1話 痛みの牢獄⑤
残酷な描写があるのでご注意ください。
ウェルデ・ハウタウトの寮室の浴室には、鏡がない。浴室だけでなく、洗面台に備え付けの鏡も、手鏡すらない。
無論彼女は同室の生徒に許可など取らず、勝手にそうした。
浴室だけではない。故郷から離れた国で暮らすにあたり、ウェルデが自室の全てを、自分の機嫌を損ねない形に勝手に決めていた。
最初は同室の生徒からの猛反発があった。だがここはSEED学園。SEEDの強さこそが最優先される。
練習試合でちょこっと「躾けて」やっただけで、同室の生徒からの文句は途絶えた。無論、文句のみならず、会話も。
ウェルデはそうやって自分に都合よく仕立てた、自分だけの浴室でシャワーを浴びていた。
「くっ、ふふふ、ふふふ…………!」
今日は久々に丹精を籠め、機体の調整を行った。明日の試合が、今からもう楽しみでしょうがない。
『痛みなど我慢すればいい』と宣った、ものを知らないあの愚民に、痛みが何たるかを教え込むのが楽しみで笑みが漏れる。
「ふふ…………ふ……」
適温のお湯を頭から浴び続けていたが、ふと我に返る。我に返って最初に目に映ったのは、濃い黒紫と赤紫が混ざった、肘から先が醜く変色しきった自分の右腕だった。
そして排水溝に流れるまでの一瞬、床に溜まったお湯にうっすらと映った自分の顔。
「………………!」
ウェルデの口から、怒りを孕んだ吐息が漏れる。
お湯が流れてしまえば、視界に残るのは右腕だけだった。
醜い。それ以外に形容しようがない。腐り落ちないのが不思議なくらいの凍傷の痕。捻じ切られ、抉られ、爪を剥がされ、所々欠けている輪郭。
この腕は、自分が誇り高き真の貴族である証であると同時に、ウェルデがこの世で最も目に入れたくないモノでもある。
そしてそれと同じくらい、自分の顔もウェルデは忌避していた。整った容姿も、輝く銀髪も、全てが忌々しい。
だからわざわざ、この浴室からも姿鏡を撤去したのだ。少しでも、目に入れることが無いように。
「くっ、ふふ、ふふふ…………! 我慢、か? お前のような愚民に、痛みが我慢できるのか!?」
ウェルデが生まれたのは、イギリスの郊外、田舎の子爵家であるエステア家だった。
当主である父の実家は名門ハウタウト侯爵家だが、次男であった父は、跡継ぎのいない親戚の子爵家の婿養子になった。
母とは会ったことがない。ウェルデが生まれた後、すぐに死んでしまったらしい。
「うーん、ウェルデは本当に母さんそっくりだなぁ」
ウェルデが少し成長するたびに、父はそう言ってウェルデの頬を両手で挟んだ。写真だけで見たことのある母は、確かにウェルデと同じ銀髪で、大きくなったら自分もこんな容姿になるのだと言われても、何の不思議も覚えないくらい自分にそっくりだった。
ウェルデは、母に会えないことに不満はなかった。自分には、院長として病院を経営し、人々を救う立派な父がいる。
兄弟がいないことに寂しさを感じたことが無いと言えばうそになるが、ウェルデはその分父が自分を愛してくれていると感じ、満たされていた。
それに、その寂しさもほぼ忘れることが出来た。父が病院と並立して経営している孤児院の子たちは、同じ男性を父と崇め、ウェルデにとって兄弟のような存在になった。
そして母の映った写真の中から一枚、ウェルデは気に入ったものを切り取り、ロケット付きペンダントの中に入れ、お守りとしていつも首から下げていた。これで、母とはいつも一緒だ。
父は社会へ対するその貢献から、よく立派な人だと言われていた。その度に「なぁに、貴族として、このくらいは当然ですよ」と笑って答えていたのを、よく覚えている。
ウェルデは自分がいずれ、父の跡を継ぐ―――女性で家督を継ぐのは難しいかもしれないとは思いつつも、医師として、親を失った子の親として生きていく。父の真の貴族としての心を継ぐのだという想いを抱いていた。
最初は、ちょっとした欠片だった。
ウェルデが八歳の年だった。里親が決まり、別れを惜しまれながらも祝福され、孤児院を発ったはずの子供が、病院の近くで遺体で埋まっているのを発見されたのだ。
里親とは連絡が付かず、事件性が見受けられたが、手掛かりの少なさから捜査は一向に進まなかった。
その子と一緒に遊んだこともあるウェルデは涙を流したが、やがてその痛みは時間が癒してくれた。
しかしそれから、妙なことの片鱗が、ウェルデの日常に転々と姿を現していった。
いつもは温厚でニコニコしている父が、たまにとても意気消沈していることが、やけに気になるようになった。
そして父がそうして落ち込んでいる数日後には、決まって孤児院の誰かの里親が決まり、みんなで盛大に祝うのだ。ウェルデは最初、院長である父が里親となる人達に会い、里親が決まることが嬉しくも、子供とお別れするのが寂しくて落ち込んでいるのだろうと思っていた。
だが、父が意気消沈する数日前には、決まって同じ夢を見るのだ。遺体で見つかった子が、泣き叫んで苦しんでいる夢を。そして苦しむ子供たちは、父が落ち込むたびに人数を増やしていった。
そしてそれらは皆、里親が決まって孤児院を出ていった子供達。その中でも、ウェルデが手紙を送っても、中々返事を返してくれない子供達だった。
ウェルデはそのうち、言いようのない不安と恐怖を抱えて過ごすようになった。だが幼いウェルデには、その不安がどこからやってきて、そして何を意味しているのかを自分でも理解できなかった。
そうやって、心中を吐露することも出来ずにいた時だった。また顔見知りの子供たちが苦しむ悪夢を見て、真夜中に起きた時だった。
廊下を誰かが悪態をつきながら、どしどしと歩いている音がした。
田舎の小さな屋敷だ。メイドや父の執事たちは皆顔見知りで、だれがどんな歩き方をするかまで分かっている。だがこんな乱暴な歩き方は覚えがない。
ウェルデは掛布団を被ったまま、恐る恐る扉を少し開けた。
忙しなく廊下を行き来しているのは、父だった。父は見たこともない表情で悪態をつきながら、布やテープを手にして運んでいるようだった。
そして見間違えでなければ、その服は血が付いていた。
急患の患者が運び込まれてきたのだろうか? あの血は患者のもので、父は患者を死なせたくなくてあんなに忙しそうなのか?
普通に考えれば、医師という父の立場を考えてもそうだった。だがこれまでにずっと、言葉に表せない不安を抱えていたウェルデは、父が廊下の向こうに行ってしばらく戻ってこないのを確認すると、手持ちの玩具の電源の光を頼りにしながら、廊下を進んでいった。
お化けなんているはずがない。もし父に出会っても、父なら足音で起きてしまったことを叱ったりはしないはずだ。そう思っていても、何故かこの時のウェルデは父に会わずに済むことを、母の写真が入ったロケットを握り締めて必死に祈っていた。
そして、着いたのは屋敷の端の方の部屋。
病院で使うための道具や、扱いが危ない薬があるから絶対に入ってはいけないと言われていた部屋が、鍵が差しっぱなしのまま空いていた。
ウェルデは震える手で扉を開け、中に入った。中には戸棚が所狭しと置かれており、仲にはガラス製の器具やビンが敷き詰められていた。
だがそんな物置部屋に似つかわしくない、異様な臭いが部屋の奥から漂っていた。消毒液などの、薬の匂いではない。もっと生々しい、気持ちの悪くなる臭いだ。
初めて嗅ぐ臭いにウェルデは鼻をつまみながら、足音を立てないように進んでいった。
臭いが一番強いのは、奥の戸棚だった。その戸棚だけ、他の棚と違って中には何も入っていないようだった。
そしてその時、ウェルデは確かに聞いた。誰かが、子供が悲鳴を上げるのを。
最初はどこからその悲鳴が聞こえたのかわからなかった。音も小さかったし、自分の聞き間違いかとも疑った。だがその悲鳴は断続的に、しかもこの戸棚の向こうから聞こえてくるようだった。
ウェルデは泣きそうだった。すぐに引き返して、ベッドに逃げ込みたい。だが、おそらくこの先に、自分が今まで抱えていたものへ対する答えがあることを察し、その場に留まってしまう。震える手で、戸棚の下半分の戸をスライドさせると、穴が広がっていた。
戸棚の後ろ半分が切り取られ、壁に直接開けられた穴と繋がっていた。
玩具とロケットを握り締めながら、ウェルデはしゃがみその穴を潜っていった。
すぐに階段が見え、ろくに整備されていないその急な階段を下りる。ウェルデは階段を一歩下りるごとに、自分が地獄に落ちていくような錯覚を覚えた。臭いはますます強くなっていく。
階段が終わると、古い木星の扉があった。所々黒く滲んで、腐食しているのが分かる。
扉の向こうから、声が聞こえる。
複数の人間がいる。何を話しているのかはわからない。だが、そのほとんどが傷つき、悲嘆しているのが分かる。
『――――――――――!!!』
「ひぃっ……!!?」
扉の向こうから、聞いたこともない悲鳴が聞こえて来た。全身に鳥肌が立ち、本能的に血の気が引いた。
慌てて数歩下がるが、足をもつれさせて後ろに倒れる。
「ひゃっ…………!」
慌てて声を漏らした口を、両手で塞ぐ。
それからの数秒は、一秒がまるで永遠にも等しい痛苦だった。見開かれた目からは涙が溢れ、心臓は胸から飛び出すくらいに脈打っていた。
扉の向こうの音が消えた。それで安心できる程、ウェルデは楽観的な子供ではなかった。安全を肯定も否定もしない無音が、かえって恐怖を煽る。
ガチャリ
ドアノブが回る音。それが何より、ウェルデには恐ろしい音に聞こえた。まるで悪魔か何かに、お前は地獄から二度と帰れないと通告されたような。
顔を覗かせたのは、悪魔ではなく父だった。だが、最初ウェルデはそれを父親と判断できなかった。
顔も、背丈も、服装も。すべて自分が知っている父親だ。
だが、何かが。その身に纏う雰囲気のような、名状しがたい気配が、決定的に異なった。
「お、父さ
「ああ、起きてしまったんだね。ウェルデ」
父はウェルデの呼びかけに声を被せると、その名を呼んだ。そして小さく笑みを浮かべ、我が子に手を伸ばす。
ウェルデは自分の手を伸ばし返せなかった。だが父の手はどんどんこちらへ近づいてくる。
「中へ入ろうか」
ウェルデに触れるや否や、父の手はウェルデを痛いほどの力で持ち上げ、部屋の中に引きずり込む。
そこでウェルデは、自分の目がおかしくなったのかと思った。
部屋にいたのは、数人の子供たち。全員ウェルデと顔見知りの、孤児院で一緒に遊んだこともある子たちだった。
だがそのうちの数名が、計四本あるはずの手足のどれかが、無くなっていた。手品でも何でもなく、本当に、無くなっていた。
電源コードと剥き出しの電球だけの、原始的な灯りに照らされた彼らは目に光を宿しておらず、生気がない。
そして、そのうちの一人。一番入口の近くに倒れている子供は、ピクリとも動かない。
呼吸のための胸の上下もしておらず、そして、一番負っている怪我が酷かった。
「ああ、みんな見てくれ」
父が子供達へ声をかける。それだけで子供たちは皆、小さく ひっ と悲鳴を上げ、恐る恐る視線を上げた。
「どうやらウェルデが言いつけを破って、夜中に出歩いてしまったようだ。でもちょうどいいお客さんだ。ウェルデにも見てもらおうじゃないか」
「お、父さま…………?」
父はウェルデの手を放すと、近くの小机の上にあった道具を手にした。その道具自体は、何と言うことのない普通の工具だった。
ドライバー、ねじ閉め、万力、小さなナイフ…………だがそれがこんなにも禍々しく見えるのは、そのどれもが、血のような液体を浴びて錆びついているからだろう。
「お父さま、待っ
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
そしてウェルデの制止を待たず、父は一番手近にいた子供の胴体に、何のためらいもなく、鍵穴に鍵を刺すような自然さで、工具をねじ込んだ。
子供の喉からは、そんな傷つき果てた身体のどこからそんな声が出るのかと思うくらいの絶叫が放たれた。
「やっ、やめて!? お父さま! 死んじゃう―――
「そこでじっとしてなさい! ウェルデ!!」
「っ――――――」
ウェルデがやめさせようとすると、父は悲鳴に負けない声でウェルデに命令した。
「ぎっ、ひぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
「ふぅーーーーーー!! ふぅーーーーーーー!!!」
苦悶の喘ぎの隙間に、ところどころ父が鼻息を荒くして、負けじというように工具を力いっぱい体へめり込ませる。そしてその度、子供からの絶叫が放たれる。
いくら耳を塞いでも、その悲鳴はまるで脳に直接響いてくるようだった。
「う、ううううううううぅぅぅぅぅぅぅ!!!??」
ウェルデはその悲鳴を聞くに堪えず、自らも悲鳴ともつかない呻き声を上げて両目と両耳を塞ぎ、その場でしゃがみこむ。
わからない。わからない。わからないわからないわからない!!
夢だ、まだ悪い夢の続きを見ているだけだ うそだ、本当じゃない本当じゃない本当のことじゃない!!
「うああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
聞こえる悲鳴が自分のものかそうでないかも最早わからない中で、ウェルデは気を失った。
一夜明けて、ウェルデの地獄が始まった。
目が覚めたのは、拷問部屋の隣に設けられた小部屋だった。
元々は、屋敷が建てられた当時に作られた地下牢と、牢番の部屋だったのだろう。人が寝泊まりするのに、最低限の設備は整っていた。
ウェルデの頭の中を占領したのは、昨晩見た光景だった。夢であってくれと、何度も懇願した。だがパジャマについた汚れが、あの恐ろしい階段を実際に降りたのだと、夢ではなかったと示している。
何度祈っても、懇願しても、自分のいるこの場所は、いつもの自室にはなってくれない。
そうして時間の感覚を失いかけた頃に、仕事着を着たままの父がやって来た。
「ああ、ウェルデ。起きていたかい」
いつもの父の声だ。だが、たとえ何も変わったところのない様子でも、ウェルデは父に心を許すことは出来なかった。
「こっちへ来なさい」
父は自分の後ろの、子供たちが閉じ込められた部屋を指し示した。無論、恐怖で体が動かないウェルデは、その場から一歩も動かない。
「来なさい」
すると父は、昨晩の様に、ウェルデの腕を掴むと強引に隣室へ連れて行った。
そこには、父の姿におびえ切った、負傷した子供たちがいた。だが、昨日より人数が減っている。
「なん、で…………」
「ん?」
ウェルデが声を漏らすと、父はいつもウェルデの質問に答える時と何ら変わらない様子で聞き返してきた。
「なんで、みんなに、こんな…………酷い……」
「だって、楽しいじゃないか」
何を言っているんだと、逆に諭すように、父はさも当然だと言わんばかりにそう答えた。
「え…………」
「お父さんも何故と聞かれると、具体的には答えられないのだがね? 彼らを痛めつけると出てくる悲鳴は何て言うか、こう…………お父さんにとっては、どんな上手な演奏よりも、うっとりする…………うっとり? ゾクゾク? …………まぁ、なんというか、心に響くんだよ」
ウェルデは、父の言っていることが何一つ理解できなかった。文章の意味は理解できるのだ。でも、父の口から出た言葉が、まるで分らない。
加虐性癖、虐待性癖。これらの言葉をウェルデが知るのは、数か月後のことだった。
理解が少しも及ばないうちに、父はおもむろに小机の上の工具を手に取ると、昨晩そうしたように、子供にそれを突き立てた。
「いやあああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」
「ほら! 聴いてごらん! ウェルデもこの子達の声を! すっごく綺麗だろう!?」
父は悲鳴に負けない声でそう吠える。
「うああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「や、やめてお父さま!?」
ウェルデは父の手にしがみつき、何とか子供達から引きはがそうとする。
「こら! ウェルデ何をする、放しなさい!?」
「やめてぇぇぇええええええ!!!」
ウェルデは父の腕に噛み付き、なんとかして止めさせようとする。だが所詮は子供の力だ。すぐに振りほどかれて、突き飛ばされる。
ウェルデのすぐそばに、白い小石が落ちた。永久歯に生え替わろうとしていた乳歯が、二本抜け落ちたらしい。だがウェルデはそんなことを意に介さず、歯が無理に抜けた痛みも忘れて叫んだ。
「こんなの、絶対にしてはいけないことです! お父さまが、ひ、悲鳴が、聞きたくても! それを聞くために誰かを傷つけるなんて、絶対にしてはならないことです!!」
怖くて涙が溢れる。だが、顔なじみの子供たちを見捨てることなどどうして出来ようか。
ウェルデは生まれて初めて父に逆らった。
「何を言う、していいに決まっているだろう」
本当に。本当にごく自然に、訳の分からない理屈で駄々をこねる子供を諫めるように、父はそう言った。
「私達は貴族で、こいつらは平民だ。平民は、その地の領主に奉仕するのが決まりだ。特にこいつらは、もう引き取る親戚もいない、食べるだけ食べて税金も納められない、何の使い道もない連中だぞ。元々、後は死ぬだけだったんだし、多少声がいい奴を間引くくらい構わんだろう」
「な、何を…………」
「ああ、お前はまだやったことがないからわからないんだな。お父さんも最初はそうだったよ。最初はみんなそうだよ」
父はウェルデを立ち上がらせると、自分が手にしていた工具をウェルデの手に押し付け握らせた。
「お父さんのやったようにしてみなさい。どれでもいいから」
そう言って、部屋の隅で覚えている子供たちを指した。
「ほら、早く」
父は急いているのか、ウェルデの返事を待たず、さっき傷つけたのとは別の子供を引きずって近くまで持ってくる。
「い、いやだぁっ、やめ
「ふん」
痛がり、怯え、やめるように懇願するその子供を、父は何のためらいもなく蹴りつける。
わき腹を思い切り蹴られ、その子供は痛みに悶絶して何も言えなくなる。
「ああ、こうやって痛みの種類によっては、上手く叫ばないからね。気をつけるんだよ」
父はそう言って、工具を持ったウェルデの腕を自分の腕で持つ。まるで、初めて釣りに挑戦する我が子を手伝うように。
「い、いやっ、やめてっ、お父さまお願いです止めて!!!?」
「こら! ちゃんとしっかり握りなさい」
「嫌あああああああああああああああああ!!!!!」
ウェルデは必死で父の手を振りほどき、腕を滅茶苦茶に振り回して工具で父を滅多打ちにする。
「ウェルデ!!!」
だがすぐに押さえつけられ、頬を思い切り叩かれる。その衝撃で、床へ倒れ込む。
「お父さんをぶつなんて、悪い子だ」
すぐに腕を掴まれ、小机の上に押さえつけられる。
「お父さんをぶつ悪い腕は、これか?」
そしてウェルデが何か言う前に、別の工具で、ウェルデの右手を思い切り捻じりあげる。
「ぎっ、い、いやぁあああああああああああああ!!!??」
経験したことのない痛みが、ウェルデを襲った。自由な左手で父の手を払いのけようとするが、力はまるで緩まない。
「やめて!! 痛い! 痛い!! お願い! やめてえええええええええ!!」
「じゃあ、お父さんの言うようにするか?」
「いっ…………」
そこでウェルデの言葉が詰まる。そして次の瞬間には、耐えるように歯を食いしばる。
「嫌です…………! 絶対、嫌……!」
「ウェルデ!!」
「ぃああああああああああああああああ!!!!」
ウェルデが拒絶の言葉を口にすると、父はさらに力を強めた。その度にウェルデは悲鳴を上げる。
地獄のような責め苦は、三十分近く続いた。
ウェルデは頑なに子供たちを傷つけることを拒み、父は激昂してウェルデを傷つけ続けた。
埒が明かないと見たのか、父親はもう叫ぶ気力も尽きたウェルデを放り、苛立ちを収めるために、別の子供たちを痛めつけ始めた。
ウェルデにはもはや、それを止めようとする気力も体力も残されていなかった。
また数時間して、ウェルデが味わったよりはるかに過酷な責め苦を与え終えると、父はやや気分がよくなったのか、ウェルデを労わるように隣の牢番部屋に連れて行った。
「ほら、手を出しなさいウェルデ。お薬を付けて、治さないとね」
父は愛情表現のつもりか、自分でつけた傷を治療した。
「ウェルデ、痛みがひどかったらこのお薬を飲みなさい。いいね? ウェルデがお父さんの言うことを聞いて、いい子にしていれば、もう痛いのはなくて済むんだよ? お前も貴族なんだから、こんな目に遭う必要はないんだ」
それだけ言うと、父は外から鍵を閉め、いなくなった。
そんな地獄の日々が、何日も続いた。
父はほぼ毎日夜中の時間帯にやってきて、ウェルデにも同じように子供たちを傷つけるように強要した。
それを断ると激昂し、他の子供達と同じようにウェルデを傷つけるのだった。
「う…………う……」
監禁されて十五日目。ウェルデは牢番部屋の汚れたベッドの上で、痛みに呻いていた。
父は最近、実の娘を痛めつけることに新たな快楽を見つけ出したのか、ウェルデへの加虐は激しさを増していた。
最初は他の子供達に比べ、まだ手心が加えられていたが、今ではもう四肢の切断といった取り返しのつかない傷を除き、何ら変わりない仕打ちを受けていた。
むしろ自分の娘を痛めつけるという背徳感に、父はことさら興奮しているような様子さえ見せていた。
「う…………」
体中が痛い。だが、それでもやることがある。
首からぶら下がる、母の写真が入ったロケットに手を当て、母から勇気をもらう。
(お母さま…………どうか、ウェルデ達を助けてください)
それまで最も大きな拠り所であった父がああなった以上、ウェルデが唯一縋れる心の支えが、会ったことのない母親だった。
(お父さまを正気に戻してください…………みんなを助けてください…………)
この状況では神にも等しい位置づけとなった母が、自分を見守ってくれていることを願い、心にわずかながらの灯をともす。
気を強く持ち直したウェルデは、シーツの下に隠した細い釘を数本取り出す。
父が拷問用に用いたものを、数本隠し持っていたのだ。それを持ち、這うようにして部屋のドアまで向かう。
鍵穴に釘を刺し、開錠しようと試みる。
「痛っ…………!」
今日は新たに、爪を二枚剥がされた。細い釘を指で挟むだけでも、激痛が走った。
だが幸いに、鍵自体が古く単純な造りの為、すぐに扉は開いた。ウェルデは父が自分用に残した痛み止めや消毒薬を手に、隣の子供達が監禁されている部屋へ入った。
そして痛みに呻き、すすり泣く子供達に、痛み止めの薬を飲ませる。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………」
そしてその間、ウェルデはずっと謝るのだ。父が彼らに向けて行った、残虐な仕打ちに。
何度かこの部屋から脱出できないか試みた。だが父は、地下牢と階段をつなぐ扉の鍵は
牢番部屋のそれと異なり、より新しく複雑なタイプの鍵を取り付けていた。そもそも釘など穴に通らないし、下手にねじ込もうとすれば、鍵穴周りに付いた傷から脱走しようとしたことがばれてしまうだろう。
そうなれば、さらに残酷な仕打ちが待っているのが目に見えていた。
結局ウェルデは、父が自分用に残していった薬を、子供たちに分け与えることしかできなかった。
「ウェル…………」
「リナ…………」
リナという少女は、この拷問部屋に来て一番日が長い。無論、生きている者の中では。
父は医者であるためか、生かさず殺さずのラインを超えないことが上手かった。牢の中には最低限の生きるための設備があり、食事も与えられはしていた。
だがそれでも、ほとんどの子供は一か月と少し程度で死んでしまう。リナはもう二カ月近く生き延びてしまっており、ここに来た順番からしても、次に死ぬのは自分だと怯え切っていた。
いくら死ぬよりつらい目に遭わされていても、死ぬことはそれでも恐ろしいのだ。父が興奮のままに子供を痛めつけ、死の間際、それまでに上げて来たどんな悲鳴よりも恐ろしいそれを、自分も最後に放ち死ぬ。そんな情景が、これ以上ないリアリティで頭に浮かんで止まない。
「ありが………と、う」
「ごめんなさい、ごめんなさい…………!」
叫び過ぎて喉が裂けているリナは、掠れた声でウェルデにそう言った。ウェルデはそれに対し、父の凶行を詫びるしかできなかった。
ガチャリ
「!」
おもむろに、真後ろの階段へつながる扉が開いた。そこには、不機嫌な表情を浮かべた父が立っていた。
「やはり薬を分け与えていたな、ウェルデ」
「お、とう…………」
医者である父にとって、傷口が治療を全くされていないかそうでないかは、見ればわかる。
「傷は中々膿まないし、叫び声がどこか希薄な気がした。お父さんが来る前に、あらかじめ痛み止めを飲ませていたんだろう」
「ひ…………!」
父は大股にウェルデに近づき、壁に取り付けてある拘束具に繋いで身動きをとれなくした。ただし、右腕を除いて。
右腕の表面を眺めて、父は診断する。
「ああ、自分のをちゃんと消毒しないから、傷が化膿しているじゃないか。こんな奴らに大事な薬を使って全く」
「っ……それが、どうしましたか…………!」
このころになると、ウェルデはもう父への敵愾心を隠そうとはしていなかった。
「周りに傷ついている人たちがいたら、身を挺してその人たちを守るのが、貴族です…………!」
「まだそんなことを言っているのか…………。我が娘ながら時代錯誤というかなんというか」
父は相変わらずごく自然な、的外れなことを口にする娘に「呆れた」と言いたそうな表情を浮かべるだけだった。
「お父さんの言うことを聞かない、こんなどうでもいいのを助けようとする…………そんな悪い手にはお仕置きが必要だね。でも、消毒もしないといけない、だから…………」
そこでウェルデはゾッとした。父がいきなり、一番酷い責め苦を味合わせ、興奮する時の雰囲気を纏う。
父は一旦踵を返し、部屋の入り口に立てかけておいた、父の腰の高さくらいのボンベを重たそうに傍まで持ってくる。
ペットボトルのキャップの様にボンベの蓋を回すと、閉じ込められていた気体が溢れる音と、極細かな氷の混じった白い冷気が、床の表面を舐めるように広がった。
その瞬間、ウェルデはそのボンベの中身が何かを理解した。父がこの後、自分の右腕に何をするつもりなのかも。
「ひっ…………!!」
液体窒素。沸点はマイナス196度。つまり液体の状態なら、マイナス200度を下回っていることも珍しくない。
ウェルデが数年前、足の指にイボが出来た時に、ほんの少し綿棒の先に含ませた液体窒素を患部に押し当てられた時でも、ウェルデは痛くて泣きだしてしまった。
「い、嫌っ…………嫌ぁ!!」
父はもう何も耳に入っていないようだった。口を開けたままハァハァと、まるで犬の様に呼吸を荒くし、恐らく初めて行う種類の拷問に興奮しきっている。
液体窒素を僅かに注ぐためコップなどない。ボンベの口を開けたら、ボンベをそのままウェルデの方へ向けて寄せてくる。
「やめてっっ!! お父さま、それだけは、それだけはっ…………!」
ガチャガチャと金属製の拘束具を鳴らすが、壁に強固に取り付けられたそれは、ウェルデの細腕で壊せるようなものではない。
唯一拘束されていない右腕の肘から先も、むなしく空を掻くだけだった。その右手も父に押さえつけられ、ボンベの入り口にあてがわれる。
(お母さま、たすけ――――)
父はそのまま何も言わず、ウェルデの腕を中へ収納していくように、ボンベを肩口まで差し込んだ。
「――――――――――――!!!!!」
その時ウェルデが上げた悲鳴は、それまで拷問された子供達が上げてきた中で、最も大きな悲鳴だった。
味わったことのない激痛だけではない。指先から肘先にかけて、ウェルデは自分の身体が文字通り崩壊していくのを感じた。
「ぎっ、いっ、いあ!!? がっ、、え、あ、ああああああああああああああああああああああああ!!!??」
極低温に覆われた右腕が、凍り、腐り、窒素の蒸発と合わさり表面が崩れていくのを。
肉を抉られ、爪を剥がされた個所から、液体窒素は肉体に入り込もうとしてくる。痛みか、僅かにでも血管中に極低温が流れ込んだせいか、ウェルデの意識は途絶える。だがそれも一瞬。あまりの激痛に、意識が無理矢理引き戻される。
堪え切れずに、少しでも気を紛らわすため、頭を後ろの壁に何度も打ち付ける。だが腕から伝わる痛みは一切留まることを知らず、体の奥へ奥へと入り込む。皮膚から体内へ、腕から全身へ。
父はウェルデの悲鳴が途絶えてくるまで二十数秒間、ウェルデの腕を液体窒素に浸した。
ボンベを引き、ウェルデの腕を抜く時は最早ボンベを取り落とすくらいで、表情は恍惚としていた。己が娘の上げる最大級の悲鳴。父としてこれ以上なく忌避すべき咆哮を、至近距離から浴びたその男の表情が、ウェルデが人生で見た中で、最も幸福に染まっていた父の表情だった。
それから数日間、ウェルデは牢番部屋の小汚いベッドに横たわり、思考も身動きも停止した状態で、自分の右腕を見続けていた。
父は満足したのか、液体窒素を使って拷問した日からは他の子供達のみを痛めつけ、ウェルデには一切の危害を加えなかった。
そしてウェルデは隣の牢番部屋で、今も激痛をもたらす、醜く変色した右腕の肘から先と、気を失う寸前に見た父の恍惚とした表情を交互に思い出していた。
そして、ウェルデが最後に拷問を受けてから七日目。父が逮捕され、ウェルデと子供達は警察に保護された。
ウェルデが子供達にクスリを分け与えていた時に父が踏み込んできた際、父はその扉を閉めることを失念していた。
結果、ウェルデが最後の拷問で上げた悲鳴が地上にも漏れ、ウェルデが失踪したことに不信感を覚えていたメイドがそれを聞きつけて通報し、警察の捜査が入ったのだ。
瀕死だった全員が迅速な治療を受けたが、ウェルデの右腕は神経が死滅しており、自由が利かなくなっていた。切断しないで済むことが、奇跡であった。
事件の扱いは、慎重に慎重を重ねられた。今の時代、貴族という枠組み自体が形骸化している部分もあり、かつ田舎の子爵家でもあったが、貴族は英国にとって理性・真摯さの象徴でもあるのだ。
その貴族がこんな近年類を見ない残虐な事件を起こし、数名の死者を出していることを、進んで公表したがる当局はいない。
事件の被疑者である父親は監禁され、裁判は極秘のうちに進められることとなった。
父が経営していた病院と孤児院はすべて国営のものとなり、ウェルデを含む事実を知る拷問されていた子供達は、国の管理下で別人として歩む第二の人生を余儀なくされた。
「でも、ウェルデだけは僕が引き止めた」
実の従妹であり、心身共に傷つき果てていたウェルデを、ウィンドル殿は妹として侯爵家で引き取ったという。
さすがに侯爵家のご長男、しかも数少ないSEED操縦者候補生たっての希望では、警察も無視できなかったそうだ。
「うちに来たばっかりのウェルデはもう…………本当に、お化けかっていうくらい、身も心も死んでた」
敬愛していた父親に喜々として右腕を腐らされた少女は、醜く変色して動かなくなった右腕を見ては、毎日泣いていたらしい。
幸い、他の部位の傷は、よく目を凝らさないと分からない程度まで痕は無くなるとのことだったが、傷が塞がる前に凍傷を負わされた右腕だけは、元に戻らないと言われた。
「それからのウェルデは酷かった。隙あらば右腕を傷つけて、ひどい時は切り落とそうとしたり」
その傷跡がある限り、拷問されていた悪夢の日々が蘇る。その苦しみ様のあまり、ハウタウト家の頭首、ウェルデ嬢の伯父も、義手にすることを本気で考えたらしい。
「でも、僕はウェルデにこう言ったんだ。今となっては、その場しのぎの詭弁でしかなかったけど…………その腕は、ウェルデが誰よりも優しく、誇り高い貴族である証拠だって。その身を挺して痛みに耐え、一緒に囚われた子供を庇った、貴族の義務を体現した証そのものだって」
「ノブレスオブリージュ…………元の意味は、『平時は平民によって支えられている騎士や貴族は、有事の際には真っ先に傷つく役を買って出て彼らを守る』だっけ?」
「よく知ってるね」
ウィンドル殿は普段は薄目な目を少し開いて驚いた。
「要さんに古今東西の思想はあらかた教え込まれまして。それで? それで妹さんは立ち直れたわけ?」
「うん。僕も自分の手を傷つけて、醜くなんかないよって言ってあげることで、ある時まではね…………」
いくらきれいごとを並べても、よしんばこの右手が貴族の証であったとしても、こんな醜い腕と一生を共にしなくてはならない辛さはお兄様には分からない。
そう激高した妹の為に、ウィンドル殿は自分も病院に忍び込んで液体窒素を手に入れ、自分の左手にそれをかけたという。
「もっとも僕なんて、コップ1杯分もかけないうちに大声で悲鳴を上げて、こんな軽い程度で済んだけどね。動かすのにも何も問題ないし」
確かにウィンドル殿の凍傷は程度もそこまで重くない。この程度なら、SEEDをすぐに展開すれば五分せずに治ってしまっただろう。それをしなかったのは、同じ傷を持つことで、妹の心労を少しでも軽くしようとしたためだろう。
「でも、ウェルデにとってはすごくショックだったみたいで、自分の方がよっぽど大きくて酷い傷なのに、僕の手を見てわんわん泣き続けて…………」
ウィンドル殿の身を挺した行動に、ウェルデは少しずつ、自分のしたことに自信を持てるようになったという。
父の言った貴族なら平民を虐待していいという思想は全くの誤りで、自分の様に身を張って彼らを庇おうとした自分が正しかったのだと。
そして兄にここまでさせてしまった以上、この腕を嘆くのはもうやめようと。
そしてウェルデが十歳になる歳、朗報がもたらされた。
これまで受けたことのなかったSEED適性検査で、ウェルデに適性があることが分かったのだ。
SEEDは操縦者が望めば、それを具現化してくれる。怪我の後遺症で手足が動かなくなった人間でも、SEEDを展開してその回復能力を使うことで、不随部分が動くようになった例は複数存在する。
ウェルデは右腕がまた動くようになるかもしれないと、SEED操縦者としての訓練を受けることを快諾した。
だが時期を同じくして、ウェルデの心に影を落とす出来事が起きた。
数年間、事件の扱いに難儀していたせいで遅々として進まなかった、父の裁判が開始されたのだ。
ウェルデを含む虐待を受けて生き残った子供達は、重要参考人として当時のことを陳述しなければならなかった。
陳述するのは構わない。むしろこれは、自分が過去から抜け出して生きていくためのスタートだと、ウェルデは兄と伯父夫婦に支えられながら捜査に協力した。
だがそこで、思いもよらぬ事態が起きた。当時生き残った子供の内の一人が、ウェルデも父親と一緒になって自分達に虐待を行ったと陳述したのだ。
無論、他の子供達はおろか、父自身が取り調べで述べた調書の内容とも異なり、それは嘘だと結論付けられた。だがウェルデはその捜査のために、複数回取り調べに応じなければならなかった。
そして調書を取る三日目。取り調べから帰る時だった。別の部屋で、誰かが声を荒げているのが耳に入った。
『……けるなっ……! 会わ……ろ! 私があい………してや………!』
「?」
ウェルデはその声に聞き覚えがあった。
部屋の扉に嵌められたガラス部分から覗くと、そこで暴れていたのは、一緒にあの地下牢に閉じ込められていたリナだった。
ウェルデはすぐにドアを開け、部屋に入った。だが、
「会わせろっつってんだろ! あたしがあいつをぶち殺してやる!! こんなキズモノにして、アタシの人生を滅茶苦茶にしたあいつを、同じ目に遭わせて何が悪いってんだよ!!?」
ウェルデを出迎えたのは、リナの怒号だった。警官が宥めても効果がなく、部屋の外へ出ようとしているリナと、ウェルデの目が合った。
「リナ…………リナ……!」
ウェルデは久方ぶりの友人に歩み寄ったが、
「っ!」
次の瞬間、ウェルデはリナに殴り飛ばされていた。
「てめぇが…………、あの男の娘であるテメェが! その名を口にすんじゃねぇよ!!」
リナは倒れたウェルデの胸ぐらを掴み上げ、さらに腕を振り上げるが、暴力を振るったことで、警官にこれまで以上に激しく拘束される。
「何がリナだ! アタシはお前たち親子のせいで! その名前すら奪われたんだ! どいつもこいつも、アタシの傷を見て人間扱いしようともしない!! お前たちのせいで、アタシの人生は滅茶苦茶だ! 父さんも母さんも死んだのに、この上まだ私の人生を滅茶苦茶にして面白いかよ、ええ!?」
リナの服装はあちこち汚れ、破れており、みすぼらしいものだった。とても、国によって証人保護プログラムを受けている者の恰好とは思えない。
あとで聞いて分かったことだが、ウェルデを除いて保護された子供達は全員、その後の生活が上手くいっていないようだった。
トラウマや、義肢であることをからかわれ、里親や周りの人間とうまくなじめず孤立し、リナの様に非行に走ってしまう子供もいた。
そしてウェルデが父と一緒になって彼らを拷問していたと述べたのもまた、リナだった。
あまりにもウェルデの父親が憎く、その後も自分の人生に影を落とし続けられることで、ウェルデの父親に関するすべてのものを憎まずにはいられなかったのだろう。
たとえそれが、リナたちを拷問するように強要されても首を縦に振らず、薬を分け与えてくれたウェルデであっても。
父親に与えられた痛みと傷で、リナは身も心も変貌し果ててしまった。
「その時からかな…………ウェルデが少しおかしくなり始めたのは」
リナと会ってから、ウェルデの精神は不安定になった。具体的には、自分は正しいと強迫観念に近いぐらいに認識しようとするようになった。
度々不意に身も心も停止しては、自分は正しい、自分のしたことはなにも間違いではないと言い聞かせるのが見受けられた。
その回数は、リナの様に一緒に保護された子供達が、非行に走ったり、補導されるような行為を犯したと耳にするにつれて増えていった。
そしてウィンドルも、妹のそんな不安定な姿を見るに堪えず、度々ウェルデに『そんなに不安に思わなくていい。誰が何と言おうと、ウェルデがやったことは正しかったんだ』と言い聞かせて心の支えになろうとした。
そしてウェルデが十二歳。
訓練に懸命に取り組んでいた結果、僅か二年でSEEDの全身展開が出来るようになり、右腕も動くようになってきていた。
ウェルデが心身共に快方へ向かっていた時のことだった。
『ハウタウトさんのSEEDは、特に痛みを扱うのに長けた機体のようですね。対人戦にはもってこいですよ』
SEED管理機関の研究員が何気なく言ったこの言葉が、再びウェルデの心を不安定にした。
この能力から連想するのは、父のことを除いて他にはなかった。
それぞれのSEEDが得意とする能力の方向性はどう決定されるのか、詳しいことは未だ解明されていない。だが経験則から、一般的には操縦者の心の奥底にある望みを反映した性能になると言われている。
ウェルデは自分の中に、父のような残虐性が眠っているのではないかと恐れるようになった。
後一年すれば、日本のSEED学園中等部で本格的に訓練を始めることになる。だが本当に、この不安を抱えたまま遠く離れた異国の地で数年間過ごせるのか?
ウェルデは、このまま時間と周囲の環境に任せておいて、この恐怖を自然と拭えるイメージがどうしても浮かばなかった。
そして半年後にSEED学園中等部への編入を控えた頃、ウェルデは父親に会おうと 決心をした。
父には死刑が廃止された英国では、最も重い刑である終身刑が下った。生きている限り、まだ会うことは出来る。
父に会って、何を話すのかはわからない。だがどうしても、『自分は父とは違うのだ』という確信を得なければ、自分は一生呪われたままだという確信がウェルデにはあった。
そうして父への面会を希望し、実際に会うことにした。
「ああ――――大きくなったね、ウェルデ」
看守と兄が隣の監視部屋からウェルデを見守る中、ウェルデは三年ぶりに父親と再会した。
ガラス一枚を隔てた向こうで、父は出会い頭にそう言った。
あの地下牢での日々の様に、言葉は常に自然体を崩さない。
当時より痩せこけているし、髭も伸びて老け込んだように見える。だが、背筋や態度はまるで当時のまま、貴族らしくどこか凛としている。三年ぶりに会った娘を一目見て、あんな凄惨な事件などなかったこのように、極々自然体であった。
「――――――――――」
ウェルデはいざこの父を目の当たりにすると、何を話すべきか戸惑った。自分がこんなにも苦悩しているというのに、父はこの自然体では、それも致し方ないだろう。
「父さ――――貴方は…………」
「うん?」
「貴方は…………何故、あんなことをしたんですか?」
結果。ある意味であの地下牢の日々で問答し終えた、至極真っ当ではあるが、有意義ではない問いを繰り返してしまう。望んでいる答えなど、返ってこないというのに。
「だって、基本的に楽しいことじゃないか。自分より下の階級の存在を、好き放題にする……支配欲を満たすことって」
「それでもっ……実際に、それを行動に移すなんて…………!」
「やってもないのに何でそうやって否定するのかなぁ。というか…………」
「?」
父はそこで一度言葉を切ると、ウェルデの顔をしばらく眺めた。
「ウェルデは見た目は本当に母さんそっくりだけど…………性格は僕似だね」
「は…………?」
似ている? 自分がこの男に? ウェルデは必死になって否定した。
「ありえません。私の、私のどこが貴方のような残酷な人に…………」
「いや、本当だって。僕にそっくり」
「お黙りなさい!」
ギリッ と、ウェルデは歯を食いしばってから声を荒げる。
「私はっ! あなたとは違う!
…………SEEDの適性検査を受けたら、高い数値が出ました。先日やっと全身展開まで至って、私の機体の得意な方向性が分かりました。相手に痛みを効率的に与えることだと…………。 でも、あなたのような残酷な人間とは似てもつかない! それを確認するために、私はこうしてやって来たんです! たとえ私の機体が傷みを与えることに長けていても、それとあなたのことは何も関係ないと!」
「へぇ……SEEDの…………SEEDの…………」
娘がSEEDの高い才能を持っていたことに驚き、流石に父もしばらく無言になる。
そのまままじまじとウェルデを眺め、やがてその相貌が笑みを浮かべる。
「うん。でもそれなら、やっぱりウェルデは僕似だよ」
「なぜっ…………! ありえません! 何でここまで他者へ痛みを与えることに嫌悪を示している私へ向けて、そんなことを…………! 私が似ているとしたら、お母さましかありえません!」
「僕の取り調べ調書とか読んでないの? 僕に拷問の楽しさを教えてくれたの、母さんだよ?」
「は…………え……?」
その言葉の意味を理解するより先に、ウェルデの体中から熱という熱が消え去った。
「ウェルデがさっきから言ってる否定の言葉って、僕が昔母さんにアレを止めさせようとして言ったセリフとほぼ一緒なんだもん。やっぱこういうところは親子って似るんだねぇ」
「お母さまが…………あれを、貴方に……?」
「うん、正直最初はショックだったよ。愛妻が孤児を痛めつけて、すっごい笑顔を浮かべてるんだもん」
「う、嘘…………」
「いやホントホント。僕も最初は止めようとしたんだけど、母さんがこれを止めさせるなら離婚&婿養子のお前を追い出すって言われてさぁ。最初は本当に渋々だったんだけど、始めたらなんていうかその…………すごく、しっくり? 来てね? それ以来夫婦で嵌っちゃって。母さんも見合い結婚だった僕のこと、最高の理解者だって本気で好きになってくれて…………夫婦円満のコツで―――――」
「嘘です!!!!」
バン! と、ウェルデは自分と父親を隔てる防弾ガラスを叩きつけた。
「母様が、母様がそんなことをするわけありません! 貴方はっ、お前は! お前は嘘をついてる!」
自分の唯一の心の支えであった存在を貶めるような言動に、ウェルデが激昂する。認めたくない思いのあまり、その声は震えていた。
「嘘じゃないよ。何だったら、僕がウェルデを傷つけるのによく使ってた道具、あれ母さんの形見だから、母さんの指紋もいっぱい出て――――」
「嘘だっ!」
バンッ!
「嘘だ、嘘だ、嘘をつくな!!!!」
バン! バン! バン! と、ウェルデが何度も拳でガラスを叩きつける。
すぐに部屋の扉が開き、慌てた看守とウィンドルがウェルデを止めにやってくる。
「ウェルデ、落ち着いて!」
「嘘だ………嘘です…………兄様、お母さまは…………かあさまはぁ…………」
ウェルデは絶望し、怯え切った表情でウィンドルに縋りついた。
何度あの地獄で母に祈ったかわからない。助けてくれと、見守ってくれと。その母が父の残虐性を開花させた人物と聞かされて、心の支えにしていたものがガタガタになる。
「ああウィンドル、久しぶりだね」
「…………ええ、エステアさん」
叔父上とは呼ばず、叔父が婿養子に入った子爵家の名前で呼ぶ。
父はそんなことを気にせず、からからと笑う。
「話には聞いていたけど、君がウェルデをハウタウト家に引き取ってくれたんだって?
しかもありがとね、SEEDの才能まで見つけてくれて。いやぁ、正直安心したよ。リナみたいなことにならなくて」
「何ですって?」
「あ、知らない? 取調官から伝えられたんだけどね、僕が拷問して生き残った子達が揃いも揃って問題行動ばかり起こすようになってね。で、リナって子はウェルデと知り合いだったんだけど、窃盗と薬物使用で少女少年院に入れられたってさ。すごいよねぇまだ12歳なのに」
「あなたがっ…………!」
ウィンドルは腕の中で振るえるウェルデを抱きしめながら、叔父に激昂する。
「あなたがっ! 彼らを歪めた張本人でしょう!? なぜあなたにそのことが伝えられたかわからないのですか! あなたに少しでも、悪いことをしたのだと自覚させ、反省させるためだ!」
「何でわからないかな? 生かしてやるだけ税金の無駄になる連中だったんだから、僕の趣味に充てても別にいいだろう? ああやってリフレッシュすることで、僕はそこそこ社会的な価値もありそうな連中のケアも出来たし、社会的にも個人的にもウィンウィンだったのに」
「あなたはっ…………!」
言葉が通じない。話が通じない。温厚なウィンドルには珍しく、目の前の男への殺意が募る。
だがウェルデが錯乱してしまった今、これ以上この男とウェルデを接触させるのは避けなくてはならない。
「ウェルデ、大丈夫だ。君はこんなやつとは違う。根本的に、あいつは頭が狂っているんだ。君は違う、だから、ウェルデの機体のことも何も心配しなくて――――
「いやいや、SEEDにまで現れたって言うことは、やっぱりウェルデは僕たちの子だよ。容姿は母さんに生き写しだし、考え方も昔の僕そっくりだし」
「黙れ!!!」
「ねぇウェルデ。一度誰かを痛めつけてみなよ。それで本当の自分を受け入れちゃえば、SEEDもよく成長すると思うよ?」
「っ…………!」
腕の中で頭を抱えていたウェルデを立ち上がらせ、ウィンドルは面会室から出ていった。
「やっぱり、親って、良くも悪くもすごく影響が大きいんだね」
ウィンドル殿が、悲しそうにつぶやく。
「僕はウェルデを本当の妹の様にかわいく思うし、僕の両親ももう溺愛って言っていいほどウェルデをかわいがってる。 でも、そんな僕たちがどんな言葉を尽くすより、あんな親の、たった数分間の面会の言葉でも、そっちの方が重くて大きいんだから」
「やっぱどこの国にも、ろくでもない父親ってのはいるもんだねぇ…………」
「どこの国にもって……………?」
「あ、お構いなく。それで、父親のせいでショックを受けた妹さんは? まさか今度は顔を液体窒素で焼くわけにもいかないでしょ」
「うん、それで…………」
父親に会って数日。ウェルデはハウタウト家に来た当初のような怯えようだった。
新しく表れた症状として、鏡を恐れるようになった。いつも身に着けていた、母の写真が入ったロケットも引き出しにしまったままだ。
『容姿は母に、考えは父親に似ている』。そのことがウェルデの心を苛んでいた。
ウェルデはハウタウト家に来てからの数年間、折に触れて自分は母親似であると思うようにしていた。あの父の血を引く自分にもどこか、残虐性のようなものがあるのではないかと怯えて。
自分はあの父親とは違う。自分のこの真の貴族らしさを尊び目指そうとする気質は、あの地獄を耐えるための心の支えにもなってくれた、母から受け継いだものだと。
だがそれを根底から覆され、自分という存在の逃げ場が、どこにもなくなっていた。父に似ていない分、自分は容姿も考え方も、母に似ているのだと、あの父親の血を引いていることへの言い訳にしていた。
だがその母が、父以上の残虐な人物だったと聞いた今、自分は自覚していないだけで父と母の残虐な気質を兼ね備え、SEEDはそれを浮き彫りにしたのではないかと覚えていた。
コンコン
「ウェルデ、入っていいかな?」
「………………はい」
ウィンドルが部屋に入ってくる。その表情は、ウェルデほどではなくとも陰鬱だった。
「さっき、連絡が来て、叔母上の遺品に付いてた指紋と、事件で押収された工具の指紋を調べたって。そしたら…………」
ウェルデにはその答えが分かっていた。そうでなければ、自分の為に心を砕いてくれている兄が、こんなに暗い表情を浮かべるはずがない。
「指紋が一致…………叔母上が、あの工具を使っていたことは、間違いないって……」
「……………………」
ウェルデは口を閉じ、何も言わぬまま俯いた。
妹のそんな姿を見るに堪えず、ウィンドルはウェルデの腰かけるベッドの端に腰かけ、その背中を撫でる。
「兄様…………」
静かな、平坦な声で、ウェルデがぽつりぽつりと口を開く。
「私は…………何なんでしょう? あの親から生まれ、他者を痛めつけることに長け…………私の生きる意味って、何なんですか?」
「それは…………ウェルデ、いくら両親が、その……悪人だったとしても、ウェルデ自身には、そんなに深く受け止めすぎる必要は…………」
「私も同じなんです。あの人達と。SEEDは操縦者の心の鏡です。私も心の底では、誰かを傷つけてみたいって…………思っているんです」
「ウェルデ、それは…………あくまで、絶対そうだというわけじゃ…………」
「逃げ道が、無いんです。兄様」
「え?」
「今までは…………私は、自分がお母さまに似ているのだと思ってきました。あんな父とは似てもつかないって、思いたかったから。でも、その母も、父以上に残虐な人でした。そして私の心も、他者を傷つけたいという欲望が渦巻いていることが示唆されて……。どこにも、『私は残酷じゃない。他者を傷つけたいだなんて思っていない』って言える根拠が、何一つないんです。私の手の届かないところで、何もかもが私を決めてしまって………」
「ウェルデ、それは…………」
コンコンコン
「お嬢様、よろしいでしょうか? お調べになっていたことのお返事が届いたのですが…………」
「…………ええ、入って」
ウェルデ専属メイドのメリッサが、部屋に入ってくる。ウェルデがハウタウト家に来る際、エステア家から共に移ってくれた女性だ。
ウェルデの拷問される悲鳴を聞きつけて通報し、ウェルデ達を助け出してくれた張本人でもある。
彼女は妹の様に大事に思っていたウェルデの傷つき果てた姿に心を痛め、それ以来ウィンドルと同じようにウェルデを支えてくれていた。
「失礼いたします。その、担当の局員に尋ねたところ…………その……」
「構わないわ。言って」
「はい…………」
メリッサがどう上手くはぐらかしたものか逡巡していたが、ウェルデが先を促すと、申し訳なさそうに話し始めた。
「お嬢様と共に救出された3人の少年少女の内、3人ともが非行により度々補導されております。特にリナさんは、盗難と暴行、薬物使用の現行犯で先月から少女少年院に入所しています」
「………………そう」
ウェルデの消え入りそうな声を聴いて、メリッサがそれに負けないくらいの沈鬱な表情を浮かべる。本来であれば、使用人が主たちの前で暗い表情を浮かべるのはあってはならないことだ。
だが、彼女はウィンドルや侯爵夫妻と同じように事情を知っている分、ウェルデが命を張って守った少年たちが皆道を踏み外したと聞いて、それを残念に思わずにはいられない。
「何で…………」
「え?」
黙り込んでいたウェルデが、不意に声を漏らした。
聞き間違え出なければ、その声色は怒りに塗れていて、ウィンドルもメリッサも耳を疑う。
「何で……私でも、耐えられたことが…………」
ウェルデは静かに立ち上がり、メリッサの前まで歩く。
「メリッサ。車を用意して。リナのいる少年院まで、連れて行って」
「え、しかし…………今から向かっても、もう面会時間が……」
「今すぐに。これは命令」
「は、はい。失礼しました」
有無を言わせぬウェルデに威圧され、メリッサが頭を下げて部屋を出る。
不安を感じたウィンドルは、ウェルデについていくことにした。
少年院に着いた時には、時刻はもう夜十時を回っていた。当然、少年院では消灯時間を過ぎている。
しかし、侯爵家の長男と長女が揃って、しかも二人ともSEED操縦者となれば、無下に追い返すことは出来ない。
看守は慌ててリナを面会室まで引っ張ってきた。
「あんた…………何の用よ?」
急にたたき起こされ、不機嫌を隠そうともしないリナが、ウェルデの前に連れて来られる。
「貴女に用があって」
「はぁ? あんたがあたしに何の用があるって
バチィン!
リナが言い終わる前に、ウェルデはリナの頬を思い切り叩いた。
「な……にしやがるテメェ!」
リナは激昂し、ウェルデに殴りかかる。しかし、片や片腕が義手で動かない子供、片やSEED操縦者として養成されたエリート。
ウェルデはリナの拳をいなすと、膝蹴りをリナの腹部に思い切り叩きこむ。痛みにうずくまったリナを、そのまま踏みつける。
「は、ハウタウト様、一体何を……!」
「ウェルデ、何をする!?」
「お黙りなさい。兄様もです」
ギロリ と一睨みするだけで、立ち会っていた看守と職員は、蛇に睨まれた蛙の様におとなしくなる。
SEED操縦者がその気になれば、自分たちなど一瞬で肉塊にされる。
そしてその眼光の鋭さと禍々しさは、同じSEED操縦者であるウィンドルをも釘付けにした。
「あ…………あ…………?」
リナは痛みに涙を流しながら、何が何だかわからないと混乱していた。
ウェルデはそんなリナの髪を鷲掴みにし、自分の目線まで持ち上げる。
「本当に、腸が煮えくり返ります。何故、私が貴女みたいな”愚民“の為に、この身を挺して犠牲にしたのか」
ウェルデは右腕の凍傷を、リナに見せつける。初めてその傷を直視したリナは、喉をヒク付かせた悲鳴を上げる。
「こんな穢れた身の上の私ですら耐えられた痛みに、耐えることもできない愚図が。お前など、助けるのではなかった」
ウェルデは怒り狂っていた。どいつも、こいつも。こんな人間のクズのサラブレッドのような自分が耐えられた地獄を、何故耐えられないのだ。
こんな私ですら、行動は気高く在れた。誰かを救おうとする自分の行為は、正しかった!
なのに、何故こいつらは揃いも揃って、道から外れだ行動をとるのだ。人が命を張って助けたというのに!
リナだけではない。家を出てからここに来るまでに、何人かの人間や車とすれ違った。
今のウェルデには、それら全員が等しく、忌々しく、愚かしく思えて仕方がなかった。
(どうせ、こいつも、あいつも)
傷を負ってでも、正しく在ろうとしない。自分が傷ついただけ、周りも傷つけようとする。
(皆! 皆! 皆!!! ”痛み“一つで道を踏み外すクズのくせに!!!!)
誰もかもが、気持ち悪い。どんなまともそうな仮面を被っていても、痛みを一度与えれば、そこから現れるのは身勝手で、救いようのないクズばかりだ。
こんな穢れ切った自分ですら、痛みに耐えて道を踏み外さずに済んだ。なのに、こいつらはその程度のこともできない。そんな自分にも劣る”愚民”に、ウェルデは激怒していた。
ウェルデは胸の奥底から湧き上がる、怒りと蔑みの感情に任せ、リナの腕を後ろでひねりあげる。
「痛っ…………!!」
「今後、道を踏み外すようなことがあれば、分かるまで痛めつけます」
ギシギシ と、腕が折れる寸前の強さのまま、ウェルデはリナに告げる。
「二度と、規則を破るな」
それだけ言って、ウェルデはリナを突き飛ばす。リナは痛みにうめいていたが、ウェルデはそんなリナに一瞥もくれずに踵を返す。
「定期的に彼女の素行を報告するように。改善されないようであれば、私直々に”躾け”ます」
「え、ええと…………それは、その……」
バチィン!
ウェルデは歯切れの悪い看守にも、容赦ない平手打ちを食らわせる。
「は、はい! おっしゃる通りに!」
看守は自分より頭三つ以上小さな少女へ対して、情けない声を上げる。
「では帰ります。兄様、行きましょう」
ウィンドルの方を一度も見ずに、ウェルデが冷たく言い放つ。
「ちょ、ちょっと待って、ウェルデ」
ウィンドルは慌ててウェルデの後を追いかけ、呼び止める。
「何で、何であんなことを…………! あれじゃ―――」
「あれじゃ父と同じ、ですか?」
言わんとしていたことを先に述べられ、ウィンドルの口が止まる。
「あそこまで、私も堕ちてはいません。こうしている今も、誰かに暴力を振るい、傷つけたということで、吐きそうなくらい胸糞悪い気持ちでいっぱいです」
「じゃあ何で――――」
「兄様」
ウェルデはゆっくり振り返り、ウィンドルにまっすぐ視線を向ける。その冷たく、暗い眼差しに、ウィンドルはこれが自分の妹の目かと戸惑う。
「私は、あの地獄で間違ったことをしたとは、今も思っていません。目の前で誰かが傷つけられていたら、身を挺してそれを救おうとする。兄様が保証してくれた通り、自分の貴族としての行動に、誇りを抱いています」
ですが―――― と、声を落とし、
「それはあくまで、相手が救う価値ある人間だったらの話です。平民でも貴族でも、誰かが傷ついていれば私は分け隔てなく救い出します。けれど、痛みに心を歪ませ、愚かな本性を表し、非行に走る”愚民”ならば――――救う価値は、ありません」
「ウェルデには、我慢できなかったんだろうね。こんなに汚らわしい自分でも耐えられたことに、周りの人が耐えられないことが。周りの人がすべて、自分未満の――――”愚民”に見えて仕方がない」
「つまり普段のあれは、ふるい落としってこと?」
俺はそれまでの話を聞いて、そう想像した。
極論、ウェルデが普段から周囲の人間を傷つけるのは、選別を行っているのだろう。
『この程度の痛みに耐えられないクズ』か、そうでないかを見極めるための。
「うん…………単純に、ウェルデの言う”愚民”が、自分に逆らうなって苛立ちをぶつけている部分もあるだろうけどね。ウェルデに言うことを聞かせられるのは、こうやって”痛み”に立ち向かう姿勢を見せた者だけだ」
ウィンドル殿は、凍傷の残る自分の手の甲に視線を落とす。
「それならそれなりの気概を示せた俺は、そこそこ認めてもらっていいものだと思うんだけど」
鞭に引っ叩かれても泣き言の一つも漏らさず、モールでは親子を庇おうとした俺はそこそこ評価されてもいいと思うのだが。
ウィンドル殿は首を横に振ると、
「君の場合、ウェルデを最も怒らせることを言っちゃったから」
「何て?」
「痛いなら我慢すればいい、って」
「えー…………」
俺は心の底から不満の声を漏らした。だってその通りじゃん。
「痛みをろくに知らない奴が、何を偉そうにって頭に来たんだろうね」
「さいですか…………」
まぁ、例えば病気で死に目に遭った人の前で『病気とか気のせい』とか宣えば、それはご不興を買うことは必至だろう。
「それで、俺にどうして欲しいの?」
これまで妹さんがあんなに性格歪んでしまった経緯を聞いていた俺は、ウィンドル殿のそれを俺に話す理由を問いただした。
「妹を、叩きのめしてほしい」
「そりゃまた」
ずいぶんと直球な物言いに、苦笑してしまう。
「痛みを耐えたからって、偉いわけじゃない。痛みに負けたからって、弱いわけじゃない。妹に、それを理解してほしい」
ウィンドル殿はそこで言葉を切ると、SEEDの管理画面だけ投影すると、俺の機体に宛てて何らかのデータを送ってきた。
「より妹の攻撃に対して特化した、ペインアブソーバのパッケージ。これを使えば、妹の機体の能力での痛みはシャットアウトできる。さらに、本来ならどんな痛みを感じるのかも同時に解析できる」
「つまり?」
「痛がる演技が出来る」
ウィンドル殿はまじめな顔でこちらを向き直す。
「君に対して怒りを覚えた妹は、きっと容赦しない。でもこれを使えば、その攻撃を受けても痛みは感じた振りが出来る。その痛みを堪え、耐え抜いた演技をした上で、妹を倒してほしい。そうすればきっと――――同じ”痛み”にさらされても、共に耐えた者として
、妹は君の言うことにきっと耳を傾けてくれるから」
「なるほど」
つまりウィンドル殿は、俺に妹に勝つだけではなく、妹が耳を貸すような人種になってほしいのだろう。
妹を改心させるのに、少しでも味方を増やしたいわけだ。
「わかった。ありがたく頂くよ」
俺はその意図を理解し、送られてきたパッケージを保存した。
「本当にごめん。妹のためにここまでさせてしまって」
「なぁに。それを言ったら俺は世界中の人に向けて『うちの姉や従姉がいつもすいません』って頭下げなきゃいけないぜ」
俺はどこか遠くを見やりながら、乾いた声を漏らす。
「そ、そうだね……」
そこは肯定すんのかい。
「それに元々使おうと思っていた手だし、構わないよ」
「え?」
「いや、何でもない」
俺はそこで立ち上がり、あくびと伸びをする。
「ま、どこまで力になれるかはわからないけど、やれるだけやってみるよ」
「ありがとう。本当に助かる」
表情の乏しいウィンドル殿が、珍しく頬を緩ませ、俺に手を伸ばす。
「そういうことは、助かってから言いなさいな」
俺はウィンドル殿の手を取り、固く握手する。
「周祐君のファーストネームって、たかあき?」
「そうだよ。読みにくいでしょ」
「うん」
だから肯定すんのかい。
「ありがとう、空映。妹をよろしく」
「何か語弊がありそうな表現だけど…………ま、いっか。お任せあれ、…………ウィンドル」
「うん」
俺はウィンドルと一緒に男子寮の前まで戻り、それぞれの棟への道で分かれた。
「やれやれ」
何とも重苦しい話を聞いてしまったが、同時にしっくりも来た。
あれだけ歪んだご令嬢にもなられるわけだ。
「ま、俺も人のこと言えないか」
さっさとシャワーを浴びようと、俺は階段を上る速度を少し上げた。
すぐ疲れて、かえって遅くなった。
拷問シーンが1番書いていて筆が乗ったので、自分の人間性に悲しくなりました。