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TRACK-2 アーバン・レジェンド・クラブ 1

 古き善き時代の名残りある町、サウンドベル。アトランヴィル・シティ第九区の西にあるこの町は、昔ながらの建物が数多く残されており、映画やテレビドラマの撮影が行われることもあった。

 

 飲食店〈パープルヘイズ〉は、そんなサウンドベルの隠れた名店の一つである。

 決して広くはなくおしゃれでもない店だが、昼時ともなれば店内は常連客と、噂を聞きつけた新規客で溢れかえる。

 店主が腕を存分に発揮して振る舞うランチは、家庭的で素朴だ。ありふれてはいるものの、また食べたくなる、懐かしささえ感じさせる味だと評判高い。

 食べた者にそこまで言わしめる家庭的な料理を作る店主は、筋骨隆々の大男であった。岩のようなごつい顔に豊かな髭を蓄え、胴回りは厚い筋肉に覆われており、周囲から「まるで熊だ」と評されるのが常だ。

〈パープルヘイズ〉のランチタイムに、決まった時間はない。だいたい十一時半頃からランチメニューを出し、食材が切れたら終了だ。平均して、午後一時半から二時前後には、ランチ用食材が切れている。

 よって昼時の約二時間半は、〈パープルヘイズ〉でもっとも忙しい時間帯となる。

 

 

 時刻は十一時十分を過ぎた。もう少しすれば、腹を空かせた客たちが、ぞろぞろとやってくるだろう。

 厨房に陣地を構える店主――ヴォルフ・グラジオスは、ブイヤベースの味見をしていた。鍋の中にたゆたう黄金色のスープをひと掬い、スプーンで口に含む。コクのある甘みが口いっぱいに広がり、ヴォルフは満足げに頷いた。本日のランチは具だくさんのブイヤベースをメインに、きのこのサラダとパンを添えるのだ。

「よし、いいだろう」

 ヴォルフはもう一度頷き、レードルを置いた。

 厨房から店側へ顔を出し、店内の様子を見る。客は三人程度だ。ランチ前は一旦客の波が引くので、いつもこのような状況である。

 客の一人がテーブルを立ち、レジへと足を向けた。するとすかさず、長身の女性がその対応に向かった。栗色の髪に藍色の瞳を煌めかせるその女性は、にこやかに客を送り出すと、空いたテーブルを手際よく片づけた。

 彼女のウェイトレス姿も板についてきたものだ、とヴォルフは感心する。


 長身の女性ドミニク・マーロウが〈パープルヘイズ〉の一員となって、早一月である。これまでも飲食店で働いた経験が何度かあったそうで、接客や給仕の基礎が身についていたのはありがたかった。おかげで雇った初日から充分に戦力として活躍してくれ、店主としては大いに助かった。

 ドミニクは、どのような状況にも対応できる柔軟性を持ち、肝も据わっている。おまけに美人で、モデル顔負けのプロポーションを備える上、物腰は非常に丁寧だ。今や彼女を目当てに訪れる客がいるほどである。

 

 ヴォルフはドミニクを満足げに見たあと、視線をカウンターの端に向けた。

 赤いスウェットパーカーを着た猿が、カウンターテーブルに頭を乗せて寝ている。きびきびと無駄のない動きで甲斐甲斐しく働くドミニクとは、まったくもって正反対である。

「またか」

 熊の店主は鼻を鳴らし、やれやれとばかりに首を振った。

 エヴァンは今朝からずっと眠たそうにしていた。開店後、何度も立ったまま寝そうになっていた。終止ふらふらしていて、話しかけても返事が曖昧だ。ぼんやりしたままオーダーを取り、何度か間違えた。足元はおぼつかず、物を運んでいる時など、いつ落としてしまうか、見ている方が不安になるほどだった。

 拳骨を喰らわせると、一瞬目が覚める。しかし、しばらくするとまた、立った状態でうつらうつらし始めるありさまだった。二度三度と拳骨を繰り返したが、効果は期待できなかった。

(どうしちまったってえんだか)

 飲食店の従業員としてのエヴァンは、はっきり言ってそそっかしい。雇った当初は食器を割ったり、オーダーをミスしたりなどはしょっちゅうだった。店で働き始めて一年以上経った今、そんな初歩的失敗はなくなったものの、それでもたまにやらかしてくれる。

 だが前日の晩に、どれだけ激しい戦いがあったとしても、店で居眠りするようなことは、今までなかったのだ。

 

 ヴォルフにはもう一つ、裏の顔がある。裏稼業者バックワーカーに仕事を斡旋する〈窓口〉という役割の顔だ。

 エヴァンは、ヴォルフから割り振られたメメント退治の仕事を請け、相棒とともにそれをこなす〈異法者ペイガン〉だが、そちらの仕事がない時は〈パープルヘイズ〉で働いている。

 前日にメメントとの戦いがあろうとも、一晩眠れば元気になっているのがエヴァン・ファブレルである。それでなくても元気が有り余っている青年だ。こんな風に疲れて眠そうにしている姿など、見たことがなかった。


「おい起きろ、しっかりしねえか」

 カウンターに突っ伏しているエヴァンの頭に、いつもより加減した拳骨を落とした。するとエヴァンはゆっくり起き上がり、どこともつかぬ方向をぼんやり見つめた。まったく痛がっていない様子を見るに、喰らった拳骨よりも睡魔の方が強烈らしい。

 ヴォルフはカウンターに片手をつき、エヴァンの顔を覗き込んだ。

「お前、一体今日はどうした。え? 昨日の“仕事”はそんな遅い時間じゃなかったし、大した相手でもなかったろうが」

「ああ……うん」

 生返事である。瞼を閉じたまま口を薄く開け、ヴォルフの方を見ることもない。時々首がガクンと垂れる。このままでは、また寝入ってしまうだろう。

「起きる気配がいないようですね」

 食器を片付けて戻ってきたドミニクが、カウンターの反対側に回る。ヴォルフと彼女とで、エヴァンを挟む形になった。

「エヴァン、どうしたというの。まったく寝ていないの?」

 ドミニクの言葉にエヴァンは、にゃあ、という猫の子の鳴き声のような返事を返した。おそらく、話しかけられた内容は理解していない。

 美女と熊は、猿越しに顔を見合わせた。

「もうすぐランチタイムだというのに」

「これじゃ使いもんになりゃしねえ」

 ヴォルフは頭を掻き、おおげさにため息をつく。

「仕方ねえな。ドミニク、この馬鹿を寝かせてきてくれ。このまま店に立たれちゃ、客の頭にスープをぶちまけかねねェや」

「分かりました」

 頷いたドミニクは、エヴァンを立たせ、厨房の奥へと手を引いていった。「ほら、しっかり歩きなさい」と声をかけるドミニクと、彼女に導かれながらなんとか歩くエヴァンは、幼い姉弟の姿がそのまま大人になったかのようだった。

 


 厨房の奥には、事務仕事をするためのデスク部屋がある。そこにはソファが一脚あり、仮眠をとる時はこのソファがベッドの役目を果たした。

 ドミニクによってソファに寝かされたエヴァンは、たちまち眠りに落ちていった。ドミニクはしばらく様子を見ていたが、エヴァンの目が開く気配はなかった。

 そのうち、規則正しい寝息が聞こえてきた。本当に寝入ってしまったのだと知ると、ドミニクは彼を起こさないよう、そっと部屋を出たのだった。



 スタッフが一人欠けた状態で迎えたランチタイムは、忙しくはあったものの、さほど混乱もなくやり過ごすことができた。長年の経験で繁忙時間の乗り切り方を理解しているヴォルフと、飲食店での立ち回りに心得のあるドミニクであればこそ、二人だけでも問題なくこなせたのだった。じっくり煮込んだブイヤベースは好評で、スープ一滴、具材のひとかけらも残さず捌けた。

 ランチが終了すると、客足は引き潮のように引いていった。店内が急に静かになるこの時、一日の中でもっとも忙しい時間を戦い抜いたのだという、すがすがしい達成感が、ヴォルフの中に湧き上がるのだ。

(悪くねェやな)

 自分で淹れたコーヒーをすすり、手塩にかけて守り続けてきた店を眺める。

〈パープルヘイズ〉を始めてから今日こんにちまで、たくさんの人々が店を訪れた。自慢の料理に舌鼓を打ち、満足げな表情で帰っていく客たち。そんな彼らの表情を見るたび、小さくも温かな光が、ヴォルフの心を照らす。

(ああ、悪くねェ。こうやって生きてくのもな)

 客の半数以上は、昔からの常連客だ。飽きるほど顔の馴染んだ彼らだが、ヴォルフの裏の顔を知る者は一人としていない。

 そして、ヴォルフが過去に何をしていたのかも。

 かつて彼は、裏社会の住人らを震え上がらせるほどの存在だった。ヴォルフ・グラジオスの名は、〈帝王〉ジェラルド・ブラッドリーに次いで、敬意と畏怖を込めて呟かれていた。

 当時の高い地位から考えれば、現在の〈窓口〉という立場は、“凋落”ととられても仕方のないものだ。実際口さがない連中が、影でそのようにあることないこと噂していたのを、ヴォルフは知っている。

 彼はあえて、くだらない噂を払拭するために働きかけたりはしなかった。言いたい奴には言わせておけばいい。そんなつまらない風聞に興味はない。

(俺ァこのままでいい。このまま、ただのしがない飲食店の熊親父のままで、朽ちていったって構やしねェんだ)

 心は穏やかだった。


(だから、お前のところにゃ戻らねェというのさ、ジェラルド)


 その昔、肩を並べ、背中を預け合った相棒とものことを、ふと考える。

 だが、気が滅入りそうになったので、物思いにふけるのをやめた。空になったコーヒーカップを持って厨房に行き、食器洗浄器に入れる。それから、奥のデスク部屋を覗いた。

 ソファでは、まだエヴァンが眠りこけていた。彼は結局、ランチタイムにも目を覚まさなかったのだ。まるで赤ん坊のように、今もすやすやと眠り続けている。

 その傍ら、ソファの空いたスペースに、ドミニクが腰掛けていた。彼女は眠るエヴァンを見つめ、彼の柔らかい猫毛の前髪を掻き上げた。その手つきや優しい眼差しは、手のかかる弟を見守る姉そのものだ。

 実際のところ、二人の関係は義姉と義弟といってもいいほど親密である。

 ドミニクはエヴァンと同じくマキニアンで、彼の過去を知る数少ない人物の一人だ。また、記憶の欠如したエヴァン自身が覚えていた、数少ない相手でもある。

「お前の寝顔を見るなんて、一体いつ以来のことでしょうね」

 深い眠りに就くエヴァンの耳に、ドミニクの囁きが届くことはないだろうけれど、彼女は構わないようだった。

「まったく、一度も目ェ覚ましやがらなかったな、こいつ」

 ドアの縁に寄りかかり、丸木のように太い腕を組んで、ヴォルフは鼻を鳴らした。

「お店を手伝っている最中に、こんな風になってしまうなんて、今までになかったのでしょう?」

「ああ。なんせ、元気と体力だけは腐るほど持ってやがるからな。徹夜した時なんざ、逆にガキみてェにハイになる性質たちだ。なんかあったんだろうよ」

 いくら粗忽者とはいえ、大した理由もなく仕事をおろそかにするような、そんな男ではない。

「まあ、今日はもう駄目だろうな。このまま好きなだけ寝かせておくか」

「すみません。ご迷惑をおかけして」

 立ち上がり、丁寧に謝罪するドミニク。エヴァンがこのような状態になったからといって、彼女が謝る必要などない。にも関わらず、律儀に頭を下げるのだから、ドミニクとエヴァンの“姉弟っぷり”も堂に入ったものだと、ヴォルフは密かに微笑むのだった。

「何があったか知らねェが、ひょっとしたらアルと一晩中イチャついてたかもしれねェぞ」

「あら、無粋なことを」

 ちょっと下品に笑ってみせるヴォルフに、ドミニクもおどけて返した。

「エヴァンにとっては残念無念でしょうけれど、まだそこまで進んでないでしょうね。もし結ばれていたのなら、気持ち悪いくらいニヤついて、居眠りするどころではないでしょうから」

「さすがに義姉ねえちゃんはよく分かってんな」

 ドミニクはくすりと笑い、再びエヴァンに視線を落とした。

「この子には幸せになってほしいと、心から思います。多くの人々の思惑によって、この子の人生は歪められてしまった。私たちにも計り知れない大きな何かを、一人で背負わされています。せめて、課せられた役割を果たした先に、輝かしい将来が待っていれば。そう願って止みません」

 伏せた目の藍色は、豊かな睫毛に隠れてしまった。ドミニクの嘆きは、ヴォルフにも理解できる。


政府サンクシオン〉の計略と科学の業。エヴァン・ファブレルという青年が歩んできた道は、暗い陰謀の影に染められていた。いつだって誰かが彼を利用しようとしてきた。それは決して、正しく行われるべきことではなかっただろう。

 現在いまだってそうだ。どこかから忍び寄る魔手が、エヴァンを絡めとろうとしている。

 たった一人に、どれだけの重荷を課すつもりなのだろう、奴らは。


「この馬鹿はな。行く先に何があろうが、自分テメェの信じた道を真っ直ぐに、それこそ馬鹿みてェに真っ直ぐ突き進むだろうよ。迂回するとか、近道を探すとか、一旦停止するとか、引き返すとか、そんなもん思いつきもしねェ」

 語るヴォルフを、ドミニクは静かに見上げる。

「真っ直ぐだ。ただ真っ直ぐ進むに違ェねえ。馬鹿だからな。こいつはそれでいいのさ」

「そうですね。きっと、そう」

「だからお前さんも、そう心配しすぎなさんな。お前さんは、他人ひとの心配してることが多い。もうちいとばかり、自分の幸せについて考えたって、バチは当たりゃしねえぜ」

 はっと息を飲んだドミニクは、藍色の瞳を見開いてヴォルフを見つめた。やや視線を泳がせたあと、何かを言おうとして唇を動かした。

 と、その時。店の方から、甲高いチャイムの音が聴こえてきた。途端ドミニクは弾かれたように立ち上がると、

「お、お客様ですわ。行かなくては」

 そそくさと店の方へ駆けていった。

 彼女の後ろ姿を見送り、ヴォルフは硬い髪を掻き撫でる。

 ドミニクが何を言わんとしていたのか、おおよそ見当はついていた。

 彼女には二人の義妹がいる。単に“姉妹のように共に過ごしてきた”間柄というだけなのだが、彼女らは家族同然の絆で、深く強く結ばれていた。

 ドミニクは自分の幸せより、二人の義妹の将来を優先して考える。義妹いもうとたちには、人並みの女性としての幸福を掴んでほしい。そのためには自分を犠牲にしても構わない。ドミニクは常日頃からそう思っている節があるのだ。 

 事実彼女は十年間、たった一人で義妹いもうとたちを守り、養ってきた。ドミニクほどの器量であれば、これまでに良い出会いが何度もあっただろうに。独り身を貫いているのは、偏に義妹いもうとたちを最優先しているからだ。

 ヴォルフの目には、愛情深いために自分の幸せを放棄しようとしているドミニクの姿が、痛ましく映ってしまう。

 時折ドミニクは、どこともつかない遠くを見る目つきになる。そんな時、彼女の胸に去来する思いは、一体どんなものだろう。

「お前さんにも幸せになる権利はあるんだぜ」

 寝た子を起こさないよう、そっとデスク部屋のドアを閉めたヴォルフは、ため息まじりに呟いた。


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