TRACK-7 誰が為に子守歌 4
色なき風が吹きつけ、ひんやりと肌を撫でていく。制服のシャツ越しに感じる秋の訪れは、ほのかな金木犀の香りを纏っていた。どこかで黄金色の花を咲き誇らせているのだろう。
墓場屋敷の中庭の片隅で、静かに佇むリンゴの木の下。ユイとロゼットは、登校前にここを訪れた。
一枚の落ち葉が秋風に運ばれて、ロゼットの白百合色の髪にくっついた。ロゼットは葉をそっと摘み、掌に乗せる。落ち葉はしばし、少女の手の中で羽根を休めたあと、再び風とともに旅立った。
ユイはリンゴの木の根元にしゃがみ込み、大事に抱えていたダイヤモンドリリーの花束を、土が少し盛り上がった地面に横たえた。
この土の下には、心優しい異形が埋葬した、名もなき猫が眠っている。
彼女の墓を建ててあげられなかったので、代わりに彼女が手厚く葬った猫とともに、手向けの花を贈る。
淡いピンクに清らかな白、気高い紫に彩られたダイヤモンドリリーの花言葉は「また会う日を楽しみに」。
二人の少女はしばらくの間、さよならを告げることもできなかった友人に黙祷を捧げた。
落ち葉がかさかさと音を立て、甘い花の香りがし、どこかでヒワがキュルリリリと歌っている。
穏やかで風情豊かな秋が、日ごとに深まっていた。立ち上がったユイは、澄みわたる高い空を見上げる。
「今日はいい天気だよ、オツベル」
リンゴの樹上で、ばさりと羽根の音がした。
*
ランチタイムの書き入れ時を過ぎ、〈パープルヘイズ〉は小休止中である。
ヴォルフは所用ついでに午後の買い出しに出かけているため、エヴァンとドミニクで店番をしていた。
あと三十分後にはディナー営業まで一時閉店、という時間。ドアベルが鳴り、来客を告げた。
「いらっしゃい。……おっ」
エヴァンは入り口に顔を向け、やってきた人物を見て口元を綻ばせた。
「こんにちは」
緑色のライダースーツに身を包んだ青年が、朗らかに微笑みながら店内へ足を踏み入れる。
ガルデと顔を合わせるのは、コンテナターミナルでの戦いから五日ぶりだ。
「よく来たな。ここ座れよ」
エヴァンはカウンター席にガルデを招いた。
「ニッキー、ガルデが来たぞ」
厨房に向かって呼びかけると、片付けをしていたドミニクが、いそいそと顔を出した。
「まあ、いらっしゃい」
「すみません、連絡もなしに突然お邪魔して」
ガルデはカウンターに腰掛けながら会釈した。エヴァンは片手を振って苦笑する。
「水臭えこと言うなよ。お前ならいつだって歓迎するぞ」
「ありがとうございます」
ガルデは不思議そうな顔つきで、エヴァンとドミニクを交互に見た。
「なんです?」
ドミニクが首を傾げると、ガルデは目を瞬かせた。
「いえ、お二人のエプロン姿というのが、なんだか新鮮……というか不思議で」
「ん? 変か? 似合ってんだろ」
エヴァンはエプロンの裾を摘み、その場でくるりとターンしてみせた。
「はい、似合ってますよ、お二人とも。だからこそなんですけど。俺は〈SALUT〉時代の格好を見慣れてるので、エプロン姿の方がなんだか非現実的というか。あの頃とはもう違う暮らしなんだなって、改めて思ったんです」
「ああ、そういうことですか」
ドミニクが頷く。
十年の歳月は、マキニアンたちにさまざまな変化をもたらした。生活環境、相互関係。価値観。それらは、かつて仲間同士で共有していたものとはまったく異なる形となり、各々に課せられている。
もうあの頃とは違う。エヴァンたちは今、それぞれの新たな道を歩んでいるのだ。それがどういう道であれ。
「で、今日はどうしてこっちに来たんだ?」
エヴァンはカウンターに入り、カップを用意しながらガルデに訊いた。せっかくなのでコーヒーをふるまおうと思ったのだ。自分とドミニクの分も、ついでに淹れる。
ガルデはコンテナターミナルでの戦いのあと、事件の収拾のため、ACU東支部の待機施設に数日留まると言っていた。忙しかったようで、その間、連絡を取り合うことはできなかったが。
「実は明日、東支部本局に戻ることになったんです。戻ればしばらくは、こっちに来ることができないと思うので、ご挨拶に伺いました」
「そうですか、寂しくなりますね」
ガルデの隣に座ったドミニクが、残念そうに眉を曲げた。
「はい。それと今日、リカが退院します。その報告も」
「ああ、それはレジーニから聞いてるぜ。迎えに行くって言ってた」
事件後、気を失ったリカは、軍部管理の病院に運ばれた。彼女はそれから二日も眠り続け、目覚めてから三日間検査入院することになったのだ。幸いかすり傷ひとつ負っておらず、低体温症も軽度で済んだようだ。あれだけ能力を酷使したにも関わらず、脳波にも異常なかったそうで、何よりである。
あまり大人数で病院に押し寄せるのも迷惑になるので、エヴァンたちは面会を控えていたのだが、レジーニは毎日のようにリカに会いに行っている。意外なまめさにエヴァンも内心驚いた。自身も脇腹に手傷を負ったにも関わらず、甲斐甲斐しいことである。
その怪我の具合についてレジーニに聞いてみれば「もう問題ない」という。顔色が変わるほど出血しておきながら“問題ない”ことはないだろうが、本人は「大丈夫だ」の一点張りである。
曰く「傷は浅く、出血が多かっただけ」だというが、相棒のことだ、エヴァンに弱った姿を見せまいと、意地を張っているのかもしれない。
自分の傷についてはそんな調子なくせに、リカの回復具合を聞けばさらりと答える。が、ふとした瞬間に目元が優しくなるのを、エヴァンは見逃していない。天邪鬼もここまでくれば大したものだ。
ガルデがエヴァンの差し出したコーヒーを一口飲む。感心したように小さく頷くと「美味しいですね!」と率直な感想を述べた。
「ひとまずいろいろと片付きましたし、リカももう心配いらないようなので、俺も安心しました。オツベルを連れて帰れなかったのは残念ですが」
いつもは活力みなぎるガルデの瞳に、哀悼の色が差す。
オツベルを失ったショックからは、もう立ち直れたのだろうか。自然と笑うことができているように見えるけれど、情の深いガルデのことだから、まだ無理をしているかもしれない。
オツベルについては、エヴァンにも後悔の念がある。強く濃厚なパルスに当てられ我を失い、オツベルに拳を向けてしまったことは慚愧に堪えない。
あのとき、パルスの波に抗って自分を見失わずにいられれば、違う結末になったかもしれない。そう思わずにいられなかった。
「ガルデ、オツベルのことだけど、本当に悪かったよ。俺があんなふうにならなけりゃ、ひょっとしたら……」
その先は言えなかった。ガルデが手を上げて制したからだ。
「あなたは悪くありません、エヴァン。あなたはオツベルを助けようとしてくれたじゃないですか。自分を責めないでください」
「けどさ」
エヴァンはなおも言いかけたが、ガルデに首を振られて口をつぐんだ。
今ここで懺悔を並べても、オツベルは戻って来ない。残った者たちにできるのは、結末を受け入れることだけなのだ。
ドミニクがエヴァンの肩に手を置き、励ますように軽く揺らした。エヴァンは彼女の手に自分の手を重ね、それに応える。
この後悔とは、自分一人で向き合わなければならない。
〈パープルヘイズ〉を去り際、ガルデはこれからのことを話した。
「俺は中佐の命もあって、〈VERITE〉追跡に従事します。彼らの今後の動きを見逃すわけにはいきません。活動の真の目的もわかりませんし、それに」
ガルデは表情を引き締め、先を続けた。
「ベゴウィックとゼルの他、おそらく、シーザーホーク、ウラヌス、パーセフォンもいるでしょう。ディラン・ソニンフィルド共々。彼らの所業を止めるのは、同じマキニアンとしての務めです。エヴァン、ドミニク、力を貸してくれませんか? 辛い状況に巻き込んでしまうことは承知の上ですが……」
今度はエヴァンが、ガルデの言葉を遮る番だった。
「だーかーら、水臭えっつってんだろ。頼まれなくたって協力するって。だいたい俺たちだってもう関わってんだし、俺はあの女に借りを返さなきゃ気が済まねえ」
クロエ・シュナイデル。思い出すだけでも腹が立つ。
エヴァンに“ラグナ・ラルス”という人格を植え付け、オツベルから心を奪い無理やり戦わせた、あの女だけは許せない。次に会ったときは、例え女性でも容赦なく報復してやる。
「私も協力するつもりでしたよ」
と、ドミニク。
「時どき連絡を取りましょう。私とエヴァンはこの街でメメント駆除を続け、ガルデはACUで〈VERITE〉を追う。それぞれ有力な情報を得たら、報告し合うんです」
ドミニクの提案に、三人で頷き合った。
巨大な組織に立ち向かうには、手を取り合う必要がある。来るべき対決の時は、すぐそこに迫っているかもしれない。
*
レジーニは洗面台の前に立ち、鏡に映る自分自身を睨みつけていた。シャワーを浴びたあと、上半身裸のまま、左脇腹に手を当て、しばしそうしている。
手をあてがっているのは、先の戦いでフェイカーに貫かれた患部だ。レジーニはその手を離し、脇腹の状態を再確認した。
胴を穿った傷口は、すでに塞がっている。
うっすらと痕跡が残っているものの、新しい皮膚が形成され、傍目にはただの痣にしか見えない。古傷よりも目立たなくなっている。つい数日前、筋肉と内臓を貫いた大怪我を負っていたとは、誰も思わないだろう。
(ありえない……)
どんな最先端の医療技術に頼ったとしても、人体を貫通するほどの傷を治すには数ヶ月かかる。それなのにレジーニの傷は、たった数日で塞がった。
コンテナターミナルでの戦いのさなか、リカとともにオツベルの腕に抱えられていた時点で、出血は止まっていた。それだけでも奇妙なのに、翌日はもう傷口が塞がりつつあったのである。
「どうなっているんだ、一体」
ペティナイフで掌を切ってしまったときのことが思い出される。あの傷は、オズモントと電話で話している間に完治してしまった。
前回と今回。傷の度合いは違えど、あるまじき早さで治ったという点は同じだ。
怪我の経緯ではなく、自分自身に異変が起きている。そう認めざるを得ないだろう。
にわかにざわつく心臓を鎮めようと、大きく深呼吸する。落ち着け、うろたえるな、みっともない。
レジーニは片手で顔を拭った。己が身に振りかかった変事がどういうものであるにせよ、行きつく結果がろくなものではないのはたしかだろう。
気持ちを切り替えるために、もう一度深呼吸する。これから、退院するリカを迎えに行くのだ。レジーニが深刻な表情をしていては、彼女に不審がられてしまう。
リカはあの華奢な身体で、本来なら受け止めきれないであろうほどの辛苦に耐えた。だというのに、こちらの情けない姿など晒すわけにはいかない。
この回復現象については、一人で調べるしかないだろう。誰にも知られてはならない。いつまで隠し通せるか知れないが。特に、勘の鋭いエヴァンには要注意だ。
リカが入院している軍部管理の病院は、アトランヴィル中央区にある。
病室に行くと、退院の支度を整えたリカが、ベッドに座ってレジーニを待っていた。出迎える笑顔に不自然さはなく、元気に振る舞おうと無理をしている様子は見受けられない。顔色もずいぶん良くなっている。
心身ともにすっかり回復、というにはまだ早そうだが、リカなりに立ち上がろうと精一杯努めているのだろう。
リカの希望で、義母イザベルには入院のことを知らせていない。入院理由を適当にごまかすのも、ありのままを説明するのも、イザベルにとっては精神的負担になる。それなら知らせないままでいよう、と判断したのだ。
退院後、ある場所に連れて行ってもらえないだろうか、というリカの頼みを受け、レジーニは愛車を海岸方面に走らせた。
西側に海を臨む、緩いカーブの続く道をしばらく行くと、切り立つ崖の岬が見える展望台に到着した。
リカは車を降りると、展望台の端まで歩いて行った。海から吹きつける風が、彼女の淡い赤毛をたなびかせる。
レジーニはリカの隣に並び、彼女の視線の先を見やった。大きく入り込む湾を挟んだ向こうに、名前も知らない岬がある。リカはその岬を、一心に見つめていた。群れなすカモメが、リカの訪れを待っていたかのように鳴いている。
「リカ、ここに何があるんだ?」
レジーニたち以外に、海を眺めている観光客はいない。車通りの少ないこんな場所に、なぜ来たかったのだろうか。
リカは寂しげに微笑み、風に踊る髪を手で抑えた。
「この海で、オツベルは生まれたんです。一瞬記憶が視えたとき、そのこともわかりました」
レジーニはハッとして、リカと見つめた。
オツベルが生まれた所。それはすなわち、彼女の実母であるアンジェラが身を投げた所でもある。だとすれば、湾を挟んだ向こうの岬が、アンジェラの自殺現場ということだ。
「あのとき視えた記憶は薄くなってて、もう現実感もありません。でも、完全に頭の中から消えてなくなってしまう前に、この目で見ておきたかったんです。あの人は、ここで生まれ変わったんだって」
「そうか」
どんな思いで、実母の最期の地を訪れようと決意したのだろう。レジーニには、推し量ることすらできなかった。
「私、子どもの頃、どうして自分には父親がいないのか、よく母に訊いてたんです。そのたびに、母は困った顔で『ごめんね』って謝るんですけど、ぜんぜん納得できなくて、何度も質問攻めにして困らせてました」
「無理もないさ」
ここでの“母”は、育ての親であるイザベルだろう。
父親不在に疑問を抱くのは当然だ。だがイザベルとしては、どう説明してやればいいのかわからなかっただろうことは、容易に想像がつく。
「小学校の高等部に入ってからやっと、父親のことは禁句なんだって理解して、それから口に出すのはやめました。母がずっとごまかしていたのは、私を守りたかったからなんだと、今ならわかります」
語るリカに、レジーニは頷いて応じる。
「いろんな人に守られてきたんだ、私。今までだけじゃなく、今回のことだってそう。レジーニさん、エヴァン、ドミニクさん、ガルデさん、ユイとロゼット、アルフォンセさんとママ・ストロベリーさん。みんな、会って間もない私の力になろうとしてくれた。この恩は忘れません」
「気負わなくていい。僕たちは誰も、君からの見返りを求めたわけじゃないんだ」
「でも、そこに甘えちゃだめなんです。守られてばっかりで、自分に何もできないままじゃ」
リカは決意に満ちた表情でレジーニを見上げた。こんなに力強く、固い意志に漲る彼女を見るのは初めてだ。
「レジーニさん。私、自分が持っている能力をもっとよく知りたい。ちゃんと向き合って知れば、活用できることもあるんじゃないかって思うんです」
「本気で言ってるのか?」
能力を知るということは、研究し、コントロール可能なまでに訓練するということでもあり、すなわち〈VERITE〉との抗争に否応なしに関わっていくことを意味する。なぜならば、パルス能力を有し、すでに目をつけられているリカが、無関係でいられるはずがないからだ。
レジーニとしては、リカにはこれまで通り、普通の生活を送ってほしいと思う。だが、それがもはや無理な願いであろうことは、充分わかっていた。
「本気です。今までずっと、どうしてこんな力が自分に備わってるんだって、怖くて否定してばかりだったけど、もう逃げたくない。ちゃんとわかりたいんです。そしてこの力で、レジーニさんたちの助けになりたい。私が能力を持って生まれたことに意味があるのなら、きっとこういうことなのかもしれないって、入院中にずっと考えてました」
リカの孔雀藍の瞳には、希望と恐れの念が灯っている。いまだ怯えを捨てきれずとも、前へ進もうとする光芒だ。
運命に翻弄された少女は、運命を受け入れて立ち上がり、自分の足で歩こうとしている。
もはや、籠の中で守られるばかりの雛ではない。飛び立つ翼を得ようとするリカの眼差しは、レジーニの心の奥深くまで捉えて離さなかった。
「君はそれでいいんだな?」
「はい。もう決めました。きっと、オツベルも応援してくれると思います」
頷くリカの微笑みに、陰りはひとかけらも見当たらなかった。
車に戻ろうとしたとき、リカは一度だけ岬を振り返った。見収めるように景色を眺める彼女を、レジーニは気長に待つ。
リカが急にその場にしゃがみ込んだ。
「リカ、どうした?」
駆け寄って彼女の側に膝をつく。リカは両手で顔を覆って、声を殺して泣いていた。今まで堪えてきた想いが、一気に溢れ出したのだろう。
レジーニは少女の細い肩を抱き寄せた。リカはレジーニの胸に顔をうずめ、震えながら嗚咽を漏らす。
「お母さん……。お母さんって、呼んであげられなかった……。お母さん……、お母さん……」
母を求める娘の声は、海風に溶けて空へ舞い上がる。カモメの鳴き声を供にして。
*
〈パープルヘイズ〉閉店後、エヴァンが自宅アパートに帰る道すがら、レジーニから電話がかかってきた。
相棒は、リカが無事に退院したことと、彼女が自分の能力と向き合う決意をした旨を報告した。パルス能力をちゃんと理解することで、レジーニやエヴァンたちの役に立ちたいのだという。思っていたよりずっと、心根の強い少女だ。
リカが能力を理解し、コントロールできるよう訓練するために、頼れそうなのはACUくらいだろう。メメント討伐を任務とするACUなら、然るべき研究班が設けられているはずだ。
『そういうわけだ、お前からガルデに話を通してくれないか』
「ああ、わかった」
『近くに顔見知りがいた方が、リカも何かと安心だろう』
「んなこと言って、リカとガルデがいい感じになったらどうすんだ? ガルデの方がお前より優しいぞ」
ちょっとからかってやろうとそんなことを言ってみれば、レジーニはスピーカー越しでもわかるくらいバカにした調子で笑い飛ばした。
『この僕が彼に後れを取るとでも?』
声色から憎たらしいくらい自信が滲み出ている。実際、リカの気持ちをつなぎとめておける自信があるのだろう。
一度でいいから、レジーニがこっぴどく振られるのを見てみたい。アトランヴィル裏社会の男たちの多くが、そう思っているに違いない。
「まあいいや。明日ガルデに連絡する。じゃあな」
『エヴァン』
電話を終えようとすると、珍しくレジーニが呼び止めた。いつもなら用件を伝えたらさっさと切って、エヴァンが雑談する隙さえ与えないのに。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
『何か、というわけじゃないが』
どことなく歯切れの悪い口調だ。
『エヴァン、もし僕が……』
レジーニの言葉が止まる。そのまま数秒ほど間が空いた。
『いや、いい。それじゃ、ガルデに連絡頼むぞ』
「おい、そこで止めるなよ、気になんじゃん」
しかし今度こそ、電話は切られた。エヴァンはホーム画面に戻った携帯端末のディスプレイを見つめる。
「なんだあいつ、らしくねーな。リカのことで頭がいっぱいなんじゃねえの?」
さすがの相棒も恋に落ちては調子が狂うか、などと知ったふうなことを思いつつ、気がつけばアパートの玄関先まで帰り着いていた。
アパートに入ろうとしたとき、人の気配を感じて、エヴァンは足を止めた。
気配を追って首を巡らせると、車道近くに立つ男の存在が視界に入った。
(誰だ?)
男、であろうと思われる。裾の長いオフィサーコートを着たシルエットは、肩幅や腰ががっしりしていて男性的だ。ただ、左の口元だけが露わになる黒くのっぺりとした仮面を被っているせいで、顔がわからなかった。
仮面のために正確な目線の先は不明だが、自分が見られている気がしてならない。
唯一見えている左の口元が不敵に歪み、薄く開かれた。
「やあ、こんばんは」
低く抑揚のない声だ。それでいて、聞く者の耳にずしりと響く重みがある。
その声を聞いた途端、エヴァンの背筋にぞくりと冷たいものがはしった。得体の知れない違和感を感じる。“異様な風体の男に夜道で見られている”という状況に対するものではなく、男自身に覚えた“恐怖”だ。
全身の産毛が逆立つ。エヴァンは無意識のうちに、男から離れようと後ずさっていた。
「あんた、誰だ。ここで何してんだよ?」
「ペットを探しているのだよ。放し飼いにしていたのだが、そろそろ連れ戻そうかと思ってね。探しているうちに、こんな所まで来てしまった」
「へえ……」
エヴァンは曖昧に頷く。
頭の中の芯が、腹の奥底が、身体中の神経が、「この男と関わるな」と警鐘を鳴らしている。
男が一歩また一歩と、近づいてくる。そのたびにエヴァンは後退した。
今すぐ方向転換して逃げ出したい。かっこ悪かろうがなんだろうが、この男の側にいるよりましだ。
なのに、
(なんでだ? なんで逃げられない?)
どういうわけか、身体がそれ以上動こうとしなかった。
男の声が呪縛となって、エヴァンの自由を奪ってしまったかのようだ。
「君は見かけなかったかな? 茶色が混じった金の毛色の」
「さあ……? 犬か猫かもわかんねえし……」
「珍しい生き物なのだよ。非常に貴重な生き物だ。だが、少々気性が荒くてね。気を付けなければ、手を噛まれてしまう」
「そういうヤツなら、しっかり首輪付けとかなきゃダメなんじゃねえの?」
「そうだな。そうしよう」
言うや否や、男は大股でエヴァンに急接近してきた。まずい、と思ったときにはすでに、目と鼻の先まで詰め寄られてしまっていた。
男の片腕が伸び、エヴァンの項に触れる。
視界が黒い闇に落ちた。
指輪型のコネクタが、エヴァンの項にある接続孔に挿入された。直後、エヴァンが人形のように固まって動かなくなり、瞳孔が開く。問題なく待機モードに切り替わったようだ。
仮面の男ディラン・ソニンフィルドは、コネクタを挿したまま、エヴァンの耳元に唇を寄せ、短く告げる。
「間もなく決行の時が来る。合図を待て」
固まっていたエヴァンの口がぎこちなく動いた。
「はい長官」
ソニンフィルドは満足げに頷き、
「三十秒後に再起動せよ」
エヴァンの項からコネクタを抜くと、コートの裾を翻して足早に立ち去った。
エヴァンはぱちぱちとせわしなくまばたきを繰り返した。
しばらくボーっとしていたようだ。だが、なぜアパートの中に入りもせず、玄関先で立ち止まって呆けていたのだろう。
「あれ? 何やってんだ、俺」
さっきまで何をしていた? 歩きながらレジーニと電話をしていた。リカが退院し、さらに彼女の能力研究にACUの協力を請うため、ガルデに連絡を取ると話をした。それだけだ。
「それだけ……、だよな……?」
どうも頭の中がすっきりしない。
さっさと部屋に帰って寝た方がよさそうだ。
だが、その前にアルフォンセの部屋に寄ろう。彼女の顔を見れば、もやもやした気分も晴れるし、美味しい夜食を作ってくれるかもしれない。
アルフォンセのことを思い浮かべながら、エヴァンはアパートに入った。
初秋の夜は静かに更けていく。
何事もなかったように。




