10話 変化
婚約解消の件を兄に委ねたその日から、私と兄との賭けは始まった。
兄は私を見ると苦しそうな顔をしていて、そのことで私は苦しくなった。それの繰り返しの日々。
だけどもう始まってしまったこの賭けは、やめることなどできはしない。
ぎこちなくはあるし、お互い苦しく思いながらではあるが兄とは前より会話をするようになっていた。兄は私が話しかけてくるようになったのが、修道院の件があるので複雑ではあるが嬉しいようだった。
私としても兄と仲良くすることは複雑である。自分の身の安全の為と贖罪の為に兄と交流をしているのだから。その度に罪悪感に苛まれ、自問自答を繰り返す。
―――これでいいの?
―――兄の心を救済するのではないの?
―――忌まわしい記憶を繰り返したいの?
兄の心が葛藤し続けているようにまた、私の心も葛藤し続けていた。
そんな時、いつも私の心を救ってくれるのはジョシュアだった。
彼は何かと理由をつけて私を連れだした。周りの人が怪しまない程度に、尤もらしい理由を持って。
そしていつもの空き教室に行き私を慰め、励ましてくれた。
「大丈夫、君は幸せになっていいんだよ」
「イーサンと話して、彼に笑いかけて。それだけで、彼はとても救われているから安心して」
「君の選択が正しいかどうかなんて誰にも分からない。それでも君は掴みたい未来の為に今の状況を選んだんだ。選んだからには貫き通すんだ」
「大丈夫、僕がついているよ」
ジョシュアは沢山の言葉と勇気をくれた。その度に私は怯える弱い心を押し込め、恐怖に押しつぶされない強い心を持って兄と向き合った。
そして兄もその度に私と向き合ってくれた。兄はあの日からいつもどこか辛そうに、苦しそうにしている。だけど変わらぬ優しさと愛情を私にくれた。
恐怖に怯えるあまり見ないフリをしてきたが、兄は前世の影響で暗くぼーっとしていた無気力な私に対してずっと優しくしてくれていた。避けられても、怯えられても。心が氷解し、両親や使用人には普通に接するようになって、だけど兄には変わらず怯えても。きっと、兄の心は酷く傷ついただろう。
7年生になり春を迎えた頃、私はそんな当たり前のことを思い出すようになっていた。
そして婚約破棄が奥の手となった私は、虐めや嫌がらせはせずに過ごしていた。
ヘンリーは順調にミアに惹かれており、少しずつ婚約者である私よりミアを優先するようになっていた。兄以外の攻略対象も同じく。ただ不思議だったのは、他のライバル令嬢も嫌がらせや虐めは行っていない様子だったことだ。原作通りならもう始まっているはずなのに。それに何故か皆ライバル令嬢たちはスッキリした顔をしていた。
そして攻略対象である教師のイベントに外出先で遭遇したときも、教師の婚約者であるライバル令嬢の様子がゲームとは違っていたのだ。
そのイベントでは婚約者同士である教師と令嬢が一緒に出掛けた先でたまたまヒロインであるミアに遭遇する。この頃になると好感度もかなり高いので思わず教師はミアに声をかけてしまう。それに気付いたミアも親しげに教師に声をかけるのだ。
教師の気持ちを知っているライバル令嬢は嫉妬に怒り狂い、ミアの頬を叩いてしまう。そして教師がそれに怒り、ミアを医者にみせるからとライバル令嬢を置いて去っていってしまう。そして置いていかれたライバル令嬢はその場に泣き崩れるのだ。
しかしそうはならなかった。
なんとも思わぬ顔でミアを一瞥し「私この後用事があることを思い出しましたので」と言ってすぐにその場を離れていった。教師はしばらくぽかんとした後慌てて令嬢を追いかけていった。
ミアは動揺した様子で立ち竦んでいた。
彼女もこの世界に転生してきた『フラジール』を知っている子なのだろうか。
それともシナリオが歪んでそういう反応をしただけなのだろうか。
ジョシュアにこの一件を話し、色々と聞いてみたが「なんでだろうね」と嬉しそうな顔をするだけで答えてはくれなかった。
ジョシュアというイレギュラーが登場した時点でシナリオなどあってないようなものなのかもしれない。
修正不可能なほど、歪んでしまっているのだろう。
修道院に入れるかどうかが兄の選択にかかっている私には、もうシナリオ通りか否かなど大切なことではなくなっていた。
だけどライバル令嬢たちの今の様子は、嬉しくもあった。
攻略対象たちを攻略するとき、いつも心苦しく思いながら攻略していたから。
『フラジール』をプレイしているとき、彼女たちの描写もある。
最初は偶然出会っただけなのだから、委員会がおなじなのだから、補習のために指導するのだから。そんな風に思っていた。それが次第に偶然とは思えなくなっていく。
そして不安になって、悲しくて、苦しくて、2人の様子に涙を流す。いつしか涙は怒りに変わり、ヒロインを虐め抜く。
そうなってしまうのも、よく分かる。自分の婚約者が他の女性に惹かれていくのを何年も見続けるのだから。
私はそんな彼女たちも愛している。年相応の、恋に溺れた少女たち。
だからそんな彼女たちが辛い思いをしないのなら、それに越したことはない。
このままなら婚約破棄ではなく、婚約解消をそれぞれ言い渡されるだろう。ジョシュアがそう言っていた。
そして彼女たちは皆婚約者である攻略対象たちより爵位が低いので断れはしないだろう。
願わくば、今の婚約者を忘れて新しい婚約者に恋をしてほしい。
彼女たちが幸せになれるように。
春と夏が過ぎ、季節は秋になっていた。
7年生なので私は来年の春前に卒業する。本来婚約破棄となるのは卒業前の卒業パーティーの頃、冬の終わり。もう残された時間は少ない。
私と兄は『フラジール』の中の兄妹とは違うけど、兄妹らしくなっていた。
兄の優しさを思い出した私は、兄に少しずつ本来の私を見せていった。両親や仲の良い侍女といるときだけ見せていた、前世の私を。
最初はそんな私を見て兄はとても驚いていた。だけど両親の前でもこうなのだと言ったら凄く嬉しそうにしていた。それからは少し気安く兄に話しかけたり、少しだけ甘えるようにした。
そして兄もそれに応えるように、少しだけ親し気な話し方をしたり甘やかすようなことを言うようになった。
その関係性はまるで兄が襲ってくる前の前世のときのようで、苦さとほんの少しの嬉しさ、そして懐かしさを私に運んだ。
今の私は兄に対してあまり怖さを感じていない。男性が苦手といった私の為に必要以上に近づいたりしないなど、兄が物凄く私を気遣ってくれているのが分かるし、何より兄の気持ちを知っている私としては兄が自分の気持ちをセーブしているのが痛い程分かるからだ。
兄と「兄妹」ではなかった私は「兄妹」になれたことがとても嬉しくて。いつのまにか兄を両親と同じくらい愛していた。
兄も私も、だいぶ心の傷は癒えたように思う。もう、私たちは濁った目になることはなくなっていた。
兄の心も私の心も確実に救われている。それは私が、いや私たちお互いに歩み寄った結果だろう。
私が兄に歩み寄らなかったら兄の心は救われなかっただろうし、私だけが兄に歩み寄っても兄が応えてくれなければ私の心は救われはしなかっただろう。
あとは、兄の選択を待つだけ。
私は兄が答えを選ぶその日を待って、葉が散ってゆくのを眺めながら日々を過ごした。




