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TRACK-1 光、あるいは影 6

 誰かに呼ばれた気がして目を開けた。途端まばゆい白光に目が眩み、せわしなくしばたたかせた。

 眩んだ目が光に慣れ、ぼんやりと景色を映し出す。

 視界に入ったのは、真っ白な天井だ。凹凸のない天井は、それ自体が照明でもあり、目を眩ませた光源だった。

 

 ――ここはどこだ。

 

 漠然と思う。正面に天井があるということは、仰向けに寝ている状態という証だ。現に、スプリングの利いたマットレスと思われるものの感触が、背中にある。ベッドの上なのだろう。

 

 ――なぜ、こんな所で寝ているんだ。

 

 ここに至るまでの出来事を思い返そうとしてみるも、頭の中に靄がかかっていて、記憶を辿ることができない。

 両の肘を使って、起き上がろうと試みた。身体全体が重く感じられ、腕一本動かすのも億劫だったが、どうにか上体を起こすことに成功した。

 起き上がった瞬間、首の後ろがチクリと痛んだ。とっさに右手を当てる。頭と首の境目に触れると、そこには小さな金属が埋め込まれていた。身を捻って枕元を確認すると、プラグが一本、所在無げにマットレスの上に落ちていた。首に埋め込まれた金属部――接続孔に繋がれていたものが、起き上がった勢いで引き抜かれたのだろう。

 視線を上げると、ベッドヘッドの傍らに、箱型の機材が幾つかセッティングされていた。それぞれの機材が、どんな役目を果たしているかは分からない。だが、接続孔に差し込まれていたプラグが、一番手前の機材と繋がっていることは見て分かった。

 機材の上にはモニターもあった。電源は落とされていないようだが、画面は青白い光を放っているだけで、何も映し出していなかった。

 姿勢を戻し、今度は自分自身の状態を確認する。

 薄い水色の患者衣を着ていた。腕と足、腹など、あちこちを触ってみたが、特に何もない。

 自身に異常がないことが確認できて、やっと部屋の中に目を向ける気持ちの余裕が生まれた。

 とはいえ、自分が寝ていたベッドと側の機材以外に、設置物はなかった。壁と床は天井と同じく真っ白で、不気味なほどぴかぴかに磨き上げられていた。

 壁の三方は何もない白壁だが、一方のみ、ベッドから見て左手の壁には、窓らしきものがあった。壁の一部を、端から端まで横一直線にくり抜いたような、横長の窓だ。

 それ以外には、何もない。出入り口らしきものはなかった。

 ゆっくりとベッドから足を下ろし、床につける。履き物はなかったので、裸足のまま立ち上がった。少しふらついたが、足はしっかりと床を踏みしめているので、支障なく歩けそうだ。

 ひんやりしたリノリウムの床を、一歩一歩確かめるように歩く。窓の側まで来ると、その向こうの世界を覗くため、両手をついて顔を近づけた。

 窓の向こうには何もなかった。というより、何も見えないのだ。目を凝らしてみても、真っ暗な空間が広がっているだけで、そこが部屋なのかどうかさえ分からない。まるで、こちらの部屋が、闇の中に浮いているかのようだった。

 

 ――ここはどこだ。

 

 最初の疑問に立ち戻る。

 

 ――どうやってここに。

 

 出入り口は見当たらない。この窓も開きそうにない。自分はどうやってこんな場所に入れられたのだろう。

 入り方が分からなければ、出方も分からない。

 だが、出なければ。

 こんな所にはいられない。帰らなければ。

 

 ――帰る。どこへ? 

 

 窓から離れ、きびすを返す。そして息を飲んだ。そこには、さっきまでなかったはずの鏡があったからだ。

 鏡は全身を映す姿見で、自身の頭から爪先までを、満遍まんべんなく投影していた。

 どうして、いつの間に。ベッドから窓際に移動する時は、たしかに何もなかった。

 鏡に触れようと、おそるおそる右手を上げる。鏡に映った自分も手を上げ、虚像の指先に触れる。はずだった。

 鏡の中の手が、こちらとは違う動きを見せた。指先を合わせず、手首を掴んできたのだ。

 鏡ではない。目の前にいる同じ姿のこれは、鏡に映ったものではない。

 よく見ると、手首を掴んでいる“あちらの自分”のその手には、白いタグが巻かれている。タグには〈13〉と記されていた。

 もう一人の自分は、感情のない目でこちらを見つめる。

 緋色の瞳に炎のような輝きはなく、くすぶる燃え滓のように、空虚で乾いていた。

 もう一人の自分は、手首を掴んだまま一歩近づく。

 唇が薄く開いた。



「お前は誰だ」


        *


 崖から突き落とされたような感覚で目が覚めた。

 心臓が早鐘を打っている。額の生え際に汗が滲み、わずかながらに垂れ落ちた。

 エヴァンはゆっくりと起き上がり、右手で頭を抑えた。少し立ち眩みしたが、大したことではなかった。

「えっと、俺は、たしか」

 軽く頭を振り、周囲を見回す。薄暗い空間だ。すぐ側で水が流れている。ここは下水道だ。

 自分の居場所を把握すると、何の目的でここにいるのかも思い出した。何が起きたのかも覚えている。だ

 正体不明のメメントが放った“何か”によって、激しい頭痛に襲われ、意識を失ったのだ。

 服の右半分は、通路の水分で湿っている。どのくらい失神していたのだろう。携帯端末エレフォンで時間を確認してみた。レジーニに連絡しようとしていた時刻から考えて、およそ五分程度だろうか。

 ずいぶん長い間眠っていたような気分だ。夢を見た気もするが、どうにも思い出せない。

 説明のつけられない出来事にもどかしさを覚え、それはたちまちメメントへの苛立ちに変わった。

「くっそ、あの野郎。俺に何しやがった」

 追いかけるために数歩歩いたが、思い直して立ち止まった。メメントの気配は感じられない。もう近くにはいないようだ。

 これ以上追うのは無理がある。負けたようで悔しいが、帰りがあまり遅いと、キールマンやマリー、そしてアルフォンセに心配をかけることになってしまう。今回はここで引き下がるしかなかった。

 壁の地図で現在地を確認しつつ戻ったので、来た時よりも時間がかかった。下水道に降りてから約一時間後、エヴァンはアパート裏手の降り口より、外の世界に帰ってきた。

 アパートに戻ったエヴァンは、まず大家のキールマンを訪ねた。彼の部屋にはマリーもいた。ここでエヴァンの戻りを待っていたらしい。

借りていたハンディライトをキールマンに返却し、「特に何も見つけられなかった」と報告する。メメントのことは、さすがに言えない。

 賢いマリーは何かを察したか、エヴァンの顔をじっと見つめていた。が、問い詰めることはなかった。

 キールマンはエヴァンの汚れた服を見て、心配そうに理由を訊くので、足が滑って転んだだけだと、笑って答えた。

 無理な頼みを引き受けた礼として、彼の妻が焼いたミニサイズの苺タルトを、バスケットいっぱいに持たせてくれた。もちろん、マリーの分もある。

「ねえ、本当に何もなかったの?」

 十二階へ昇るエレベーターの中で、マリーは怪訝な表情を見せた。エヴァンの説明に、明らかに納得していない様子だ。

「なかったって。なんだよ、何かいた方がよかったのか? お化けとか宇宙人とか」

 エヴァンがおどけて片眉を上げてみせると、少女は唇をつん・・と尖らせる。

「バッカみたい。そんなのじゃなくて、もし犯罪者が逃げ込んでたりしたらどうするのよって話」

「もしそんな奴がこのアパートの近くにいたら、俺がぶっ飛ばしてやっから安心しろ」

「相手は銃とか持ってるかもしれないじゃない」

「んなの俺には関係ねーって。平気平気」

 いかな犯罪者であろうと、どのような武器を振りかざそうと、マキニアンであるエヴァンに敵う人間など、そうそういない。

 自信たっぷりなエヴァンの返答に、マリーはため息をついた。ちょうどそのタイミングで、エレベーターが十二階に到着した。

「あんたのその自信、いったいどこから来るわけ?」

「ここから」

 エヴァンは右の袖を肘までまくり、ぐっと力を込めて曲げた。鍛えられた前腕が硬くなり、二の腕に瘤が盛り上がる。

「な?」

「説得力ないよ、筋肉バカ」

 マリーはにべもない一言を返すものの、明るい笑みを浮かべるのだった。

 



「ただいま、アル」

マリーを送り届けてから自分の部屋に戻る。ドアを開けると、ソファに座って待っていたアルフォンセが、駆け寄って迎えた。

「おかえりなさい」

 エヴァンが帰ってきて安心したのか、アルフォンセはほっと息を吐き、肩を撫で下ろした。しかし、服の右半分が汚れていることに気づくと、表情を強張らせた。

「ど、どうしたの!?」

「ああ、これ。下水道ん中ってさ、通路が湿ってて滑りやすいんだよな。で、見事に滑った」

「大丈夫? 怪我してない?」

「大丈夫大丈夫。転んでできた傷くらい、すぐ治るから」

 マキニアンは回復能力に秀でている。ほんの小さな傷なら、ほぼ瞬時に癒してしまう。エヴァンのステータスメンテナンスを行うアルフォンセが、それを知らないはずはない。にも関わらず、こうして心配してくれるのだから、彼女がいかに慈愛に満ちた女性で、エヴァンを気にかけてくれているかが、改めて伺えるというものだ。

「メメントはいたの?」

 いた、と正直に答えそうになって、エヴァンは口を閉ざした。下水道で遭遇した奇妙なメメントには、敵意が感じられなかった。だからといって放っておいていい理由にはならないが、少なくとも今夜は何も起こらないだろう、とエヴァンは踏んでいる。

 なぜそう思うかと問われれば、勘だとしか答えようがなかった。おかしな幻覚を見せて意識を失わせるだけのことをしておきながら、エヴァンに傷ひとつ負わせず逃げたのだ。今頃どこかに身を隠してしまっているのではないだろうか。エヴァンと対峙し、あんなにに怯えていたのだから。

 このアパートからは遠く離れているはずだ。ならば不安にさせるようなことは、言わない方がいいだろう。いざという時には、自分が身体を張ればいい。

「いや、何もなかった。心配いらないよ」

「そう?」

「そうそう。だから耳かきの続きを……」

 このために早く帰って来たといっても過言ではない。エヴァンはいそいそと、アルフォンセを部屋の奥へ連れて行こうとした。しかしアルフォンセは、優しく肩を押すエヴァンの手からするりと抜けた。

「ねえエヴァン。今夜はもう休んだ方がいいわ。汚れた服は私が洗濯するから、着替えてきて」

「え? 俺疲れてないけど」

 それどころか、まだまだ元気である。耳かきの続きだけでなく、もっと恋人同士らしい段階に踏み込んだっていいくらいだ。むしろそちらを強く希望している。

「うん。だけど、いくらマキニアンでもちゃんと休息は必要でしょ? 今夜はもう〈異法者ペイガン〉のお仕事もしたんだし、ね?」

「あう……、はい」 

 天使の微笑みで労りの言葉をかけられては、煩悩を押さえ込むしかない。がっくりと項垂れたエヴァンは、しぶしぶスウェットのルームウェアに着替えた。

 汚れた服を渡すと、アルフォンセは大事そうに受け取る。

「服、明日には返すね」

 エヴァンの部屋から出たアルフォンセは、ドアの前で振り返り、抱えた衣服を少し掲げた。彼女の腕には、キールマン夫人のバスケットがかけられている。夫人の苺タルトのおすそ分けだ。

「ありがとう。でも、いつでもいいよ」

 洗濯よりも、二人きりで過ごす時間が削がれた残念さの方が重要だ。アルフォンセのありがたみを噛み締めつつも、エヴァンの表情は晴れない。 

 アルフォンセは、ふてくされているエヴァンを見つめた。片手を彼の頬に当てると、背伸びして唇に軽くキスをする。フルーティな花の香りが、鼻腔をくすぐる。柔らかいアルフォンセの唇は、ほんの一瞬の触れ合いでも、エヴァンの背筋に甘い痺れを走らせた。

「無理しないで。ゆっくり休んでね。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 部屋に連れ戻したくてしかたないのだが、アルフォンセの気持ちを想えば、強行突破に踏み込むわけにはいかなかった。悶々とする胸中をなだめすかし、彼女が向かいの部屋に消えるまで見送った。

 今夜もまた、一人で眠ることになってしまった。

 隣に彼女のぬくもりを感じる日が来るのはいつになることやら。悩ましき問題に悶々としながら、エヴァンは文字通りベッドにダイブするのだった。



 

 眠りに就こうとして、布団に身を沈めたエヴァンであったが、ひどく寝つきが悪かった。

 いつもなら布団にくるまって二、三分で眠れるのに、今夜はまったく眠くならない。それどころかどんどん目が冴えて、睡眠欲が失せていくのだ。

 眠りたいのに眠れない。身体が火照って疼き、何度も何度も寝返りを打つ。

 無理にでも眠ろうと、固く目を瞑る。すると、瞼の裏で閃光フラッシュが起き、奇妙な映像を映し出す。下水道で遭遇したメメントに見せられた、あの幻覚だ。

 身体の疼きが止まらない。目を開け、時間を確認すると、午前一時を回ったばかりだった。

 湧き上がる欲求が、エヴァンを安らかな眠りから遠ざけている。その欲求というのは、アルフォンセに対するものではない。もっと粗野で、乱暴で、刹那的な破壊衝動だ。

 

 暴れたい。

 

 何でもいいから、壊してしまいたい。


(一体どうしちまったんは、俺は)

 興奮する身体からは、初秋の夜とは思えない量の汗が吹き出している。心臓の鼓動が早くなり、ますます身体が熱くなる。こんな破滅的な衝動、今まで感じたことがない。

(畜生。あのメメント、やっぱり俺に何かしやがったんだ)

 もうこれ以上抑え込むのは無理だった。エヴァンはベッドから飛び起き、窓を開けた。秋の匂いを含んだ夜風が、さあっと部屋に吹きつけ、エヴァンの肌を撫でる。しかし、熱くなった心身を冷ましてはくれなかった。

 開け放った窓から身を乗り出し、上空を見上げる。都会のネオンと、舞い上がった粉塵のせいで夜空は濁り、一面に瞬いているはずの星がほとんど見えない。上弦の月が銀白の光を、眠らない地上に降らせているだけだ。

 エヴァンは屋上の端に巡らされた転落防止の柵めがけて、右手を突き出した。人差し指と中指が伸縮性のハンドワイヤーとなって伸びる。柵に絡みついたと同時に上昇する。柵を飛び越え、裸足のまま屋上に降り立った。

 十二階建てアパートの屋上から見渡せる街並みは、さほど絶景ではない。もっと背の高い建物が周りに建っているし、遠くまで見通しがいいわけでもない。

 それでもエヴァンには、この屋上がお気に入りの場所だった。柄にもなく静かに考え事に浸りたい時はここに来るし、ビル群の向こうに沈みゆく太陽を眺めるのも好きだ。

 そしてこの屋上は、アルフォンセから生まれて初めての誕生日プレゼントを贈られ、初めてのキスを交わした場所でもある。

 思い入れのある屋上だが、今のこの、攻めさいなむほどの興奮と衝動を鎮める効果はなかった。

 エヴァンは数歩後退し、反対側の柵に向かって走り出した。柵を蹴ってジャンプし、十メートル先の隣のビルに飛び移る。着地するや再び走り、また隣のビルに飛び移った。

 一般人を凌駕したジャンプ力とハンドワイヤーをもって、エヴァンは夜の街の上空を駆け抜ける。暴れろ、破壊しろという、魔の囁きを振り払うように、がむしゃらにはしった。

 交感神経が興奮し分泌されたアドレナリンが、身体機能を高めてしまっている。膨れ上がった暴力的な欲求は、走るだけでは収まりがつかない。

 アパートからかなり離れた郊外で、解体作業途中のビルにたどり着いたエヴァンは、〈イフリート〉を起動させた。そして紅い鋼鉄の拳を、迷うことなく壁に叩き込んだ。そこはまだ解体の始まっていない部分だったが、いとも容易く崩れ落ちた。

 一面の壁を壊してしまうと、その隣の壁を打ち砕く。抑えきれない衝動にまかせて、壁や床を次々と破壊していった。理性は役に立たず、抗えない本能が心身を支配していた。

 エヴァンの手によって、ビルが崩壊していく。解体業者が何日もかけて行う作業は、ただ一人の拳のみで完遂されようとしていた。

「くそ! どうなってんだ! なんで俺はこんなことを! 畜生!」

 訳の分からない衝動は、エヴァンを苛立たせ、憤らせ、不安にさせた。けれど、どうしようもない。自分に対して悪態をつこうとも、破壊の手を止められないのだ。

「くそったれえええッ!!」

 冴えた白い月光の下、叫び声が木霊こだまする。

 


 地獄の破壊衝動は、一晩中エヴァンを苦しめた。ようやく興奮が醒めたのは、実に夜明け前のことだった。




 数時間後。定時に現場入りした解体作業者たちは、自分たちの手で壊す予定だったはずのビルが、一夜にしてすっかり崩壊している様を、呆然と見つめるしかなかった。


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