あいつがやって来た
以降の、ペストに関する記載は、後書き資料をベースに、低栄養、衛生状態の違いによる混合感染症などを考慮して、死亡率に脚色を加えたものです。死亡率は蚤から噛まれて発生する一次感染(腺ペスト、敗血症ペスト、末期像としての肺ペスト )を80-90%とし、ヒト・ヒト感染である肺ペストは100%と設定しています。
しばらく、あっちこっち出歩きながら、この街についての情報を集めてた。それに、役所でこの国の辺境の情報についてなんかも。うん、島国だった。まあ、いろいろ歴史があって、地域間での戦争もあったが、いまはとりあえず一人の王様の下、1つの国として運営されている。地域対立がないわけではないが、ある程度落ち着いており、差し迫った戦争の危険性は少なそうだ。いいことだよ、しばらくゆっくり過ごそう。あの神様とは会わないよ?まだ、手元にお金あるし。セコセコ動き回らないのが一番。安全だしね!
いつものように、パブで飲んだ後、普通に寝た。最近は、顔なじみになった情報通である「いいやつ」らと馬鹿話する程度だけど、必要経費だよ。いいやつって、褒め言葉じゃないよ。単に私にとって、使えるやつってこどだ。実務では無能だって構わない。むしろ、仕事はできないけど、噂好きで交友関係が広く情報通...っていう程度の意味だよ。まあ、一般的にはダメなやつだね。
気温が上がっていく季節で、少し寝苦しかったこともあったが、枕元の異様な気配を感じて目が覚めた。慌てて、壁際に退避し暗闇に目をこらす。犯罪はまずないことは頭では理解していても、心臓、バクバクだよ...刀どころかナイフすら持っていないから、身を守ることすらできない。その上、非力だし格闘技なんかも知らないからね。なんか悲しくなってきた...
あの神様だった...泣いているよ...なんで?
どうやら、人が死ぬことが気になって、先週ぐらいからちょっとこの世界の様子を気にするようになったらしい。で、1年間に10人1人死ぬぐらいが、大災害という私の報告を元に見てみたら、この国の近くで1年間に半数以上死んでいたことに気づいたんだって。まあ今まで、この程度のことはあいつにとってどうでもよかったらしい。そう、人類が絶滅するような災害じゃないからね。まだ、私はあいつのことを良く分かってなかったようだ...
この国は今の所大丈夫だが、南方の港町でなんか変な気配を感じるらしい。いや、対岸の国は壊滅状態らしいのだが、気が付いたのが遅かったから、もう手がつけられない状態になっている。だから、そちらはいいけど、この国だけはなんとかしたいって泣いていた。いや、そんなことでいいのか?一応、神様だろう?なに、そっちはもともとそれほど信仰心高くなかったのに、ますまく低くなっているから知らないって...おい!まあ、今の私には関係ないし、ほっとくことには同意する。大陸って複雑だからね。面倒ごとに首をつっこむつもりはない。
ていうか、信仰心が低くなったって?いや、それ僧も信者も半分ぐらい死んじゃったから、全体として敬う力が失われ、神としての能力も低下したんじゃないのかな?そう言ってやったら、さらにヘコんだ...まあ、自業自得だ。
確かに、この国でのこの神に対する信仰は篤い、本体を知っている私からすると、異常なほどに。まあそれはいいや。で、症状は?高熱がでて、体の一部がひどく腫れ、精神混乱。血痰をともなう激しい咳をするものや、肌が黒くなった者もいる。で、バタバタ死んでるって...
超大物!キター!!異世界もので、冒険に出て最初に遭遇したのが、ラスボスっていう展開だね。うん、それ、ペストだわ...大災害じゃなくて大惨事だわ。
解った。じゃあ、寝るから帰ってね、私は起きたら北へ向かって旅に出るから。いや、どうしようもないでしょう?なんの権力もない平民だよ。おまけに、なんの特殊能力もアイテムもないんだよ。おまけにここより進んだ世界であった前世でも、まだ流行している地域があるぐらいの病気だよ。ちゃんと読んでよ「冒険なんかしない」ってあらすじにも書いてあるじゃない。泣きつくなよ!寝間着が汚れるじゃないか!!洗濯大変なんだよ、この世界じゃ。せめて、北里柴三郎かA.Yersin連れてこいよ。誰それ?って、まあ、説明めんどくさいからもういいや。
まあ、受けたよ。いや、薄々気づいてはいたんだよ、この世界内で私を転生させることは可能だってことに。容姿も変えて。そりゃ、最初に前世からこの世界に、前世とは異なる容姿で私を転生させることが出来たんだから、この世界内での転生なんて、こいつなら簡単にできるだろうなって。もちろん容姿も変えてね。で、今回の枕元への出現で、それなりの筋に対して動くよう仄めかすことぐらいできるだろうって。確認したら得意げに、他の神には非常に難しいことだが、出来るって抜かしやがった。
だからって、これは私の能力じゃないのが悲しいところ...あくまでも、使い道が極端に制限された神頼みの技だね。だから、もっと修行しろ!そして、私になんか特殊能力よこせよ!
というわけで、筋を書いた。あいつには無理だよ!だけど、自分で危険な冒険はしないからね。他人を動かすだけだよ?死んでも転生させるから大丈夫だって?いやだよ、死ぬのは1度で十分だよ!体力が落ちて、自分の死が近いことを自覚しながら、呼吸するのも苦しくなっていくのを実体験するのは。とはいえ、最後の記憶はないな。ちゃんと家族には意思を伝えていたから、薬で意識を失わされて、眠っている間に最後を迎えたんだろうね。まあ、よかったよ。
うん、多分私は死なないね、この世界では。あいつが利用価値があると認めてくれる限り。で、ある程度年取ったら別の容姿で、この世界に転生させてもらえばいい。その時、私がそう望んだとしたらね。えっ?タイトルと矛盾しているって?いいんだよ、別な視点から見ることも重要なんだよ。だから、死なない私が死にゆく人たちを見届けることで解ることもあるんじゃないかな...きっとそうだよ!
そして翌朝、私は長髭を生やした老人に転生した。この世界の別の国の大きな街で。で、有り金叩いて古着屋で法衣を買う。ボロボロでも法衣は高かったんだよ。さすがに普通の服に比べて、滅多に出ない希少品だからね。おまけに、持っていた硬貨が通じなかったから、金地金の価値にしかならかったし。あいつから奪えるのは、ほとんど銅貨だから、できるだけ金貨や銀貨に両替するようにしていたから助かったよ。金がなくなったのは構わない。そっちの方が威厳がつくからね。ここから必要になるお金は、すべてあの国に払わせるつもりだから、無一文でも問題ない。さすがにタダで食事ぐらい出してくれるよね?
さらに翌朝、王都にそのまま転生。もちろん市外壁の外に。法衣の出元が割れると、具合が悪いからね。だから、別の国で買ったんだよ。すでに、あいつに泣きつかれた夜、すぐにこの国の最高位の神官の枕元で、「二日後に、高僧が他国から王都を訪れる。この国の危機を和らげる助けになるだろうから、厚遇するがよい。」ってささやけって、仕事押し付けておいた。
ただし、決して人命を助けるとは言うなよって、何度も念押ししたよ。無理だよ、まだ抗生物質がないのに。それに、この世界にある魔法って、この事態には役に立たない。いや、全く役に立たないわけじゃないけど、希少な魔法使いを、こんな死のリスクの高いことに投入して、使い潰すわけいかないのよ。ペスト菌に罹患した患者は、もうどうしようもないってことだよ。まあ、まれに自身の免疫機能で回復する者もいるっていう程度だろうね。私がやれることって、被害を減らすのと、社会の再生を速やかにする程度だよ。
なんで、老僧になったかって?それなりの立場になるには、それなりの容姿が必要ってことだ。権威づけって、バカにできないんだよ。教授だとか専門家といった肩書きの付く人の言ったことだと、広く受け入れられるでしょ?その人の社会性とか人間性とか本当の能力とか関係なく、肩書きだけで。いや、本当の専門家であっても、専門バカっていうのいるのよね。非常に狭い領域だけに詳しいっていう人。そこからちょっとでも外れたらダメだったりする。というか、この人社会で生きていけるのか?っていうような人もいるよ。本当はそこまで判断した上で、客観的に発言を評価しなければならないんだけど、そこまでやる人はほとんどいないからね。変えた私の容姿と、この国の最高位神官に私が高僧であることを認識させることで、私を権威付けるという計画だよ。計画は万全だ!
あいつの報告を信じるなら、教会、王宮共に動いてくれているようだ。もっと神として敬えって得意そうに言うから、いまひとつ信用できないんだけど...ただ、あいつが気付いたぐらいだから、行政側もすでに隣国が壊滅的被害を受けているということや、それがこの国にも広がり始めたっていう情報ぐらい、すでに把握していて危機意識を持っているだろうから、なにかあれば大きな動きにはなるだろう。ちょっと突くだけで。うん、大丈夫だよ。多分...
この世界ではまだ、感染症という概念がない。だから、この病気が細菌感染によって起こることは知られていない。悪い空気、要するに瘴気によって伝染するぐらいにしか、認識されていないだろうね。まあ、その瘴気が発生する原因が、星の巡りとか、地震だとかで言い争っている程度だよ、たぶん。パブ仲間の間では、こんな話は全く出てなかったよ。この国では過去にペストが発生しなかったか、発生していたとしても数百年前の話だろうしね。それに、情報の伝達が遅いんだよ。パブで飲む意味がないって?いや、個人で取れる情報なんて高が知れているよ。それでも、情報を取れる確率は高い場所なんだよ。だから、必要経費だよ。いいね、わかったよね?
人の行き来にも時間がかかるのだから、感染が広がる速度はかなり遅いはず。実際、前世でも、数世紀をまたいで感染が伝わっていったんだ。大丈夫、時間はまだある。で、史実として、ペストは前世の社会を変えるような影響を与えたんだ。私が多少、神様の力を借りて無茶やって社会の形が変わったとしても、この世界の進むはずの未来を変えるような結果にはならないはずだよ。この地に今、アイザック・ニュートンがいて、彼がペスト禍の影響を受けなかったため、「創造的休暇」を取らなかったとしても、やはり彼はきちんと業績を残すことができるだろうさ、きっとね。まあ、やれることはやってみよう。ただし、他人の命より我が身が大事だよ!これは譲れない。
予想通り、門に近づいたらずらっとお迎えの方々が並んでたよ。結構、身なりがよく高位と思われるの方々もいた...たった2日で無名の平民から、VIPに格上げだ。すごいよ、権威づけ!筋を書いたのは私だからね、だれか褒めてよ。
で、そのまま王宮へ。これは、行政の問題だからね。神官は最初のとっかかりに利用しただけだよ。まあ、ちゃんと神様のメッセージを伝達するっていう、重要な役割を与えたんだから、彼らの対面も保ったはずだ。適材適所っていうやつだよ。王様にも会えたよ、もちろん短時間だけど。患者を救うことはできないが、他の国で病気が広がるのを食い止め、復興を手助けしたことがある。もちろん、行政の協力とそれなりのお金が必要だが。ただ、放置してこの病気が広がることになると、国が壊滅することもある。そうなれば税収も途絶えるし、国王がこの病気で亡くなったこともある...って、一発だったよ。「よきに計らえ。」って。
まあ、全権委任だね...って、そんな誤解はしないよ。私はあくまでも、他国の高僧だ。この国の人事権も、予算権も持っているわけではない。あくまでも、アドバイザーとして対策を計画するだけ。それを元に、人事権と予算を行使し行動するのは行政側、でそれらの承認は王様もしくは、その権限の一部を委譲された高官によって行われるんだよ。まあ、大元が私の計画なんだから、失敗した時の全責任は私が取ることになるんだけどね。かまわないよそれぐらい、殺されそうになったら、あいつのところに逃げるだけだから。
じゃ、実務の責任者と会議だ!こっちはちょっと長丁場になるぞ!
1) 国立感染症研究所 ペストとは
2) 厚生労働書検疫所 「海外で健康に過ごすために」の感染症についての情報 ペスト
3 )村上 陽一郎著 ペスト大流行 岩波新書