海老原御門 005
「ここ、らしいな」
二メートルはあろうほどの鉄柵の前で海老原先輩は呟く。廃墟とメモ書きを交互に見ながら慎重に確かめていた。いや、確かめるというよりかは、ここであって欲しくない、というような。または、這入るのを躊躇しているような。そんな気がする。
さて、どうしたものか。僕としても、この廃墟には出来得る限り足を踏み入れたくないというのが本音である。放火魔は事件現場に戻って来るというけれども、僕は生憎そんな趣味は持ち合わせていなかった。一刻も早くここから逃げ出したいと思う。何も感じなかったあの頃と比べると、多くの思惑が頭の中で混ざり合い、絡まり合う。
「ううむ。柵に阻まれて向こう側に行けんな」
さて、網の裂け目を教えるべきかどうか。僕もここで戦うに当たって多少の地理は把握していた。何より、網の裂け目なんて、出口になりそうなところは全部把握してあった。
「海老原先輩は__どうしてあの人__灰原の頼みを?」
話題を逸らそうと聞くと、先輩は少し悩んだ表情を見せ、一つ咳払いをして言った。
「それはまあ__春休みの事なのだがな。色々あったんだよ。私も」
春休みに__色々。それは僕も同じである手前、あまりに突っ込んだ事は聞けなかった。話題は、どうやら逸らせなかったようだ。
「そう言えば。千鶴ちゃんと海亀さんは元気か?」
そして次に、まるで狙い澄ましたかのように僕の姉妹の話を振る海老原先輩。
「ん。ああ。まあ、元気だよ」
そうか、と。その返答からもどうも間に合わせの会話のような。
「御門は兄妹が多いからな。五人兄弟だっけ」
「ああそうだ。まだ全員覚えているか?」
「えーっと、一番下が御言ちゃんだっけ。で、天輝くんの次が御門。二つ上の御守さんに一番上の天誠さん。だよね」
「ああ。よく覚えていたな。それにしても、御門でいいのか?」
「ん? __あ__」
にんまりとした笑みを浮かべる。してやったり。そんな笑み。面倒だが、海老原先輩でなくてはいけない。幾ら幼馴染といえど表面上は先輩後輩なのだから。
「さて__私も灰原から頼まれた手前、こんなところで怖気付いている暇は無いな。良い加減裂け目を探すなり乗り越えるなりしなければな」
しまった。やる気を出した海老原先輩はもう誰にも止められない。やると決めたら意地でもやり通す女だ。海老原先輩はそういう人間だ。
荷物を背負い、力強く金網を登っていく。海老原先輩は今日は休日だというのに、律儀に制服を着ているため__その、スカートの中が見えてしまったのだが__白だった。まあ、そんな事を気にする人でもない。僕も後に続き、金網を律儀によじ登る。網目に爪先を引っ掛けて、一歩一歩、ロッククライミングをするかのように。
草が生え放題の庭を暫く歩き、玄関の前に立った。
「うん。緊張するな。それにしても、これはどうなのだろうか。入ったら何か罪に問われたりはしないのだろうか」
実際、ここの廃墟は僕が戦場にするにあたって白魚名義で買っているので入るのはセーフなのである。ただ、問題なのは廃墟に出入りする少年と少女というのが、まあ、絵面的にアウトである。
「何か言ってくれ。心配になる」
僕の袖の裾をキュッと指先で摘む海老原先輩。なんだ、こんなしおらしい人だっただろうか。もっとお転婆で何かこう、まさに鉄砲玉のような人だった記憶なのだが。
「大丈夫ですよ。何も出ませんて。写真撮って早いところ帰りましょ」
「そ、そうだな」
扉に手を掛ける。しかし開かない。それはそうだ。裏から鍵を掛けてあるのだから。押したり引いたりする海老原先輩。
「む__鍵が掛かっているのか? 建て付けが悪いのか? __仕方ない。裏から回るか」
破れたガラスに手を突っ込んで器用に窓の鍵を開け、中へと入った。
「__おっかないな。今にも何かが現れそうだ」
海老原先輩からしてみれば不気味で仕方ないだろう。事実、膝が笑っている。大爆笑である。
「海老原先輩、昔からこういうの苦手でしたもんね」
昔こそ本当にお転婆娘だったのだが、そんな海老原先輩も弱点があった。それが心霊スポットだとか、幽霊とかという類だ。昔はもっと暗所恐怖症じみていて、暗いところへ行くにあたって僕に同伴を求めた事もあった。
今となってはもはや懐かしい思い出の一つだ。
海老原先輩に続いて窓枠を潜り抜ける。そこは至って廃墟らしい廃墟だった。物は散乱し、割れた窓から差し込む光に照らされる、舞い上がった埃。風化した家具。確かに、幽霊の類が住み着いていると言われても不思議ではない。僕は幽霊など信じてはいないが。
信じているのはオカルトと吸血鬼くらいのものだ。
「中は明るいのだな。何だ、意外と普通の廃墟じゃあないか」
これならば探索など容易い、と取るに足らないというような高笑いをしてみせる先輩__そういえば、さっき、何て言った?
意外と普通の廃墟? ここが普通の筈はない。
辺りを見渡せば、確かにそこは普通の廃墟だった。おかしい。
これは__どう考えてもおかしい。
僕が妹と、姉と命懸けの大喧嘩をしたのはここだ。それは間違えるはずがない。なのに、普通。何の変哲もない廃墟なのだ。
誰かに荒らされた形跡なんてない、ただの廃墟__あれだけ殺し合いをして、こんなに綺麗な筈がない。正直、あの時は『大暴れした』程度の記憶しかないが、それでもこんなに片付いているのはいくらなんでも不自然だ。
無限の命を持った人外と人智を超えた人外達が殺しあって、こんな綺麗なものか?
白魚が修復__できる訳がない。あいつはあの探偵事務所から動けないのだから。
だったら__
「おい、水面、大丈夫か?」
と、先輩の一言で一気に現実に引き戻される。
「一体どうしたんだ、惚けてしまって。まさか、ユーレイに取り憑かれでもしたのか?」
なんて冗談めかして言う。取り憑かれるだなんて、洒落になっていない。
「いえ、何でもないです」
「そうか。なら良いんだが__一つ教えてくれ。この、スマートホンとやらはどうやったら写真が撮れるのだ?」
手に持っている割と最新型の携帯を弄り回す。今時の女子高校生が携帯電話を使えないというのも変な話だが、先輩だからしょうがないだろう。
慣れた手つきでカメラを起動させ、先輩に返却する。
「おお、ありがとう。まったく、携帯電話は電話をするためにあるのではないのか? それなのに、カメラやインターネットを入れるとは。写真が撮りたいのならデジカメを使えばいいし、調べ物をするのならばパソコンを使えばいいではないか。図書館だってある」
まさかのスマートフォン全否定である。
そして先輩は呆れるような溜息を漏らし、独り言のように言った。実際、それは独り言なのだろうし、僕と目を合わせずに言うものだから、捉えようによってはそれは僕に対する嫌味にもとれる、そんな一言だった。
「今の人間は、何故こんなにも生き急ぎ、知らない人と繋がろうとするのだろうか。全く理解できんな__」
と。
悲しい事だが、海老原御門とは、そんな事を澄まし顔で言ってのけてしまう人間なのである。




