TRACK-1 光、あるいは影 5
アトランヴィル・シティの地下に張り巡らされた下水道は、一区ごとに独立している。各地点に下水処理施設が稼動しており、きれいな水となってネルスン運河やその他の川に流されるのだ。
水路は縦横の等間隔に敷かれ、管理システムにより一定の速さを保って水が流れている。管理システムは通路内の空気の清浄化も行っており、臭気がほとんどない、という環境である。
ただし、水気のある場所ならではの湿気や、水そのものの匂いまでは消すことが出来ない。
ドドド……という流水のBGMに満ちた地下道を、小振りなハンディライトの光を頼りにエヴァンは進む。湿った通路を歩くたびに、靴の踵が水を撥ねた。
流れる水が空気を動かし、かすかな風を生む。外の世界よりもひんやりしていて、ぞくっと鳥肌が立つ。
通路の壁には、たまに地図盤がはめ込まれており、照明も設置されていた。水道局員用のものだろう。おかげで現在地を確認しながら進めた。
下水道はメメントが好んで潜みそうな場所である。事実これまでにも何度か、下水道で仕事をしたことがあった。だから今回、キールマンが見たという影も、メメントであっておかしくないのだ。
「ほーれほれ、出て来いよメメントちゃーん。耳かきの邪魔してくれた礼を、たっぷりしてやっからさ」
甘い時間を中断させられたツケは、異形に払ってもらうつもりである。ハンディライトの光を天井や通路の咲きに向けながら、エヴァンは奥へ奥へと歩を進めた。
捜索開始から十分ほど経過した。マキニアンの感知能力は、まだ何にも反応を示さない。たまにネズミを見かけるくらいで、その他に蠢くものの姿はなかった。
「どこにいやがる、ったく」
壁に仕切られた下水道内は、身を隠せる場所が多い。物陰からいきなり襲いかかってくる可能性もある。
エヴァンの感知能力設定値は低く、せいぜい半径十メートルがその圏内だ。それも、はっきりと敵の位置が把握出来るではなく、「おそらくこのあたりだろう」という漠然としたものだ。多数の遮蔽物があるフィールドで、敵の位置を確実に捉えることは、エヴァンには出来ないのである。
だから、野生の勘とも言うべき“第六感”に頼るしかない。「おそらくこのあたりだろう」というその勘が、今は命綱だ。
しかしその第六感にも、引っかかる気配はまだなかった。
更に十分が経過した。怪しいものはまだ見つからない。何個目かも分からない壁の地図を見るに、現在地はアパートから四区画ほど離れている。サウンドベルの南隣の区、リバーヴィル付近まで来たようだ。
「いねえのかな」
なかなか目標物を発見出来ず、エヴァンは後頭部を掻いた。メメントにしろ人間にしろ、すでに逃げおおせており、もうこの下水道にはいないかもしれない。
だが、まだ調査を切り上げるわけにはいかなかった。アパートから離れてくれたとはいえ、目標物が本当にメメントならば、このまま放っておいては、どこかで誰かが犠牲になるかもしれない。
「こりゃレジーニ呼び出した方がいいかもな」
体力自慢のマキニアンとはいえ、サウンドベル全域の下水道を、一人で捜索するのは骨が折れる。相棒の手を借りられれば楽にはなるが、突然の呼び出しに機嫌を損ねさせること必定だ。
とはいえ、事態の早期決着のためには、多少の八つ当たりは我慢せねばならない。エヴァンは意を決し、相棒に電話するため、ポケットから携帯端末を取り出した。地下であれども電波は行き届いている。
端末を操作し、表示されたレジーニのナンバーをタップしようとした、その時。
ぞわり。
項に氷を当てられたような寒気を感じた。首筋の産毛が逆立つ。エヴァンははっと息を飲み、携帯端末をポケットに戻した。
(いる!)
メメントの存在を感知したのだ。すぐ近くにいる。すぐに戦闘に入れるよう、ハンディライトを左手に持ち替え、右手を空けた。
(今までのヤツとは違う感じだ)
どう違うのかは、具体的には分からない。例えるならそれは、見慣れたレイアウトの部屋の中、どこか一点が変化しているような違和感。その変化点は、一見だけでは分からない。いつも通りの部屋に見える。だが、確実にどこかが違う。なのに、何が違うのか把握出来ないもどかしさだ。
だが、頼りの第六感が警告している。今まで倒してきたメメントとは段違いに強いのかもしれないし、あるいは類を見ない能力を備えているのかもしれない。
それほどに特殊な存在感を放つメメントを、ここまで身近に感じるくらい接近を許したのか。エヴァンは思わず舌打ちした。
「上等だぜ。どんなヤツでも構うかよ。ブッ倒す」
意識を集中させ、細胞装置を起動させる。真紅の鋼鉄に変形した腕を振り、エヴァンは異質な気配を辿った。
前方約五メートル先の左角。その向こうから、気配が漂ってきている。移動しているようには感じられないから、角を曲がればすぐに鉢合わせるだろう。おそらくあちらも、エヴァンの存在に気づいているだろう。
角付近は、地図照明のおかげでほのかに明るい。ハンディライトを消し、腰のベルトに差し込んだ。
いつもなら危険など考えずに攻め込むところだが、あまりに得体の知れない相手に、さすがのエヴァンも慎重を心がけた。角の手前まで、ゆっくりと歩を進める。
気配はすぐそこだ。息遣いも感じられそうに近い。エヴァンは右手を握り締め、一気に角を飛び出した。
巨大なシルエットが、そこに立ち塞がっていた。体長二メートルは、優に超えているだろう。どうやら二足歩行型――ヒトに近い体形のメメントのようだ。
黒い布で全身を覆っており、身体の具体的な形状は分からない。布は、無骨なデザインの服にも見えた。四肢を覆うほど裾と袖が長く、フードをかぶっている。まるでローブのようだ。
顔はマスクとおぼしきで覆われ、正体が分からない。
このように、何かにくるまって身を隠すメメントなど、今までにいなかった。このことからも、他の個体にはない異質性を伺えた。
だが、倒すべき相手に違いはない。
「出たな。アルとの時間を潰してくれたお礼だ、たっぷりと……」
〈イフリート〉に炎を纏わせ、恨みつらみを込めて殴りかかるつもりで、拳を振り上げた。当然、メメントも迎撃体勢に入るだろうと踏んでいた。
しかし。
黒いローブのメメントは、巨躯を震わせ縮こまった。後ずさり、己をかばうように両手を前に突き出す。
「ア……アア……」
くぐもった低い声を発し、じりじりと後退していく。
メメントの反応に困惑したエヴァンは、振り上げた拳を降ろした。炎も収める。
「なんなんだ、コイツ」
違う。明らかに今までのメメントとは違う。
通常メメントから発せられるはずの敵意や殺意、破壊衝動などが感じられない。
予想を超えた異常さに、エヴァンは唾を飲み込んだ。
服を着て、マスクをかぶったメメント。そんな個体、今までにいなかった。
いや、一体だけいたではないか。それも、とびきり特殊な個体が。
全身を黒き鎧に包んだ半人半馬の、唯一無二のメメントが。
最強と称されるメメント〈トワイライト・ナイトメア〉。人間には害を成さず、ひたすら下位のメメントを狩り、モルジットの残滓を回収する孤高の怪物。
(アイツに近い? いや、でも)
そう。目の前のメメントからは、他の雑魚よりもトワイライト・ナイトメアに近いものを感じるのだ。
しかし、やはり違う。
なぜなら。
「アア……ウウ、ウウウ……」
巨躯のメメントは苦しそうに頭を抱えた。その姿には、トワイライト・ナイトメアのような勇猛さや気高さが微塵もない。むしろ、
(怯えている?)
エヴァンが近づくと、メメントはよろけながら後退した。左手で頭を抱えたまま、右手を正面に突き出し、弱々しく振る。
「お前、一体何者だ?」
「コナイデ、クダサイ……」
メメントが言葉を発した。
瞬間、エヴァンの視界に閃光が走った。目がくらむと同時に、頭が凄まじい痛みに襲われる。
「あああッ!!!」
脳を握り潰されたかのような激しい痛みだ。耐え切れず、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
脂汗が浮き、涙が滲む。食いしばった歯が下唇を噛み切り、血が出た。
激痛とともに視界を攻める閃光が、脳内へ浸食してくる。閃光の中に映像が浮かぶ。
満天の星空。土に根を下ろす植物。光射す水中。分裂する細胞。立ち上がる赤ん坊。絡み合う裸の男女。殺し合う男たち。おびただしい血。焼かれる生き物。ひび割れた大地。汚れた水。燃え盛る炎。白い部屋。こちらを覗く目。死んだ犬。ぬいぐるみ。並べられた幼い少年少女。笑い声。ブランコ。墓穴。崖。銃声。悲鳴。破られた本。13のタグ。肉塊。誰もいないベッド。胎児。注射器。車椅子。鏡。背を向けた男の子。宇宙。
膨大な情報が奔流となって、エヴァンの脳に一気に流れ込んでくる。チャンネルの切り替えのように、それらは一瞬で過ぎ去り、また訪れた。
あまりの衝撃に、エヴァンはたまらず苦痛の悲鳴を上げた。
「やめろ! やめろオオオオッ!」
凄まじい耳鳴りで、自分の声が遠くに聴こえる。何を叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
唐突に閃光が消えた。同時に痛みも失せ、耳鳴りも収まった。
エヴァンの身体が前のめりに倒れた。意識は急速に遠のき、エヴァンを闇の中に引きずり込んだ。
*
アトランヴィル・シティ警察中央庁は、先月に新築庁舎への引越しを完了したばかりである。築七十年の旧舎から、大御所建築デザイナーが手がけた最新式のビルディングへと生まれ変わった中央庁舎は、ちょっとした観光地と化していた。
外装は直線的で無駄がない。本棟を挟むように第二棟・第三棟が建っており、太陽が天頂にある頃、大地に落ちる影が尖塔のように見える。エントランスへ続く大階段は扇状で、さながらメタリックな古城といった印象だった。
夜間である今、その前衛的な全貌は薄闇の中である。夜とはいえ、眠らない大都会の治安を守るべく、私服・制服入り混じった警官たちが、ひっきりなしに出入りしていた。
扇状の階段を、メットカムジャケットを着た若い男が、軽快に駆け上がる。乗ってきた愛車のバイクは、来客用パーキングにきちんと停めていた。
外回りから帰ってきた警官たちに紛れて、広いエントランスに入る。吹き抜け天井のホールは、人で溢れかえっていた。
取調室に連れて行かれるヤンキーの集団、近所のトラブルを訴えている中年の男、迷子の応対をする女性警官。一日のうちに様々な事件が街で何件も起き、警官らは休む暇さえない。
若者はエントランスを歩き回り、会うべき人の姿を捜した。そんな彼を不審に思ったのか、一人の制服警官が声を掛けようと近づく。
しかし、肩を叩こうと伸ばした右手が若者に触れる直前、ふいに現れた太った私服警官がそれを制した。五十代間近と思われる年頃の男だ。顔立ちは温厚そうで、鼻の下に髭を蓄えている。でっぷりと肥えた腹は、むりやりスラックスに収めているせいで窮屈そうだ。シャツのボタンは、そのうち飛び散ってしまうかもしれない。
制服警官は怪訝な表情を見せたものの、太った私服警官が目配せすると、何も言わずにその場を去った。
若者は私服警官の訪れに気づくと、安堵の顔で右手を差し出した。
「モリス警部ですね。はじめまして」
警部は厚みのある右手で、握手に応じた。
「はじめまして、リック・モリスです。遠い所へようこそ。ええと」
モリス警部が眉を顰める。若者は慌てて言葉を加えた。
「ああ、失礼しました。ガルディナーズ=ミュチャイトレル=ヌルザーンと申します」
「変わった名前ですな」
ガルディナーズはにこりと微笑む。
「祖国の言葉なんです。長いのでガルデと呼んでください」
「分かりました、ではガルデ捜査官、こちらへ」
モリス警部は先に立って歩き出す。促されたガルディナーズは、彼のあとをついて行った。
「故郷はどちらです? そのお顔立ちだと、南の方だと察しますが」
重たそうに足を持ち上げ階段を昇る警部が、振り返りつつ尋ねる。
「ええ、そのとおりです。もっとも、俺自身はこの大陸出身ですが。一族は曾祖父母の代に移住してきたんです。ドゥニヤの民をご存知ですか?」
「いえ、申し訳ないが」
素直に首を振る警部に、ガルデはまた笑った。
「気にしないでください。辺境の小さな集落の一族ですので、知られていないのは当然です」
会話が途切れたタイミングで、二階のとある部屋にたどり着いた。モリス警部のオフィスだ。
室内はとても簡素だった。デスクにはコンピューター。資料の収まったキャビネットが壁際に二棹並び、応接用のテーブルとソファセットがある。一箇所だけの窓からは、ネオンに彩られた中央区の街並みが、整然と広がっていた。
「殺風景な部屋でしょう。引っ越したばかりで、私物も少ないので。どうぞ寛いでください。コーヒーはどうですか?」
モリス警部の申し出を、ガルデは丁寧に断った。
「いえ、どうぞお気遣いなく。なるべく早く捜索に向かいたいですから」
「そうですか。なら、話を進めましょう」
頷いた警部は、デスクからタブレット端末を拾い上げ、応接用テーブルに置いた。警部がソファに腰掛けると、革クッションの下のスプリングが、ぎしりと鳴いた。
「二日前、ロックウッドの二十五番埠頭の防犯カメラに、奇妙な影が映っていました。およそ二メートルくらいでしょうか」
タブレット端末を渡されたガルデは、画面を食い入るように見つめた。
端末の画面には、無数の物流コンテナが並ぶ場所が映し出されている。画面左上には午前一時十八分と表示されており、録画当時が夜中であったことを教えてくれた。
一分後、画面右側のコンテナの中から、大きな影がのそりと這い出てきた。黒ずくめの人間に似た影は、モリス警部の言葉通り、立ち上がると二メートルはあろうかという巨体の持ち主だった。
それはしばらく、その場でもぞもぞ蠢いていたが、やがてゆっくり歩き出すと、画面左の隅に消えていった。
ガルデは防犯カメラの映像を巻き戻し、巨影がもっとも鮮明に移っている場面で一時停止させた。
身を包んでいるのは黒いローブ、マスクを被り、素顔を隠している。
ガルデは頷く。
「間違いないですね」
「二十五番埠頭のコンテナターミナルは、物流中継地です。お探しの“彼”は、おそらく貨物用の大陸横断リニアに潜り込んで、ここまで来たのでしょう」
モリス警部が説明する。
「その後の逃走経路を予想し、下水道に入り込んだのではと考え、そちらのカメラもチェックしました」
警部の太い指がタブレットモニターの上で滑り、画面が切り替わる。今度はもっと暗い、狭くて細長い空間だ。水が流れており、両端が通路になっている。
何度か画面が切り替わったが、そのどれにも、怪しい黒い影が映っていた。
「移動速度は緩やかです。下水道を通って、南西のリバーヴィル方面へ向かったと思われます。掴んだ情報はこれだけです」
「充分ですよ、ありがとうございます警部。ひとつ訂正しますが、“彼”ではなく、“彼女”なんです」
ガルデがいたずらっぽく笑うと、警部は小さな目を見開き、ほほう、と唸った。
「それはそれは……。奴らに性別があるとは思いませんでした」
「ええ。俺たちにも予想外のことでした。“彼女”は特別なんです」
ガルデはタブレットの画面をもう一度見つめてから、すっくと立ち上がった。
「ここから先は、俺一人でやります。“彼女”が向かった先が判明しただけでも大収穫です。モリス警部、ご協力ありがとうございました」
二人は再度握手を交わす。
「いえいえ、同じ公僕の誼みですからな。といっても、一応は秘密裏の協力関係、ということですが」
リック・モリスは長い間、ガルデの属する機関の協力者として、裏の活動を行っている。モリス警部のような協力者は、公的機関及び民間に幾人も存在する。彼らの活動はあくまでも秘密裏に行われるものであり、“なかったこと”とするのが暗黙の了解だ。
握手のあと、警部は厳かな口調で、ガルデに言った。
「私はその、メメントとかいう存在を否定はしませんが、進んで関わりたいとは思いません。しかし反対に、好んで関わろうとする連中がいます。裏稼業者の〈異法者〉と呼ばれる連中です」
「メメント狩りを生業としている人々、ですね」
「ええ、あなたの機関の商売敵と言ってもよろしいのかな? 奴らはなかなか仕事熱心です。見つけたメメントは、手当たり次第に殺しますよ」
「知っています。だから、一刻も早く“彼女”を見つけたいんです」
ガルデは太く凛々しい眉を寄せた。警部の話は続く。
「ご存知かと思いますが、七月に第九区で大きなメメント事件が起きました。それまで都市伝説レベルの噂扱いだったメメントが、多くの市民の目に晒されました。もちろん情報規制を行い、あれは大規模な映画のプロモーションだったとして、むりやりですが認知されました」
「はい」
「ですが、その情報規制がいつまで保つやら。メメントの数は増加の一途を辿っています。気になるのは、ここ最近の大きなメメント事件が、第九区を中心に起きていることです。この事実が何を意味しているのか、私には分かりかねます。私に出来ることは微々たる協力と、怪物による市民への危険が、一日も早く無くなることを祈るだけです」
「分かっています、警部」
異国の血を引く若き捜査官は、力強く頷いた。
「そのために、俺たちの機関があるんです」