11話 兄の答え
秋の終わり、木々についていた葉が地に落ちて寒々しい姿になった頃。
朝からそわそわしていた兄は、覚悟を決めた顔で私に話があるから今日の夕食後に部屋に来てくれと言った。
ドクドクと胸の鼓動が早くなり息が苦しくなる。
兄は、遂に決めたのだろう。
私を修道院に入れるのか、それとも…。
この日は兄の答えが気になって学院ではぼーっとして過ごしていた。ヘンリーや友人たちに話しかけられても曖昧な返ししかできず、卒業課題にも集中して取り組むことは出来なかった。
私は体調が悪いからと学院を早めに早退させてもらった。今日は何をしていても兄から話を聞くまでは集中できそうになかったからだ。
ヘンリーや友人たちが心配してくれていたが曖昧に言葉を返した記憶しかない。それくらい、私の頭の中は兄のことで一杯だった。
帰り際にジョシュアが心配そうに私を見ていた。彼と目が合った私は力強く彼を見た。これから戦にでも行くのかという私の視線にジョシュアは察したようで、優しく微笑んでくれた。
大丈夫、やれることはやった。
明日になったらジョシュアにきちんと結果を伝えよう。どんな結末になったとしても、きっと彼は私をまた励ましてくれるだろう。
私は家に帰り、自室に籠って兄が帰ってくるのを待った。
夕食の時間になり食事を済ませた。私も兄も今日の夕食の時間は言葉少なく、この後に大事な話が待っているのだと嫌でも感じた。
兄が部屋に戻ったのを確認してから私は速足で兄の部屋に向かう。
震える手でドアをコンコンとノックする。
「…お兄様、よろしいですか?」
「ああ、入りなさい」
これから何を話すかを分かっているから、声が硬くてもいつもと変わらぬやり取りをすることに安心する。
ドアを開けて兄の部屋に入る。相変わらず読みかけの本が置いてある。
「…」
「…」
向き合う形で椅子に座り、無言になる。緊張感の漂う室内にはただ静寂だけがある。
私も兄も、なかなか言葉を口に出さない。いや、出さないのではなく出せないのだ。一度口に出したらもう、戻れないのだから。
「…お兄様、遂に決めたのですね」
「…ああ、決めたよ」
兄の声には悲しい色が感じられた。その悲し気な声に思わず兄の顔を見れば、悲痛な顔をした兄が私を見ていた。
「僕は…僕はエマに幸せになってほしい。だから…修道院に入るのを認めるよ、エマ」
兄がそう告げた瞬間、私の胸の中には喜びが湧き上がった。
これで私は誰とも結ばれずに綺麗なまま死んでゆける。
私は、賭けに勝ったのだ。
ガッツポーズをしたくなるのを必死に抑えて改めて兄の顔を見る。
泣きそうな顔で悲痛に顔を歪め、床を見ている目には薄く涙の膜を張っていて今にも涙が零れ落ちそうだった。
喜びに溢れていた気持ちがスッと消えていき、芽生えるのは少しの罪悪感。
兄をこんな顔をさせてしまう程苦しめてしまった、その事実に対しての罪悪感。
「ではお兄様、婚約は解消致します。長い間悩ませてしまい、申し訳ありませんでした」
私は兄に心から謝罪をした。
「いや、いいんだ。これでエマが幸せになってくれるなら…」
「お兄様、私きっと幸せになります。殿下との婚約解消後は修道院で慎ましく暮らしてゆきたいと思います。本当に…ありがとうございました」
深く深く感謝を込めて兄に礼をする。
色々な思いが胸に渦巻く。それは混ざり合って涙として私の目から零れ落ちた。
今まで我慢していたものが決壊したのを感じる。床を濡らす雫には、私がこの世界に生まれてからの沢山の思いが染みていった。
「エマ?」
困惑した兄の声が聞こえる。いきなり泣き出した妹に驚いたのだろう。
だけど私はなかなか溢れだす涙を止めることが出来ない。
この世界に転生してからは前世の私はほぼ前面に出すことはなく、ずっと「エマ」として生きてきた。
修道院に入ることを目標にしていたからだ。そしてそれが叶うこととなった。
そしたら隠してきた香澄の思いが溢れ出てきてしまった。
「ごめんなさい、お兄様。私ね、お兄様私ね。生まれてからずっと、修道院に入ることを目標として生きてきたのです。だからそれが叶うのが嬉しくて…だけどお兄様を苦しめてしまったことは後悔していて…」
今まで思っていたことが口から感情と一緒に零れ落ちる。
言いたいこともまとまらず、子供のように兄に話しかける私はさぞ滑稽な姿をしているだろう。
それでも兄は黙って真剣に聞いていてくれた。
私は兄に婚約解消の決断を委ねてからずっと考えていたことがある。
前世のことを、兄に話すべきかどうかだ。
だけど今日兄がこうして決断してくれたのだ。あんな痛ましい姿を晒してまで。
私も決断しよう。
「私どうしても結婚したくなかったの。男の人が怖くて…殿下もお兄様も怖かった。いつか、私を熱を含んだ目で見るんじゃないかって思ったら怖くて震えてしまって。手が触れそうになると恐怖で体が冷えていくんです。お兄様は兄妹だしそんなことないって思っても、そう思えなくて」
兄は体をほんの少し震わせていた。
「ねえ、お兄様。前世って信じる?」
唐突に可笑しなことを言いだす妹に対し、兄は笑うこともせず真剣な顔をしたままだった。
「それは…男性が苦手なことと関係があるのかい?」
「はい」
察しのいい兄は私が言う前に言いたいことを口にしてくれた。
「お兄様に、聞いてほしいお話があるのです」
◇ ◇ ◇
私は兄に荒川香澄として生きていた頃の話をした。香澄がどういう人間だったか、家族とはどういう仲だったのか、学校ではどんな風に過ごしていたのか。そしてこの世界が私の好きだったゲーム『フラジール』の世界で、私はある程度自分の人生の先の展開を知っていたことも。香澄という少女に関すること、この世界のことは全て話した。
兄の気持ちを私が知っていることも。
私が兄の気持ちを知っていると言ったときの兄はこの世の終わりみたいな顔をして狼狽えていた。そんな兄の手をゆっくりと握ると、兄は驚いてしばらく固まっていた。触れることも恐れていた私が自分から触れてきたことに驚いたのだろう。だけど私自身も驚いた。手が勝手に動いていたのだ。
落ち着きを取り戻した兄に、私は香澄がどんな最期だったのかということも伝えた。
私の最期を聞いた兄は酷く辛そうな顔をして、私の手を強く握り返した。私と兄も辿ることになったかもしれなかった出来事。兄は今、何を思っているのだろう。
前世のことを話している間に私は今までイーサンを「兄」としか見ておらず、イーサン個人をきちんと見ていなかったことに気付いた。前世の兄にどこかで重ねてしまっていたのだろう。
兄の目をしっかり見つめ、思いの丈を打ち明けた。
「お兄様…いいえ、イーサン。私はこの前世の記憶のせいで貴方を随分苦しめてしまいました。沢山優しくしてくれたのに、愛してくれたのに怖くてずっと向き合えなかった。イーサンはイーサンなのに、前世の兄にどこか重ねてしまっていたの。これは私の弱さ故です。本当にごめんなさい」
私は「エマ」ではなく「香澄」としてイーサンに謝った。
「沢山傷ついただろうし苦しんだと思う。今更謝っても許されることではないかもしれない。それでもずっと謝りたかった。ごめんなさい。イーサンの気持ちには答えられないけれど、愛してくれてありがとう」
もしかしたら前世のことなど言うべきではなかったかもしれない。イーサンはこの話を信じてはいないかもしれない。
それでも妹への恋心を必死に押し込めて修道院に入ることを選んでくれたイーサンには本当のことを知ってほしかった。香澄の暗い記憶を背負って生きていた私を愛してくれたイーサンに、隠し事はしたくなかった。
「エマ…正直驚くような話ばかりで心の整理がまだつかないけど…」
困惑していたイーサンは私の目を見つめた。
淀みも濁りもない彼の瞳は、私と同じ美しいエメラルドのように輝いていた。
「僕はその話を信じるよ。その話の通りだとすると色々と疑問に思っていたことが解消されるしね。エマが必要以上に僕に怯えていたのも…納得した」
悲しそうに微笑むイーサンに私は慌てて謝罪する。
「本当にごめんなさい!お兄様は全然悪くないの!私に問題があったのだから」
「いや、そんな体験をしていれば怖がるのも無理はないよ。それに僕のその…君を想う気持ちも途中からといえど知って恐ろしくないわけがないだろう、前世でそんなことがあったのだから。それでもこんな風に僕を受け入れてくれていることが僕は嬉しい。ありがとう」
優しく私の手を撫でて困ったように笑ったイーサンは、少し悩んでから徐に私を見た。
「…ねえエマ。僕が兄じゃなかったら、君は僕をひとりの男性として愛してくれた?」
突然の言葉に体が硬直した。どういう意図を持ってイーサンは私にこの言葉を投げかけたのだろう。
だけど真剣な顔をした彼に、私も少し悩んでから正直に思っていることを答えた。
「…可能性としてはあったと思います。イーサンはとても優しくて愛情深い人だと私は思っています。だから、もし兄でなかったなら、私がイーサンをひとりの男性として愛していた未来もあったかもしれません」
「そっか。そっかぁ…」
イーサンは柔らかく微笑んでいた。憑き物が落ちたような、晴れ晴れとした笑みだった。
「僕はこれほど君と血が繋がった兄妹であることを忌々しく思ったことはないよ」
「でも私はゲームの「エマ」ではありませんよ?」
「僕はそのげーむ?というのは良く分からなかったけど…僕が愛して好きになったのは、カスミという少女の記憶を持ったエマだよ」
「お兄様…」
イーサンの言葉で私は「エマ」と「香澄」が混ざり合い、この世界に生きるひとりの人間にやっとなれた気がした。
「お兄様ありがとう、ありがとう…」
ぽたぽたと涙が頬を伝い落ちる。
嬉しくて、悲しくて、寂しくて、苦しくて。
色々な気持ちを押し込めて生きてきた私を一番受け入れてくれていたのは、この世界で一番拒絶していた兄だったのだ。
私は兄の胸に縋りつき、子供のように泣き叫んでいた。兄はそっと頭に手をのせ、ゆっくりと子供をあやす様に撫でてくれた。それは不思議と嫌悪感も不快感もなく、いつか前世で兄が小さい頃に撫でてくれた大きな手を思い出した。凄く懐かしくて、安心できる優しい手だった。




