14話 貴方だけ
頭がガンガンと響くように痛い。ぼんやりとした頭で目の前が暗いなと思っていたら、瞼を閉じていたらしい。ゆっくり瞼を押し上げると、薄く光が差し込んでいた。
私はあの夢から覚めた気がしていない。夢の中で意識を失ったが、どちらかというと失ったというより私から私へ意識が移ったという感覚がある。目が覚めたという感覚はないが、体は寝起きのようにとても重い。どうやら私は確かに今まで眠っていたようだった。
朝、だろうか。部屋に注がれる光はまだ薄暗く、いつもは寝ているはずの時間帯に思える。
重い身体を起こすと肩から髪が流れる。髪はよく見慣れたプラチナブロンドだった。
ああ、そうか。
あの夢の世界から現実に戻ってきたのか。
だけどそう思う自分に違和感を感じる。
戻ってきた?
夢の内容を思い出そうとぼんやりとした頭を必死に働かせる。まだ夢の中にいるような、ここが現実ではないような違和感を感じる。
自分の身体なのに動かす度に違和感を感じ、奇妙な引っかかりを覚えながら鏡台へと向かう。鏡を覗き込んでみるとよく見知った顔がそこにはある。
泣き腫らして赤くなった目元も気にならないくらい艶めかしく、まだ少し潤んでいるエメラルドの瞳と左目の下にある泣き黒子は彼女の色香をより際立たせている。
香澄という少女の記憶を背負っている、美しい少女から艶めかしい女性へと花開いたエマ・セルヴィッジという人間、それが私。
違和感を拭えぬまま眠っていた前の出来事を思い出す。
そうだ、お兄様に修道院に入ることを認めてもらったのだった。その後急に頭が痛くなってそのまま意識を失ったのだ。
霧がかかっていたかのようにぼんやりとしていた頭は突然、霧が晴れたかのように急速に動き出す。
思い出した。
私は荒川香澄であり、エマ・セルヴィッジであり、サラなのだ。
戻ってきたのではなく、それぞれ分散されていたものが混じり合い、一つになったのだ。だけど戻ってきたと言えなくもない。確かにサラの記憶が私の中に戻ってきたのだから。ある意味、元に戻ったのだろう。
今まで感じていた違和感はなくなり、身体はもう馴染んでいた。
どうして突然サラの記憶を取り戻したのかと鏡台を眺めながら考えていたら一つの結論に辿り着いた。
私は多分、魂の課題を達成したのだろう。
そして最高神が課題を達成したら神様に戻るために記憶が必要だと判断し、そういう細工をしていたのだろうと思い至った。
課題は恐らく、兄との和解。
サラの記憶を取り戻した私には今まで転生して歩んできた人生の記憶も流れ込んできていた。沢山ある人生の幕を下ろすのは、いつも私。
きっかけはいつも兄。どの人生においても私は兄に好かれていた。それは家族としてではなく、恋愛対象として。
そして兄は私に好きな人が出来るといつもそれに一番早く気付き、私の気持ちなんて構わずに私に自分の気持ちをぶつけるのだ。私はサラの頃のように兄に襲われた。そしていつも途中で理性を取り戻した兄が後悔して謝るのだが私は兄の謝罪を受け入れない。兄に向き合うことはせず、拒絶して自ら命を絶つという形で逃げ出す。どの人生でもそれを繰り返していた。
それを断ち切ったのが、今回の人生だったのだ。
私はイーサンと向き合い、和解している。
今までの人生では拒絶して兄に向き合おうとなどしていなかった。襲われたショックでとても兄と向き合う気になどなれなかったからだ。
今回課題を達成出来たのは、記憶の引継ぎとジョシュアの存在があったから。前世の記憶がなかったら、ジョシュアが忠告してくれなかったら私はまた兄に襲われ自ら命を絶っていただろう。
ジョシュアは人間に堕ちてからも傷つき続けて消滅しかけていた私の魂を、私を救うためにこの世界に干渉してくれたのだ。たとえペナルティを課せられても。
ペナルティのことを聞いた時内容は聞けなかったので分からないが、ジョシュアは泣きそうな顔をしていた。きっと、彼にとってとても辛いことなのだろう。
それでも、ジョシュアは私を助けにきてくれたのだ。
そのことに気付いたとき、私はまた涙を流していた。胸と喉が強く締め付けられて小さく嗚咽が漏れる。
苦しくて涙が止まらないはずなのに、締め付けられた胸に湧き上がってくるのは暖かい、ずっとずっと前から抱いていた気持ち。
ジョシュアは優しいから、私が人間に堕ちてからもずっと心配してくれていたのだ。そして消えかけていた魂を失わせない為に私が課題を達成できるよう助力してくれていたのだ。
私がサラだということにはきっと気付いていたのだろう。だけど恐らく最高神から私が神様の頃の記憶を忘れさせてほしいと伝えたのを聞き、私が思い出してしまわないように私がサラであることに対して知らないフリをしていてくれたのだ。
私は鏡台から立ち上がってドアへと向かう途中で崩れ落ちた。身体全体が重く、震えが酷くて動かない。
会いたい、今すぐジョシュアに会いたい。
動かない体を這わせ、ドアに近づく。
ジョシュアの濡れ烏の美しい髪を、鮮やかな紫紺の瞳を、優しく微笑むあの顔を見たい。私を優しく励まして慰めたあの声を聞きたい。震える身体を包み込んでくれた、あの体温を感じたい。
サラはジョシュアに恋をしていた。
香澄もジョシュアに恋をしていた。
全てを取り戻した私はまた、彼に恋をした。
ずっと伝えられなかったこの気持ちを伝えたい。
ジョシュアが恋しくて愛しくて。
湧き上がる想いは涙と共に溢れてとまらない。
ずっと、ずっと好きだったの。
貴方が私に優しく笑いかけてくれるのが。
貴方が優しく頭を撫でてくれるのが。
貴方が私の名前を呼んでくれるのが。
それだけで、私は幸せだった。
貴方をずっと、愛しているの。
記憶を失っても、私の心はずっと貴方に捕らわれていたの。
記憶を取り戻してからも、それは変わらない。
捕らわれたまま、貴方に焦がれてやまないの。
転生する度に何度も好きな人が出来た。
それはジョシュアじゃない、別の人。
だけど恋をしたのは、貴方だけ。
愛したのは、貴方だけ。
ジョシュアへの想いが強くなるほど漏れる嗚咽は大きくなり、堪えきれなくなった私は遂に大声を出して泣いた。息が出来なくなりそうなくらい苦しくて、私は手を強く握った。爪が掌に食い込み血が流れる。それでも苦しさは増すばかりだった。
私の泣き叫ぶ声に気付いたのか、屋敷の中が騒がしくなる。しばらくすると両親と兄が私の部屋に入ってきた。私は床に顔を伏せたまま泣き続けているので家族の顔は見えないが、困惑しているのが伝わってきた。兄だけは何かに気付いたのか私を抱き上げてベッドに運んだ。
「エマ、どうしたの?」
優しく話しかけてくる兄の声に少し落ち着きを取り戻したが、相変わらず嗚咽が漏れるばかりで言葉が声にならない。兄は私を子供をあやすように撫でてくれた。
「大丈夫。急いで言葉にしなくていいよ。ゆっくり、ゆっくり息をして」
言われた通りに息をしようとするが苦しくてなかなか呼吸が出来ない。喉がずっと引っ張られているようで痛い。まともに呼吸が出来ない間も、兄は優しく私の頭を撫でてくれていた。
しばらくしてやっと呼吸が出来るようになってきた私はヒリヒリする目を開けた。兄は心配そうな顔で私を見ていて、兄の後ろには兄と同じような顔をした両親がいた。
「エマ…落ち着いた?」
「……はい」
喉が痛い。鈴が鳴るように美しかった声は掠れていて私が泣き叫んでいたのを思い出させた。
「ごめん、なさい。突然泣いたりしてしまって」
「大丈夫だよ。子供の頃みたいに怖い夢でも見た?」
「…はい」
ある意味、悪夢を見た。それは失っていた記憶を思い出したに過ぎないのだけれど。
家族になんて説明すればいいのか分からないので大人しく頷いた。
「お父様、お母様。あとは私がエマを見ていますから大丈夫です」
「エマ、本当に大丈夫?」
両親が心配そうに私の顔を覗きこんでいる。私は小さく頷いた。
「ごめんなさい、こんなに騒がしくしてしまって。でももう大丈夫です」
「そう…。辛くなったらいつでも私たちに言いなさいね?」
「はい、お父様お母様」
暗かった幼少期を支えてくれた両親は、変わらず優しかった。
私がここはゲームの世界だからシナリオ通りに優しさを注いでくれていたのだと思っていただけで、元々両親は兄と同じで香澄をずっと心配していてくれたのかもしれない。前世の私を見せても受け入れてくれていたのだ。きっとそうなのだろう。
今まで気付かなかった優しさに気付き、また涙が頬を伝って枕に染みていった。
両親が部屋を出ていった後も兄はずっと頭を優しく撫でてくれていた。その手があまりにも優しくて、私は思わず笑ってしまった。
「なんだか子供の頃に戻ったみたい」
「ふふ、そうだね。でもあの頃と違ってエマは怯えないし泣き叫ばなくなったみたいだけど」
前世を引きずっていた幼少期、私はたまに悪夢に魘されていた。夢の内容は香澄のあの忌々しい記憶だった。その度に私は泣き叫び、家族を心配させた。
悪夢を見ると必ず兄が私の部屋にきて私の頭を撫でてくれてた。だけどその時の私には”兄”という存在自体が恐怖でしかなく、兄が私の頭を撫でる度に怯えて更に泣き叫んだ。
「それは…ごめんなさい」
「気にしないで。当時はちょっと傷ついたけど、今はどうして怯えていたのかも分かるから。知らなかったとはいえ、エマを怯えさせてしまったことに変わりはないよ。僕こそごめんね」
「お兄様は謝らないで。私に問題があったのだし、それに私はお兄様を確かに傷付けたわ。それにね、お兄様がどんなに怖くても、触れられて不快感を感じても、私はどうしてもその手を振り払えなかったの」
「…どうして?」
優しい優しい、私を撫でる兄の手。
それはどんなに恐怖に怯えていても、とても懐かしく愛おしい思い出を記憶から掬い上げる。
「前世でね、ちょうど悪夢に魘されていた頃の私と同じくらいの年の頃かな?私は夜なかなか眠れなくて、隣に寝ていたお兄ちゃんがそんな私に気付いて眠るまで頭を撫でてくれたの。そうすると私はいつも安心して眠ることができたの」
自然と口調がエマではなく香澄と同じものになっていた。だけど泣きすぎて頭痛がする私は痛みに気を取られて気付かない。
「そのお兄ちゃんの手と、同じ手だったから」
「…そっか」
兄はとても柔らかい、優しい笑みを浮かべていた。
「エマ、眠るまで僕が撫でているからもう一度眠るといい」
「でも学院に行かなくては」
「そんな顔では学院には行けないだろう?」
確かに泣きすぎてぐしゃぐしゃになった今の私の顔はとても人様に見せられるものではない。
登校すべき時間までに目元の腫れは引いてくれないだろうし、声もきっと掠れたままだろう。
「今日はゆっくり休みなさい。きっと今は、心の整理が必要なはずだから」
心の整理?どうして兄はそんな風に思うのだろう。
だけど疑問は言葉にならずに思考の海に沈んでいった。
優しく優しく頭を撫でる兄の手は、私に休息を運んでくる。
頭の痛みは意識と共に遠のいていき、私は安堵と安らぎに包まれて目を閉じた。
兄が何かを呟いている気がする。
だけどその言葉を聞き取る前に、私の意識は深く沈んだ。
◇ ◇ ◇
「ゆっくり眠って、心を休めて。大丈夫、きっと悪夢はこれで終わりだ」
イーサンはエマが眠りについたのを確認すると撫でていた手をそっと離した。
エマを愛おしそうにしばらく見つめ、ベッドに腰かけていた体をゆっくりと立ち上がらせる。
「君をこんなに苦しめてしまった。不甲斐ない兄ですまない、サラ。どうかゆっくり休んでおくれ」
エマが起きないようにイーサンは静かに部屋を出た。




