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3話

 アメと音楽を奏でた日から、ぼくの頭痛は消えていた。心因性だったのだろう。スッと楽になった気がした。言うなれば、目薬を差したときの爽快感とか、喉飴で喉のイガイガが、楽になったときみたいに––––。



 アメは宣言通り、自転車をぼくのアパートに戻しに来てくれた。



「お母さんがね、音楽はもうやめたの?って聞いてきた」



 まるで子供が遠足の報告でもするような屈託のない破顔だった。



「なんて答えたの」



「心の中で奏でてるって言った」



 アメはまた笑った。だけど、すぐに表情を変えた。



「お父さんがよく芸事には才能が必要だろうって。親が才能を口走ってどうするんだろうね。好きこそ物の上手なれ。親ならこれを重視しても良いのに」



「まぁ大抵の親は音楽やることに反対するよ。うちもそうだった。それがロックでしょ」


 ぼくは言いながら父親のことを思い出していた。父はぼくのやることにはすべて反対––––というよりは父が決めた道以外は認めないような狭量な人間だった。団塊の世代特有の自己顕示欲のカタマリから、自分の価値観だけを押し付ける人が多い。


 ぼくはいつも追い詰められ、追い込められ、逃げ場を失った。今でも自分の人生は父親に壊されたとどこかで思っている。その憎悪の念を拭えずに今日まで生きてきた。中学の時から父親もあの町も嫌いになった。でも、アメといると、まるで氷が溶けるように––––そんな過去をしばし忘れられた。



「親の反対を跳ね除けてでも貫くことが、本物の意思かもね。ほんとうは音楽活動は大学卒業までの約束だったんだ。だから––––」



 アメは言った。



 アメの唄うような声に救われていたのかもしれない。そしてぼくはこのとき初めてアメの年齢を知った。


 上京したと聞いたときに十八歳は超えていると思っていたが、どこかで未成年だったらどうしようとも思っていた。


 女性に年齢を訊くのは失礼だとどこかで刷り込まれたような気がして、アメのような若い子であっても訊くに訊けずにいた。くだらない刷り込みではある。どうして正解があるようでないのだろう。


 ならば「失礼ですが・・・」と前置きして訊けばいいのだろうが、泰然自若なアメに対してそういった他人行儀がどうもそぐわない、慇懃無礼になるような気がした。



「アメはアメの信じる道を行きなよ。俺は応援してるから」



 ––––応援してるから。なんと都合のいい言葉だったろう。あとからぼくは、自分で発したこの言葉に嘘は一切ないのに、猛烈な矛盾を感じざるを得なかった。



 アメは定期的にぼくのアパートに遊びに来て、ギターのセッションを申し込んできた。今度はぼくがコードを弾いて、アメがリードのフレーズを即興で乗せた。これがぼくらの会話以上の会話だった。



 ギターさえあれば、発達し過ぎて無感覚になりそうな現代の難解なコンピュータープログラムなんていらないとさえ思えた。



 するうち互いのギターを持ち替えて演奏したりもした。ファイヤーバードの黒いピックガードに刻まれた銀色の鳥がアメの腕のなかに包まれて大事に育まれているみたいだった。



 再びギターを持ち替えて、ぼくの元にファイヤーバードが戻ってくると、自分のギターにどこか安心感を覚えた。ぼくらはいつでも旋律を探して呼吸を合わせていた。



 しばし即興を止めると、付けっぱなしのテレビの中からスーツを着た女の声が聞こえてきた。なにやら会社組織と戦っている。



 ストライプのスーツに派手な化粧と長い髪。靴底をコツコツ鳴らしながら、書類を片手に歩いている。



 ぼくはその音に合わせてなんとなくAmをなぞりながら、ぼんやり見ていた。世のなか、そんなに忙しないのだろうか。いや、きっと忙しないのだ。ぼくだけがのんびりした時間を過ごしている。



「綺麗な女優だね」


 アメが画面から目を離さずに言った。


「あんまりキャリアウーマンみたいな女は嫌だな」


「どうして」


「この女の人は完璧過ぎるよ。こんな人と一緒にいたら疲れる」


「そうなるとA子よりB子、B子を選べばB子に見合う男にしかならないよ」


「別に、それでもいいじゃん」


「人生それなりにしかならないというのは、それなりの選択しかしていないからだよ」



 なるほど。こうやって月並みの人生という名のドツボにハマっていくのだろう。ぼくは妙に納得した。



 働いて得られる金と物欲の解消、翻って働かないで得られる安らぎをどこかでイーブンだと思っていた。本当は働くことによって得られる充実感は後者を勝だろうと知っておきながら––––。



「今言いながら気付いたんだけど、英語って単純だよね。アルファベットと数字しかないんだもん」


「どういうこと」


 ぼくはきょとんとしながら訊き返した。


「例えば今みたいなA子よりB子みたいな対比の話にしても、日本語は甲乙丙、松竹梅とかあるでしょ。松竹梅ってそれだけで格がわかるものだし、奥が深い」


「確かに日本語は平仮名、片仮名、漢字、数字にしても多様な表記があるけど」


「なんか、アルファベットみたいな如何にも人工的な造形には魅力を感じない」



 アメはこちらを見向きもせず、キャリアウーマンを真っ直ぐ見つめていた。やっぱりその瞳はなにか獲物を捉えようとしているように見えた。時間が止まったようにじっとしているアメの姿が正直に愛おしかった。



「そういえば、才が音楽を始めたきっかけは––––」


「憧れたアーティストがいたからだよ」


「それは日本の」


「そうだけど」


「いいね。海外にもたくさん素晴らしいアーティストがいるけど、日本にもまだまだ世の中にはそう認知されていない、うんと素晴らしいアーティストがたくさんいる。決して海外にも負けない」



 ぼくが憧れたアーティストが誰なのかを聞かず、アメは言葉を続けた。ぼくのことなど興味がないと言われている気がした。ぼくとアメは距離が縮まっているのかそうでないのかたまにわからなくなる。



「歌詞にしてもそう。さっきの話の続きみたいになるけど、日本語ってこんなに奥深いんだなって思わせる歌詞が感情を揺さぶる旋律に乗る瞬間がたまらない」


 彼女の言葉はどんどん熱を帯びて行く。


「世界中の音楽を散々聴いて、聴いて、聴き込んできた。もう曲にハマるなんてないと思ったりもする。それなのに出会ってしまう。新しい名曲に。だから私は作り続けるよ」



 アメはひと言、強い決意をもう一度発した。「作り続けるよ」




 アメの決意を表象するように、ぼくの部屋に一時保管していたギターはすべてアメのマンションへ戻って行った。ギターを置くために作った隙間が空っぽになり、妙に空虚さだけが残っていた。




 そんな寂寥を紛らわすように、ぼくはアメと過ごす世界の中で湧き起こる情動を吐き出してみたくなり、なにか新しいことを始めようとしていた。それがnoteだった。今まで文章はそれなりに得意なほうだったが、なにを主題にすべきかはわからないまま、とにかく言葉を綴った。




 新しい事を始めるのに躊躇はなかった。三十歳も二年をすぎると、人生が案外と短いことに気が付く。十代、二十代の頃はあんなにも長く感じていたのに、急にそうじゃないと焦り始めた。人生は短い。



 なにかをすることに迷ったり、躊躇ったりしていたら、その分だけ時間が経過してしまう。一日一日が大事だという、この当たり前を吐き出すだけでも文章になった。



 アメがまるで呼吸をするように唄うのなら、ぼくは息を吐くように文章を書き綴った。




 noteにはたくさんの利用者がいて、情報に溢れていた。自分の発する言葉もそのさわのなかに埋もれている。あの自転車置き場の無数が世の中の縮図だったように、このnoteの世界もそうだった。

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