ガトーショコラは飲み物です
綺麗な女性がいた。
東京駅から15分ほど歩いたところにある古い雑居ビル。その地下にひっそりと小さなバーがある。仕事帰りにおれはこのバーによく顔を出す。
暗めの照明、木目調の落ち着いた内装。いつ来てもBGMのクラッシックが、店の雰囲気を壊さない絶妙なボリュームで流れている。
客層もいい。うるさい客はいない。おれと同じように一人でゆっくり飲む客もいれば、二、三人組の客もいる。話し声はするが不快に思うほど大きな声は聞こえない。
たまにここで出会った女性と一夜を過ごすこともある。一夜を過ごした後、しばらく関係が続くこともあれば、それっきりのこともある。もちろん今のところ大きなトラブルになったことはない。
「マスターいつものをお願いします」
カウンターで18年もののウイスキーを飲んでいるとよく通る声が聞こえた。右を見ると誰も座っていないカウンターチェアが三つ並んだ向こうに、女性が一人座っていた。いつから座っていたんだろう、おれは全く気が付かなかった。
ネイビーのスーツに白いブラウス、ゆるいウェーブがかかった髪がよく似合っている。完全に好みのタイプだった。好みのタイプ過ぎて一瞬我を忘れた。
初めて見る顔だ。こんなに通っているのに見かけた記憶がない。でも、マスターに「いつもの」と注文していた。おれは彼女に興味が湧いた。そして、できることなら彼女と一夜を共に過ごしたいと思った。
「お隣いいですか? マスター、私にも彼女と同じものを一つ」
おれは彼女の返事を待たずに隣に座った。飲みかけのウイスキーを飲み干し、マスターに空になったグラスを渡す。
「こんばんは素敵なお兄さん。今夜はお一人ですか?」
右手で頬杖をつきながら彼女が微笑みかけてきた。30代前半ぐらいだろうか。「かわいい」とは違う落ち着いた魅力が漂う。おれは思わず赤面しそうになり戸惑った。
「今夜はというより、今夜も一人ですよ」
「あら、そうなんですか? 慣れた雰囲気でしたので。失礼しました」
謝っているけれど彼女が本心でないことは一目で分かった。彼女の目は楽しそうに笑っている。
「今日は素敵な方とお話しながら飲みたいなと思っていたんです。よろしければお付き合いいただけませんか?」
少し懇願するような、でも弱々しい男と思われない丁度いい口調でおれは彼女にお願いした。
「ええ、喜んで。でも私なんかでいいんですか?」
「私はあなたがいいんです」
少し食い気味でおれは答える。彼女が笑顔で「お上手ですね」と言うのを聞いて、おれは心の中でガッツポーズをした。ここまで来ればもう大丈夫だろう。
飲み物はまだ出てこない。まあ正直なところそんなものどうでもいい。あとは飲ませて彼女を……
「でも、私と同じものを頼むのはやめた方がいいですよ?」
頭の中で妄想が広がりかけた時、突然彼女がほくそ笑みながら挑戦的な目でおれを見つめてきた。なんだろうこの違和感は。それほど酒に強そうな気配はないが意外と酒豪なんだろうか。
「ご心配には及びません。お酒にはそこそこ強いんですよ」
ここで引き下がるわけにはいかない。これほどタイプな女性に初めて会ったんだ。それにおれはこれまで飲み比べで負けたことがない。今夜も負ける気はしない。
「本当にいいんですか?」
「ええ、大丈夫です」
「本当に?」
しつこく聞いてくるということは、もしかしてはったりなのかもしれない。もしそうならそうであってほしい。酔わすにしてもやっぱり楽な方がいい。
「ごめんなさいマスター、待たせてしまって。いつものあれを私たちに一つずつお願いします」
彼女は笑顔でマスターに注文した。
「かしこまりました」
おれは目を疑った。常に無表情で、笑顔を一度も見せたことがなかったマスターの口元が一瞬少しにやけるのが見えた。どうして笑ったんだろう。胸の中を不安が過ぎる。
「ガトーショコラです」
マスターはそう言っておれたちの前にピッチャーを置いた。チェーンの居酒屋でよく見るプラスチック製のピッチャーだ。ただ一つ可笑しな点は、ピッチャーの中身がビールではなくガトーショコラが入っていることだ。それもたっぷりと。
表面はこんがりとしていてしっかり粉砂糖が振られている。濃厚なチョコレートとバターの香りが鼻腔をくすぐる。透明なピッチャーの側面を見れば、中身がしっかりと詰まっていることがよくわかる。
「さあ、乾杯しましょう」
彼女は慣れた手つきでフタを外し、ガトーショコラが詰まったピッチャーを右手でこともなげに持ち上げた。もしかして見掛け倒しなのかもしれない。おれもピッチャーのフタを外し右手で持ち上げた。すると想像以上の重量に思わず二度見してしまった。
「どうしたんですか? さあ」
可笑しそうに笑う彼女。これは何か試されているのだろうか? 嫌な汗が頬をつたう。どう考えてもこれはガトーショコラだ。ガトーショコラで乾杯? 何かの大喜利か? 様々な考えが頭の中を駆け巡るが、今取るべき最適解がわからない。
「乾杯」
戸惑うおれを無視して彼女は笑顔でピッチャー同士を軽くぶつけた。ガンッと鈍い音が鳴る。
「お兄さん、乾杯って杯を乾かすって書きますよね?」
「え? ああ、そうですね」
何だ? 何だ? 何の話だ? いきなり漢字の話をされておれはさらに戸惑う。
「杯を乾かす。と言うことは……」
そう言って彼女は大きく息を吐くとガトーショコラを飲み始めた。そう、食べるのではなく飲み始めたんだ。
ガトーショコラ。
ガトーショコラは食べ物だ。これは世界共通認識だと思う。決して飲み物ではない。そもそも固体だ。なのに目の前で今、ピッチャーにぎっしり詰まったガトーショコラが何故か液体のように彼女の口の中に流れ込んでいく。
ごくごくと音を立てて口の中に流れていくガトーショコラ。一分ほどで彼女は2リットルほどあったガトーショコラを、休むことなく一気に飲み干した。彼女が飲み干した瞬間、突然歓声が上がる。驚いて見渡すとバーにいた他の客が、皆んな空になったピッチャーを見て喜んでいた。
空になったピッチャーを満足そうに眺める彼女。なにかトリックでもあるのだろうか? おれは自分のピッチャーを確かめてみたが、やはり中身はぎっしりつまったガトーショコラで飲める気配はない。
「ねえ、次はあなたの番よ?」
彼女が挑戦的な目でおれを見つめる。すっと静まる店内。おれに視線が集まる。今までこのバーで一度も経験したことのない居心地の悪さを感じる。
腹を括るしかない。そう思ったおれは覚悟を決めてピッチャーを持ち上げ口をつけた。しかし、やはりガトーショコラは飲み物ではない。ピッチャーを傾けて吸い込んだところでガトーショコラが流れ込んでくるはずもなく、情けないおれの息遣いだけが店内に響く。
どれぐらい経っただろう。かなり長い間吸い続けている気がする。しかしガトーショコラは最初の一口分しか減らなかった。見た目はほとんど変わっていない。変化があったとすれば、表面にかかった粉砂糖がおれの鼻息で乱れたぐらいだ。
味は美味しかった。最初の一口を食べた時、少し苦味のある濃厚なチョコレートの味が口の中に広がった。しかし、おれにはゆっくり味わう余裕なんてなく、少しでも量を減らすために吸い続けた。
「お疲れ様です。もういいですよ」
軽く肩を叩かれピッチャーを下ろすと彼女が憐れむような目でおれを見ていた。
「あなたのせいでせっかく盛り上がった雰囲気が台無し。ほら、皆んな白けてる」
彼女にそう言われおれは額の汗をハンカチで拭きながら店内を見渡した。冷たかった。皆んな何か醜いものを見るような鋭い目でおれを睨みつけていた。
「私が飲んであげる」
店内に彼女の声が響く。振り向くと彼女がさっきよりも早いペースで、おれの分のガトーショコラを飲んでいた。
おれがさっきあれだけ吸っても飲めなかったガトーショコラは、何故かみるみるうちに彼女の口の中へ流れ込んでいく。おそらく30秒もかかっていないと思う。彼女は二杯目のピッチャーを軽々と飲み干した。
信じられない光景におれが唖然としていると、再び店内に歓声が響く。さっきよりも一際大きな歓声が。おれはいたたまれなくなり財布から一万円札を取り出して席を立った。
「マスター、お釣りは取っといて」
そう言い残しておれは足速に出口に向かう。もうこれ以上この場の空気には耐えられない。
「お客さま、これだけですとガトーショコラの分のお代金が足りません」
バーを出ようとした時、マスターの声がおれの動きを止めた。足りない? 嘘だろう? おれの頭は真っ白になった。胸の中で何かが崩れていく音がする。
「マスター、大丈夫私が払うわ。だって私が二杯飲んだもの」
カウンターで空になったピッチャーを二つ持ち上げながら彼女がさらりと言った。店内にまた歓声が響く。おれはもう耐えきれなくなり店の外に飛び出した。
「二度と来るもんか」
ビルを出てすぐにおれは叫んだ。すれ違う人たちに変な目で見られたが、おれは気にせず歩き続けた。絶対にこのバーには二度と来ない。そう、絶対に。
「ありがとうございました」
寡黙なマスターがカウンターに座る女性に深々と頭を下げる。
「いいんです、気にしないでください」
笑顔で軽く首を横に振る彼女。
「たぶん彼はもう来ることはないでしょう。もしまた来たらご連絡ください」
「ありがとうございます。あの方はよく来てくださるんですが、お酒を一杯だけ頼んでナンパ目的で長時間居座るので困っていたんです」
マスターはそう言いながら彼女にそっとコーヒーを出す。濃紺のシックなマグカップからゆらりと湯気が立ちのぼる。
「ありがとうございます。本当に嫌な客ですね。話を聞いた時から嫌な男だと思っていましたが想像通りの男でした。これからも困ったことがあればいつでもご相談ください」
「ありがとうございます。非常に助かります」
「ビルのオーナーとして当然のことですよ。今後も可能な限り対応させていただきます」
コーヒーを飲みながら「あ、美味しい」と呟く彼女。そんな彼女の周りには、さっきまでと違い少女のようなかわいらしい空気が流れている。
「でもどうやってガトーショコラを飲んでいたんですか? 何かトリックでもあるんですか?」
マスターは先日、たまたま雑居ビルの前でビルのオーナーである彼女と出会った。そこで立ち話になり迷惑な客について相談することになった。
「ピッチャーにいっぱいのガトーショコラを二杯用意してください」
「私が『いつもの』と二回言ったらガトーショコラを出してください」
「男にお金を出されたら『ガトーショコラ代が足りない』と言ってください」
相談後、三つ指示を受けたマスター。彼もどうやって彼女が飲み干したのか理解できないでいた。
「いいえ、何も特別なことはしていません。私にとってガトーショコラは飲み物なだけです」
遠慮がちに「コーヒーのおかわりってできますか?」と聞く彼女。マスターはそんな彼女を見て、これ以上踏み込んでもガトーショコラを液体のように飲む秘訣はわからないだろうなと察した。
「もちろん、何杯でもお出ししますよ」
寡黙なマスターは優しい声でそう言うとマグカップにコーヒーを注ぐ。クラッシックが流れる店内に香ばしいコーヒーの香りがゆらゆらと漂う。