まれることだが……講義室には警察がいるんだ、さすがに杞憂かな。ノートパソコンにはロックも設定しているし」

「ちゃんと複雑なパスワードにしている?」妃乃は不快でない程度に注意する調子の声で言った。「パスワードとか暗証番号とかを不正に突き止める技術、かなり発達してきているらしいよ。この前、そんな内容の番組がテレビで放送されていてね」

「……ああ、そうだな……」

 ぎこちない返事になった。思い出したことがあったからだ。一昨日の土曜日の晩、紺斗の一人暮らしの家に妃乃を呼び、酒を飲んだ時のことだ。

(妃乃がアルコールに弱いことは以前から知っていたが、最近はますます弱くなっている気がするな。一本目の缶チューハイを三分の一も口にしないうちに、べろんべろんのぐでんぐでんになるなんて)

 そんな中、妃乃のスマートホンに電話がかかってきた。妃乃は泥酔しながらも端末を取り、酩酊しながらも手帳型ケースを開けた。

 しかしその頃にはもう着信音は途絶えていた。妃乃はパスワードを入力してロックを解除すると、機器を操作し始めた。そしてしばらくしてから「なんだ、いつものアンケートの電話じゃない」と呟き、ケースを閉じた。

(あの時──妃乃がパスワードを入力していた時、その内容が少し見えてしまったんだよな。なにしろ、酔っ払っていたせいで手を動かすのがとても遅く、大雑把になっていたから。慌てて目を逸らしたから全部を知ったわけではないが……なんとなく気まずい)

 紺斗は話題を転換しようとして考えを巡らせた。「……それにしても、これからどうなるんだろうな、『行政論理学2』は」2B講義室で行われるはずだった講義だ。「まさかとは思うが、事件の影響を受けて今後の講義が取り止めになる、ということはあるだろうか?」

「どうだろう。わたしとしては引き続き教わりたいんだけどね、行政論理学2。けっこう面白いから。

 正直に言って、今までは将来について『公務員にでもなれればいい』くらいにしか考えていなかったの。でも今年──二年生の前期に『行政論理学1』に触れて、いろいろと興味が出てきたんだよね。国家公務員になって中央省庁に勤めるのもいいかもしれないな。せっかく政治学部に所属しているわけだし」

 妃乃はオレンジジュースのグラスに向かって手を伸ばした。その手はグラスの側面にぶつかった。

(ちょっ、倒れ──!)

 紺斗は慌てて手をグラスめがけて伸ばし、掴んだ。結果としてはその行為は不要だった。先に妃乃がグラスをキャッチすることに成功していたからだ。紺斗が掴んだのはグラスを持った妃乃の手だった。

「おっと、すまんすまん」紺斗は手を引っ込めた。

「……」

 妃乃の顔は焦りの表情から無表情に変化した。黙り込んだまま手を動かし、グラスを置きなおした。何らかの不満を抱いていることがなんとなく察せられた。

(いったいどうしたっていうんだ? 雑談の話題を変えてみようか? しかし、機嫌がよくなさそうなのに話を続けてもな)自分のグラスを取り、アイスコーヒーを口に含んだ。

「ねえ」妃乃が言う。「わたしのこと、好きなんだよね?」

 唐突な問いかけだったため、思わず全身の動きを止めた。一秒後、グラスを唇から離した。含んでいるアイスコーヒーを飲み込んでから、口を開く。「もちろんだ」

「じゃあ言って。わたしのことを『好き』と──いや、『愛してる』と言ってよ」

 紺斗はこめかみを弱くかいた。「えっと……いきなりなんで?」

「……別にいいじゃない。できるでしょ? わたしたち以外に客はいないし、マスターも居眠りしているし」

 紺斗はカウンターの内側に視線を遣った。店主の中年男性が椅子の背にもたれて目を閉じ、小さいいびきをかいていた。近くにあるテレビでは科学教育番組のオープニングムービーが流れていた。

「……まあ、わかったよ。言うよ」

 再びアイスコーヒーを一口だけ飲み、グラスをテーブルに置いた。手を腿の上に載せ、無意識的に背筋を伸ばす。冷たい飲料を喉に流し入れたばかりだというのに、体温が少し高まり、口の中がやや渇いた感覚があった。顔もちょっと赤らんでいるかもしれないな、などと思った。

「…………あ、愛して──げほっ! げっげほっごほっ!」

 喉が強烈な痛みに襲われた。飲み込んだ唾液によりむせたのだ。

「ちょっ、大丈夫!?」妃乃の顔が無表情から驚きの表情に変化した。

 紺斗は首を縦に振った。「えほっえほっ……なんとか……すー……はー……」さいわい痛みは容易に和らぎだした。呼吸を整える。

 聞き覚えのある氏名が耳に入った。思わずテレビに視線を遣る。妃乃も同じほうに顔を向けた。

 画面には科学教育番組のスタジオが映っていた。中央に大きなモニターが設置されていて、左側に司会者の男性アナウンサーがいる。「東本町先生、よろしくお願いします」頭を下げた。

 右側にいる女性も「よろしくお願いします」と言い、頭を下げた。画面の下部には「北通ほくつう研究所 物理学者 東本町伽織かおり先生」というテロップが表示されていた。

 そこまで見たところで我に返った。妃乃に視線を移す。すでに顔の向きは元に戻していた。

 紺斗は思わず「……えっと……」と口ごもった。「あ、愛して──」

「いや、今はいいよ」妃乃は右の掌を向けてきた。テレビを一瞥する。「お母さんに見られているみたいで気まずいから」

 妃乃はグラスを取り、オレンジジュースをごくごくと飲み始めた。紺斗は居心地の悪さを感じ、再びテレビに目を遣った。

「──わたしは可能だと考えています」伽織が力説している。「もちろん現段階では無理です。しかし将来的には──いつになるか見当もつきませんが──、この世の時間を巻き戻せるようになるはずです。もはやSF小説の話ではないのです」

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