【金曜日】須南美愛 -すなみ みあ-
わたしは みあ。
あずさ また けが してる。
どうして いつも むちゃするの?
そうだ わたしが あずさより むちゃすればいいんだ。
櫛名田高校、二年A組教室。幌亜は誰もいない杏樹の机をぼんやりと見つめていた。
「杏ちゃん、風邪こじらせちゃったのかな?」
教室のドアを開ける音と共に担任の座先生が神妙な顔つきで入ってくる。教壇に両手を着くと、低く渋い声で生徒たちに話しかけた。
「みんな、おはよう。真面目な話するから静かに聞いてくれ」
そうは言っても生徒たちはおしゃべりをやめない。美愛は座先生のただならない雰囲気を察して立ち上がる。
「話聞こうよ、みんな」
美愛の一言でわずかに話し声が減った。
「ありがとう、須南」
座先生が美愛の顔を見て言った。座先生と目が合った美愛は一瞬びくつく。
中央一番後ろの席、制服を着崩した男子生徒の一人が気だるい様子でふらっと手をあげた。
「は~い、せんせ~。真面目な話ってなんすか?」
「飛田に捜索願いを出された」
その一言で騒がしかった教室が一瞬で静かになった。多数の生徒がぽかんとし、幌亜と美愛の表情が固まる。
「えっ、それって飛田さんが行方不明ってこと?」
思わず立ち上がった女子生徒が口走ると、座先生はゆっくりと首を縦に振った。
「飛田は昨日、家に帰らなかったそうだ。遅くなる時は必ず家に連絡していたのに、昨日はそれもなかった。日が変わる直前になっても姿が見あたらず、ご両親は警察に連絡したということだ」
「もしかして、誘拐とか、事件に巻き込まれたの?」
他の女子生徒が質問すると、座先生は首を横に振る。
「今のところは何もわからない。飛田は無断外泊するような子ではないから、事件の可能性は高いとは思うが……」
心配のあまり、座先生は顔を下に向ける。それを見た生徒たちも同様に顔が沈み込む。
「みんな、些細なことでいいから何か知ってることがあれば私に教えてくれないか。警察に情報提供しなければいけない」
生徒たちは皆、一言だけ『はい』と返事をすると、そこから誰も口を開くものはいなかった。一番身近な同じクラスの女子が行方不明になったのだから無理もない。
「大事なこととはいえ、朝から気持ちの沈む話をして申し訳ない。今日も一日勉学に励むように」
そう言い残して座先生は教室を出た。いつもなら話し声の絶えない騒がしい教室も今日ばかりは静かであった。誰もがひとつだけ空いている窓際の一番後ろの席を見ないようにしているのがわかる。その雰囲気に耐えられなくなった美愛は幌亜の様子が気になり後ろを向いた。幌亜は杏樹の席をじっと見つめている。
「三守さん……」
幌亜は杏樹の席から目を離さない。
「杏ちゃんはね、本当にいい子なの。おじさんとおばさんが心配するようなことは絶対にしない」
「ええ。私はクラスメイトのつきあいでしかないけど、いつも笑顔で誰にでも優しいし、三守さんの言うようにいい子だと思う」
美愛の言葉に幌亜の目は美愛に向けられた。
「ありがとう。そう言ってくれると幼なじみとして嬉しいよ」
両手を机について幌亜は立ち上がる。
「あたし、職員室行ってくる」
「職員室って座先生のところ?」
「そう。ほら、昨日、杏ちゃんから黒コートの女の人の話聞いたでしょ?」
「あっ、そういえば」
「あたしたちが知ってる杏ちゃんの情報だから話しておこうと思って」
「そうね、関わりがなかったとしても不審人物には変わりないものね。そうだ、私も行くよ。二人なら確実に情報を伝えられるでしょ?」
「ありがとう、須南さん」
幌亜は美愛にうなづくと、二人揃って教室の後ろのドアから出ていった。
草薙町には小さな交番がある。勤務している警官は三名おり、そのうち一名はゴリマッチョだが、他の二人は華奢なのでちょうど良くバランスが取られている。
カチカチと針をリズミカルに動かす茶色く薄汚れた壁掛け時計の下にはホワイトボードが壁にかけてあった。そのホワイトボードには在籍している三名の名札と勤務状態が書かれている。一番上に書かれた『木宅』という名前の横のスペースには『警ら』と、これまた特徴ある字体で殴り書きされてあった。『警ら』とは、町内パトロールのことを言う。『木宅』の下には『綾斐』と『玉虫』の二つの名前がある。
交番には女性警察官の制服を着用した二人がおり、中学生に見える小柄な方が綾斐伊織、眼鏡が特徴的なもう片方は玉虫圭子という。
大股を開いてだらしなく椅子に腰かけている綾斐がほうじ茶をすすりながら何かの資料を読んでいた。資料と言えば聞こえはいいが、しみだらけでよれよれの紙の束。良く言えば年季の入った、であるが十人中十人はただのゴミと答えるだろう。ある男がまとめてきたスクラップ集であるが、文字通りスクラップである。
「へぇ~、十年前に神隠しがあったんだ~」
「地味なくせに物騒な町よね、この草薙町も。ほら、ちょっと前にそこの高校で演劇部の生徒全員が消えた事件あったじゃない」
「あ~、あったねそんな事件。もう忘れてた!」
「あんたねえ、自分が担当した事件でしょ」
「でも、消えた次の日の早朝に見つかったじゃん。集団かくれんぼしていて、全員が迷子にでもなったんでしょ?」
「顧問の先生の別荘で演劇の練習していたって話だけど、その先生が監禁でもしてたんじゃないの~?」
「そうそう、ボク覚えてるよ。その先生の目がヘビみたいに鋭くてさ、あれはただもんじゃないよ。きっとヘビの妖怪だよ!」
「相変わらず幼稚よね。この世の中に妖怪なんているわけないでしょ?」
「いかんな、頭ごなしに否定しては。世の中何が潜んでいるかわからんよ。ボクが妖怪かもしれないよ」
「かもね~。『妖怪だらしない』かしらね~」
綾斐のバカげた話に目もくれず、玉虫はぼんやりと眼鏡のレンズを磨いている。
「はぁ~、何か刺激が欲しいね~」
綾斐は湯飲みの中のほうじ茶を一口すすってため息をついた。
「安心しなさい、もうすぐゲコさんの雷が落ちるわよ」
「ゲコさんのへなちょこカエルアッパーなんて余裕でよけちゃうよ!」
「よけてみな」
不意に毛むくじゃらのゴツイ拳が迫力の立体映像のように飛び出してきた。
「んっ!」
その拳が綾斐のアゴの下に入り込み、綾斐の呼吸と周囲の時間が止まる。
「がっ!」
下から押し寄せる反動に逆らうことなく綾斐の小さな体が宙に浮かんだ。持っていた湯飲みの中の熱々のほうじ茶も流れに身を任せて湯飲みから脱出をはかり、自由になったほうじ茶たちは綾斐の全身に飛び降りた。ほうじ茶まみれの綾斐は使いこまれて錆びついたロッカーに背中を強打し、ずるずると足から落下する。その先には綾斐が今朝方飲み干した牛乳瓶が転がっていた。計算されたかのように牛乳瓶のぴたりと着地すると、その場で華麗な逆上がりを繰り出した。
「ふぎゃ!」
振り上がった足の勢いのまま空中に放り出されたために、受け身を取ることなく背中から床に着地に向かう。
「お~、カエルアッパーからのロッカー激突、で牛乳瓶によるサポート攻撃の三コンボ達成。いや、四コンボかな」
玉虫は赤いフレームの眼鏡を光らせて冷静な分析を始める。その眼鏡に映るのはアッパーを受けて手放した湯呑みが綾斐の頭頂部めがけて落下する瞬間だった。ゴトンとすごい音がひとつした。
「ぎゃ~! いたっい! そして、あっつ!」
綾斐の頭頂部やや北東にピンポン玉ほどの新鮮なコブが芽を出しており、ゆらゆらと蒸気を立ち上らせていた。淹れたばかりのほうじ茶攻撃だけで終わらずに、追撃までするとは優秀な湯呑みである。
「湯呑みアタックに熱湯ぶっかけ、これは五コンボとしていいかしら? 記録タイね」
「いや待て、新記録行くぞ」
綾斐にアッパーを食らわせた毛むくじゃらの男がロッカーの上を指す。
「あれは! さっきこぼした牛乳を拭いた後、この子が適当に放り投げて置いておいたバケツ!」
二人が見上げるロッカーの上。そこには青くておなじみのポリバケツが半分だけお尻を出していた。バケツの縁には湿った雑巾も掛けられている。掃除を担当したズボラな者がきちんと絞っていなかったせいか、乳白色のしずくが雑巾の先からしたたり落ちているのも見えた。
「ヤバイ! これは奇跡が起こる予感!」
玉虫の眼鏡がキラリと光り、手慣れた感じで制服の胸ポケットからデジタルカメラを取り出して撮影体勢に移行する。
「おいおい、いつも持ち歩いてんのかよ」
「事件、事故が起こった時にいつでも写真が取れた方がいいじゃないですか」
「ん~、まあ、そうだけどよ。せいぜい、ヤバイもの写して事件に巻き込まれるのはやめてくれよ? へなちょこなおまえらでも俺の大事な部下なんだからな」
「は~い、私はヤバイことに近寄らないタイプなので問題ありませ~ん。心配なのは相方の方ですよ」
「相方って、漫才かよ。せいぜい相棒って呼んでやれよ」
「だって、この子ったら初めて会った一言目が『あたしの事を相棒と呼んでくれたまえ』ですよ。意地でも相棒だなんて呼びますかって」
「おまえ、若いのに結構頑固だよな。もっと柔軟に生きろよ。息詰まっちまうぞ」
「大丈夫ですよ、この子といるとストレス解消になりますから。ほら、もうすぐ新記録の瞬間ですよ」
二人が話している間にも青いポリバケツは綾斐がロッカーに激突した振動の影響でじりじりと横移動を続けていた。既にポリバケツの底の七割はロッカーの端から露出している。何か小さな衝撃でもあればコロンと落ちるだろう。
「ハックショイ!」
綾斐のくしゃみが小さな衝撃を起こした。同時に雑巾が先行してダイビング。
「ふごっ!?」
落下した半濡れの牛乳雑巾が顔面にかぶさり呼吸をふさぐ。
「ぐっ、んな、いっ!」
わずかに漏れる声から判断するに雑巾が臭いのだろう。手足をじたばたさせてもがいている。きちんと水を絞り切らなかったのだから自業自得である。もがいた時にロッカーに手を数回ぶつけた振動で、大本命のポリバケツがロッカー上からその体を踏み切った。
「んっ!」
続いてポリバケツが雑巾ごとすっぽり綾斐の頭全体を覆う。それと同時にフラッシュ連写の嵐が起こり、草薙町交番の奇跡は終わった。後に語り継がれることのない伝説として。
「すげえな、七連チャンかよ。綾斐、お前はたいしたもんだ。褒めてやる」
関心しているのか呆れているのか、毛むくじゃらの男は無表情で大きな拍手をした。
「せっかくのお褒めの言葉もこの子には届いてないと思いますよ~」
被写体には目もくれず、玉虫は撮影した写真を確認している。
「お~、撮れてる撮れてる。我ながらいい腕してるわ」
連写した写真の中からベストショットを決めて画像ロックキーをポチッと押した。
「ゲコさん、お疲れさまです~」
デジタルカメラを胸ポケットに素早く納め、眼鏡の似合うカメラ好き女性警察官の玉虫圭子が敬礼する。
「おう!」
敬礼を返すゲコさんこと木宅警部補。玉虫の背後では、頭にかぶったポリバケツを両手で掴んで力無く持ち上げる綾斐がいた。
「おっ、おつかえしゃまです……」
綾斐は銃弾の嵐を受けたあとのゾンビのようにふらふらと足下がおぼつかない感じで起き上がる。アゴと首と額と、とにかくどこでも痛む体をさすりつつ、頭にかぶさった濡れ雑巾をめくって敬礼の姿勢を取る綾斐伊織。
「またサボッてやがったな!」
「今日はサボってなんかいませんってば」
頭の上の雑巾をポリバケツの中に投げ込む。
「この町が平和だから、昔のアルバムを探して懐かしむように、過去の事件を眺めておりました」
「そうかそうか、関心関心。って、それ、俺の事件ファイルじゃねえか!」
ゲコさんは血走った目を自分の机に向けると、鍵をかけていたはずの引き出しは開かれており、大事にしまっておいたものが部下の手にある。
「交番内で窃盗してんじゃねえよ!」
「あっ、いえ、開いてましたよ、引き出し」
「ゲコさん、警官のくせに不用心だね~」
「なんだって? おかしいな、外出るときは必ず戸締まり確認してるのだが……」
ゲコさんが無精ひげでチクチクするアゴをさすりながら外出前の記憶を思い出す背後で、綾斐は手に細長い針金を持ってニヤニヤしている。
「で、何か興味そそるもんがあったか?」
「十年前に起こった神隠し事件って何?」
その言葉を聞いたゲコさんの眉間にシワが寄り、アゴをさすっていた手を下ろした。
「まったくお前というやつは、俺の一番深い傷をえぐりやがって……。仕方ない、聞かせてやるよ」
ゲコさんは豪快なガニマタで自分の席まで歩くと、壊れかけの椅子に警らでくたびれた体を預ける。
「あれはな、俺が新人の頃だ。警察学校を卒業してすぐにこの草薙町の交番に配属された。まあ、ここの交番だ。んで、その年にひとりの女の子が猫ヶ森に入って行方不明になったんだ。それが俺にとっての始めての事件だからよ、何年経とうが忘れるわけもないさ」
「この調書によれば、当時七歳だった『麻桐七華』は今も行方がわからないと」
「だな。当時の新聞にも大きく取り上げられたもんだ」
その時、年代ものの黒電話が狭い交番内にけたたましい音を鳴り響かせた。
「電話だ、電話だ!」
電話の音に反応した綾斐が電話機に手を伸ばす。平和な日常に刺激が欲しい綾斐にとって、電話の着信は数少ない刺激のひとつであった。
「は~い、こちら草薙町交番でっす! ん? とびたあん? あのねえ、ここはラーメン屋じゃないつうの!」
「なんだって? とびた? おい! 代われ!」
ゲコさんの太い腕が電話を切ろうとしている綾斐から強引に受話器を奪う。
「お電話代わりました。木宅警部補であります。もう一度用件を伺ってもよろしいでしょうか?」
ゲコさんがふんふん言いながら用件を聞いている。その背後で綾斐と玉虫が漫才ならぬ雑談を始めた。
「とびたあん、あの『飛田』?」
「そうそう、あそこのラーメン屋はチャーシューがおいしいんだよね~」
「たしか、豚肉専門店から肉を仕入れてるのよね。よし、今日のランチは飛田庵にしましょう!」
「いいね~!」
真剣な話をしている上司の後ろで盛り上がるのんきな部下二人。
「はい、ではすぐに伺いますので! 失礼いたします!」
ゲコさんが静かに黒電話の受話器を置いた。
「おい、ちょっと櫛名田高校行ってくるから、ここ頼んだぞ」
「なになに? 高校にラーメンの出前? まったく最近の高校生ときたら」
「ちげえよ。昨夜、捜索願いあったろ。櫛名田高校の生徒『飛田杏樹』って子だ」
「とびた、あんじゅ?」
「その子が昨日、黒コートの不審人物に会ってたって話だ」
警らから帰ってきたばかりのゲコさんはコートを着たそのままの姿で交番の入り口まで走った。
「じゃあ、行ってくるぜ」
「は~い、いってらっしゃいませ~」
「ゆっくりしてきていいですから~」
二人はにこやかに手を振って見送る。怪しげなその様子から何かを察知するゲコさん。
「ひとつ言っておくけどよ、飛田庵は臨時休業だ、残念だな」
「えええええ!」
「そんな~!」
仲良くへこむ二人を横目にゲコさんは交番をあとにした。
本日の授業が終わり、美愛は席を立ち上がる。後ろの席で美愛の背中をじっと見ていた幌亜がなんとなく尋ねた。
「ねえ、須南さん」
幌亜の声に美愛は振り向いた。
「ん? なに?」
「もしかして須南さんって座先生苦手?」
「どうして?」
「今朝、座先生が須南さんにお礼言ったときなんだけど」
「ああ、見てたんだ。私ね、座先生と目が合うとああなっちゃうのよね。別に苦手ってわけじゃないよ」
「それって、恋?」
一瞬、美愛の時間が止まった。
「ちっ、違うってば! 私はピチピチの若い男の子が好きなの!」
「そうだよね~。先生だと歳が離れすぎてるもんね」
「そうだよ、もう、三守さんってば」
美愛が幌亜に背を向けて一言つぶやいた。
「本当に好きなのは男の子同志のキャッキャウフフを見ることなんだけどね……」
「えっ? 何か言った?」
「なんでもないよ! じゃあね!」
美愛は鞄を持つと、慌てて教室を出て行った。
櫛名田高校の玄関。多くの生徒が帰宅する中に美愛はいた。
「黒コートの人に会って飛田さんの事聞かないと」
「ミア、ここにいたのね」
美愛が靴箱から靴を取り出していたところに、幼なじみの梓がやってきた。
「教室行ってもいないから心配したわよ」
「あずさ、ごめん、今日はちょっと用事があって」
「用事?」
梓の右眉がぴくりと動く。
「うん、ちょっと『さがしもの』をね」
「わかったわ。でも、嫌な予感がするから十分に気をつけなさいよ」
「あずさの嫌な予感って当たるのよね……」
「いい? 何かあったらすぐに私に連絡するのよ、わかった?」
「ありがとう。あずさはいつも頼りになるね」
それを聞いた梓が小さなため息をついた。
「あのねえ、この性格になったのは誰のせいよ。ミアが何でもかんでも興味持って危なっかしいから、私が制御しないといけないの!」
「でも、そういうのはイヤじゃないんでしょ?」
梓の耳が一瞬で赤くなる。赤くなった梓の左の耳たぶに変わった形のあざがあった。ほくろサイズの丸の周りに小さい丸が四つある。例えるなら猫の手のひらにある肉球だろうか。
「もう! 何言ってんのよ! 用事あるんでしょ? さっさと行きなさい!」
靴を履いた美愛は嬉しそうな顔で玄関を出ていく。そんな美愛の首の後ろにも梓と同じあざがあった。遠目にはほくろに見えるが、近くでしっかり見ればほくろではなくあざだとわかる。
「連絡は忘れちゃ駄目よ」
「は~い」
美愛は振り返らずに手を振って応える。梓は美愛の後ろ姿をいつまでも見送っていた。嫌な予感が当たらなければいい、今ほどそう強く思ったことはなかった。
黒コートの女性を探すために、美愛は猫公園にやってきた。
「さすがに簡単に見つからないか」
入り口から公園内を何度見渡しても猫しかいない。美愛は公園に入ると周囲を気にしながらベンチまでやってきた。集中しているせいか、途中で猫の尻尾を踏んだことに気づかない。茶トラに白混じりのその猫は恨めしい目で美愛を見ていたが、特に危害を加えるつもりはないようだ。
「今日はこのへんにしておこう。昨日の抜き打ちテストは恥ずかしいぐらい出来なかったから勉強しないとね」
一息ついてベンチに座る。
「勉強の手助けにこちらはいかがですか?」
「えっ?」
いつの間にか、美愛の隣に黒コートの女性パンドラが座っていた。
「あっ、黒コート!」
美愛の目が大きく開き、鼻にかかった丸眼鏡がするりとずれ落ちる。
「あなた! 飛田さんに何したの! 昨日、この公園で女の子にウサギを渡したでしょ!」
早口でまくしたてる美愛にパンドラはひるんだが、言っていることは理解したようで手をポンとたたく。
「あ~、はいはい。その件ですね! 覚えてますよ~」
「私のクラスメイトなんだけど、その子が昨日から行方不明なの、あなた何か知らない?」
美愛はパンドラの肩を掴んでさらにまくしたてた。
「行方不明?」
「そうよ、今もまだ見つかってないの……」
パンドラの肩から美愛の手が力なく落ちた。
「お気の毒ですが、ワタクシは存知あげません」
「そう……、わからないなら仕方ないわ。それなら知ってることを教えてほしいの。昨日、飛田さんに渡したウサギはなんなの?」
「はいはい、あれは絶望の淵に立つ方に希望の手を差し伸べる不思議な不思議なプレゼントでございます!」
「怪しいプレゼントね」
「あのお嬢さんに渡したのは幸運のお守り『レインボーラビ』というものでございます。決して怪しいものではございません! その抜群の効果をお嬢さんも目の当たりにされておりませんか?」
「あっ、魔の木曜日……」
美愛の顔を見てパンドラはにやついた。
「どうでございますか? インチキな品ではありませんですよ?」
「確かに、あなたの与えたものが飛田さんに被害を及ぼしたわけじゃないみたいだけど」
考え込む美愛の横でパンドラは大きな黒い袋に手を入れている。
「んふんふ~♪」
鼻歌まじりで袋を探り、取り出したるは黒い単語帳。
「先ほど勉強にお悩みでしたので、お嬢さんに希望を与えるものをプレゼントいたしましょう!」
「それ、なに?」
「は~い、いい質問です!」
パンドラはベンチから立ち上がると美愛の目の前に移動した。黒い単語帳と一緒に袋から取り出していた白いペンを指でクルクルと器用に回している。
「こちらは世にも不思議な単語帳でございます!」
黒い単語帳の上を白いペンがスラスラ走る。丸眼鏡の奥では美愛の目がペンの軌跡を追っていた。パンドラは満足げな顔で数回うなずくと、美愛の目の前に単語帳の一枚を見せる。
「J、U、M、P」
書かれた文字を美愛は一文字ずつ音読する。その直後、黒い単語帳から電子音声が聞こえた。
『JUMP』
「はい! 認証完了!」
パンドラは深くうなづくと膝を折り曲げて身を屈め、そのひょろ長い体を器用に縮める。
「いいですか~? よくごらんになってくださいね~」
パンドラは低い位置から顔を上げて美愛に視線を注がせると、曲芸イルカが水中から勢いよく飛び出す様で一気に体を上まで伸ばした。
「きゃあああああああ!」
絶叫と共にパンドラが逆バンジージャンプの如く一瞬で空高く飛び上がり、やがて雲の彼方に消えた。
「にゃ!」
美愛の隣で事を一緒に見ていた猫が驚いて飛び上がった。美愛は目の前で起こった事態を把握出来ておらず、一瞬で消えたパンドラを探してきょろきょろしている。
「ぎゃあああああああ!」
世界最短記録の宇宙飛行を終えたパンドラが帰還してきた。美愛も非業の叫びに気づき、ずれた丸眼鏡を直しつつ空を見上げる。丸眼鏡に映る流星は黒かった。
「えっ、えっ、こっちに落ちてくる!」
逃げないといけないのは頭でわかってはいるが、美愛は驚きのあまり動けない。早くに危険を察知していた隣の猫は既にベンチの下だ。
猫公園に激しい轟音が響き渡る。寝ていた猫たちは飛び起きて四方八方に逃げ出し、木にとまっていた鳥たちは空に羽ばたいてゆく。ベンチの前はもうもうと砂煙があがっており、美愛の丸眼鏡はほこりにまみれて曇っていた。美愛は手探りで鞄を探し、中から眼鏡拭きを取り出すと、曇った眼鏡を冷静に拭き始めた。眼鏡を拭き終わったあたりで砂煙もきれいさっぱりなくなっており、美愛の目の前にパンドラが立っていた。
「ただいま戻りました!」
「え、ええ……」
若干引き気味の美愛に対してパンドラはにこにこ営業スマイルで手もみしている。
「この黒い単語帳に、この白いペンで英単語を書、け、ば、その英単語が発動するのです! 効果のほどはごらんになったように! お嬢さんにはこちらの『ミラクル単語帳』をお譲りいたします!」
「使い道がよくわからないけど……」
「この単語帳を使って単語をご自身で体験なされば、その体験の記憶と一緒に単語を覚えることができます! いえ、忘れられなくなります!」
「それは一理あるわね。とりあえずもらっておこうかな」
「はい、ありがとうございます! では、三つのルールを教えてさしあげましょう!」
上機嫌のパンドラは細長い指を一本立てた。
「ひとつ。単語帳の表にこちらの白いペンで英単語を書きますと」
パンドラは白いペンをくるくる回す。白いペンの回転に猫の右前足が反応した。
「正しい英単語なら認証音声が出ます。それでオーケーでございます!」
「その効果対象は本人?」
「良い質問でございます、さすがお嬢さんは賢い! 基本的に効果対象は書いた本人になりますよ。対象を別にしたいなら、裏側に対象の名前を書いてくださいまし!」
「じゃあ、さっき、裏に私の名前を書いていたら、私がジャンプさせられていたってことね……」
美愛の顔が一気に青ざめる。そんな美愛を見つつ、パンドラはもう一本指を突き立てた。
「ふたつ。スペルミスは当然認証されませんが、英単語が成立していれば大文字小文字の区別はされません! 字の汚さはある程度なら補正されるでございますよ!」
「スペルミスで他の英単語になった場合は?」
「その場合は効果が発動してしまいます! 本人が意図しない結果でも、正しい英単語であることに変わりないのです!」
「うっかり間違えないようにしないといけないわけね」
パンドラはうなづいた後、三本目の指を立てた。
「みっつ。効果が現れるのは三回まで!」
「三回かぁ。この手のものってだいたい三回だよね~」
「では、こちらで不思議な体験を存分にお楽しみくださいませ」
パンドラは黒い単語帳と白いペンを美愛の手の中にそっと置くと、九十度直角に近い深いおじぎをした。
「面白そうなものありがとう!」
怪しいとにらんでいたはずの黒コートの女性にお礼を言う美愛。ある意味、行方不明の杏樹に一歩近づいてしまったのかもしれない。そんなことも知らずに美愛はスキップで猫公園を出ていってしまった。
「にゃ~」
ようやくいつもの猫公園に戻ったところで、ベンチの下にいた猫が出てきた。腰を大きく後ろに引いて見ているほうも気持ち良さそうな伸びをすると、ベンチの上に飛び乗り大きなあくびをした。本能に従って寝ようとしたが、ベンチの前にはまだパンドラがいるので気になって寝られない。不満気な猫の横にいつの間にか櫛名田高校の制服を着た女子生徒が立っていた。
「あなた、ちょっと」
「はい?」
パンドラは不思議そうな顔で振り向くと、そこには梓がいた。
「あなた、ミアに何を渡したのよ」
猫は毛づくろいしつつ、梓とパンドラのやりとりをしばらく見ていた。
パンドラから単語帳を受け取ってから数分後、商店街を歩く美愛の姿があった。右手に見えてきた本屋の前を通りかかった時にその足はぴたりと止まる。
「あっ、今日は『ブラザーズ・レビテーション』の最新巻発売日だった!」
両かかとを右に九十度旋回して自動ドアの前に立つ。そんな美愛の希望と欲望に満ちた表情をもの珍しそうに見上げる猫がいた。凛々しい紳士風の出で立ちで、ちょび髭を思わせる黒模様が鼻の下にある白地の猫だ。
「いらっしゃいませ~」
美愛が店内に入る。一緒に入ろうとしたその猫は自動ドアのガラス戸に頭をぶつけてうずくまった。中に入ることを諦めたのか、猫には無反応のセンサーの下でおとなしく座り始める。
「ええと、新刊コーナーは、っと」
美愛の動きに合わせて猫の首の向きが変わる。それはまるで美愛を監視するカメラのようだった。
「あったあった。『ブラザーズ・レビテーション』の最新巻!」
丸眼鏡の奥の瞳に歓喜の火が灯る。喜びに満ちているのか、手に持つ本が細かく震えていた。美愛の燃える、いや、萌える視線は表紙に釘付け。
「もうだめ! 我慢出来ない! 早く、速く、読まなくちゃ!」
美愛は既に暖まっていたエンジンを全開にし、店内を駆け抜けるようにレジに向かった。レジまでの道のりには数人の客がいたが、今の美愛を止められるものはいない。蝶が舞うように客の群れをかわしながらレジの前まで進み、蜂が刺すように店員の前に漫画を突き出した。
「これください! はい、代金です。レシートと袋はいりません!」
「はぁ、ありがとうございます」
本屋に吹き荒れた一陣の風を目の当たりにし、目を丸くした店員は呆れた返事を返す。買い物を終えて自動ドアに向かう美愛の目に幼児雑誌の表紙が目に入った。
「あっ、マスカレイダー!」
仮面戦士マスカレイダー、日曜日の朝に放送されている特撮番組である。美愛はマスカレイダーが表紙の雑誌を手に取った。
「へえ、謎の新戦士マスカレイダーエンプレス登場かぁ。女の子が変身するのね」
表紙に書かれてあった今月号のメインであろう大見出しが目に入る。
「そうだ、あずさに教えてあげよっと。ヒーローもの好きだからね」
美愛は雑誌を棚に戻して店の外に出た。
「にゃ~」
自動ドアの外で待っていた猫が一声鳴いた。
「は~い、こんにちわ」
美愛は適当に猫をあしらってからスマートフォンを取り出す。
「あずさってメールだと反応遅いのよね。面倒だからってあんまりメール見ないのよ」
美愛は電話帳から探した梓の名前を指先で押すと、呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに梓が出た。
「ミア、どうしたの? 何かあった?」
「マスカレイダーの載ってる雑誌売ってたよ。マスカレイダーエンプレスっていう女の子戦士が出てくるってさ」
「知ってるわ。もう購入済みよ」
「さすが、あずさね……」
「ありがとう。で、用事はそれだけ?」
用事と言われて美愛は一瞬考える。
「あっ、そういえば。猫公園で黒コートの人に会ったよ」
「ミアの用事はその人を探すことだったのかしら?」
「実はそうなの。あずさも知ってるだろうけど、クラスメイトの飛田さんが行方不明になってて、行方不明になった日に黒コートの人に会ってるのよ。で、手がかりになるかもと探してたってわけ」
「私の言ったこと忘れてないわよね?」
「忘れてないってば、実際に会ってみたら全然平気だったよ? ホント、あずさは心配性なんだから」
「それであなた、何か受け取った?」
「へっ? なんでわかるの? 受け取ったよ。真っ黒な怪しい単語帳もらった」
「そんなものさっさと捨てなさい」
「でもね、これ、すっごいの! 単語帳に書いた単語が実際にアクションするのよ!」
「ますます怪しいわね。人外過ぎる力だわ」
「JUMPって書いたら、ものすごいジャンプするのよ! すごくない?」
「じゃあ、うっかりDEATHなんて書いたら、死んじゃうわけ?」
「死んじゃうかもだけど、さすがにそんなの書かないってば」
「いや、ミアだとわからないわ。いいから、さっさと捨てなさい。捨てるのが怖いなら、うちに持ってきて。清めたあとに焼き払うから」
「わかったわよ、ちょっと試したら捨てるってば」
「一度だけよ。ミアの使ってみたい気持ちはわかるから、無難な単語で試しなさいよ」
「そう言うと思った。優しいね、あずさは」
「はいはい、寄り道しないでさっさと帰りなさいね」
「は~い」
電話を切った美愛の目は輝きに満ちており、鼻息が若干荒い。その状態で店脇の歩道を足早に進む。美愛の姿が見えなくなるまで紳士風の猫はひたすらじっと見つめていた。
買ったばかりの漫画を読みながら、商店街を抜けた先にある住宅街を美愛は歩いていた。
「前回までのあらすじ。桜子ちゃんを巡って争う二人の兄弟。そしていつしか二人の間に血のつながりさえも超越した禁断の感情が開花して……」
本人は漫画に夢中で気づいていないようだが、いたたまれない欲望を垂れ流している。
「やだも~! なんて素敵な展開なの! まさか二人が血のつながらない兄弟だったなんて! やりたい放題じゃない!」
徐々に勢いを増す欲望の川。
「お兄ちゃんのレン君は強引だけど危険な男の魅力を感じさせる俺様系。弟のアイト君は動物好きで心優しい美少年。ここはストレートにレン×アイ? 実はアイト君はドSでアイ×レン? どっち? 迷う~!」
美愛が何か思いついたように立ち止まる。
「愛のあとに恋が始まるのもいいわね!」
荒い鼻息を噴出しながらいけない妄想をし始める。妄想状態のまま一歩踏み出すと、地面にぽっかり開いた穴の中に吸い込まれていった。
穴の下は暗く湿った世界が広がっていた。
「うっわ~、たっかいな~」
美愛は遙か頭上にある唯一の光を見上げている。夜の闇に浮かぶ満月と見間違えそうなほどに丸い光。
「この高さで無事なのは奇跡ね。きっと、BでLな神様が純粋な心の私を救ってくれたのね! これからもいっぱい読まないと! たくさん妄想しないと!」
暗闇の中でただひとり、訳のわからない事を叫ぶ美愛。
「フフフ、普通ならここで絶望するわけだけど、私にはこれがあるの!」
美愛は鞄の中から黒い単語帳と白いペンを取り出した。
「ふふ~ん♪ こんな高さぐらい、この単語帳の不思議な力で解決しちゃうもん!」
美愛は黒い単語帳をめくり、鼻唄混じりに右手の白いペンをすらすらと走らせた。
「J、U、M、Pっと!」
『ソノ単語ハ、スデニ、使ワレテイマス』
「はっ? なに? なんて言ったの? ねぇ、ちょっと!」
美愛は先ほどの様子から一変し、慌てて次のページをめくって再び同じ単語を書き出す。
『ソノ単語ハ、スデニ、使ワレテイマス』
「嘘……、でしょ……?」
美愛は大きなショックを受けたようで、糸が絡まった操り人形のように体がぐらぐらしている。
「やられた……。たぶん、同じ単語は一度しか使えないんだ……」
現実を見つめ、ふらつく足を止め、美愛はもう一度丸い光を見上げる。暗闇に目が慣れてきたせいか、丸い光の周囲に壁があることに気づく。
「危なかった~。もし、さっきのでジャンプしてたら、天井に頭ぶつけるところだった!」
幸か不幸か無事だった自分の頭頂部を守るように手で覆う。
「ジャンプはもう使えないけど、他に脱出方法はあるわよね。落ち着け、私!」
頭を下げ、目を閉じて、息を静かに吐いている。深呼吸しようと息を吸った瞬間、美愛が吹き出した。
「ぶっ! 何? ここ、くさいわ……!」
この空間のにおいに今更気づいた。口元から垂れる泡を黄色い花柄のハンカチでぬぐうと、そのまま口と鼻を覆った。
「早く脱出しないと、死んじゃいそう……」
美愛は再び天を見上げる。
「ようするに、あの高さまで到達すればいいのよね」
美愛はすっかり暗闇に慣れ、天井までの距離が把握できるようになっていた。出口であろう丸い光のある高さまで美愛の身長の五人分ぐらいだろうか。
落ち着いてきた影響か、唯一の出口からうらやましいほどの青空がチラリズムしていることも知った。薄くて小さな雲が風に流されて行くのが見える。
「そうだ、ジャンプが無理なら、浮けばいいじゃない!」
美愛は白いペンを握りつつ黒い単語帳を一枚めくった。が、動きがピタリと止まる。
「ええと、『浮く』ってなんだっけ……? レビ、なんとかだった気がするんだけど」
すべてのエネルギーを脳に集中させているのか、言葉は出ているものの口は微動だにしていない。
「あっ!」
美愛は手持ちの漫画の表紙を見た。
「この漫画のタイトルに隠されていたなんて、私はBでLな神様に愛されているんだ!」
ニヤニヤ顔の美愛は華麗なペンさばきで英単語をひとつ書き上げた。輝いている、今の美愛は輝いている。
『認識シマシタ。動詞ニ変換シマス』
「あっ、レビテーションは動詞じゃないんだ。変換機能ついててラッキー!」
ウキウキ顔の美愛は光の出口の真下に立つ。
『LEVITATE』
「きた!」
美愛の体が一瞬光ると、足が数センチ浮き始める。
「浮いてる! 浮いてるよ、私!」
スポットライトに照らされて浮かび上がる美愛のマジックショー。
「あれ、もしかしてこれだけ? 私の描いているイメージだと、ここからブワーッと浮上するんだけれど……」
美愛は首をかしげ、揺れ動く地面との隙間を見つめている。
「う~ん、単純に『浮く』だけだったんだ。次は『浮上』を探さないと……」
小さな鼻に人差し指の先を押し当てて考えこんでいる。
「フロート。F、L、O、A、T……」
「ん……? 今のは、BでLな神様のお告げ?」
見えるわけではないが、声の主を探そうと美愛は暗い空間を見渡している。
「ここ、人間どころか生物の気配がまったくしないんですけど……。まあ、いいや。フロートを試してみよう!」
その時、頭上からふわっと風が吹き降りてきた。風は美愛の肩まで伸びた髪を巻き上げる。強い意志に満ちた瞳がかすかに照らす明かりで輝きを増した。力強く白いペンを握りしめ、黒い単語緒の新しいページをめくる。
「よし! F、L、O、A……」
そこでペン先が止まる。同時にフワフワ浮かんでいた美愛の両足が重力に引かれた。先ほど書いた『浮く』の効果が切れたようだ。
「不思議な効果が切れるまでけっこう長かったよね……。どれくらいだろう」
再び、小さな鼻に人差し指の先を押し当てて考えこんでいる。
「まぁ、正確な時間はわからなくても体感では長かったかな。この位置から浮上して、あの穴から出たとしても、地上に出てからも数分は浮上を続けそうね。そんな高さで効果が切れて、引力に従うままに落下しちゃったら……」
顔が青ざめてゆく美愛。その頭の中ではつぶれたトマトでも思い描いているのだろう。
「ダメダメ! もう一度よく考えてみよう」
書きかけの単語帳を一枚めくる。美愛の視線は新しいページではなく、先ほど書きかけたページの裏側に向いていた。
「そうよ! 浮き上がる対象が私じゃなければいいんだ! 裏面に対象を先に書けば、それに対して不思議な効果をかけられるじゃない!」
美愛の瞳が再び輝き始めた。
「そうと決まれば、浮かせるモノ探さないと。何がいいかな。私が安全に乗れるものがいいんだけれど」
夜の闇に覆われた森の中で月の光を頼りに落とし物を探すように、やや頼りない頭上から差すかすかな光で慎重に周囲を探り始めた。
「にゃ~」
「ん? 猫?」
視界の悪い暗闇の中、美愛は直感的に猫の鳴き声があった方向を見た。ぼんやりとおぼろげだが、そこには猫の形をした物影がある。
「お~い! 猫だったら返事して~!」
「にゃ~」
「うん、間違いなく猫だね」
「にゃ~」
物影の正体が猫だと確認した美愛は足下に気をつけながら数歩先にいる猫に近づく。
そこには泥で汚れてくたびれた老猫がいた。猫は金属で作られた円盤の上に座っている。
「なんだろ、これ」
美愛が円盤を靴の先で数回小突くと、そのたびに金属の鈍い音が暗く静かなこの世界に響いた。小突くのをやめて音が消えると、再び訪れた静寂が心をひどく不安にさせる。
「あっ、これってもしかして、マンホールのフタじゃない?」
顔を何度か上下させ、足下の金属の円盤と天井にぽっかり空いている穴を見比べる。
「そっか、ここは下水道なのね。この独特の臭いと湿った空気があるし、間違いないね。きっと、あまりにも臭さにフタが腐って落ちたのね」
自分の置かれた状況を把握すると同時に周囲の様子が気になり始めた。出口の光がある真下周辺は当然明るい。光が届いている範囲はせいぜい半径二メートルほどであり、光の中心から美愛の足で十歩もいけば、そこはもう真っ暗だ。闇の中の一番近い場所に猫が座っているマンホールのフタがある。湿り気を帯びた地面はコンクリートのような人口物とは違い、泥の上に立っているような感触があった。
「うわ~、変なモノが生息してそう……。くさいし、早くここから出よ~っと」
美愛は手に持っていた白いペンと黒い単語帳を鞄の中にしまう。
「まずはフタをここまで持ってこないといけないけど、さすがに素手で触りたくないし、重そうだし、さて、どうしたものか」
光の当たる場所には特に何も見あたらない。フライパンサイズの小さな水たまりがあちこちに点在しているが、とても有効活用出来るとは思えない。
「にゃ~」
先ほどとは違う方向から猫の鳴き声がした。マンホールのフタから猫歩数で十歩進んだあたりで鳴いている。
「ん? どうかした?」
「にゃ~ん」
猫のしっぽが暗闇の地面を数回叩いている。
「なんかあるの?」
「にゃ~」
「どれどれ」
美愛は水たまりをよけつつ猫のいる場所に向かった。
「これって、噂の……」
猫が示す場所に『バールのようなもの』が落ちていた。水たまりの汚水がスカートに付かないように気をつけながら屈むと、制服のポケットから取り出したハンカチごしに『それ』を掴む。
「ハンカチくん、ゴメンね。無事に出られたら念入りに洗ってあげるから」
『それ』を持ち上げると、金属の重みが美愛の華奢な手にずっしりと響いた。重くはあるが、女子の腕力でも問題無く振り回せる重量だ。もちろん、こんな殺傷能力の高いものを振り回すなど通報ものではあるが。
「これをこうして……」
手に持った『それ』はL字型になっており、L字型の短い方の先にある突起をフタのふちに引っかけた。
「む、この場合、フタが『受け』で、手に持ってる何かが『攻め』になるのね!」
軽く腰を落とし、力を込めて慎重にマンホールにつながった『それ』を引っ張り始めた。じりじりと動くフタと地面の間では、泥がこすれる音と汚水のビチャビチャという不快な音がハーモニーを奏でている。
「ここでいいかな?」
舞台中央を照らす丸いスポットライトの輪郭と、引きずってきたフタの外周を合わせる。美愛は『それ』を地面に置き、作業で汚れた手をティッシュで丁寧に拭いた。
「かっ!」
拭き終えたティッシュのにおいを嗅いで悶絶する。
「準備よし! あとはこれに乗って浮かばせれば、ここから抜け出せるわね」
フタの上に乗り、鞄の中にしまっておいた白いペンと黒い単語帳を取り出すと、新しいページをめくり、さらにもう一回めくる。
「先に不思議な力を与える対象を書かないと。あれ? これも英単語じゃないとダメなのかな? マンホールのフタってどう書くんだろう……。あっ、いい事思いついた!」
美愛は先ほど手を拭いたティッシュでフタの一部分の汚れを拭うと、白いペンでしっかりと文字を書いた。続けて黒い単語帳にも文字を書きつづる。書かれた文字は『THIS』だった。
「これで間違いないでしょ♪」
「にゃ~!」
美愛の足下で猫が鳴いたと同時にフタの上に飛び乗り、美愛の隣に寄り添った。
「あ~、ゴメンね。脱出できそうなのもキミのおかげよね!」
「にゃ」
猫は一度だけ美愛を見上げて小さく鳴いた。
「あとは表側にF、L、O、A、T、っと」
最後の扉を開くキーワードを書き終える。
『FLOAT』
無機質な声が発せられると、金属の円盤は無数に縛られていた引力の糸を引きちぎりながら魔法のじゅうたんのようにふわりと浮き上がる。
「やった! 私って、天才かも!」
地球の重力から解放されたフシギな円盤は光溢れる舞台を目指す。深い闇に包まれた奈落を通り、上へ上へと舞い上がる。その光景はなんとも美しいものだろうか。天の世界へと向かう天女のように。苦悩と困難を乗り越えた先に、豊穣で満たされた楽園が見えるのだ。
こうして美愛と汚れた猫は無事に地上への生還を果たした。
「はぁ~、もう! とんだ災難だったな~」
「にゃ~」
昼下がりのバス通りを美愛と猫が歩いている。どちらも足下が泥で汚れていた。
「きみの体が汚れてるから洗ってあげるよ。私はある意味、心が汚れてるけど」
「にゃ~ん」
「一緒に苦難を乗り越えた猫にキスしたら、美青年になればいいのにな~。そうすれば私の汚れた心も浄化されるに違いない」
「にゃ……」
「そこの小さい公園に水飲み場があるから洗ってあげるね。おいで」
「にゃ~ん」
美愛の後を猫がついてゆく。二人が立ち去ったあと、美愛の落ちた穴があった場所に口を大きく開いた痩せた男が立っていた。泥に汚れたその男の開いた口は満月のようにまんまるだった。
バス停近くのベンチにパンクしそうなくらい大きなおなかの猫がいた。白地に黒のまだら模様の姿はパンダのようでもある。重たい体をどっしりと構え、太すぎて回らない首はそのままに、何かを探すようにギョロギョロと目だけ動かしていると、向かいの歩道に美愛がやってきた。
「今日はついてないや。早く帰って録画しておいたアニメでも見よっと」
猫は餌でも見るような目で美愛から視線を外さない。
「あっ! あれって飛田さんじゃ!」
美愛の見ている方向に一台の車が歩道に寄せているのが見えた。その後部座席には櫛名田高校の制服を着た女子生徒の姿がある。行方不明中の杏樹であった。体はぐったりと横たえており、目を閉じているためか意識がないように思える。
「車には飛田さんしかいないのかしら……」
美愛は歩道の脇に置かれている自動販売機の陰に身を潜めた。
「警察に電話した方がいいよね……」
周囲を警戒しながらスマートフォンを取り出して警察に電話しようとする。
「起きたぞ!」
その声に美愛が反応し、杏樹の方を見た。
「あっ、飛田さん起きた!」
杏樹が重たそうなまぶたを開く。寝起きのせいなのか、体調が悪いのか、頭をフラフラさせて焦点が定まっていないようだ。
「とにかく、助けなきゃ!」
なりふり構わず美愛が駆けだす。慌てたせいかスマートフォンがポロっと歩道に落ちて、くるくると地面で回転している。
「あとで拾おう」
美愛はスマートフォンに目もくれず、そのまま走るのをやめなかった。車の横に到着すると、窓を叩いて車の中の杏樹に呼びかける。
「飛田さん! 飛田さん!」
声の大きさに比例して窓を叩く音も激しくなる。うつろな目をした杏樹が美愛の方へ顔を向けたものの、相変わらず首が据わらない感じで顔をグラグラさせている。
「あれ……? 須南さん……?」
杏樹は美愛を認識したが、そのか細い声は窓に遮られて美愛に届いてはいない。
「あ、須南さん、うしろ……」
届かない声と一緒に力の入らない体で懸命に美愛の後ろを指さした。
「えっ? なに? どうしたの?」
その意味がわからない美愛の背後には臭い影が迫っていた。
「なぁにしてるんだよ! ボクちんのラッキーアイテムだぞぅ!」
贅肉だらけの巨体を精一杯広げて美愛を威嚇する。
「きゃっ! くっ、くさい! くさい!」
「どけよぉ!」
「くさいってば! さっきの下水道も臭かったけど、あなたも相当臭いって!」
「どけって!」
怒りが頂点に達した『激臭』は美愛を突き飛ばして車に乗り込む。
「ちょっと、飛田さんは置いていってよ! あと、臭いって!」
美愛の声は届くわけもなく、『激臭』は車のエンジンをかける。
「いっくよ! ドライブだ!」
アクセルを踏むと同時に『激臭』の尻から出る轟音。その毒ガスを吸った杏樹はぱたりと気を失った。
「待ちなさいって! げふっ!」
排気ガスを浴びたせいか、窓の隙間から漏れた『激臭』の毒ガスのせいか、美愛は我慢出来ずにとうとう吹き出してせき込んだ。足がもつれながらも、白いペンと黒い単語帳を取り出す。
「くっ、車の……、ナンバー……、控えないと……」
美愛は震える手で黒い単語帳をめくり、走り去る車の後部ナンバープレートに視線を向ける。
「3507……」
消え入りそうな言葉を元に白いペンの先をブルブル動かす。
『認識シマシタ』
「えっ?」
『LOSE』
「うそっ! 違うって! 私が書いたのは英単語じゃない!」
『激臭』が杏樹を車で連れ去った後、歩道から美愛の姿が『消えて』いた。残された美愛のスマートフォンに電話がかかってきたが、それを受ける者はもういない。
『あずさ、また無茶しちゃった。ゴメンね』




