冬の日の朝
冬の朝は透き通って白い。
ここいらではそうそう雪など降らないが、もしも雪に一面覆われたらもっと白くなるのだろうな、と佐吉は思った。
そんな事を考えていたら一層寒さが増したようで、佐吉は両手を寄せてハァ、と息を吐き掛ける。手から漏れた息が白いのに目が止まり、今度は上に向かって吐いてみた。白い塊が空を昇っていき、程なくして霧散する。それを何の気無しに眺め、二度繰り返した後、こんなことをしている場合ではないと慌てて歩を進めた。
朝の時間は忙しい。誰にとってもそうであるが、佐吉の場合は特にやることが多い。なにせこの広い屋敷を実質一人で、あれやこれやと切り盛りしている。
桐島家は、昔は大層名の通った名家だった。発祥は甲州に端を発するお武家様だとかで、今は僅かにこの母屋と庭を残す程度だが、本来はこの辺一帯が広く桐島の土地で、地図で見ればすぐにその名残が見て取れる。
江戸の終わりから明治へと、武士の時代は終わりを告げて、時代の変遷に取り残された桐島家は徐々に衰退していった。そこへ来て、二代前の当主が大変な派手好きの浪費家で、先祖代々の土地を切り売りし、蔵の中身を全部売っぱらって、私財を空になるまで使い果たしてしまった。
なんとか守りぬいたこの立派な屋敷のみが、当時の隆盛を忍ばせる。
佐吉は二歳の頃、この桐島邸の門前に捨てられていたのだという。母親代わりに育ててくれた女が居たが十になる頃亡くなって、それからずっと、この家で奉公している。佐吉の幼い記憶の限りでは、昔はもっともっと人が居たように思うのだが、結局皆辞めてしまった。今は佐吉の他に居るのはとよという年寄りだけで、それも近頃膝を悪くして、通いで週に一、二度来る程度だ。
故に掃除、洗濯、食事の世話まで、全て佐吉が一人でこなさなくてはならない。もちろん一人でこなせる量の仕事ではないが、かといって新たに人を雇うかと言えば苦しく、それほどまでに桐島家は逼迫していた。
さしあたっては、食事の準備。幸い、旦那様も奥様も食にうるさくなく、佐吉の出す料理で満足して下さるのだが、問題があるとすれば元々食の細いお嬢さんだ。身体が弱く、好き嫌いが多い。
けれども今日は上々、朝から市で新鮮な魚を仕入れてきた。鮮度の落ちた魚はどうしても臭みが出るが、これならお嬢さんの口にも合うだろう。
かじかんだ指先にもう一度息を吐きかけて、勝手の戸に手をかける。瞬間、中でなにかの物音がした。まだ夜が明けきってないような暗さなので室内はもっと暗くて、中などろくに見えないが、わざと音を出すようにガラッと勢いよく戸を引く。
「――コラッ!!」
明かりを点けて中を照らすと、流しから黒い生き物が伏せがちに、こちらを伺うように眺めていた。口には朝食の為に買っておいた魚をくわえている。その黒い生き物は、猫だ。
並の猫なら戸を引く音と怒声に怯んで、一目散に逃げ出しているところだろう。しかしその猫夜助は異様に胆が太く、急に大きな音を出したこちらを、むしろ疎ましげな目で見つめている。
「お前……それは、お嬢さんの!」
佐吉がダッと駆け寄ると、夜助は避けるように魚をくわえてタタタンと軽快に棚を昇る。そしてひとしきり、充分に佐吉の手の届かない高さまで昇り切ったあとで、くわえていた魚を置いて、後ろ脚で首筋辺りを忙しく掻いた。
「バ……カにしやがってぇ……」
夜助はお嬢さんの猫だ。真っ黒な全身に、金色の瞳。その様が夜に浮かぶ月のようだから『夜助』。曰く外に出れないお嬢さんの友達だそうで、とにかくお嬢さんが溺愛している。
「おい、降りてこい! コノ!」
棚の下から叫ぶ佐吉をあざ笑うかのように、夜助はひとつ欠伸をした。なぜだか、この猫と佐吉は昔から相性が良くない。
「夜助は利口だ」というのがお嬢さんの自慢の種だが、それについては口惜しくも、佐吉も同意せざるを得ない。しかし猫の利口さなどなんの役に立つものでもなく、それどころか憎らしいことに、夜助の利口さはこのように佐吉を虚仮にすることにのみ発揮される。
今この時もそうだ。佐吉が朝早くから仕入れてきた魚を、朝食の為にせっかく準備した魚を、盗ったはいいが急いで食うわけでもない。まるで盗ること自体が、佐吉を困らせることが目的なのではとすら思える。
棚の上で足下の魚には見向きもせず、ついには毛繕いを始めた夜助に佐吉はいよいよ業を煮やし、竹箒で棚から落としてやろうと、意気込んで箒を取りに表に出る。すると。
「あら、どうしたの?」
そこには、寝間着に羽織姿のお嬢さんが立っていた。
「は……いや、その……」
こんなところにお嬢さんがいるとは思っていなかった佐吉は、へどもどしてしまう。
子供の頃からそうだ。白磁のような肌。鈴の音のような声。長くて艶々な黒髪。お嬢さんを見ると顔が熱くなってきて、お嬢さんと喋ると舌がもつれる。お嬢さんと一緒に居るだけで、元来器用な質の佐吉が何をするにつれ、上手く事を運べなくなってしまう。
「お嬢さんこそ、こんなに早くにどうしたんで……?」
頭を掻きながらお嬢さんから視線を逸らし、逆に佐吉が問い返す。
「ふいに目が覚めてね。寝直そうにもなんだか目が冴えてしまって、日も昇りはじめていることだし、少し散歩しようかと」
「いや、いやいけません。今日は霜が降りるほど冷え込んでいます。日もまだまだ上がって来ませんし、お身体に障っちゃあいけない」
お嬢さんは佐吉より一つ年上の十六歳で、名をみさをといった。町でも噂の器量良しだが、生まれつき身体が弱く、その白い肌はこんな寒い日には消え入りそうなほどに蒼白く見えた。
「大丈夫よ。今日は咳も出ないし、具合もいいの。それに少しぐらい身体を動かした方がいいって、お医者様も言っていたし」
「それならもっと、日が昇って暖かくなってからでもいいでしょう。とにかく、床にお戻りください。あさげの支度ももうすこし――」
お嬢さんを押し返すようにしながら喋っていた佐吉が、話の途中で思い出し、あぁ! と声を上げる。
「そうだった……朝飯の、魚……」
言ったその時、足下をスルリと柔らかい何かが通り抜けた。その黒い何かは、軽く跳躍してお嬢さんの腕に収まった。
「まぁ、夜助」
お嬢さんの腕に抱かれた夜助は、口の周りを満足気にぺろりと舐める。
「あ、こいつめ! やっぱり食っちまいやがったな!?」
佐吉の言う事など知らん顔で、目を閉じてごろごろと喉を鳴らす夜助。憎たらしいが、お嬢さんのの腕の中に逃げ込まれては佐吉には手も足も出せない。
「夜助がまたなにか盗み食いを?」
「は、へぇ。朝にお出ししようと思っていた魚を、食われっちまったみてぇでして」
腕の中で夜助の喉を撫でながら、お嬢さんが整った眉を八の字に下げて済まなそううに謝罪する。
「そう、それは御免なさいね。その分のお魚は、私いらないから」
それを聞いた佐吉が慌てて身を乗り出す。
「いやいや、お嬢さんに食ってもらわないと! ほとんどその為に買ってきたようなもんですから!」
「でも私、お魚は好かないわ。生も臭みがあるし、焼いてもなんだか……」
「そんな好き嫌いを言っていちゃ、病もいつまでも治りませんよ?」
「好き嫌いをしなくても、治る病ではないわ」
何か言おうと思ったが、そう言われてはやはり佐吉も黙るしかなかった。お嬢さんの病は生まれつきで、小さい頃から外遊びもろくに出来ず、色々なお医者に見せて、毎日薬を飲んで、安静にして、それでも未だ良化の兆しすら見せない。
「――御免なさい、困らせるつもりはなかったのだけれど」
言われて佐吉は、自分が今どんな顔をしていたのだろうと我に返る。きっと、泣きそうな表情だったのかもしれない。すぐさま必死に取り繕って、下手くそな笑みを浮かべる。
「そ、それじゃあ……申し訳ねえですが、朝はありもので我慢してもらって、活きのいい魚はまた今度ってことで」
「ええ、ありがとう。じゃあそれまで、佐吉の言うとおり戻って少し休んでいるわ」
部屋に帰るお嬢さんの後ろ姿を見送りながら、佐吉はぐっと拳を握りしめた。
生まれてこの方、この屋敷の他は知らないような少年でも、自分がお嬢さんに対して抱いている感情がどのようなものか、それは知っている。
決して、実ることのない想い――
お嬢さんには既に、前からいくつもの縁談が持ち上がっていた。中でも川向こうの荘屋は、家柄こそ商人の出で良くはないが、資産は十二分に蓄えていて、地域の顔役で信頼もある。桐島の復興に大いに力になるだろうし、向こうもこちらの家格が欲しい。
金も地位も権力も、何も持たない自分に出来ることと言えば、つまるところ家の雑務のほかには、お嬢さんの幸せを祈るくらいしかないのだった。
――と、佐吉は勝手に思っているのだが、実際思いも寄らぬところで、佐吉はお嬢さんの役に立っていた。
サクサクと霜を踏んで小さな足跡を残しながら、お嬢さんは中庭を自室に向かって歩いていた。見れば肩が震えているようだが、寒さに震えているわけではない。くっくっと、笑いをかみ殺して震えているのだ。
「佐吉の、あの、魚を盗られたときの顔ったら――」
手は、腕に抱えた夜助の喉を撫でている。夜助は一層喉を伸ばし、誇らしげにもっと撫でろと無言で要求する。
「あの、困った顔ったら。フフ、すごく――」
実を言えばお嬢さんは朝の一連の事柄を、初めから最後までずっと見ていた。
「すっごく――可愛いんだから」
夜助は利口な猫だ。本当は佐吉が思っているよりずっと。だから、なぜそうなのかの理屈までは分からないが、佐吉を困らせるとお嬢さんが喜ぶという、因果関係はしっかりと理解している。
そして忠義の猫でもある。主人を喜ばす為、主人の笑顔を見る為に、こうして全くの不得意分野である冬の早起きまでこなす。本来は冬場など、炬燵で丸くなって過ごしたいところである。
「ありがとうね、夜助」
さも嬉しそうな笑顔を浮かべて、お嬢さんは優しく夜助の狭い額を撫でた。
佐吉の困り顔を見ることは、お嬢さんの人生の張り合いであるらしい。けれど自分が何かして困らせるのは違うようで、決まって夜助に頼む。おしとやかな見た目に似合わずの幾分歪んだ趣味のようだが、人間の難しいことなどは猫の夜助の与り知るところではない。
「また頼むね」
夜助は返事の代わりに欠伸をひとつして、お嬢さんの腕の中で丸くなった。外はまだ冷え冷えとして寒いが、こうしてお嬢さんの胸元で丸くなっていれば、それなりに暖かい。
さて次も、またあの小僧を困らせてやらないといけない。今度はどんな風にして困らせてやろうか。
ひとまずは、色々と考えるのは後にして。
夜助は主人の為、と猫らしからぬことを考えながら、猫らしく、朝の惰眠を貪ることにした。