9話 お兄様が決めて下さい
ジョシュアに学院内を案内したその日は兄に婚約解消のことを伝えなかった。まだ少し、状況と心の整理をしたかったから。兄は何か言いたそうにしていたが、話しかけてくることはなかった。
そして次の日、夕食を終えた私は兄の部屋に赴き、兄に婚約を解消することを告げた。
「お兄様、私婚約を解消することに決めましたわ」
「ほんとか!?エマが自分で婚約の解消を選んでくれて良かったよ」
兄は心から嬉しそうに笑顔を見せた。
ちくりと胸が痛む。これは少しの罪悪感。
これから私は兄に、兄にとっては辛い選択を強いることとなるから。
「ですがお兄様、これには一つ条件があります」
「条件?…どういう条件なんだい?」
兄の嬉しそうだった顔は途端に困ったような顔になった。
「婚約解消後、私が修道院に入ることです」
「…どういうこと?僕はエマを追い出したりはしないよ?」
部屋に充満する不穏な空気。
兄は笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。背筋を這う悪寒と恐怖。
私は恐怖心を奥へ奥へと仕舞い込み、勇気を奮い立たせる。
「お兄様、私やっぱり男性が苦手なのです。もし触れられたら、と思っただけでやはり怖いのです。こんな思いをずっと抱いて今後の人生を生きてゆきたくはありません。だから誰とも結ばれることなく、修道院で神にこの身を捧げて生きてゆきたいのです」
「エマ…僕は絶対君に婚約の話を持ってこさせはしない。男性は近寄らせないし、エマが男性に近づかなければならないような状況は作らせない。だから、だからどうかそんなことを言わないで?」
怖くて兄の目を見ることが出来ない。今は足の震えを抑えるのに必死で立っているのもやっとだ。
兄の目を見ずに床に視線を落したまま私は訴え続ける。
「いいえ、お兄様に手を煩わせてほしくなどありません。だからどうか、修道院に入らせて下さいませ」
「エマ、どうして。君の力になってみせるよ、エマ…」
私も兄も、自分たちの望みを譲らない。このまま話を続けても、平行線を辿るだろう。それが分かっているからか、私も兄も次の言葉が口から零れることはない。
沈黙が部屋を支配する。静かになった部屋の中には互いの呼吸音が響くばかり。
こうなることは分かっていたのだ。
今日の話し合いで解決する問題だなんて思ってはいない。これは私と兄との長い戦いの始まりに過ぎないのだから。
私は落としていた視線を上げ、兄を見て静かに口を開いた。
「…お兄様。このままでは埒が空きません。だから、こうしましょう?」
床に視線を落としていた兄が私を見る。今にも泣きそうな顔は、まるで迷子の子供のよう。
「私と殿下は卒業と同時に結婚する予定となっております。なので私が卒業するまでの間に婚約解消をして修道院に入るかどうかを決めましょう?」
「修道院に入れない、となった場合は?」
「私から殿下に婚約解消を伝えることはありません。殿下が私との婚約解消を望まない限り、私は務めを果たします。」
これは、賭けだ。
私だって結婚などしたくない。だから出来れば婚約解消を望んでいる。
別にヘンリーが嫌いだから結婚したくない訳じゃない。ただ前世のあの兄の唇が触れた感触を、皮膚の泡立つ感覚を拭えずにいる。それを忘れることが出来ない限り、私はきっと誰とも体を重ねることなど出来ないだろう。泣き喚いて拒否をして、相手も私自身も傷付けてしまう。
それにヘンリーには私と結婚するよりヒロインと結婚してほしいと思っている。
逆ハーレムエンドまっしぐらなので難しいかもしれないが、それでも私と結婚するよりはヘンリーだって幸せになれるだろう。
だから、誰とも結ばれたくなどない。
…誰ともというのは嘘だけど、それは望めぬことだから。
それくらいなら、神にこの身を捧げて清いまま死んでゆきたい。
私の今世の目標なのだ。これは譲る訳にはいかない。
賭けに負けたなら、その時は奥の手として婚約破棄を狙うしかなくなる。だけどそれでは虐めや嫌がらせの時間が足りなくなるだろうし、何より兄が何をするか分からない。
私は大好きな『フラジール』のキャラクターたちには幸せになってほしい。全員が幸せになるのは無理だけど、出来るだけ多くのキャラクターに。
だから婚約破棄などされたらヘンリーを忌々しそうにしていた今の兄が何を仕出かすか分からないのが怖いのだ。それは絶対に嫌だからこれは本当に奥の手。
兄にこの2年間で修道院に入ることを認めてもらえるかどうかが勝負だ。
絶対に負けられない、賭けだ。
私は兄の目をしっかりと見つめ、引きつりそうになる笑みを添えて力強く言葉を紡ぐ。
「お兄様は私に幸せになってほしいのでしょう?」
兄は困惑した表情を浮かべながらゆっくりと頷く。
「だから、お兄様が決めて下さいませ。今から卒業までの2年間の間に殿下とこのまま私が結婚するのか、婚約を解消して修道院に入れるのか」
「エマ…?」
私は兄に見せたことのない艶やかな笑みを浮かべる。
「愛しい愛しいお兄様。どうか私を幸せにして下さいませ」
そして私は兄の部屋を出た。兄は苦悶の表情を浮かべていた。
きっと、今の私はとんでもない悪女だ。兄の気持ちを知っていて、兄にあんな顔を見せて無慈悲なお願いをしたのだから。
兄はこれから長い時間を苦しみながら悩むのだろう、自分が妹の幸せの為にどうすべきかを。
自分の幸せを優先するのか、妹の幸せを優先するのか。
だけど私はこの賭けに負けるわけにはいかないのだ。
卑怯だと分かっていても、使える手は使うしかない。
兄の心を救済したいなどと思いながらこんなことをする自分に吐き気がする。
それでも私は、兄と仲良くするのをやめはしない。
これから兄と沢山会話をして、一緒に出掛けて。原作通りにならなくとも、仲の良い兄妹になってゆければと思う。
兄の心を救いたいのも、また事実だから。
私も兄同様、これから長い時間を苦しみ悩んでいくのだろう。
自己保身をしながら、兄の幸せを願いながら。昨日のうちに気持ちの整理をつけたはずなのに、今はまたぐちゃぐちゃだ。泣きたくてしょうがない。
自室に戻った私はなんだか無性にジョシュアの顔が見たくて、彼に言葉をかけてほしくて、手を握ってほしくて。
そんな自分に嫌気が差す。
男性は苦手だと兄に言ったくせに、何故彼だけ嫌だと思わないのだろう。
今は疲れて気持ちがぐちゃぐちゃで、もう考えることは出来なかった。
『なんでこんな風に生まれてしまったのだろう』
凄く昔にも同じように思ったことがあったなと、遠くなる意識の隅で思った。