2話
爾来、ぼくはアメの路上ライブを観察した。というより、ほとんど強制的に足を止められた。
彼女は演奏中だろうがなんだろうが、通り過ぎようとするぼくを見付けると、「おい、才、私の唄を聴いていきなさい」とマイク越しに引き止める。
その度、幾人かの聴衆がぼくを振り返る。が、ぼくは知らないふりをしながら、聴衆と同じように振り返り、それとなく他人のふりをする。そして少し離れた所で足を止める––––悪い気はしなかった。
無論、アメが唄う駅のロータリーは多くの人で輻輳する、ぼくの最寄り駅でもあった。
正直な話、だんだんと仕事帰りが楽しくなっていた。どうしてかはわからない。仕事から解放された高揚感だけじゃない。ただの暇つぶしにしては、ずいぶんと駅に向かう足取りが軽いことだけは確かだった。
まるで初恋の相手に会いに行くような、あるいは小さい子供がなけなしのお小遣いを握って、駄菓子屋に行くような感じに似ていたのかもしれない。
時々そのまま路上に設置された長椅子に坐って話すこともあった。
「どうだった? 今日の演奏」
「経験者の意見は参考にならないんじゃなかったの」
「まぁべつにいいじゃん。才は特別ってことで」
ぼくは経験者と言えども、特別な才能があったわけではない。当たり障りのない感想しか言えなかった。
例のファミレスに行くこともあった。アメは相変わらずぼくのお金で満足そうに食事を平らげた。ちなみにその日はエビフライだった。
「バックバンドの人たちはサポート?」
「うん。みんなライブハウスで出会った人たち」
「結構みんな歳いってるよね。その分、上手い」
「そう、みんないい人たちだよ」
どうやらぼくのギターでは付け入る隙はなさそうだ。
非日常のような日常で、よくわからないアメとの交流が続いたある日、アメは突飛な依頼をしてきた。
「あのさ、お願いがあるんだけど––––」
「ん?」
「音楽機材を一旦、才の家で預かって欲しい」
預かってくれない? でなく、預かって欲しいと言い切るところに相変わらず意思の強さが垣間見られた。
「え」
「今週末、お母さんが大学の同窓会とかでこっちに来るんだけど、私のマンションに泊まるの。音楽に没頭してるって知ったらきっと心配するから、お願い」
「なんで。堂々としてればいいじゃん。アメらしくないよ」
「うるさいなぁ。こっちにはこっちの事情があるの」
アメはそう言って、拗ねた子供のように口を閉し、黙り込んだ。
こうなるともうぼくが首肯するまでなにも話さないだろう。我慢比べをするつもりはない。
「べつにいいよ」
肯んずると、アメは「やった、ありがとう!」と目を輝かせた。その目の輝きは不意にぼくの心を照らすようだった。どうしてか、アメと居るとぼくの世界が––––心が––––和らいでいくような気がした。
結句、運搬も手伝うことになり、アメと駅前ロータリーで落ち合った。
自転車置き場は広い敷地に奥から整然と自転車が敷き詰められていて、とば口に近付くほど雑然としている。この自転車の数だけこの駅を利用する人がいる。それぞれの目的地があって、それぞれの人生がある。
無数に拡がる光景が、地球の縮図みたいに思えた。その世界の隅っこを選んで、ぼくは自分の自転車を置いた。
そこから歩いて階段を登り、ロータリーの待ち合わせ場所に行くと、すでにアメが待っていた。
白いTシャツに青を基調としたチェック柄のシャツを腰に巻いて、タイトなジーンズ、白のスニーカーというカジュアルな格好で待つアメは、ギターを持っていなければ町に同化した今どきの子だった。
周りと少し違うのは、彼女は小さな鞄ひとつ持たず、待っている間携帯もいじらず、ただじっと輻輳する人々を観察しているところだった。
「早いね。アメのことだから絶対遅刻すると思った」
「失礼な。私は意外と時間はきっちり守る方だから」
四方山話をしながらぼくは彼女を自転車置き場に誘導した。
「自転車、意味ある? むしろ邪魔じゃない? ギター三本あるんだよ。それからアンプ、スピーカー、マイクスタンド、それから教本、雑誌。しかもその自転車、小型の無駄にお洒落なやつだし。まぁカゴが付いてるだけ幸いって感じ」
「うるさいなぁ、来ちゃったもんはしょうがないだろう。そんなにあるなら先に言えよ」
言いながらぼくは自転車のスタンドを地面から解放するように足で小突いた。
「くっ、くっ、くっ」
「なにがおかしいんだよ」
「べつに」
アメは微笑った。
「だんだん、口調が親しくなって来たなと思って」
ぼくは自転車を引きながら、どうもアメの調子に狂わされた気がして、片手で頭をかいた。十五分ほど歩いただろうか。住宅街に入ってほどなくアメはマンションの前で足を止めた。
「ここ?」
「うん」
「え、アメってお嬢様なの?」
「べつに。お父さんが医者なだけ。階は違うけどここに叔母さんも住んでいて、おばさんも医師なんだけど––––ほら、あの総合病院で働いてるの」
アメは少し遠くを指さした。
「私がこっちに出て来るとき、一人暮らしならここが安心だろうって」
「医者の家系なんだ」
「さぁね。私は私だから。でも医師は立派な仕事だとは思ってる」
アメはオートロックのエントランスからすたすたと歩を進め、エレベーターで八階に上がった。ぼくはほんの幾ばくか鯱鉾しゃちほこ張りながら瀟洒な玄関の扉の前でアメに悟られないように深呼吸した。
「襲ってもいいよ」
玄関の鍵を開けたアメはそんなぼくを試すように無邪気に振り返った。
「はっ、お前みたいなガキ誰が襲うか」
言ったが、ぼくは年甲斐にもなく自分が赤面しているのがわかり、わかると尚さら恥ずかしくなった。
モデルルームのような空間にギターが列んでいた。アメは綺麗好きらしく、その点はぼくと同じだった。
「教本とか音楽雑誌は段ボールに入れておけば、わからないんじゃない? あとスピーカーもこの程度なら一緒に段ボールに入るよ」
ぼくは提案した。
「そうかもね。その上に適当になにか置いておけばバレないか。このマイクスタンドもケースに入っていれば、物置部屋の隅にでも隠せそう」
「じゃあ持って行くのはギター三本とアンプで済みそうだ」
アメはオベーションのアコギが入ったソフトケースをリュックのように担ぎ、家庭用アンプを手に持った。
「重くない? 俺がギター二本でもいいよ」
「大丈夫。T5のハードケースの方が絶対大変だから」
アメは破顔した。
「ギターは才に任せる」
ぼくはバッカスのテレキャスタイプ(ソフトケース)を担ぎ、T5のハードケース手提げのように持った。
三本のギターの中でもアメが一番大事にしている二本。ぼくはアメの重さを知った気分だった。重いのか、軽いのか精神的な意味ではわからないが、物理的に重いことだけは確かだ。
「自転車は片手で押すの無理だな。ギターになんかあったらあれだし」
「出勤で使う?」
「いや、歩いても駅には行けるから、その時々なんだよね」
「じゃあ私が今度乗って行くから、ひとまず今日のところはマンションの駐輪場に停めておこうよ」
そう決まり、ぼくらは汗を掻きながら歩いて、ぼくの住むアパートにたどり着いた。なんとかふたりで一回で運び切れた。
「ほう、どうやら恋人はいないようですな」
アメは三和土たたきから手で望遠鏡をつくりながら部屋を覗いていた。
「うっ」
「よかった、図星みたいで」
遠距離恋愛だった彼女と別れてから、もう何年も恋人がいないことは確かだ。物理的な距離を精神的な距離で埋められず、乗り越えられなかったことを思い出した。
どうやら過ぎ去った過去の全部が全部、味のなくなったガムというわけではないようだ。ほろ苦さが残っている。そんな苦さを振り払うかのようなアメの無邪気さにぼくは救われているのかも知れない。
「これ、ファイヤーバードじゃん」
彼女の目が一瞬きらきらした––––が、すぐに険しい表情で、口を窄めた。
「ホコリ」
「あぁ、もうだいぶ弾いてないからな」
「私に合わせて、音出してみてよ」
「いや、近所迷惑だろう」
「大丈夫、昼間だから」
ぼくは仕方なく、除菌シートでファイヤーバードのホコリを拭った。
チューニングを確かめているとき、ふとアメを見るとすでにT5を抱えて、ぼくの手元をじっと見つめていた。
彼女の言葉を思い返せば、オベーションでなくT5を選んだということは、どうやらぼくには襲われないと思っているのか、あるいは襲われてもいいと思っているのか、いずれもぼくの部屋に上がるくらいだから警戒はしていないのだろう。
そんなことを考えながら、逆にぼくの手はまるで初めて女の子の体に触れるかのように震えていた。
軽く弦を弾くと、ふたりだけの世界のとば口にようやく立てた気がした。
じゃり、じゃり、じゃり、じゃり、アメはカウントを取るようにピックを持つ手でブラッシングした。T5独特の生音が響く。彼女の弾くコードに、ぼくは震える指でマーシャルのミニアンプから陳腐で気の抜けたようなアルペジオを乗せた。
出す音はこれでいいのだろうか。正解はわからない。もしかしたら、アメは平然と奏でる表情とは裏腹に、心の中で嘲笑しているかもしれない。不意に目が合ってしまったとき、ぼくは自分でもどんな表情をしていたのかわからなかった。考えるのも怖いくらいだが、おそらく微苦笑らしきものだったろう。
「どうして諦めたの」
演奏を止めたアメが訊いた。
「ん?」
ぼくは突然の質問に戸惑い、それを誤魔化すように頭をかいた。
「音楽しかない、絵しかない、小説しかない、写真しかない––––そう思っている人が世の中にどれくらいいると思う?きっとごまんといるよ。だんだん、夢とか目標なんて霞んで見えてくるんだよ」
アメはムッとした面立ちでぼくをねめつけた。
「目ん玉、歯ブラシで思いっきり擦ったろか」
冗談でそれとなく言ったつもりだったのだろうが、妙に本格的な関西弁が混じっていた。
「それ歌詞に使えば?」
ぼくは笑いながら言った。
「アメって関西の出身なの?」
アメは、しまったという顔をした。行き先を見失った小動物のようにきょとんとした面貌が愛くるしく、ぼくのなかに情愛という名の音を響かせた。
「さっき関西弁だったよね?」
ぼくは追い討ちをかけるように言った。
「うるさい」
アメは結局なにも言わなかった。関西弁を遣ったのもそのときが最初で最後だった。
「今はテレビどころか、インターネット動画も普及しているから、方言なんてどんどん薄れていく。それでも、関西弁の影響力はものすごいと思うけど」
「私が関西弁を使ったら、世の中なんでも思い通りになっちゃうからね」
彼女は子供が悪戯をするのを真似るように微笑んだ。
「ところで、アメは、なんで唄っているの」
「ボンクラ揃いの世の中を斬り裂くため、かな」
「え? そういえば棚に難しい本ばっかりあったけど、あれって勉強しているの?」
「うん。無知って怖いから。身勝手な行動につながるから––––」
アメはピックをそっと置いた。
「海をひとつ隔てた向こうでは、何万という罪なき人たちが強制労働させられていて、子供の臓器が抜かれて道端に棄てられて、民族弾圧が行われている。そのとき、私たちはなにが出来ると思う? 答えがあるなら教えて欲しい。私たちの国だって他人事じゃない」
急に真剣な眼差しで難しい話をするアメを見て、ぼくは黙ることしかできなかった。
「本当に私たちは今のままでいいの? 傍観者でいることが正義だとは私はまったく思わない。それに対して非難の声を上げなければ、まるでクラスのいじめを見過ごしてるのと変わらない。誰かが声を上げなければ世のなかも、世界も変わらない」
ぼくは中学生のとき、いじめられてひとりぼっちでいる子に声をかけられなかった悔しさを思い出した。アメは規模の大きなことを言っているようで、実はそういう身近な出来事と変わらないのだということを言っている。
中学のとき、数人で電車に乗って三十分かけて繁華街に行ったときの帰路の超満員の電車を思い出していた。
ぼくは完全に付き合いだったし、行きたくなかった。誰々が彼女に酔っ払ってくだらないメールをしたお詫びになにか買いに行くという至極どうでもいい馬鹿馬鹿しい理由に付き合わされた。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた乗客の中で、ぼくらの間に見ず知らずのお婆さんが挟まっていたのだが、一緒に来た連中が全員で怪訝な顔をして明らかな不満を態度に表し、舌打ちをしたり、あろうことか肘で少し小突いたりした。
じっと気まずそうに耐えるお婆さんが自分の祖母に重なり、あまりにも不憫に思えた。ぼくは笑いながら全員を宥めたが、笑顔の裏でそいつら全員の顔面を掴んで電車の窓の外に放り投げてやりたい憤りで一杯だった。きっとそいつらはもうそんなことは覚えていないだろう。
ぼくは今でもあのお婆さんには申し訳なく思う。そのあとのお婆さんの人生が幸せであることを祈ることしかできなかった。
あのときもっと毅然とした態度でお婆さんを庇う強さがあったら。勇気ある行動、勇気あるひと言が言えたなら––––。
それでも恋愛の苦味とは違って、この苦味は消えない方がいいのだろう。この悔恨こそがきっと原動力になっているはずだから。
「アメ」
ぼくは思わず彼女の名前を呼んだ。
「うん?」
「アメならきっと世界を変えられるよ」
「そうかな? でも、音楽が簡単に海を越えられる時代だから、私は私の唄を届けたい」
「うん」
「本を買うのは、この数千円が僅かながらも現実を教えてくれた著者の懐に入ると思うと、ようやくつながれた気がするからなんだよね」
「うん」
「この世のすべての哀しみも苦しみも、全部吸い上げて天へ還せたらいいのに––––」
黙ったまま耳を傾けていたぼくは、決然と語るアメの姿に強さと美しさを垣間見た気がした。アメならほんとうにできる気がしたからだ。
「あっ」
ぼくは思わず声を上げて、窓の外に目を向けた。
「あっ」
アメも同じように言葉を漏らした。
「これだけの雨音なら、ギターの音色も外には聞こえないよね」
アメは嬉々として笑った。ギターを弾く事も唄う事もほんとうに好きなのだろう。
ぼくらは倦むことなく、ひたぶるに音色を奏で続けた。まるで互いを求めるように、ふたりだけの音を追求するように。彼女を抱くよりも甘美な、自分の裸を曝け出すよりも恥ずかしげな、そんな気がした。この遣らずの雨に密かに感謝しながら、苦味がようやく力に変わる気がしていた。