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8話 婚約破棄ではなく、婚約解消

「婚約解消…ですか?」


 兄の思わぬ発言に顔を顰める。


「今はまだ大丈夫だと思うけど、このままだと将来的に殿下は君に婚約解消を願い出るかもしれない。それくらい殿下は彼女に惹かれていっているよ、本人は隠しているみたいだけどね。エマはこれからも殿下を愛することは出来ないかもしれないんでしょう?だったら殿下が彼女に惹かれていることを理由にこちらから婚約を解消してしまえばいい」


 それは甘い誘惑だった。だけどその先に、修道院での生活はない。

 婚約解消ではなく、婚約破棄されなければ私は修道院に行けないのだから。またすぐに婚約者を宛がわれてしまう。


「お兄様…私は務めを果たすつもりです。だから婚約を解消するつもりはありません。もし婚約を解消したとしても、いずれまた婚約しなければなりません」

「お父様とお母様にエマが婚約しなくてもいいよう僕が説得してあげる。追い出したりなんてしない、エマはずっと家にいていいんだよ」


 そう言って兄は私の手を両手で包む。それはどこか懇願するようで、兄の心からの願いなのだとも思えた。

 兄に触れられた私は体をビクリと震わせる。兄はすぐに気付いて手を放す。


「ごめん、男性は苦手だったね。でもエマ、一度婚約解消について本気で考えてみてほしい。こんなに可愛い僕の妹が婚約者でありながら他の女性に惹かれる殿下を許せないんだ。それに何より、エマが幸せになれないことが、許せない」


 兄は辛そうに顔を歪める。本当にそう本心から思っているのだろう。苦渋の表情にはいつもの優しさも余裕も感じられない。


「…そこまでお兄様が言うのなら、一度考えてはみます。少し、時間を下さい」


 私は兄にそう言い残し、兄の部屋を出た。

 兄の顔を見ずに部屋を出たから最後に兄がどんな表情をしていたのかは分からない。

 だけど、私はあの時兄の顔を見てはいけない気がした。悟らせないようにしていた恐怖心が顔を覗かせそうだったから。





 ◇ ◇ ◇





 次の日の朝、兄はいつも通りだったので私もいつも通りに接した。少しだけ、いつもは浮かべない笑みを浮かべて。それはどこかぎこちない笑みだったが、兄は嬉しそうにしていた。


 学院で授業を終えた後、私はそのまま家に帰らずにジョシュアに学院内を案内していた。そういえばヘンリーもミアが転入してきた次の日に学院内を案内していた。ゲームでの彼との初めての交流イベントだったなあ。


「エマ、そこ曲がって」

「またあの空き教室ですか」

「秘密の逢瀬ってドキドキするよね」

「学院内を案内しているだけのはずでしたけどね」

「僕にとってはエマと2人きりで会うための口実でしかないし」


 本当にサラッととんでもないことを言う男だ。その度に私の心臓が鼓動を早めるのでやめてほしい。

 空き教室に入ると、ジョシュアはいきなり本題に入った。


「昨日はどうだった?仲良くなれた?」

「仲良くなったというよりも、誤解が解けたという感じでしょうか」

「へー誤解?」

「兄は私に嫌われていたと思っていたようで、本当に…精神を病んでいたような感じでした。ゲームの兄を知っていた私としては本当に驚きましたし、同時に申し訳なく思いました」

「エマには前世の兄のトラウマがあったし、仕方なかったんじゃない?」

「確かにそうなのですが…昨日の兄の様子はとても痛ましかった。私のせいで兄をあんな風に変えてしまったのかと思ったら心苦しくて…」


 誤解が解けて嬉しそうな様子だったが、彼のあの淀んだ濁った目はとても恐ろしかった。そして兄をそういう風に変えてしまったのが私という事実が、恐ろしかった。

 私は前世ではどのキャラクターも愛していた。脆くて弱い心を持った彼らを、彼女たちを。その愛すべきキャラの一人であるイーサンを、私が病むまで追いつめてしまったなんて。


「いいかい、エマ。これはどうしようもなかったんだ。そんなに思い悩んでいても仕方がないことなんだよ。申し訳ないと思ったなら今後、彼の心を少しでも救えばいい。君にはその機会があるだろう?」

「はい、そうですね…。そうですよね」


 私はこのゲームを退場する(修道院に入る)までまだ2年の猶予がある。まだ兄と過ごすのは恐ろしくはあるが、少しでも病んでしまった彼の心を救えたなら、私も少しは救われるような気がした。


 ジョシュアに昨日の兄とのやり取りを話した。

 昨日のことを思い出しては体が震える。その間、ずっとジョシュアは私の手を優しく握ってくれた。そのお陰で私はなんとか落ち着きを取り戻し、ジョシュアに話すことが出来た。

 そして婚約解消を進められたことを話すと彼の手が握る力を強くした。


「婚約解消を…?」


 ジョシュアは怪訝な顔をした。兄の妹の溺愛ぶりを考えれば可笑しくはないと思うのだが、何故そんな顔をするのだろう。


「んー思った以上に妹への執着が凄いみたいだね。僕の予想では、エマと仲良くなっていけばイーサンの精神が安定してシナリオがある程度元に戻ると思ったんだけど…。彼もエマと同じだしな…やっぱりこうなる運命だったのか」


 私と同じ?こうなる運命?どういうことなのだろう。

 ジョシュアは私をじっと見つめ、真剣な顔をした。


「エマ、僕はイーサンが婚約解消を進めてきたのなら、婚約破棄ではなく婚約解消を目指していったほうがいいと思う。君が婚約破棄なんてされたらイーサンは何をするか分からない。彼は僕の予想より病んでるみたいだ」

「…では修道院には入れないのですか?」

「イーサンがそれを許さないと思うよ。君が修道院に入るのはどうやら難しいみたいだね…」


 ジョシュアは申し訳なさそうな顔をしている。ジョシュアのせいではないのに。


「そうですか…でも神様、私は修道院に入ることを諦めません。兄を説得してみせます」

「イーサンは執着している君を手放すなんてことはしないと思うけど」

「兄に婚約解消すると伝えて、この2年で私は兄を説得してみせます。そして私のせいで病んでしまった彼の為にも、少しでも彼の心を救ってあげたい。それが私にできるイーサンへの唯一の罪滅ぼしだから。大丈夫、私にはジョシュアがついていてくれるのでしょう?」


 ジョシュアにそう微笑みかければ、彼は嬉しそうに目を細めた。強く握られていた手は、壊れ物を扱うかのように優しく私の体を包み込む。

 なんだか懐かしい。随分彼のこんな優しい顔を見ていなかったな。ふっとそんな風に思った。

 ジョシュアに会ったのは今日で3回目で懐かしいと思うほど彼と交流はなかったし、彼を知らないのに。

 私の心はざわついていた。


「エマ…強くなったね」

「そうですか?それならきっと、ジョシュアのお陰ですね」


 私は私を抱きしめている彼をそっと抱きしめ返した。


「今の君の強さがあればきっと、君は今回の転生で課題をクリアできると思う。大丈夫、僕がいるんだから。君は君の目標へ向かってなすべきことをすればいい」

「はい。頑張りますね」


 ジョシュアは私を抱きしめていた腕を解いた。彼の体温が離れ難く感じた私は少し残念に思う。

 腕を解いた彼を見ると、彼は顔を赤くしていた。


「エマ、そんな顔しないでよ…ずっと抱きしめていたくなる」

「あら、婚約者のいる女性を抱きしめたり口説いたり。神様は危険な遊びが好きなプレイボーイなのかしら?」


 私はこれ以上自分の気持ちを悟られたくなくて、笑って冗談で覆い隠す。


「酷いな、君だから抱きしめるし甘い言葉をかけたくなるんだ。本当に君が婚約していなかったらよかったのに」


 勘違いさせないで。私の魂がこのままでは消滅するかもしれないから、助けてくれているだけなのだから。


「女性には皆にそう言っているのでしょう?」

「君だけだよ」


 ジョシュアはじっと私の目を見つめて愛おしそうにそう言う。だけどジョシュアの顔はどこか辛そうで。私の胸は酷い痛みを覚えた。何が彼にこんな顔をさせるのか。


「まったく、冗談はやめて下さい」

「冗談じゃないんだけどなー」


 その後私たちは他愛無いことを話しながら空き教室を後にした。学院内の案内を終え、ジョシュアと別れた私は家に向かう為馬車に乗る。


 馬車の中でジョシュアとの会話を思い出す。私の今後やるべきことは決まった。

 婚約解消と、兄の説得。そして最後には修道院に入る。

 新たな目標が出来た私は、長い戦いになりそうだなと思った。私のせいではあるが兄の私への執着は異常だ。私が修道院に入るといったらまた兄の瞳は暗く淀むかもしれない。


 それでも頑張ろうと思えるのは、ジョシュアがいてくれるから。

 もし彼がいてくれなかったら、私はまた逃げ出していたかもしれない。命を絶つことはしなくとも何らかの形で兄の手から抜け出そうともがき、兄とこんな風に向き合ってみようなどと思わなかっただろう。


 ―――ジョシュアが神様じゃなければ良かったのに。


 そんな風に思ってしまう。もし神様じゃなければこうして出会うこともなかったし、私を勇気づけてくれることもなかったはずだ。それでも、そう思わずにはいられない。


 何故彼のことは恐ろしくないのか。何故彼に懐かしさを感じるのか。何故彼に私のものではない想いが湧き上がるのか。

 そんな疑問を抱くも、私の捕らわれないはずだった心は彼に捕らわれてしまった。

 憧れとも乙女ゲームをしていたときに湧き上がった愛とも違う想いを抱かずにいられない。もうこの気持ちに気付かないフリなどできない。


 私は人間で、彼は神様で。決して結ばれることなどないはずだ。

 兄はきっと、こんな気持ちをずっと抱き続けてきたのだろう。


 私は兄に対しての恐怖心が少しだけ薄らいだ。

 これはきっと、兄の気持ちに少しの共感を覚えたからなのだろう。



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