6話 作戦会議とイーサンの裏設定
説明ばかりで申し訳ないです。
どくどくと嫌な音を立てて心臓が鼓動を繰り返す。汗が体を貼りつくように流れ落ち、体温を奪っていく。
ジョシュアは今、何と言った?
「僕は君にこれ以上魂を擦り減らして欲しくないんだ。だから、僕は管轄を離れることでこの世界に干渉する権利を得た。君にこうして忠告するためにね」
少し寂しそうな顔をしたジョシュアは、けれどすぐに笑みを浮かべる。先ほどの寂しげな表情など感じさせない笑みを。
「香澄、君はどうする?」
久しぶりに自分の名前を呼ばれた気がする。それもそうだ、この世界に生まれてからはその名前は私しか知りえないのだから。だけど私はもう、香澄ではない。
そして私はどうすべきか。恐怖に震える身体を必死に抑えつけ、私は背をピンと伸ばし、彼に答える。
「私は…変えたい。同じことが繰り返される可能性があるならば、止めてみせる」
「その意気だ」
例え兄が恐ろしくとも、あの忌まわしい記憶のようなことを繰り返すくらいならば私は兄と仲良くなってみせよう。
私の返答に、嬉しそうにするジョシュア。彼が笑うと胸が熱くなる。
「それと、私は香澄ではありません。私にはエマ・セルヴィッジという素敵な名前があるのですよ?」
「それもそうだね。今の君は確かに、エマだ」
ジョシュアに名前を呼ばれると、胸がこそばゆい。しかしそれは、私のものであって私のものではない。この感覚はなんなのだろう。
「ジョシュア、私のことを名前で呼ぶのはおよしになって。ヘンリー様に見られたら勘違いされてしまいます」
「分かってるよ、セルヴィッジ嬢。でも二人きりのときくらい、名前で呼んでもいいでしょ?」
「…仕方のない人ですね」
私はジョシュアのお願いを無下にすることが出来ない。ヘンリーに罪悪感を抱きつつも、いずれは婚約破棄するのだしいいか、とも思う。それにジョシュアに名前を呼ばれると確かに嬉しいのだ。
「じゃあよろしくね、エマ」
「エマ嬢、でしょう?」
「何言ってるの。僕のことだって呼び捨てなんだから君だって呼び捨てさ」
「…それもそうね。分かったわ。ただし今回みたいに2人きりになる機会があった時だけよ?」
「分かってるさ。それにこれから幾らでもその機会はあるだろうしね」
今回はたまたま委員長の私がジョシュアを食堂に案内するという名目があったが、今後はそうそうそういう機会もないだろう。ジョシュアはどうするつもりなのだろうか。
「大丈夫、僕は神様だよ?君と2人で会うなんて容易いさ。それに今後の作戦会議もしなきゃいけないしね」
「作戦会議?」
2人で会う機会を作るのはまあ神様だし確かにどうとでも出来るのだろう。ジョシュアが今回転入してきたみたいに。まったく神様とは便利なことか。しかし作戦会議とはなんなのだろう。
私の疑問に満ちた視線に気づき、ジョシュアは小さく笑いながら答えを述べる。
「君が忌まわしい記憶を二度と繰り返さない為の、作戦会議」
なるほど。理由は分かった。しかし神様がそう簡単に一人の人間に干渉して今後の人生を変えるようなことをしても大丈夫なのだろうか。
ジョシュアは私の疑問に答えるように続きを述べる。
「本当はこんな風に一人の人間に干渉しちゃいけないんだけど、君の場合は魂が擦り減り過ぎてるから特別ね。まあでも本来許されないことだから僕にもそれなりにペナルティあるけど、君が気にすることじゃない。これは僕がやりたくてやっていることだから」
「ペナルティって…大丈夫なのですか?」
「うん、気にしないで。まあ僕にはちょっと…かなり辛いけど、それでもこうするだけの意味はあると思ってる。何より、僕がそうしたいんだ」
困ったように笑いながらそう告げるジョシュアは、何だか今にも泣きそうで。私は思わずジョシュアに伸びそうになる手を抑えつける。
ジョシュアが悲しい顔をすると、私も悲しくなってしまう。
「という訳で、今後の作戦会議をしようか」
私たちは忌まわしい記憶を繰り返さない為に、今後できるであろうことを話し合った。
◇ ◇ ◇
まず今の私と兄の関係は良くならしい。原作では仲の良かったセルヴィッジ兄妹。原作通りの優しい兄と、原作とは違い兄に怯える妹。原作と乖離したその関係が、歪を生んだ。
どうやら元いた世界を管理していたジョシュアは『フラジール』に裏設定があったことを知っているようだった。それは設定資料集にも載せていない設定らしい。新たな『フラジール』情報を知った私は思わずテンションが上がってしまったが、その裏設定の内容を知りテンションは急降下した。
私が知っている原作のイーサンは、1年目に逆ハーレムルートに進みつつもイーサンと交流を深めていくと攻略できるようになる隠しキャラだ。イーサンは家族以外の女性が苦手であり、そのことで深く悩んでいた。両親に頼んで仕事に集中したいからせめて仕事をある程度覚えるまでは、との期限付きで婚約者もつくらないでいさせてもらっていた。
そんな時に現れるのがヒロインである。ヒロインは転入してきたことで遅れている授業の内容を上級生の先輩や先生に補習という形で指導を受ける。その中の指導をする先輩の一人がイーサンだ。
イーサンはこのゲームの攻略対象では唯一のヒロインに一目惚れをしないキャラだ。なのでイーサン単体を攻略するにしても、逆ハーレムエンドを目指すにしてもプレイヤーは苦戦を強いられることになる。
イーサンの行動範囲を把握し、偶然図書室で出会う、偶然中庭で出会うなどしてイベントを起こす。他にも生徒会の手伝いをすることとなるような選択肢を選び、生徒会に所属しているイーサンとの交流の機会を増やす。そして尚且つ好感度の上がる選択肢を選ぶ。そうしてある一定の値までイーサンの好感度を上げておけば、2年目からイーサンルートと逆ハーレムルートが解禁となるのだ。両方のルートが解禁されるまではイーサンにとってヒロインはあくまでもたまたまよく出会う後輩でしかない。
2年目になりルートが解禁されると、イーサンとのあるイベントがある。イーサンは仲の良かった妹が、徐々に冷たい態度をするようになり動揺する。エマは大好きな兄であるイーサンがヒロインと交流を深めるのを良く思っていない。それ故、イーサンに自然と冷たい態度をとるようになってしまっていた。
それに傷ついたイーサンはなんでも話してしまいたくなるような雰囲気を持ったヒロインに相談する。その時にイーサンはヒロインを初めて後輩ではなく一人の女性として認識し、少しの好意を抱く。その後はイベントをこなして好感度を上げていけばイーサンがヒロインに恋に落ちていく。
初めて家族以外の女性で苦手に思わず、好きになって恋をしたイーサンはヒロインが卒業と同時にヒロインと婚約し、1年後にヒロインと結婚。これがイーサンルートでのエンドとなる。
実は私エマ・セルヴィッジはイーサンルートでも恋の障害となるのだ。
女性が苦手なはずの兄がヒロインとは普通に交流している。そしてヘンリーが彼女に惹かれていることに気付いていたエマはヒロインが気に入らない。そんなヒロインに大好きな兄をいずれとられてしまうと思ったエマは、イーサンに徐々に冷たい態度をとるようになってしまい、次第にヒロインに嫌がらせや虐めをするようになる。そしてエマはヘンリーにも家族に見限られ、修道院に入れられてしまう。
それが私が『フラジール』をプレイし、設定資料集を読んで知っていた情報だった。
しかしジョシュアがくれた裏設定の情報は、喜びと同時に私に恐怖心を抱かせた。
イーサンに婚約者がいなかったのは、妹が好きだったから。
それをジョシュアから聞いた時、私は恐怖を感じたのと共に納得もした。女性が苦手だという理由だけで婚約者をつくらないでいられるようなものなのだろうかと、前世の時から思っていたからだ。
好きな人がいた。そしてそれは結ばれることのない妹。イーサンは妹との時間を少しでも多く過ごすために婚約者をつくらずにいたのだろう。そして妹が好きなのに婚約者をつくるのは彼には耐えられないことだったのだろう。
イーサンルートではそんな妹に冷たい態度をとられるようになり深く傷ついたイーサンがヒロインに相談し、少しずつその傷を癒していく。結ばれることのない不毛な恋をしていたイーサンの傷を癒してくれるヒロインは、イーサンにとって一縷の光のようなものだったのではないだろうか。
そしてその光は新しい恋を運んでくる。
そう考えればパズルのピースがカチッとはまったかのように全てが納得できる。
イーサンは妹に幼い頃から恋心を抱いていた。それは幼いながらもいけないことだと分かっていたイーサンは、良き兄であろうと努めて過ごした。結ばれなくとも、妹が自分に寄せる好意が自分とは違うものだと分かっていても、好意を寄せてくれていることでイーサンはその恋心を抑えつけることが出来ていたらしい。
しかし私と兄はそういう関係を築いてきてはいない。故に、歪が生じた。
兄は恋心を抱いている妹にずっと怯えられ、酷く傷ついてきた。そのことで心を少しずつ病んでしまっているらしい。そしてその気持ちを抑えることが出来なくなってきている可能性がある、ジョシュアはそう言った。
私は前ほどではないにしても今でも兄を見ると目は濁り、怯えてしまう。これでは歪が生じて当たり前だ。
私はトラウマだったとしても、兄と仲良くすべきだったのだ。
私は原作通り兄に冷たい態度をとるべきだと思ったが、ジョシュアはそれは悪手だと言っていた。
ここまで歪んでしまった私と兄との関係は、もう原作通りにはなりえない。これ以上冷たくすれば兄は何をするか分からない。それこそ忌まわしい記憶が繰り返される可能性が高くなる。
そして今はその可能性が高くなっているらしい。だからこそ、兄と仲良くすべきなのだと。しかし恋している妹が急に仲良くなろうと歩み寄ってきたら、病んでしまった兄は自分の想いを妹に吐露せずにいられるのだろうか?気持ちをぶつけずにいられるのだろうか?
そしたらジョシュアはその疑問に答えてくれた。
「イーサンは妹が好意を寄せてくれれば自分の恋心を抑えることができる。その設定は生きてるから仲良くなるのは決して悪い選択ではないよ。シナリオが歪んでるから確実にとは言えないけど、少なくとも襲われたりはしないんじゃないかな?」
恐ろしい答えではあるが、襲われないであろうことに安堵する。もうあんな経験をするなど、二度とごめんだ。
そして私は一つ疑問に思っていたことを聞いてみた。
「今私の救世主ミアは逆ハーレムエンドを目指しているみたいなんだけど、もう3年目だしイーサンはミアに惹かれているんじゃないのかしら?」
兄は順調にミアに攻略されているように見えた。兄とミアの交流している場面によく出くわしたし、仲も良さそうだった。
けれどジョシュアは首を振る。
「ゲームのヒロインは突然冷たくなった妹に動揺して傷ついたイーサンだったから攻略できたけど、この世界のイーサンはヒロインが入り込む心の隙間を持たない。ゲームではね、傷を癒してくれたヒロインにイーサンは惹かれていったでしょ?今のこの世界のイーサンの傷はヒロインには癒せない。それ程深くイーサンは傷ついてる。癒せるとしたら、傷つく原因となった妹である君だけだね。だからルート通り攻略されているように見えても、心は君にしか向かっていないよ。多分、ヒロインと仲良さそうにしているのは少しでも君に嫉妬してほしいんじゃないかな?」
恐ろしい事実に身が竦むようだった。私は兄はミアに惹かれているのだと思っていた。裏設定を知ったときも、それでも逆ハーレムルートを進んでいるようだったし、間違いなく傷を癒されミアに好意を抱いていると。
まさか今も妹であるエマが好きだなんて。
だからこそ神様であるジョシュアがこうして忠告しに来てくれたのだろう。
「これで分かったでしょう?イーサンとの関係を変えなきゃいけないって」
私は頷き、恐怖で震える身体を自分の腕で抱きしめた。
兄と、仲良くならなければならない。忌まわしい記憶を繰り返さない為に。
だけどやっぱり、それは怖くて。
すると突然、ジョシュアが私を抱きしめた。
「大丈夫、君なら出来るよ。きっと大丈夫。それに僕がいるんだよ?こんなに力強い味方がいるんだから安心して兄と向き合えばいいさ」
ジョシュアの言葉に私は強張った体が少しずつ和らいでいくのを感じた。ジョシュアは勇気づけるために私を抱きしめてくれたのだろう。その温度に私の体も熱を取り戻す。
「ありがとう、ジョシュア。だけど婚約者のいる女性を抱きしめるなんてどうかと思いますわ」
「破棄される予定だからいいんだよ」
私とジョシュアは笑い合い、昼休みを終えた。結局食堂に向かうこともなく食事もとれなかったが、何故か私はジョシュアを食堂まで案内してついでに一緒に食事をとったことになっていた。
神様の力は事実をも捻じ曲げる。本当に便利な力である。
その後は授業を終え、家に向かう為に馬車に乗った。馬車の中でジョシュアの体温を思い出し、頬が熱を持つ。あの私ではないような感覚もあるが、これは紛れもなく私の気持ちのせい。
私はその気持ちの名前に気付かぬよう兄のことを考えた。家に帰ればまた兄と顔を合わせることとなるだろう。そして私はこの日から、兄との関係を改善するために仲良くしなければいけない。
だけど大丈夫、私なら出来る。私はそう自分に言い聞かせる。私にはジョシュアだっているのだ。
忌まわしい記憶の再現を回避し修道院に入るべく、私は覚悟を決めた。