7話
アメが階段をひとつずつ上って行くたびに、ぼくの心は荒んだ。小さい男だ。
彼女がぼくの叶えられなかった夢を叶えて行くからではない。ただ単に、彼女が人生を賭けるものの大きさに気付いたからだった。真剣に打ち込めるものがないぼくには、その大きさが重さに変わっていた。
「私はもっと都心に行く。もっと大きな舞台に、日本武道館に立つために」
むしろ自然な流れだったように思う。
「どうしてそんなに武道館にこだわるの?」
「日本武道館だからこそ、千代田区のあの場所だからこそ、意味があるの」
「ここからでも武道館は行けるよ」
「ここからじゃ、武道館は遠過ぎる」
「ここも一応東京なんだけどな」
諦めるようにぼくは言った。「まぁ郊外だからな」
「一緒に来てくれない?」
「アメ、俺はここまでだよ」
ぼくは言葉に詰まった。
「俺が足枷になってはいけない––––」
アメはなにも言わなかった。うつむくアメを抱き締められたらどんなに楽だろう。
「もうアメといるのも辛いからさ」
「嘘吐かないで」
ぼくらの間にしばしの沈黙が流れた。「嘘をつくな」というのは、「嘘をつけ」と言ったのかもしれない。言葉の文あやは難しいものだ。
「才は、これからも変わらない?」
「いや、変わるよ。世のなかのすべてが変化して行く。変わらないように見えているものでも、実は変わり続けてその今があるというだけのことなんだ」
孤独––––享楽を味わった時は過ぎ去り、新しい芽吹きを探す。人も情況も時間とともに変わる。なにをもたらし、なにを諭し、なにを教えているのだろう。
あぁ、もうアメとの蜜月は終曲を告げたのだな––––つくづく思った瞬間だった。
「アメと出会えたこの町を離れられない。アメと出会えたこの町で静かに応援する」
ほんとうは待っていると言いたかった。
「アメ、そんな顔するなよ。楽しまなきゃ損だよ」
ぼくはまるで自分に言い聞かせているようにも思えた。
「わかった」
アメは力なく呟いた。
目の前で本が一冊倒れた。ぼくは彼女の後ろからそれを眺めていた。彼女はなぜか倒れた本をそのままにして、去り際、横目でぼくを嘲笑うように去って行くようだった。永遠なんて聞こえのいい言葉はきっと存在しない。あったとしても進行型の永遠なのか、停止型の永遠なのかわからない。
アメは言った。
「水槽の中で餌を与えられて一生安泰に過ごすか、大海で荒波に揉まれても自由に泳ぐか。用意された奇跡を掴みに行かなければ意味をなさない」
明日になれば運命を信じられるかもしれない。多分ここからが始まりだ。アメとぼくとでは次元が違い過ぎた。あるいはぼくがもう二、三歳だけでも若かったら、その感性に乗ることができたかもしれない。そう思うと同時にぼくはもうすでにトンネルから抜けていたのだ。
「またいつか––––」
その言葉は二度とその日が来ないことを知っておきながら希望を込めるから切ない。
アメはきっと武道館の舞台に立つだろう。ギターを背負った彼女の背中を見つめながら、ぼくはそう思った。ぼくもアメも、自分に打ち勝つしかないのだ。負けないためにも。
それからのぼくは目が覚めるのが恐くなった。アメがもうすぐこの町を出て行ってしまう虚無感を、毎朝現実として受け入れるのが恐かった。その作業に鬱屈していた。
なにもせずにいるのは防御ばかりしているのと変わらない。この苦痛を跳ね除けるためにはなにかしらの気持ちの切り替え、つまり自分自身の中で攻撃に転じなければならない。
ようやくそのことに気が付いたのはアメがこの町を出て行く前夜だった。
深い眠りに就いたぼくは、アメが東京へ行くその日、暁の空がいちめんを覆う頃、夢を見た。
「私は世の中を案じて、世の中を切り取って、唄って行くの」
アメの声が聞こえた。やがてその声は唄声へ変わり、景色はどこかの巨きな舞台に切り替わる。満員の観客。ぼくはそのなかのひとり。バックバンド、照らす光線。その中心にアメは立っていた。眩い光は、彼女自身から発せられているようでもあった。
あぁ、武道館だ。
「アメ、夢を叶えたんだね。おめでとう」
「ううん、違う。夢を叶えたはずなのに、どうしてか満たされない。どうしてだろう」
アメは伏し目がちに言った。長い睫毛がやっぱり印象的だった。ぼくは戸惑った。
「どうしたの、アメ」
「わからない」
「早く唄ってよ」
「自分でもわからない」
「なにがわからない」
「なにがわからないのかすらわからない」
「アメ、しっかりしろ! きみはすべての哀しみ、苦しみを天へ還す役割があるはずだよ」
「!?」
「アメ、しっかり意識を取り戻せ!」
「––––」
「アメ!」
「唄––––私には唄しかない。でも、唄がある」
「そうだよ。唄うんだ。みんながその唄声を待っている」
ぼくが懸命に伝えると、彼女は満足そうに頷いた。そして彼女は唄い出した。アメが唄っている。アメが今日も唄っている。今この瞬間も。
次の瞬間、スポットライトがまるで天へ導くようにアメを空へと運んでいるように見えた。やがてアメの黒いワンピースは目を見張るような純白へ変わり、どんどん透明度が高くなり、裸体のようにぼやけたときにはもうはっきりした霞がかかっていた。
淡雪のように、暁のように、せせらぎのように、あるいは暮れなずむ薄暮のように、すべての四季を纏うように、彼女はたおやかに光の空へ向かう。
演出にしては、凝りすぎていないだろうか。いや、違う。彼女は天へと還るのだ。ぼくは確信めいた気持ちがあった。
「才、ありがとう」
微かに彼女の声が聞こえた気がした。
彼女は清らかさを纏って、遍く哀しみも苦しみを羽根に変えて、天へと運ぶのだろう。そして、彼女が案じていた彼方の空に光を降り注ぎ、安閑と蒼穹を拡げることだろう。
この雲がきみのいる場所まで流れて行くなら––––ぼくは願いを込めてその姿を見送る。きみがぼくで、ぼくがきみであるように。
カーテンの間隙から、強く確かな日差しがぼくの顔を照らしていた。睡眠という名の冒険から目覚めるように、その眩しさを受け入れたぼくは、ゆっくりと瞼を開けた。
今ははっきりと輝いているものを認識できる。窓の向こうで、日輪がはっきりとした形を作っていた。その圧倒的な存在感を誇示するように、蒼天に、天高く、高く。