01
魔族の領土にほど近い、山深い渓谷に沿う消えかかった道を、ふたつの人影が歩いていた。
ひとりは青髪でひょろりとした中年の優男。もうひとりは少女と言える年頃で、男よりも少しだけ紫がかった長い青髪を風になびかせていた。どちらも旅慣れているといった風情ではないが、このふたりは確かに、道の向こうから旅をしてきた。
ふたりが背にした方向には、魔族の領土がある。つまりこの二人連れは、魔族領からの旅人ということだ。
「パパ……そろそろ待ち合わせの場所なの……?」
「そうだよ。だからあとちょっとだけの辛抱だ。頑張ったね、ディーレ」
「むり……がんばれない……」
「えっ?」
ディーレと呼ばれた少女は乞うように父を見上げるが、その半眼には光がなく、およそ精気というものが感じられない。
「が、我慢できないのかい?」
「だって……冒険者の人と合流したら……しばらく瘴気浴びられないんでしょ? むり……」
「じゃ、じゃあしょうがないね……パパも覚悟を決めるよ」
肩を落としながらそう言った父親から、本気の落胆は感じられない。体調を崩している愛娘の真摯な頼みを当たり前に聞き届けてやれる程度には、仲の良い父娘なのだろう。
「ありがと……パパ……」
花が咲くような笑みで父親に感謝を伝えた娘は、父の返答を待つまでもなく背にした大斧を体の前に回し、しっかりとその手に握り込んでいた。
「じゃあ……いこ……」
留め帯から抜き放った鉛色の大斧を右手に、左手で父の手を取って引きつつ、少女はずんずんと獣道のような場所を外れて森の中へと踏み入っていく。
獣や魔物、または魔獣といった恐ろしい存在は、魔族領の近くに棲むものほど強力であることはよく知られている。しかしいま父の手を引いて森の中を進んでいく少女には、そういったことへの危機感というものが一切うかがえない。対して父親の方はというと、恐怖に顔をこわばらせ、木々の葉擦れを耳にしただけで「ひぃっ」などと身を竦ませている。
「大丈夫だよパパ……おうちからけっこう離れてるから、もうそんなに強い魔物はいないから……」
「あ、あのね、ディーレ? もう忘れちゃってるのかもしれないけど、パパが冒険者だった頃にひとりで倒せたのは、ゴブリン1匹までだからね?」
「パパが弱いのは知ってる……でも、あたしは強いから大丈夫……」
「た、頼りにしてるからね!?」
なんのかんのと言ってこの父親も、警戒して声を抑えようなどとはしていない。果たしてその騒ぎを聞きつけて現れたのは、5匹のホーンドウルフの群れだった。よく知られたフォレストウルフと比べて三段階ぐらいは格上と言われる「魔獣」だ。
狼たちは威嚇の唸りを上げることもなく、流れるような連携で父娘を取り囲む。そして正面の1体が唐突に吠えかかったその瞬間に、側面と背後の1体ずつが飛びかかってきた。咆哮に竦み上がってしまった父親は、襲いかかってくる気配に一切気づけないでいる。
「ふッ……!」
少女が横薙ぎに一閃した大斧が、飛びかかってくる2体の狼を両断した。その瞬間に周囲の殺気が膨れ上がり、めいめいに咆哮を上げつつ残る3体の狼が同時に飛びかかってくる。正面のものは地を低く走り、側面のものは左右から高さを変えて飛びかかる。
(強くはないけど、賢いね……最初の2体が同じ高さで飛びかかった失敗に気づいてる……)
咄嗟にそう判断すると、少女は父親の足を蹴り払ってその場に転倒させる。
「ぐへっ!?」
打ちどころは悪くなさそうだった父の声に安堵しつつ素早く前に踏み込むと、少女は大斧を軽々と下から上に振り抜き、正面の狼を両断した。素早く振り返ると、父の手に赤い筋が浮かび上がっていた。転ぶときに振り上げた手が、ホーンドウルフの角にでも引っ掛けられたようだ。
「ごめん、パパ……」
申し訳なさそうに声を上げる少女だが、その様子とは裏腹に纏い始めた鬼気のようなものに、残る2体の狼たちは本能的な怯えを感じて身を竦める。
しかし狼たちは素早く決断すると、再び下と上から、同時に少女へと躍りかかった。
さっきと同じように下から振り上げられた少女の大斧は、今度は美しく弧の軌跡を描いて振り抜かれ、狼たちを両断した。
さらなる鬼気を纏った少女の目はいまやぱっちりと見開かれ、髪の色も赤に寄った紫に変じている。よく似た髪色だった父親と並び立てば、その違いは瞭然だった。
「お、終わったのかい?」
「うん、ごめんね……。パパにケガさせちゃった」
「いやいや、さすがにこれぐらいなら、ボクでもかすり傷って言える程度だよ」
「そっか、よかった!」
身に纏う雰囲気や話しぶりが大きく変わっても、花が咲いたように微笑む少女の美しさは変わらないままだ。
「やっぱり、パパの血って興奮するね!」
「あ、ありがとうって言えばいいのかなあ。ハハハ……」
娘が言う「興奮」が、自分の身を案じた瞬間に感じる不安と怒りが綯い交ぜになった感情ということを理解しつつも、それは表現として適当なのだろうかという疑問が拭えず、曖昧に感謝を述べてしまうのはいつものことだった。
「じゃあ、行こうか。本当にあとちょっとのところでガルフたちが待っててくれるはずだから」
「うんっ。ガルフさんって人に会うのが楽しみだよ!」
父の名はダニー・ハウエル。冒険者にあるまじき腰の引けっぷりと、そのくせやたらと好奇心が強いことを揶揄されて【某賢者】との二つ名で呼ばれた男は、頼れる旧友との再会を目の前に、ただ心を浮き立たせていた。
人目につかないよう、街道から少し離れた森の中にひっそりと建てられた小屋に、4人の人影があった。魔族領からの旅人であるダニーとディーレのハウエル父娘と、Aランク冒険者のガルフ、Cランク冒険者のミオという顔ぶれだ。
「元気そうじゃねえか、ダニー。こいつはミオ。Cランクだ」
「ミオと申します。初めまして、ダニーさん、ディーレさん」
「は、はじめまして……ディーレです……」
「こちらこそ初めまして。ダニー・ハウエルです。失礼ですが、ミオさんはガルフの……?」
「ちっ違いますっ!」
ガルフの何だと断言されたわけでもないが、こういう流れでその問いかけが何を意味するのかをさんざん味わってきたミオは、即座に否定する。一方のガルフも、ただ苦笑を浮かべるだけだ。
「な? 言ったとおりだろ、ミオ? 某賢者さんは世間ズレしててデリカシーってもんを持ち合わせてねえからなって」
「ひどいなガルフ。これでも少しは人付き合いしてきたんだよ? 魔族の人たちとだけど」
「ほう? じゃあアレかい、魔族領だとお前みたいな直球バ……もとい、ストレートな物言いのほうが喜ばれるってか」
「いまバカって言おうとしたね!? 確かにこっちにいたときよりは、人の機微みたいなのを気にしないで良くて、楽だったけどね!?」
「弱っちいくせに、おっそろしい魔族領のほうが性に合ってるて、どういう冗談だよ」
「い、いいじゃないか……おかげでクレアと結婚できたんだし……」
「おう。すっかり忘れてたみてえで申し訳ねえな。奥さんは元気なんだよな?」
「うん。むしろクレアが元気すぎるせいで、僕がこっちに戻されちゃった的な?」
「ああ……あの性格のまんまなのか……」
ダニーの妻であるクレアは、生粋の魔族だ。ダニーに勝るとも劣らない好奇心の持ち主だった彼女は、瘴気を取り込み続けないと体調に支障をきたす魔族という身でありながら、迷宮を見物したいという好奇心だけで、瘴気がほとんどない人間の領地にやってきた、怖いもの知らずの女傑であった。
人族に憎悪を向ける一部の魔族とは違い、クレアは人を害することを良しとしない穏健派の魔族だ。しかし性格そのものはとても好戦的で、誼を結んで一時期パーティを組んでいたガルフは、彼女の無鉄砲さをきっかけに生死の境を幾度もくぐり抜ける羽目になったという経験がある。
「しかし、魔族領で内戦ねえ……」
意外やら呆れるやらといった風のガルフの呟きに、ダニーは苦笑を交えて応えるしかない。
「まだ決定的な事態になってないと思うんだけどね……。純血魔族至上主義者たちに強力な指導者が現れたせいで、別種族やハーフへの迫害がちょっとシャレにならなくなってきちゃってさ。ボクみたいに弱っちいのがうっかり目をつけられたら、なかなか大変なことになりそうで……」
「まあ、自分はそいつらと存分にバトルしたいけど、家族はこっちに逃がしたいっていうクレアの気持ちもわかるぜ。お前ホント弱いもんな」
「パパ……よわすぎ……」
「ディーレ!? 弱いのはその通りだけど、パパに向かって『過ぎ』まで言っちゃうの?」
「だって……瘴気がなくて弱ってるあたしが……パパのボディガードやらなきゃいけないし……」
できればパパに守ってもらいたいぐらいだ、という恨み節をこぼす娘。ハーフの身であっても魔族の血を引く彼女が人間界で過ごすということは、相当のしんどさを伴うことらしい。
「ディーレさんに迷宮探索をさせたいっていうのは、そういうことなんですね」
ディーレの事情に思い当たったミオが、愛娘への申し訳なさで気まずい雰囲気しか出せなくなっている父親の意識を、話し合いの場に引戻す。
「そういうことなんです。クレアがこっちに来てたときに、迷宮の中だと体調がよくなることを経験しているので、たぶんディーレもそうなんじゃないかと」
「どうして迷宮の中だと大丈夫なんでしょうか?」
「これはボクの仮説なんですけど――。迷宮の中のマナって地上のものよりも濃いというか、ちょっと違うものですよね? 魔物もたくさんいるせいで、マナに瘴気が混じっているんじゃないかと思うんですよ」
「あー……なんか納得できますね」
「そういやミオは迷宮に入りたがらないだけで、入ったことはあるんだっけな」
「ちょっと誤解がありますよガルフさん。わたしは迷宮に入りたくないんじゃなくて、パーティを組んで迷宮探索に専念したくないだけです」
「あー、そうだったそうだった。なんか迷宮嫌いみたいなイメージになってたぜ」
「む? するとミオさんが、うちのディーレとパーティを組んでくれるというわけではないのですか?」
冒険者ふたりのやり取りを聞いて、少し困惑したようにダニーが問いかける。
「まあこいつのことだから、どうしてもってゴリ押しすれば付き合ってくれるだろうけどな。ディーレの嬢ちゃんと組ませるパーティってのは、そもそも考えてねえんだ」
「へ? それは話が違いませんか、ガルフ?」
「別に違わねえだろ。お前が俺に頼んだのは、嬢ちゃんが迷宮に入れるようにして欲しいってことだろ?」
「ええ、その通りです」
「お前が魔族領で奥さんとよろしくやってる間によ、メリヤスの冒険者ギルドがヘルパーっていう業務を始めてんだよ」
「ヘルパー? それはどういう……?」
「迷宮での注意点や素材剥ぎなんかをレクチャーしつつ冒険に付き従って、いざとなったら迷宮からの生還を確約してくれる助っ人だ」
「生還を確約!? それは……たとえば、第4階層より下でも?」
「相変わらず第5階層は攻略されてねえから、そこまではわからねえけどな。でもまあ、あいつならできるんじゃねえかなあ……」
断定はしないものの確信はしているようなガルフの口調に、ダニーはヘルパーの実力を知らずとも納得してしまいそうになる。冒険者としての実績はへっぽこでも、自分の世代では最強と呼ばれたパーティのリーダーだった男が、ヘルパーという業務に信頼を置いていることが伝わってくるからだ。
「ガルフのおじさん……」
「おう?」
瘴気切れでダウンしてることもあり、難しそうな話し合いは大人たちに任せていたディーレだったが、ここに来て興味をそそられたのか、素朴な疑問をガルフにぶつけた。
「そのヘルパーっていうひと……やさしい?」
「ああ。ふたりいるんだけどな、どっちも優しいぞ。あいつらならたぶん、ディーレ嬢ちゃんのいい友達になってくれるんじゃねえかな」
「……ともだち……!! ガルフのおじさん、ほんとに……?」
「間違いねえよ。あとな、俺とミオも、もう嬢ちゃんの友達だからな。そこは忘れないでくれ」
「ふふっ、そこは大事ですよね。改めてよろしくお願いしますね、ディーレさん」
「……ミオさん……ガルフのおじさん……!」
冒険者たちからの予想もしていなかった告白に、半眼を大きく見開いて戸惑っていたハーフの少女は、やがて花が咲くような笑みを湛えてこう言った。
「――うれしい。ありがとう」




