1話
遠くにあると輝いて見えたものが、近くに寄るとただのモノクロだった。何が光っていたのかその物体すら認識できなかった。
空に浮かぶ星たちとは違う。そこにあるのに届かない。届かないのは星も同じ。
願ったものほど、遠くなる。ほんとうに好きな人とは結ばれないというのが、ある種人生の定石であるように。願いを超えてそうなると決めてしまえば、それはもう祈りという尊さとはすでに次元の異なる精神的観念となるはずなのに––––。
凍てつく春––––春なのに凍てつく。
ぼくがアメを最初に見た季節だった。相変わらず頭痛のする日だった。原因はわからずにいる。わからないことをそのままにしておくのはそれなりに勇気のいることなのかもしれない。
駅前の路上で弾き語りをしている女の子の前で反射的に足を止めた。たぶん眼鏡をかけているという共通点のその子がどんな唄を唄うのか気になったからだと思う。初めて見かける子だった。
マイクスタンドとスピーカーだけの簡素なセッティング。裏腹にその子の目標は壮大だった。日本武道館を目指すのだと高らかに宣言した彼女の足元の段ボールに書かれた名は天乃アメ––––知らない。
黒いワンピースに華奢な身を包み、どことなく高貴な様は路上でアコギを抱えて唄うにはそぐわないように思えた。どこかお洒落なクラブで微少の灯に照らされながら、マイクスタンドの前に立つ方が似合うだろう。ぼくは彼女の影を踏んでいることに気付いて、その場から少し離れた。壁の落書きには誰かの名前が書かれている––––知らない。
透き通るような、それでいて強かな唄声を聴きながら、この気持ちを整理しておかなければならない気がしていた。
過去を冷静に振り返ることによって、ぼく自身の人生は、確かに三十年以上生きてきたことを認めつつあった。人生は暇つぶしだと誰かが言っていたが、暇つぶしにしてはスリルと興奮に満ちていた。
自分の見ている世界が全てではないこと、世界はちゃんとここでも回っていることを確認する。それなのにどうしてか、三十歳を過ぎても、あの海外映画のような壮大な物語が自分の人生にも起こるんじゃないかと、どこかで期待してもいる。まるでお菓子をねだる子供のように。
一方で年老いたように、人生はこんなもんかと、半ばなにかを悟ったように諦めてもいる。
次にアメを見たのは、昔組んでいたバンドのドラマー、暁斗に誘われて行ったライブハウスだった。昔、ぼくらが出演していた箱でもあった。久しぶりに呑もうと落ち合ったのだが、その前に彼が行ってみようと言うので、断る理由もなく向かった。この町のライブハウスなんて限られている。
誰のライブでも良かった。ただ仕事の鬱憤を晴らすめたに、ライブハウスを体感できればそれで––––。
ぼくは仕事終わりでスーツ姿に革靴、仕事鞄。暁斗は時々新人バンドのサポートでドラムを叩いている。
舞台には知らないバンドが「いっそくたばっちまった方が楽さ」と唄っている。その続きは「くだばってたまるか」そう続く。
確か昔ここで「不満のある奴は叫べ!」と叫んでいたバンドがいた。不満はなかったけど、叫んでみた。なにも変わらなかった。いや、すっきりしたのかも知れない。たぶん。
小さなスタンド席に坐りながら、舞台の上を眺めているぼくの元に彼らはなにかを伝えようとしているように見えた。
自分たちもあんな風にがむしゃらに唄い、奏でていたのだな––––もうどこか昔の話だった。噛み続けたガムのように、味なんて簡単に無くなる。本当に価値があるのは、噛めば噛むほど味が出るスルメの方だ。
「どう、またやりたくなった?」
「いや、もう未練はないよ」
「ふうん。でも、お前はなにか物足りなさを感じてるんじゃないのか」
「なにに」
「日常にだよ」
虚を就かれたぼくは二の句が継げなかった。
「まぁ音楽以外でもなんでもいいさ。なんか見つかったらそんときは教えろよ」
「嫌だね」
ぼくは暁斗の言葉を軽くいなした後で、「あっ」と思わず声を漏らした。
「なに」
「この間––––路上で歌っていた子」
「へぇ」
暁斗は嘆息したあとで、「この子、ここいらじゃ結構知られてるよ」と言った。
スポットライトに照らされた天乃アメはサポートメンバーであろうバンドを引き連れて、高らかにロックを唄い上げていた。
弾き語りのときとは曲調もずいぶん違っていた。洒脱なクラブではないが、黒いワンピースは路上よりこっちの方が幾分似合っている。まるで深い暗闇と同化する様は生き場を見付けた深海魚のようだった。
そして、一番この場にそぐわない背広姿のぼくは、深海から光を求めて逃げ出したものの、やっぱり違うと今さら居場所の違いに気付いた小魚あたりだろう。
三度目にぼくらは初めて互いを認識した。ライブハウスで見かけてから、ぼくは彼女のSNSで発表される予定を定期的に確認していた。路上ライブの日取りと場所を確かめて足を運んだ。
路上ライブのあと、小動物のように丸まりながら片付けをしている彼女に近付いた。
「この間、ライブハウスで見かけました」
ぼくは思いきって声をかけた。
彼女のぼくを見上げる瞳はやっぱり小動物みたいにくるりとしていた。少し大きめの丸い眼鏡がよく似合っている。眼鏡の柄は––––なんて言うのかわからない。
彼女の髪は意思を持っているのかと思うほど、黒よりも黒い漆黒がかえって光を帯びているように見えた。彼女はしばし間を置いてから、ありがとう、そうひと言だけ発した。決して吠えたのではない。
「お兄さん、暇なの?」
「え」
「この後、暇?」
「まぁ、暇だけど」
「じゃあ感想聞かせてよ。私の唄の感想」
「え」
「この間、スタンド席で観ていたスーツの人でしょう」
「え」
「一度も立ち上がらずにずっと上階の真んなかで坐ってたからよく覚えてる」
「え」
無論、ぼくは戸惑った。レンズの奥に映るくっきり引かれた黒のアイライナーがはっきりした目元を余計に演出している。
その眼力は、ぼくが言うべき答えがすでになんであるかを知っているような強かさだった。獲物を捉えて、じっと逃がさない。しかし、その黒の中には確かな光が仄見える。
質問がなんであるかを束の間忘れかけて、ぼくは目の前の奥二重の瞼の奥に吸い込まれそうに––––いや、はっきり言って見惚れていた。
彼女の瞳の中で白鳥が一羽飛び立った。そのあともう一羽と合流して飛んでいた。ふと懐かしい光景を見た気がしたが、たぶんそうではない。
景色を目に焼きつけたまま変わらずに十年以上を過ごして来た。
ぼくも確かにあのステージに立っていて、そこには二十歳のぼくら、彼らが居たのだ。こうやって後からしみじみ気付く、これが人生なのだろう。だから明日を生きて行けるのだろう。
〝いや違う〟
もともと自分は一人でしかなかったのだ。ステージに上がるときも、ステージを降りるときも。もともとあのステージには、自分一人しかいなかったのだ。
「いいよ」
ぼくは眼鏡を上げて、ひと言だけ短く告げた。
彼女は得心したように頷くとギターを抱えて、背負い込んだ。そして、なにもなかったかのように歩き出した。ひとつひとつの動作に自信が漲っているみたいに、歩く意思もしっかりしている。そのあとをぼくは黙って付いて行った。
「ここでいい?」
アメはファミレスの前で足を止めた。
「いいよ」
制服を着た店員の男に案内されて、ぼくらは向かい合った。
「そのギター、この間のライブハウスとは違うね。オベーションのセレブリティー」
「うん、これは練習用。もし外で暴漢に襲われたらこれで殴り飛ばすから、あまり高いのは路上では使わない」
「いや、セレブリティーもそこそこすると思うけど」
「よく知ってるね」
「この間ライブハウスで使ってたのは、テイラーのT5でしょ」
「お兄さんもしかして経験者? てか、お兄さんの名前なに」
矢継ぎ早に来る質問––––いや、尋問に少々狼狽えながら、ぼくは「一ノ瀬才」と告げた。
「いちのせ? いちのせ楽器と一緒じゃん」
「この町の人間にしかわからんぞ、それ」
すると、彼女は初めて笑顔を見せた。世界が一瞬、明るくなった気がした。
「親戚?」
「全然」
「そっか。アコギもほんとうは国産メーカーのを使いたいんだけど、これっていうのにまだ出会えなくてね。音はもちろん、意匠にもこだわりたいから」
「じっくり探せばいいよ」
「でもエレキは国産。バッカスのテレキャスタイプ。エレキはアイバニーズとかフェルナンデスとか、国内でも魅力あるブランドがちゃんと存在してるよね」
「懐かしい。俺が最初に買ったエレキはアイバニーズのストラトタイプだった。フェルナンデスは俺も好きだな。あと、バッカスは俺もベースなら一本持ってるよ。グラデーションの意匠のものなんだけど」
「え、ほんと? 私のギターもそうだよ。バッカスって紅を基調にした意匠は燃えるような夕暮れだったり、紅葉みたいだったり、青を貴重にしたものは綺麗な浜辺みたいだったり、海の森みたいのだったり––––自然を連想させる感じがすごく好き」
「わかる」
ぼくの声がうわずった。
「ふふ」
アメは息を吐くように微笑った。
「ほんとうはね、アコギも音だけで言えばいちのせ楽器で国産の古いアコギでとってもいいのがあったんだ。中古で、たったの一万五千円だったんだけど、旋律が甘美というか、心地いい霧に包まれるような、とにかく自然に曲が出来ちゃうような」
「買わなかったの?」
「迷って、買う決心が付いた三日後に行ったらもう売れちゃってた。あのときはほんとうにがっかりしたよ。だって、あのギターは百万のものよりずっと価値があったんだもん」
「人生ってそんなもんだよ」
「出会った瞬間にはわからない?」
「あとから気付くことがたくさんある」
「そうかもね。まぁでも、お兄さん経験者なら感想聞いてもあんまり参考にならないや」
「どうして。むしろ逆じゃない」
「私はあくまで音楽を知らない人がどう思うかを大切にしたいから。専門的な御託より、まっさらな、素のままの感性にどう響くかが大切だから」
ぼくはなにも言わなかった。ただ目の前の冷えた紅茶のストロー越しに彼女の表情を窺っていた。
「天乃アメって、本名なの?」
「そうだよ」
なんの躊躇もなく答える彼女に、ぼくはそれ以上追求する気にはならなかった。でもたぶん本名に当て字して変換したのだろうと勝手に推測した。
「珍しい名前だね」
「ありがとう」
咄嗟に、果たして自分は彼女の名前を褒めたのだろうかと考えた。
これといった会話のないままに、アメはぼくの奢りでステーキを頬張り、満足そうな破顔を見せた。子供みたいだった。子供みたいに清らかで純だった。