【木曜日】飛田杏樹 -とびた あんじゅ-
わたしは あんじゅ。
おとうさんも おかあさんも いつもいそがしかった。
ひとりっこの わたしは いつも ひとりぼっち。
だから たくさん ともだちを つくるの。
わたしは さみしいのがきらいな ウサギさん。
みんな ずっと いっしょだよ。
ここは草薙町にある櫛名田高校。特に何か有名でもなく、不名誉な噂もない地味な学校である。学年ごとに三クラスと、それほど大規模でも小規模でもない地味な学校である。ひとつアピールポイントをあげるとすれば素朴でかわいい子が多い。
二年A組の教室前では生徒たちのうなり声とうめき声が廊下まで漏れていた。教室をのぞいてみると、生徒たちが机に立ち向かって奮闘している。机にはテスト用紙、生徒の手には筆記用具。テストを諦めて机に屈している生徒もちらほらいる。
「残り一分だ。名前を書くのを忘れてはいけないよ」
教壇に立っているのは担任の座伯太朗先生。よく磨かれたシルバーの腕時計に窓から差し込む日の光が反射していた。
最後の追い込みをかける生徒たちの解答を書く手にも力が入る。筆記用具の先が紙を通して机を打ち付ける音の中、えんぴつを転がす愉快な音がした。
「よし!」
「そこ、しゃべらないで」
拳を握りしめてにやついていた女子生徒は慌てて顔を伏せる。
「五、四、三、二、一」
座先生のカウントダウンが終わると同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。やりきったさわやかな表情の生徒がいれば、ため息に沈む生徒もいる。
「はい、そこまで。後ろからテスト用紙を回収してくれるかな」
一番後ろの席の生徒たちが席を立ち、前の席の生徒からテスト用紙を回収しつつ教壇まで進む。座先生は受け取った四列分のテスト用紙の束をはみ出ることなくまとめあげる。
「ありがとう。帰りには返すから楽しみにしていてくれ」
一斉に不満の声があがる。こういう時は不思議と結束力があるものだ。テストをすべて回収した座先生はどこか弾んだ感じで教室をあとにした。
窓際の席の一番後ろでは、両腕を上に命一杯伸ばしている女子生徒が座っていた。名は飛田杏樹。肩に届かない長さで栗色のふわっと内側に巻かれた髪がかわいらしい。伸びを終えるとぱっちりした目を大きく開いてあくびをした。
「ぽわっ!」
杏樹は不意にあくびを押さえられて変な声をあげてしまった。
「ちょっと、ほろちゃん!」
あくびを抑えたのはえんぴつを転がして先生に注意されていた女子生徒だ。こちらは三守幌亜。後頭部にまとめあげられたポニーテールはまさに馬のしっぽの如く揺れる。
「いきなりの抜き打ちテスト、ひっどいよね~! あたしは今日もえんぴつコロコロが絶好調だったけど!」
最先端のアイテム自慢と言わんばかりにえんぴつを高くかかげた。六角形のえんぴつの先には一から六までの数字が各面にふられている。
「またそれ使ったの? ほろちゃんってホント運に任せるの好きだよね~」
杏樹はほおずえをついて上目がちにえんぴつを眺めている。
「毎回いい結果を出せるし、これも才能のうち!」
「選択問題ならいいだろうけど、ね?」
「それは言わないで……。ところで、杏ちゃんはどうだった?」
杏樹は黙ったまま笑顔を返す。
「もしかして、テストできたの?」
「えへへ、ばっちし!」
「今日って魔の木曜日じゃん! どしたの?」
杏樹の右斜め前の席で漫画を読んでいた女子生徒の頭がぴくりと動く。
「魔の木曜日?」
妙な単語を聞いて思わず口に出してしまった。杏樹と幌亜が顔を見合わせたあと、二人同時に笑い出す。笑い声を聞いて女子生徒が振り向いた。丸いレンズのメガネがよく似合う彼女の名前は須南美愛。メガネという出で立ちに肩まで延びたストレートの黒い髪が合わさって、知的で勉学優秀といったイメージが浮かんでくる。
「私、変な事聞いちゃった?」
「いやいや、ごめん。そこに食いつくとは思わなくてさ」
杏樹が体をイスごと美愛に向ける。
「ええとね、わたしって占い好きなんだ。毎日出かける前に朝のテレビ番組で十ニ星座占いを見るの」
「ああ、あれね。今朝のは私も見たよ」
「で、わたしは射手座なんだけど」
美愛が何かに気づいてぽんっと手を叩いた。
「射手座って、今日、最下位だったよね?」
「そうなの。今週『も』最下位」
「今週もってことは、先週も射手座が最下位?」
「そうなの。なぜか毎週木曜日は射手座が最下位、十ニ番目のアンラッキー」
「だから『魔の木曜日』なのね、おっかしい!」
美愛は手を叩いておおいに笑った。
「もう! けっこう深刻なのに……」
杏樹が口をとがらせてすねる。
「ごめんなさい、でも毎週木曜日ってすごいね」
「でしょ? ところで須南さんは何座?」
幌亜の質問に美愛の動きが一瞬止まり、目が泳ぐ。
「ええと……」
「もしかして、獅子座?」
美愛は返事の代わりに苦笑い。
「え~、今日の獅子座って十ニ星座中一番だよ! ずるいずるい! 不公平!」
杏樹は首を横に振り、足をばたつかせて不満を主張する。
「毎週一位じゃないし、許して~」
美愛は顔を両手で覆った。すぐに指に隙間を開けて目がのぞかせる。
「一番と最下位でちょうどいいんじゃない?」
「そうだよ、飛田さん!」
幌亜と美愛が笑いあう。
「もう! そういう問題じゃないってば!」
杏樹はまた口をとがらす。
「そうだ、杏ちゃん」
幌亜は両手で杏樹の頬を挟むと、自分の方に強引に向けさせた。
「な~んで~すか~」
すねた杏樹は視線を横に投げたまま答える。
「魔の木曜日なのにテストの出来よかったみたいだけど、どうしたの?」
杏樹はよけていた目を幌亜に向けてにやついた。
「知りたい? 知りたい?」
口を横に大きく広げていじわるそうな笑顔を見せる。
「知りたい! 教えて、杏ちゃ~ん」
杏樹の扱いに慣れた感じで幌亜が答えた。
「えへへ、実は今朝ね……」
猫の神様が住むと言われる猫ヶ森。その森の前には大きな公園がある。町の人々からは猫公園と呼ばれて親しまれているが、この公園の本当の名前を知るものは少ない。なぜ猫公園と呼ばれているのか、それは既にお気づきであろう。そう、猫が多いのだ。猫ヶ森のお膝元だけあり、猫の出入りも激しい。
そんな猫だらけの公園に元気のないしょぼくれた女の子がやってきた。飛田杏樹だ。杏樹は焦点が合わない感じで公園の入り口にひとり立っている。大きなため息をひとつ落とすと、ようやく口を開いた。
「今から急いでも遅刻は変わらないし、ちょっと気晴らしに寄っていこうかな」
杏樹は気分にうながされるままに公園に足を踏み入れた。
「あの切り株、小さい頃にほろちゃんがよくこの上で寝てたっけ」
公園中央に断面を綺麗にした大きな切り株がある。小さい子供が寝るにはちょうどいいベッドだ。杏樹は切り株まで進み、足下に鞄を置いて仰向けに寝転がった。切り株のサイズは高校生には小さいので、膝から下が切り株の端からはみ出る。
「きれいな青空。雲ひとつないよ」
朝方の透明な空気が杏樹の目に映る青いキャンパスの精度を上げていた。
「ほろちゃんはいつもこんな空を見てたんだね」
「にゃ~ん」
猫の鳴き声を聞いて杏樹は体を起こす。
「あら、猫ちゃん」
切り株から少し離れたところにある木のベンチの上に茶色いトラ模様の猫が座っていた。茶トラというやつだ。
「よっと」
杏樹は体を起こして足元に置いてあった鞄を持ち上げると、その足をベンチに向けて立ち上がった。
「おはよ~」
猫が警戒しないようにそっとベンチまで近づき、ゆっくりと音を立てないようにして猫の隣に座る。猫は一度杏樹の顔を見上げたが、すぐに顔を戻した。
「君はいいねぇ。毎日寝てばかりで」
杏樹が猫の頭をなでる。
「にゃ~」
人に馴れているのか、いやがる様子はない。この猫だけではなく、この町の猫はだいたいそうだ。
「くしゅん!」
小さな鼻水のかけらが猫の額に飛んだ。
「さむ~い!」
大きく息を吸った杏樹は口を細くすぼめ、白い息を細く長く吐き続けた。謎の行動をする人間の様子を呆れ顔の猫がじっと見ている。杏樹の吐く煙は次第に勢いが弱まり、杏樹の顔表面が赤く色付くのと反比例して口元が透明になってゆく。
「ぷはっ!」
杏樹は体内の寒さをすべて出しきると、何事もなかったように猫に向かって話し始めた。
「ちょっと聞いてよ。今日のわたしの星座占いがまた最下位だったの」
杏樹の方に顔を向けている猫は黙ったまま目を細める。
「アンラッキーを吹き飛ばすラッキーアイテムがこれまたひどいのよ。『エメラルドグリーンのウサギの小物』だって! そんなピンポイントにあるわけないよね~」
杏樹は猫の頭をなでようとしたが、額に何か液体が付いているのが見えたので手を引っ込めた。
「ウサギさんの小物ならいくつか持ってるけど、さすがにエメラルドグリーンのウサギさんはいないかな~」
「にゃ~ん」
杏樹の話を聞いていた猫が急にベンチから飛び降りた。
「どうしたの? おなかすいた?」
杏樹の呼び掛けに振り向いた猫は杏樹の方をじっと見ている。しかし、その視線は杏樹の後ろにいるものを捕らえていた。
「おっじょうさ~ん!」
杏樹の背後から陽気な声が響き渡る。
「わっ! なになに?」
驚いた杏樹が体全体をひねって後ろを向くと、ベンチを挟んだ杏樹の真後ろに黒コートの怪しい人物が立っていた。かなりの長身で腰まである長い銀髪が目を引く。
「おね~さん、誰?」
杏樹は尋ねると同時に首をかしげる。その女性は杏樹の真似をして同じ方向に首をかしげて目線を合わせた。
「は~い、ワタクシの名前はパンドラといいま~す! ではでは、お嬢さんのお名前は?」
「飛田杏樹だよ。飛ぶ田んぼに杏の樹」
あまりにも陽気だったので怪しむことなく杏樹は返答してしまった。
「あっら~、素敵なお名前ですわね~」
「ありがと! 自分の名前、気に入ってるの!」
気分が沈んでいた杏樹が今日一番の笑顔を見せる。
「ところで、おね~さん、わたしに何か用?」
パンドラがにやりと笑う。
「ワタクシの見たところ、今日のお嬢さんには運気がありませんね~。どん底ですね~」
「え~、わかるの? おね~さん何者?」
「何者ですかね~。占い師ですかね~、運気予報士ですかね~」
「まっ、なんでもいいけど。でね、今朝見た星座占いの結果が悪かったの」
嫌なことを思い出してしまった杏樹は深くため息をついた。
「な~るほど! そ~、れ~、で~、は~」
パンドラは杏樹に背を向けてガサガサと音を立てている。杏樹からは見えなかったがパンドラは大きな黒い布袋を背負っており、今はその袋の中に手を入れて何か探しているようだった。
「どこかな? どこかな?」
杏樹は何をしているのか気になったが、杏樹からはパンドラの背中しか見えない。杏樹の隣では先ほどベンチから降りた猫がベンチの背に両前足を置き、首を精一杯伸ばしてパンドラの様子を伺っている。
「ありました~! これです、これ!」
パンドラは黒い袋から取り出したものを両手で溢れんばかりに包んでいる。パンドラが杏樹の目の前まで両手を持っていくと、杏樹の瞳が大きく開いてその両手に釘付けになる。それは隣の猫も同じであった。
「おっまたせしました~! じゃん!」
勢いよく両手を開いたパンドラの手には輝く水晶のウサギがたくさん積み上げられていた。
「わっ! かわいいウサギさん!」
それはキラキラと輝きを放つ、緑、金、黒、白、黄、赤、青の七色のウサギ達。
「こちらの方たちは、幸運を招き希望を与える七色のウサギ『レインボーラビ』とおっしゃいます!」
パンドラは緑のウサギをひとつまみして快晴の太陽に向けてかざす。ウサギを通り抜けた太陽光線が緑色の光になり、杏樹の手のひらを鮮やかに染めた。
「あっ、緑! おね~さん、それって何グリーン?」
「はい、こちらはエメラルドグリーンでございますよ!」
「やった! エメラルドグリーンのウサギさんだ!」
「さっそく気に入られたようですね!」
「うん! ほしい!」
杏樹がうんうんと何度も首を縦に振った。
「では、お近づきのしるしに差し上げます!」
「やった~!」
パンドラは杏樹の差し出した両手の上にレインボーラビを丁寧に一個ずつ置いてゆく。
「そうそう、ひとつ伝えておくことがあります」
「な~に?」
「このレインボーラビ、誰かに使わせたり、渡したりしてはいけません。そうすると、たちまち幸運が逃げてしまいます。希望が絶望に早変りしてしまいます」
「うん、気をつけるね」
「逃げてしまうのは幸運だけではありません」
七個すべて杏樹の手のひらに置いたあと、その中から白いウサギと黒いウサギの二つを選んでつまみ上げた。
「お嬢さんの大切なものまで『なくなって』しまうかもしれませんよ」
パンドラは口元に浮かべた妖艶な笑みとともに、二つのウサギを杏樹の手に返す。
「わたしの大切なもの……?」
首をかしげる杏樹。
「なんだろう……?」
思い当たるものがないのか、目を強く閉じて記憶の引き出しを片っぱしから開けている。
「にゃ~」
隣に座っている猫が鳴いた。その鳴き声で杏樹はシワの寄った目元を大きく開放した。
「だめっ! いっぱいありすぎてどれかわかんない! あれ? おね~さん?」
いつの間にかパンドラはいなくなっていた。本当にそこにいたのか疑ってしまいそうなほどに気配がまったく消えていた。
「え~! それって怪しくない?」
「飛田さん、知らない人に物もらったらダメだよ!」
幌亜と美愛が揃って杏樹を攻め立てる。
「でも、そのおかげで魔の木曜日を初めて脱したんだよ! これでもう木曜日は怖くないも~ん」
「杏ちゃんは小さい頃から超ポジティブだよね」
「それがわたしのポリシーだもん!」
杏樹と幌亜が笑い合った。
「小さい頃といえば、十年前に猫ヶ森で神隠しがあったの知ってる?」
突然の美愛の質問に杏樹と幌亜の笑い声がやみ、一瞬の静寂が三人を包み込んだ。
「あれ? どうかした?」
「まあ、この町に住んでる人なら知らないことはないけど……」
「その事考えると、なんか心が痛むの」
杏樹と幌亜の顔から笑顔が消え、先ほどとは別人の表情を見せる。
「実はね、わたしとほろちゃん、あともう一人の幼なじみのみのりちゃんの三人とも神隠しがあった日の記憶があいまいなの。はっきり覚えているのは猫公園で泣いていたことぐらい」
その言葉を聞いた美愛の目が眼鏡のレンズのように丸くなる。
「同じ! 私も十年前の神隠しがあった日に猫公園にいたの!」
「えっ?」
「須南さんも?」
美愛がうなづく。
「ミア、何してるの? 帰るわよ」
突然、美愛を呼ぶ声がした。教室の後ろのドアに美愛を呼んだ女子生徒が立っている。背筋が伸びてとても姿勢が良く、背中まで届くなめらかな黒髪を控えめな赤いリボンで一本にまとめて結ってある。名は奏真梓といった。
「あっ、そうだった。あずさと約束してるんだった」
美愛は机の上の文具をペンケースに片づけて鞄にしまう。
「二人ともごめんなさい。また明日ね」
杏樹と幌亜に手を振りながら梓の待つドアへ小走りをした。
「は~い、またね~」
「ばいば~い!」
教室を出た美愛は梓と二人並んで廊下を歩いていた。
「三人とも落ち込んでるように見えたけど、何話してたの?」
「うん、ちょっとね」
「ちょっとって何よ? 私に隠し事する気?」
「わかったわよ。言うってば」
「よろしい。で、何話してたの?」
「十年前の神隠しの日の話」
梓が眉をひそめる。
「その話はもうしないって決めたでしょ?」
美愛は眉間にしわを寄せる。
「もう! 聞いてきたのあずさじゃない!」
「そうね、ごめん。その事をあの二人に?」
「あずさ、驚くよ」
「ん?」
美愛が梓の前に躍り出た。
「あの二人も神隠しがあった日に猫公園にいたんだってさ!」
「えっ?」
一瞬呼吸が止まった梓が鞄を落とす。
「やだっ、私ったら」
慌てて鞄を拾い、鞄についたほこりを丁寧に払った。
「あの二人、飛田さんと三守さん、あとは幼なじみの子がもうひとり。神隠しの日の猫公園で泣いてたってさ」
「それって……」
「そう、私達と同じ」
「偶然よ。神隠しがあった日は猫祭があった日だし、お祭りの会場近くにある猫公園に彼女達がいてもなんら不思議じゃないわ」
「でもさ、私達も飛田さん達も泣いてたって不自然じゃない? もしかしたら、同じ理由で泣いていたかもしれないし、私達がはっきり覚えていない神隠しの日になにかあったんだよ!」
「なにか、って何よ……」
「それがわからないから、十年間もずっとモヤモヤしてるんじゃない!」
美愛の突然の大声に、近くを歩いていた女子生徒が何事かと美愛を見つめていた。
「あっ、なんでもないよ。驚かせてごめんね」
美愛は女子生徒の視線から逃れるように早足で廊下を掛け抜けていった。離れてゆく美愛の背中を見ながら梓はつぶやく。
「どうしてあの日のことを覚えてないのかしら。大人達に聞いても誰も何も話してくれないし……」
杏樹たちが通う櫛名田高校と猫公園の間に草薙町商店街がある。学校帰りの生徒や夕飯の買い物に来ている主婦など、ほどほどに賑わうどこにでもありそうな商店街だ。
櫛名田高校方面から杏樹と幌亜、そしてもう一人、小柄な女子生徒の三人は仲良くおしゃべりしながら歩いてくる。小学生が櫛名田高校の制服を着ている、その女子生徒を説明するには十分な情報だ。小さな体に見合って顔立ちも幼く、ショートカットの髪がよく似合っている。名は沙倉深乃莉という。
三人は幼なじみであり、いつも一緒の三人が並ぶときは杏樹が真ん中、幌亜は杏樹の右、深乃莉は杏樹の左と立ち位置が決まっている。杏樹が三人のリーダーというわけでもなく、意識せずに自然とこの位置になっているようだ。今もその並びで商店街を歩いている。
止まることのないおしゃべりが続く中、深乃莉が左前方に見えてきた『あるもの』にたびたび視線を移している。それはたたみ一畳はありそうなたいやきの看板であった。
「ねえねえ、たいやき食べようよ!」
「太るよ」
「うっ……」
反射的に深乃莉はおなかを押さえると、途端におなかのむしが鳴った。
「我慢できない!」
深乃莉はたいやき屋に走った。
「おじさ~ん、たいやきひとつちょうだ~い!」
カウンターの向こうではモジャモジャ頭の店主がたいやきの型にたいやきの生地を流しこんでいた。
「お~う、ちょっと待ってくれな。これやっちまうから」
夕焼けで茜色が混ざったマーブル模様の白いカウンターの上に深乃莉は顎を乗せた。
「いいにお~い!」
店主は慣れた手つきでテンポよく型に生地を注ぐ。その手際の良さを眺めているうちに型の上には乳白色の鯛の群れが泳いでいた。
「待たせちまったな。おまけするから勘弁してくれよ」
「わ~い!」
「ちょうどさっき出来たばかりのがあるぞ。うちのたいやきは頭から尻尾の先まではみ出るぐらいあんこたっぷりだから、太るぞ~」
「うっ……」
心にダメージを受けながらも熱々のたいやきを受け取る。
「あの子ら友達だろ? よく三人でいるもんな。ほら、これおまけ」
店主はミニたいやきを二つくれた。こちらは出来立てではなかったが、しっかり保温されているのでしっとり温かい。
「ありがと~! おじさん、モジャモジャ似合ってるよ!」
ほくほく顔で深乃莉が二人の前に戻ってきた。幌亜は深乃莉がたいやきを三つ持っていることに気づく。
「えっ、どうしたの? やけ食い?」
「も~! 違うよ! たいやき屋のおじさんがおまけにって。二人の分だってば!」
「ありがと~」
杏樹は無意識に手元に近かった大きい方のたいやきを深乃莉の手からさらった。
「え~!」
深乃莉が取り返す間もなく、杏樹はたいやきのおなかにぱくつく。
「お~いし~い!」
ショックのあまり、深乃莉は金魚のように口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
「あたしはこっちを」
すぐに状況を把握した幌亜は遠慮がちに深乃莉からミニたいやきを持っていく。残されたひとつのミニたいやきを見て、深乃莉は肩を落とした。
「杏ちゃん、ひどい……」
深乃莉はしみじみとミニたいやきの頭をかじる。
「おいしい。頭の先まであんこだよ……」
「あれ、みのりちゃんのたいやきが小さい……」
深乃莉が二口でたいやきをたいらげる。それを見た杏樹は自分の罪に気づき、申し訳なさそうに深乃莉に近寄る。
「明日お小遣いの日だから、何かおごるね。ごめんね、みのりちゃん」
「じゃあ、豚肉屋さんの豚まんね! あの豚肉屋さん、お肉屋さんじゃなくて、豚肉専門店だから、豚まんも専門店の味なんだよね~」
深乃莉はころっと態度が変わり、たいやきを買った時のようにほくほく顔で笑う。
「くしゅん!」
喜ぶ深乃莉の隣で杏樹がくしゃみをした。
「杏ちゃん、大丈夫?」
「風邪?」
二人が心配そうに杏樹の顔をのぞきこむ。杏樹は鼻をぐずらせた。
「ちょっと鼻づまりしてる。せっかくのたいやきのにおいもわからないよ」
「はい、ティッシュ」
幌亜はすぐに鞄からティッシュを取り出して杏樹に渡す。
「ほろちゃん、ありがと~」
杏樹はかわいらしい見た目からは想像できないような大きい音で鼻をかむ。
「このまま寝込んじゃったらごめんね……」
「その時はほろちゃんにおごってもらうからいいよ~」
「ちょっ、ちょっと、何でそうなるの!」
幌亜が深乃莉のおでこをはたこうとするが、深乃莉は素早くよけて幌亜の後ろに回りこんだ。
「じゃあ、また明日ね! 杏ちゃん、お大事に~」
深乃莉はたいやき屋横の細い道を走り抜けていった。
「もう、みのりちゃんったら」
「昔っから変わらないね、みのりちゃん」
「みのりちゃんはあたしと違っておそろしく体力ないから、出来るだけ近道するために抜け道をたくさん知ってるよね。野良猫に教えてもらってそう!」
「あ~、わたしもそう思ってた!」
笑いあう二人。今日も変わらない仲良し三人の日常。今日で変わる三人の日常。
杏樹たちとは別の路地で奇怪な事が起こり始めていた。
「グリーングリーン♪ エメラルッドグリーン♪」
陽気な歌声の太った男がスキップしている。脂身たっぷりの足が地面を踏むたびに地面が揺れ、男の体を覆うすべての贅肉がぶるんとはじける。
高音域の無駄に良い男の声を耳にした犬が宙高く飛び上がったが、既に口から泡をふいて気絶しており、白目を剥いたまま落下した。実は、気絶した原因は声ではない。人間より遙かに発達した犬の嗅覚だ。臭いのである。臭くて有名なフルーツの王様ドリアンですら、泣いて土下座しそうなほどに。
あまりにもにおいがひどいので、この男を『激臭』と呼ばせてもらう。
犬の散歩をしていたおじいさんが『激臭』の前方に現れた。においに敏感な犬は早速けいれんを起こしている。心配するおじいさんもにおいに気づき、道のかたわらで激しい嘔吐を繰り返していた。既に愛犬は口から泡をふいて倒れている。原子レベルで鼻を破壊されそうなにおいを一回だけ嗅いでさっさと気絶する方が幸せか、鼻が受けるダメージは少ないが、増水した川を流れる激流のように速く激しく迫りくる吐き気を保ち続ける方が幸せか。いや、どちらも不幸である。
「グリーングリーン♪ エメラルッドグリーン♪」
周囲に毒ガスをまき散らしながら『激臭』の無慈悲な行進はどこまでも続く。
商店街にあるラーメン屋『飛田庵』の前で杏樹と幌亜は立ち止まる。ここ飛田庵は杏樹の父親が経営する人気ラーメン屋である。
「じゃあね、ほろちゃん」
杏樹はラーメン屋の脇から住居側入り口のある道を抜けて行った。
「ほ~い、また明日ね~」
手を振って見送る幌亜の眉間にしわが寄る。
「ん……、なんかくさい……?」
住居側入り口、一般の家で言えば玄関である。杏樹の家の玄関はラーメン屋の裏の通りに面していた。商店街の裏の通りだけあって人通りは少なく、買い物客で賑わう表のメイン通りとはうってかわってひっそりとしている。
杏樹は玄関の前に立つと、家の鍵を取りだそうと鞄を開けた。
「今日はキミに助けられたよ」
鍵を入れてある小さなポケットに水晶のウサギの姿も見える。今朝、猫公園で黒コートの女性からもらったレインボーラビなる七色の水晶のウサギの小物だ。杏樹はその中から緑色のウサギをつまんで取り出した。
「エメラルドグリーンのウサギさん、ありがとうね!」
夕焼けが緑のレインボーラビを通り抜け、杏樹の遙か後方にまで鮮やかな緑色のラインを引く。道に描かれたその光のラインをじっと見つめる男がいた。
「あれは! グリーン!」
男は大喜びでスキップを始める。
「綺麗な色のグリーン♪ 早く欲しいなグリーン♪」
男が通った道の脇では、残飯をあさろうとやってきた犬が口から泡を吹いて気絶していた。すると、屋根の上で昼寝をしていた猫が滑り落ちてきて、気絶している犬の上に落下する。さらに夕焼けの空を気持ちよく飛んでいたはずのすずめが猫のモフモフのおなかに転がりこむ。道ゆくあらゆる生物の命をおびやかしながら、歩く毒ガス『激臭』が杏樹に近づいてゆく。
「さてと、お父さんのお手伝いしなきゃ」
何も知らない杏樹は緑のレインボーラビを手に持ったまま、鞄の中から鍵を取り出した。鍵を玄関の鍵穴に差し込もうとした時、人の気配を感じて左側を向いた。杏樹からやや離れたところに買い物袋を手にさげた若い女性がいた。その女性はハンカチで鼻と口を押さえている。
「あの人も風邪かな?。流行ってるのかもね」
その女性は杏樹の向こう側を指さすと、怯えて逃げるように去っていった。
「ん? どうしたんだろう?」
気になった杏樹は首を右に半回転させて逆側を見ると、夕暮れ時の寒空の中でTシャツ一枚の『激臭』の姿があった。
「うわ~、寒くないのかな……」
においよりも見た目を気にする。鼻づまり中の杏樹はにおいに鈍感になっていた。
「み~つけた。ボクちんのグリーンちゃん♪」
『激臭』の不気味な笑顔に杏樹は戦慄した。背筋が凍り、若干呼吸が苦しい。
「グリーンって、このウサギさん?」
何も知らぬ水晶のウサギは杏樹の前でゆらゆら揺れていた、
「グッリーンちゃん!」
苦情対象になりそうなほどの大きなボリュームの叫びが商店街の裏の通りに響き渡る。
「これ狙っているの……?」
戸惑う杏樹をよそに、『激臭』の視線は杏樹を捕らえており、進行方向は杏樹に定まっている。
「ウサギさん、あげたほうがいいかな……?」
杏樹につままれたままのウサギはただ輝いていた。その放つ光は杏樹を不運から退けた神秘。
「ううん、ダメっ! もう、魔の木曜日とはバイバイするの!」
杏樹は鍵を持った手を引っ込めると、鍵と緑のレインボーラビを素早く鞄にしまった。
「わたしがここにいたら、家もお父さんのお店も危ない! 家族はわたしが守るの!」
杏樹はすぐに『激臭』がいる逆方向に走りだす。
「あれ~、まって~」
逃げる杏樹を見た『激臭』は太い見た目からは想像も出来ないほどの尋常じゃない速さのすり足で杏樹を追いかけた。
杏樹は商店街の裏の通りを抜けて住宅地区まで来ていた。どこにつながっているかわかりにくい道と外壁に囲まれた家々が建ち並ぶ。杏樹は迷路のようなその町を『激臭』に捕まらないように全力で走っていた。
「はぁ、はぁ、まだ追いかけてくるよ……」
実際に走ったのは数分だったが、体の疲れが杏樹の時間の感覚を狂わせており、かなり長い距離を走ったように感じていた。杏樹の後方二十メートルあたりに『激臭』の姿がある。もはや体力の限界に近い杏樹とは違い、『激臭』は追いかけ始めた時と変わらない様子であった。
「グリーンちゃん♪ グリーンちゃん♪」
杏樹との追いかけっこを楽しんでいるようで、不気味な笑顔がそれを物語っている。
「きゃ!」
よそ見をした杏樹の足がもつれた。疲労により、踏ん張ることができずに転びそうになるが、近くにあった電柱にしがみつくことが出来た。
「逃げなきゃ……」
杏樹は力を振り絞って電柱から離れ、わずかでも前進しようと前に倒れそうになりながら歩き始める。
「こっちだ」
朦朧とした意識の中、杏樹を呼びかける声がはっきり聞こえた。体を激しく疲労していた影響もあってか、聴覚が研ぎ澄まされていたようだ。
「こっちね!」
呼びかけた声は杏樹の右側から聞こえており、その方向にはわずかに人ひとり通り抜けられそうな細い隙間があった。ちょうど家同士の外壁の隙間にあたる空間だ。
「これなら、太めのあの人は通れないね!」
杏樹は冷たいコンクリートの壁に手を移すと、外壁をつたって滑り込むように細い隙間の中を進む。
「はぁ、はぁ、急がなきゃ!」
細い隙間をカニ歩きでどんどん進む。顔を動かせるほど幅の余裕がないので後ろの確認はできないが、『激臭』の気配もにおいも感じない。外壁の隙間を吹き抜ける冷たい風の音がするだけであった。
やがて、コンクリートのトンネルの先に出口と思われる路地の光が杏樹の瞳に差し込んできた。
「もうすぐだから、がんばれ、わたし!」
杏樹は自分を励まし、一歩一歩確実に希望に向けて突き進む。
「やった!」
狭く息苦しかった細い隙間を抜けて広い路地に出た。朝方晴れていた空には空を覆い尽くすほどの雲のかげりが見えている。どんよりとした空模様は杏樹の心境を写し出しているかのように思えた。
「はぁ、はぁ、少し休まないと……」
杏樹は路地脇にあったゴミ置き場の付近で座りこんでしまった。ゴミは回収されていてにおいも無く、『激臭』周囲の空気よりは比べものにならないほどに清潔だ。
「結局、魔の木曜日は避けられないの……?」
杏樹は鞄の中から今日のラッキーアイテムであるエメラルドグリーンのレインボーラビをつまみ上げた。ウサギの表情をよく見ると、ほのかにほほえんでいることに気づく。
「にゃ~ん」
気を落としている杏樹の足下に白黒混ざりの猫がすり寄ってきた。足先の白い部分が靴下をはいているようでかわいらしい、白靴下猫だ。
「あはは、猫ちゃん。わたしを元気づけてくれるの?」
「にゃ~」
逃げている間は誰ひとり人を見かけることがなかったせいか、猫の存在に心が安まった。
「ふぎゃ~!」
猫が突然、腰を引き、毛を逆立てて威嚇を始める。その威嚇は杏樹に向けてではない、猫が向いている方向は杏樹が今通ってきた細い隙間に向いている。
「ぎゃっ!」
猫は麻酔銃で撃たれた後のように、威嚇の体勢のままぱたりと横に倒れた。倒れた猫は死んでいるように動かないが、わずかにおなかが上下しているので呼吸はしているようだ。
「どっ、どうしたの、猫ちゃん!」
猫を心配した杏樹が近寄ろうとした時、細い隙間のあたりからおぞましい恐怖を感じた。それは『激臭』がウサギを求めて近寄ってくる時のイヤな直感に似ていた。呼吸をするのを忘れるほど、細い隙間から目を離せない。その間にも心臓の鼓動は勢いを増す。キツいにおいが鼻につく。なんと皮肉なものだろうか、神経が研ぎすまされているためににおいに敏感になっている。杏樹はここで初めて『激臭』のにおいを知った。ハンカチを鼻に当てて逃げ出した女性が脳裏によぎり、逃げ出した理由を理解した。
杏樹の足はすくみあがり、逃げ出すことが出来なかった。動けない杏樹の大きく見開いた両目に何者かの指先が映し出される。指先はつい先ほど通り抜けてきた外壁の隙間から這い出ていた。指先が伸びてきて手のひらに変わり、その手が外壁の角をしっかり掴む。
「ひっ!」
驚きで恐怖がやわらぎ、杏樹は我に返る。生き延びようとする本能が無意識に杏樹を走らせた。
「あっ!」
不意に走り出した反動で手の中のレインボーラビが地面に転がり落ちる。そのまま走り続ければ良かったものの、杏樹は一瞬でも足を止めてしまった。足を止めたと同時に杏樹の足首に背後から何か巻き付く。
「グリーンちゃん、つっかまえた~♪」
それは『激臭』の右手だった。細い隙間のある外壁の角から杏樹が走ったところまで数メートルは距離があるはずなのに、『激臭』は杏樹の足首をしっかりと掴んでいた。
「いやああああ!」
自分の足首に絡みついたのが人間の手だと気づいた杏樹は狂気のおたけびをあげる。
「今日はついてるな~。ラッキーカラーのグリーンちゃんが手に入ったんだから♪」
杏樹はもうひとつ気づいてしまった。その声が聞こえてくる位置と足首を掴む手の位置関係がおかしい。この手の位置であれば声は下から聞こえてくるはずなのに、その声は杏樹の頭より高く遠く離れたところから聞こえてくる。理由を知りたかったが、杏樹は振り返るのが怖かった。見てはいけないものを見てしまうかもしれない。
「これでグリーンちゃんはボクちんのものだ! ひゃひゃひゃひゃひゃ!」
突然、耳元から聞こえてきたその声に反応してしまい、杏樹は思わず振り返ってしまった。
「きゃあああああ!」
「にゃ~ん」
気絶していた白靴下猫が目を覚ました。
「にゃ?」
鼻先をくんくんさせて、あたりをうろうろしている。つい先ほどまでここにあった『におい』を探しているようだ。
「にゃ~ん」
まもなく猫は探すのをやめた。もう、ここにその『におい』は戻らない。猫はおなかがすいていたので、エサをもらうために行き付けの民家へと急ぐ。
この日の夜遅く、魔の木曜日の終焉に飛田杏樹の捜索願いが交番に届けられた。
『みのりちゃん、明日の約束、守れそうにないみたい』




