西彼杵オリヴィア 008
時間は飛んで、十数日後。正直、こんなことをしていいのかは微妙だが、海老原先輩の一件が終わった後のことだ。
灰原と呼ばれた男。御門とどんな関係があるのか__なぜ、あいつは僕が、色覚を持ち合わせていないことを存知なのだろうか。
春休み。僕が地獄に身を浸していたその時期に、御門は、灰原と何があったのだろうか。
灰原。灰原广と、言うらしい。
广。変わった名前だ。
そんなことを考える夕暮れ。空は白黒の茜に染まる時間。いつものように文芸部に向かっていた。
文芸部の扉を軽くノックして、這入る。そこには、いつものように、西彼杵先輩がいた。いつものように、ノートパソコンで作業をしながら。
「こんばんは。曲間さん」
「こんばんは」
なんて、軽い挨拶をしつつ。
「おや、扇さんの姿が見当たりませんが」
「ああ__あいつは休みです。なんか、体調、崩したみたいで」
「そうですか。では、機会がありましたら、お大事に、とお伝えください」
実際、ちょっと、僕もお手上げだ。西彼杵先輩と狭い密室で二人きりとか、息苦しいにもほどがある。
荷物を置き、パイプ椅子に腰をかけ、本棚から無作為に取り出した本を開く。どうやら、外国の本らしい。もちろん、翻訳されているが。
「______」
「______」
ぐ__内容が頭に入ってこない。いわゆる目が滑るというやつだ。どうも僕は、この気まずい空間で読書をすることはできないらしい。
「______ふむ」
と、数分。静寂が続いたところで、西彼杵先輩が口を開いた。
「曲間さん」
「は、はいっ!? なんでしょう」
「ワタクシって、とっつきにくい、ですかね」
なんの脈絡もなく、突然だった。
「とっつきにくい、ですか」
「ええ。クラスメイトからも言われるのです。『西彼杵さんは、喋りかけづらい』と」
「そうですか__まあ、否定はしませんね」
「む__やはり」
それはなぜでしょうか、と、問いかける西彼杵先輩。
「外見__も、あると思います。どうにも、西洋まっしぐら、みたいな顔立ちなので、どことなく高貴な印象を受けるんじゃあないですか?」
「そう、ですか」
「ああ、いえ、それが全てではないと思いますよ? 先輩は言動もきっちりかっちりしてますし__成績だって優秀なんじゃないですか?」
「まあ__ああ、嫌味ではありませんよ」
「分かってます__でも、そういう人って、結構、近寄りがたいんですよ。特に、楔無に来る人は、響きやすいんじゃあ、ないですかね__」
そういうのは。中途半端な人間が集まる場所だから。
何かを極めた者は、排除される空気にある。
その分__人間とも化物ともつかない位置にいる僕は、中途半端な者として、まあまあ、受け入れられてはいる。
傷を舐め合うように。
もう、無い傷を。
「成程。道理ですね」
「そうですかね」
「では、曲間さん、少しワタクシとおしゃべりしましょう」
それはいきなりの提案だった。なんの脈絡もない、突然の提案。
「おしゃべりって__」
「曲間さんはフランスに行ったことはありますか?」
「いえ__大分前に、アメリカに行ったくらいです」
「そうですか__ハワイ州に、ですか?」
「まあ、はい__」
見透かされていた。
「いいところですよ。フランスは。日本のように街並みは散らかっていませんし、食べ物は美味しいし」
「へえ、それは是非行ってみたいですね」
「機会がありましたら」
「そういえば、先輩はよくノートパソコンで作業してますけど__何をしてるんですか?」
静寂の中でも、キーボードのタイピング音が響く。
「仕事ですよ、仕事」
そんな返答で、今日の会話は終わってしまった。




