TRACK-7 誰が為に子守歌 3
幼い彼女はスイングベンチに座り、独り静かに揺られている。
いつも一緒だったお気に入りの人形は今、彼女の膝にいない。誕生日にプレゼントされて以来、片ときも離さなかった友だちなのに。
スイングベンチの周りには何もなかった。あるはずの家も、庭の草木さえない。空も見えず風も吹かず、白く眩しい不毛の地に、少女は取り残されていた。
ここにいるのは自分だけ。
スイングベンチを自ら漕いで、彼女はひっそりと、孤独を受け入れようとしていた。
これから先すっと、この白い荒野に独りでいなければならないのだ。
ふと誰かの気配がして、少女はどきりとした。自分だけの世界に、どうして他の誰かがいるのだろう。
驚き、顔を上げると、見覚えのある大人の女の人が立っていた。優しい微笑みを口元に湛え、愛しいものを見るような眼差しで、少女と向き合っている。
女の人は地面に膝をつき、少女と目線を合わせた。
「こんなところで何をしているの?」
女の人の声はまろやかで懐かしく、話し方はとても優しかった。少女はその声にも話し方にも覚えがあった。
――なにもしてない。ベンチに座ってるの。
「座ってるだけなの? 独りで?」
そう、と少女は頷く。
「なら、私と遊んでくれる?」
遊びたいと思ったが、少女は我慢して首を振る。
「私と遊ぶのは、嫌?」
女の人の顔が悲しげに曇った。少女はもう一度首を振る。
「嫌じゃないのに、遊べないの?」
――遊んじゃいけないの。
――わたしは誰とも一緒にいられないの。
「どうして?」
――わたしは、いちゃいけない子だから。
「どうしてそんなことを言うの?」
本当のことだから。
自分は生まれて来てはいけない子だったから。
生まれたことで、たくさんの人に迷惑をかけてしまったから。
生まれる前から、忌まわしい存在だったのだ。
世界はきっと、自分が生きていることを許してくれない。
穢れた行いの果てに誕生した自分を、何の役にも立たないおかしな能力を持つ自分を、一体誰が望むのだろう。
だから。
――だから、独りでいなくちゃいけないの。
何もない白い空間で、独りでいることにした。
そうした方がいいのだ。
「でも、独りは寂しいでしょう?」
寂しい。
寂しいけれど、仕方がない。他にどうしようもないのだ。
誰かを傷つけたくも、誰かに傷つけられたくもない。
現世の中で孤独を抱え、自分自身への嫌悪感に苛まれ続けるくらいなら、何も感じない何もない世界に留まっているべきだ。
その方が、みんな幸せになれる。自分さえいなければ。
「それなら、あなたの幸せはどこへいくの?」
――わたしの幸せ?
「これまで訪れた幸せ。これから訪れる幸せ。それを、あなたが受け取らなかったら、一体どこへ行ってしまうの?」
――誰かにあげる。あなたにあげる。わたしは、幸せになっちゃいけない子だから。
「いいえ。あなたの幸せはあなたのもの。あなたは幸せになれるのよ。私はそれを知っている」
女の人の力強い言葉に、少女は俯けていた顔を上げる。
「あなたの本当の望みを言って。あなたがいたいのはどこ?」
――わたしは、
「本当にここにいたい? みんなのところへ帰りたくない?」
押し込めていた想いが、身体の奥底からせり上がってくる。これが最善の手段だと自分に言い聞かせ、偽り、耳を塞ぎ、目を逸らした本当の心が、堰を切ったように溢れ出した。
――独りはいや。
――帰りたい。
――生きたい。
――幸せに、なりたい。
女の人は、慈しみに満ちた笑顔で頷き、少女の頭をそっと撫でた。
「あなたは幸せになる。それを伝えたくて、私はあなたに会いに来たのよ」
女の人が両手を差し出した。
「帰りましょう」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
途端、春の陽射しのような温かい光に包まれ、少女の心と身体は、そ
の中に溶けていった。
※
誰かに呼ばれたような気がして、リカはゆっくりと目を開けた。
全身が気だるく、わずかに動くのも億劫に感じる。
眠っていたのか、それとも気を失っていたのだろうか。自分が今どういう状況で、これまで何をしていたのか思い出せない。記憶がひどくおぼろげである。
ほのかに温かさを感じるものに包まれているようだ。何度かまばたきをして、おずおずと視線を上げていく。そうして最初に目に映ったのは、秀麗な男の顔だった。
「……レジーニ……、さん?」
小さく名前を呼ぶと、レジーニは安堵したようにほっと息をついた。しかし顔色が悪い。眼鏡もしていない。髪や服は乱れている。常に完璧に身なりを整えている彼らしからぬありさまだ。
「戻ってきてくれたね」
レジーニは右手で、リカの頬にそっと触れる。彼の手は驚くほど冷たかった。呼吸は弱く苦しげで、今にも倒れ込みそうだ。
原因はすぐにわかった。レジーニの左脇腹が赤黒く濡れているのだ。患部を押さえる左手も、同じ色に染まっていた。
「レジーニさん、怪我を……!」
「大丈夫、平気だ」
「でも」
どう見たって“大丈夫”なはずがない。
血まみれのレジーニの姿があまりにもショックだった反動か、頭の中の靄が晴れていった。曖昧だった記憶が明瞭になっていく。
ここがどこで、何が起きて、何を視たのか。はっきりと思い出した。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「リカ、それは違う。自分を責めるな」
レジーニは眉根を寄せ、痛みに耐えながら首を振る。だが、彼が重傷を負ったのは、自分を助けに来たせいだ。
自責の念が鎌首をもたげ、リカの喉元に喰らいつく。やっぱり私は、ここにいてはいけない。
あの、孤独な白い荒野に留まるべきだった。
リカの意識が再び深淵に潜りこもうとしたとき、どこかから小さな声が聞こえてきた。女性のような、男性のような、子どものような、年寄りのような、けれども優しい声だ。
声は頭上から聞こえてくる。仰ぎ見ると、マスクをかぶった顔がリカを見下ろしていた。
オツベル、だ。
オツベルは大きな腕でリカとレジーニを抱え込み、ゆっくりと身体を揺らしながら、何かをしきりと呟いている。
耳をすまして聞いてみると、それは呟きではなく、歌だった。
マスク越しのため、ところどころ聞き取れないが、柔らかくもたしかなメロディを奏でている。
「……眠…………大、……タテガミ……、撫デ、夢ノ、…………デ、……草原ガ、風、……ッテイル……」
聞いたことのない歌だった。だが、何の歌かはわかる。
子守唄だ。
オツベルは掠れた声で、リカとレジーニをあやすように、子守歌を歌っているのだった。
「オ眠リ……、大地……、雄山羊……、乗ッテオ行キ、………ノ……ヲ……ッテ、明日モ、……ヲ迎エ…………ウ」
初めて聞く歌声なのに、不思議と懐かしく感じるのはなぜだろう。記憶のどこかで、この声を覚えていたのかもしれない。本当の声ではなくとも、心の奥底まで響き、呼び起こされるものがたしかにある。
胸が震えた。私はこの人を知っている。だって、この人は、私の――。
オツベルが頭を下に向ける。マスクのゴーグルに遮られているが、目と目が合ったのを感じた。
この声が、リカを孤独の深淵から連れ戻してくれたのだ。
リカは冷えてしまった手を伸ばし、マスクの口元に触れた。
オツベルの大きな手が、リカの頭を撫でる。
直後。
「ウッ……! グ、アアア……!」
オツベルの子守唄が苦悶の呻き声に変わった。リカとレジーニを手離し、巨体を折り曲げねじりながら、よろよろと後ずさっていく。
「どうした!?」
レジーニが傷の痛みに耐えながら、オツベルの異変に瞠目する。リカは力なく首を振った。
「わ、わかりません」
オツベルの苦しみようは尋常ではなく、リカはただ怯えるしかなかった。
オツベルは息も絶え絶えに、唸り声を上げながらもがき続ける。やがてマスクの隙間から、濃白色の蒸気が漏れ出し、あたりに硫黄に似た異臭が立ち込めた。
「まさか、そんな!」
レジーニが愕然として叫ぶ。その声色から、あってはならない事態なのだと、リカは察した。
けたたましい絶叫の嵐が、周囲で沸き起こった。おぞましい狂騒に身をすくめ、あたりを見回すと、フェイカーたちがオツベルと同じように、全身を痙攣させて悶絶し、惨苦の咆哮を上げていた。
フェイカーたちの身体からも、異臭の蒸気が放たれた。たちまち肉体が崩れ落ち、蒸気とともに消滅していく。一体また一体と、フェイカーは次々に自己崩壊していった。
リカは悲鳴の出かかった口を両手で覆った。視線をオツベルに戻す。
オツベルは大きな肩を上下させながら、徐々に徐々に、リカとの距離を開けつつあった。身体の痙攣による反応ではなく、明らかな意思をもって移動している。
後ずさっていくその先は、海だ。
「待って!」
リカはオツベルに向かって両手を伸ばし、駆け寄ろうとした。しかし、
「来テハ駄目!」
これまで聞くことのなかった明瞭な発音で、オツベルが叫んだ。その断固たる口調と迫力に、リカは思わず足を止めてしまう。
「オ願イ……、ドウカ、ソ、ソ、ソコニ……イテ」
オツベルがどんどん海に近づいていく。リカは、オツベルの側に行きたい気持ちと、彼女自身の気持ち――この姿を見ないでほしい――の狭間で、一瞬身動きが取れなくなった。
「嫌よ、こんなの嫌。だって……、やっと、私……」
リカは迷いを振り払い、オツベルに向かって走り出す。そうすれば救えるかのように、彼女のいる方へ手を伸ばした。
しかし、レジーニが背後からリカを抱きすくめて止めた。
「駄目だ、リカ」
「離して、お願い! 側に行かせて!」
レジーニの腕を振りほどこうと、しゃにむに身体を揺らした。けれど、重傷を負っているとはいえ、鍛えた男性の腕力に敵うはずもなく。リカはレジーニの腕の中で、立ち尽くすしかなかった。
オツベルは今や、海の間際だ。全身から蒸気が噴出し、呻き声ひとつ漏らすこともままならない。
涙でオツベルの姿が霞む。もっとよく見たいのに、まばたきしても落涙を止めることはできなかった。
オツベルが顔を上げた。ゴーグル越しの眼差しが、リカを捉える。
束の間。永遠にも感じられた、わずかな時間だった。
「サヨ……ナラ」
オツベルの身体が仰向けに倒れる。蒸気が羽衣のような帯となって、彼女の肉体を天へ解き放つ。
リカの喉から声がほとばしる。それが叫びなのか、誰かを名前を呼ぶものだったのか、リカ自身にもわからなかった。
「オツベル!」
ガルデがオツベルの名を発しながら、海際まで駆け寄る。そのすぐあとを、エヴァンが追った。
ガルデは波止場の縁に立って海を覗き込む。海面に漂うのは、オツベルの遺した衣服とマスクだけだった。
無駄なことだと、頭では理解できても、行動せずにはいられなかった。今すぐ海中を探せば、彼女を助けられるのではないだろうか。ありえないと知りつつも、ガルデは衝動的に海に飛び込もうとした。
それを止めたのはエヴァンだ。
エヴァンは無言で、ガルデの肩に手を置く。言葉なき静止が、ガルデに現実を見つめさせた。
彼女は、還ったのだ。ようやく。
その場に崩れ落ちたガルデの嗚咽は、解放された魂を悼み、海風に溶けていった。
*
私は、あなたに会うためにここまできたの。
今の私が、かつての私と違うとしても、あなたを想う心に変わりはなかった。
変化があったのは、いつだったかしら。たぶん夏ね。とても暑い日だった。
あの日、遠く東の方で、大きな力の波動が発生したのを感じたわ。その力の影響を受けたおかげで、あなたのことを思い出せた。
こうなる前の記憶のすべてが、消えてなくなったわけじゃない。頭の奥底に厳重にしまい込まれていて、普段思い出すことがないだけ。
私は、かつての私のことを認識していた。けれど、別の存在のようにも感じていた。
同一であり別もの。記憶と魂は共有しているようであり、切り離されてもいる。
私は“私”であって、“私”ではない。
私たちは、そういう存在。
あなたのことを思い出したら、会いたくて会いたくてたまらなくなった。
私が誰だかわからなくてもいい。ただ一目だけでも、あなたに会えればそれでよかった。
せめて、この命が終わる前に。
自分の死期が近いことを、私は悟っていたの。どうしてだかわからないけど。
きっと私たちは皆、そう長くは生きられないのでしょうね。
だから生あるうちに、種の存続を担える器を探すの。
私に、器を探す本能が備わらなかったのは、きっと幸いなことだった。
意思を持ち、拙いけれど言葉を話せて、本当によかった。
あなたに会えたとき、伝えたかった言葉を、自分で伝えられるから。
生まれについて、あなたはいつか知ることになるでしょう。
そのとき、深く傷ついてしまうと思うけれど、どうか乗り越えてほしい。辛い時期を耐えてほしい。
その先に、必ず光があるから。
私は、そのことを知っている。
自分でも不思議だと思うのだけれど、あなたが生まれる前から、あなたの輝く未来が私には視えたの。
立派な女性に成長して、明るい人生を歩むあなたの姿を、私は視た。
そのとき、あなたの隣には素敵な人がいたわ。背が高くてハンサムな、黒髪の男性が。
その人が、あなたと一緒に歩いてくれる人なのだとわかったの。
あなたの未来には、素晴らしい出会いと幸運が待っている。
辛く苦しいときがあっても、必ず抜け出せる。
あなたの人生はあなたのもの。喜びに満ちた人生は、あなたのもの。
だから私は、あなたを生んだ。
あなたは幸せになれる。
忘れないで。あなたは独りじゃない。
そしていつか、あなたの子どもにも伝えてあげて。
どれだけ大切な存在なのかを。
何もしてあげられなくて、ごめんなさい。
一緒にいられたらよかったのに。
リカ。
私の愛する娘。