TRACK-7 誰が為に子守歌 1
今回の任務はシュナイデルにとって、大収穫と言える結果になりそうだ。
そもそもの任務は、フェイカーの稼働及び性能向上実験だった。シュナイデルは“試運転”と称している。
わざわざアトランヴィル・シティまで赴き、ベゴウィックとエブニゼルを顎で使ってラグナ――エヴァンを襲撃させたのも、フェイカーの強化に必要な戦闘サンプルを収集する一環だったのだ。
フェイカーは数種類のタイプに分かれる。搭載する〈擬似細胞装置〉のスペックは複合型の〈ヴェンデッタ〉に統一しているが、得手とする武器や戦い方は、タイプそれぞれで設定が違う。
あらゆる状況、戦局、作戦に万事対応できるようにするためには、膨大な量の戦闘サンプルが必要だ。
フェイカーはまだ開発途上の兵器である。もっと試運転を繰り返さなければ、シュナイデルの目指す完成形には程遠い。だから“擬似”なのだ。
悔しいが、本物の〈細胞装置〉には、まだ到底及ばないのである。
だが、いつの日か必ず超えてみせる。
また、この任務には、ひとつついでがあった。
エヴァンの現状確認だ。
エヴァン・ファブレルが凍結睡眠から覚醒した、という情報が入ってきたのは、夏のことである。その時点ですでに、目覚めから一年近く経過していたらしい。
〈パンデミック〉の混乱によって、行方がわからなくなったエヴァンの凍結睡眠装置を、〈VERITE〉では長年捜索し続けていた。誰の意図によるものか――シュナイデルは、アンドリュー・シャラマンの仕業だと睨んでいる――装置には位置測定システムが搭載されていなかった。そのため、捜索が難航したのだ。
ではなぜ、エヴァンは目覚めることができたのか。
調べてみれば、あろうことか〈墓荒らし〉なる裏稼業者たちの手によって、偶然掘り起こされたというのである。
居場所が判明したエヴァンを早々に回収しなかったのは、〈VERITE〉総統ディラン・ソニンフィルド自ら「手出し無用」と命じたからだ。少なくとも「まだその時ではない」と。
すいぶん悠長な構えだと思うのだが、ソニンフィルドの計画に口を挟むつもりはない。意見したところで聞く耳を持たないだろう。それに、無駄なことをする男ではない。
シュナイデルとしては、自分の研究がはかどり、満足のいく結果が出せればそれでいい。エヴァンについても、いずれ戻ってくるというのなら、今は放置していてもいいだろう。エヴァンにラグナの人格を植えつけたのは自分だし、ラグナはソニンフィルドの命令しか聞かない。いざとなれば、どうにでもできる。
それより、オツベルとリカ・タルヴィティエという、思いがけない収穫に注目すべきだ。
前者は共生体の劣等種でありながら人語を解し、明確なコミュニケーションが図れるメメント。後者に至っては、〈光の教会〉の生存者である被験体の子どもだ。
どちらも世界に望まれて生まれた存在ではないだろうが、少なくともシュナイデルは歓迎している。
“フェイト・アーテルナム”以外に〈光の教会〉被験体の生き残りがいた。それだけでも驚異なのに、そのまた娘が存在しているなど、シュナイデルすら想定していなかった。
「母親に感謝だわね、よくぞ堕ろさないで産んでくれたもんだわ」
リカの実母が彼女を妊娠した経緯については、同じ女として気の毒に思わないでもない。が、これから実施できるだろう研究を考えると、そんな申し訳程度の哀れみなど掻き消える。
未知の領域へ踏み込む足掛かりとなり得るかもしれないのだ。これが笑わずにいられようか。
詳しく調べるまで断定はできないが、リカの能力は、シェドやフェイトには遠く及ぶまい。よくて今のエヴァンと同等か。いや、エヴァンが完全覚醒を果たせば、話は違ってくる。
現時点でのリカの価値は、「〈光の教会〉被験体の娘」という一点にある。たった一点だが、非常に重要だ。
彼女はすなわち、
「適合者は子孫を残すことが可能であり、パルス能力は遺伝する」
という実証そのものなのだ。
これの意味するところは、適合者同士の交配は可能、ということに他ならない。
つまりリカには、エヴァンあるいはシェドの子どもを産ませることができるのである。
〈アダムの継承者〉とパルス能力を持つ融合者、その混合児であれば、新たな〈アダムの継承者〉として覚醒させられる確率は高いはずだ。
生態系を意のままに変えられる、言わば“神の子”を、この手で造り出せるのである。シュナイデルは自身の空想に酔いしれ、とろけた表情で眼下の戦場を眺めた。
「もうすぐあたしの天下が来る。科学者気取りの馬鹿どもをのさばらせておくのも終わり。あたしが『狂ってる』ですって? “最高”と言ってほしいわね。今に目にもの見せてやるわ。クロエ・シュナイデルが何を成し遂げたのかをね」
約束された栄光を掴みとる瞬間を思い描き、シュナイデルは武者震いした。
己の野望に不可欠となるエヴァンとリカに熱い視線を送り、その視線をオツベルに移す。
いまやシュナイデルの忠実な駒となった、人語を解する稀なる異形は、エヴァンを相手に猛然と戦っている。精神矯正したとはいえ、戦闘訓練を施していない状態で、マキニアンのエヴァンにどこまで食らいつけるだろう。
なるべく長く戦ってくれた方が、サンプル収集にとっては好都合だ。オツベルとの対決で、エヴァンの能力に何らかの影響を及ぼせられれば、御の字というもの。
シュナイデルは赤い上着のポケットから、ハンディサイズの薄型端末を取り出し、エヴァンとオツベルが画面に納まるように掲げ持った。すると、画面に映る二人を囲むように、生体パルス値が表示された。その数値に、シュナイデルの頬は自然と緩む。
「いいじゃん、いいじゃん。思ったとおり、オツベルのパルスに引っ張られたね」
エヴァンのパルス値が、オツベルのものを上回りつつあるのだ。パルス能力者との戦闘が、確実に影響を与えている。今頃はエヴァンの身体能力そのものも、格段に強化されているはずだ。
もっとも、戦う本能に身をゆだねている状態で、己の変化を自覚できているとは思えないが。
今のエヴァンは、生存競争と縄張り争いに挑む獣も同然。放っておけば、まもなくオツベルを殺すに至るだろう。
オツベルを死なせるのは少し惜しい気もするが、多少大きな損失を出さなければ得られない奏功もある。
シュナイデルが観戦している間にも、エヴァンとオツベルの対決は激しさを増し、端末画面に表示されるパルス値がみるみるうちに上昇していく。
両者のパルスの波動は互いを飲み込まんばかりに膨張していき、その影響範囲を広げていった。
見たこともない数値が叩き出され、シュナイデルの探求心を疼かせた。この対決で採取できる戦闘サンプルの分析作業が、今から楽しみでしかたない。
パルス能力者同士の殺し合いを目の当たりにするのは、ラグナによるシェド=ラザ粛清廃棄処分執行以来だ。さすがにあの二人ほどのパルス値は検出されないが、それでも充分すぎる。
エヴァンとオツベルの波動が、ついに重なり合う。
そのとき、どこかから悲鳴が聞こえてきた。
シュナイデルは思わず、声がした方に顔を向けた。そこには、足場にうずくまるリカの姿があった。
彼女は数値ではなく、濃密なパルスの波動を肌で感じ取っているに違いない。膨張し、いつ破裂するかわからない爆弾のようなパルスに、本能的に恐れおののいているようだ。
シュナイデルは端末をリカに向けた。画面に映されたリカの身体にまとわりつくように、パルス値が表示される。
リカのパルスは、膨張しないまま、数値だけが異常な早さで上昇していった。それはあたかも、小さな器の中で風船が膨らみ続けている状態に似ている。
リカには、パルス能力を制御することができないようだ。狭い範囲で密度が濃くなっていくパルスを発散させるどころか、その中に沈められようとしている。
「おっとこれは、ちょっとヤバいかも?」
このままでは、強力なパルスに飲み込まれてリカが壊れてしまう。貴重な母体を失うのは痛手だ。彼女を鎮めて保護しなければ。
しかし――。
(見たい)
このままパルスの中に沈んだらどうなるのか。三人のパルスの膨張がピークに達したとき、何が起きるのか。
この目で見たい。
シュナイデルは、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
我に返った瞬間、胸が圧迫される感覚に襲われ、エヴァンは苦しげに喘いだ。肺が空気を切望し、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。
耳鳴りがする。鼻の奥がツンと痛い。
この感覚は、この苦しみは――、まるで、溺れていたかのようだ。
いや、“ようだ”ではない。エヴァンは実際に溺れたのだ。陸にいながらにして、海に落ちて溺れた。
それを体感した。
あれは真実起きたことだ。だがエヴァンの記憶ではない。
(今の、何だったんだ?)
オツベルとの戦いで、次第に我を失っていたエヴァンは、ただ本能に身を委ねていた。次第に人間らしい思考が薄れ、目の前の敵であるオツベルを排除することのみに集中していった。
オツベルは敵ではない、戦いをやめなければ。エヴァンの理性は本能に呼びかけたが、自分ではどうすることもできないほど、闘争心に支配されてしまっていたのだ。
自分とオツベルを取り囲むパルスの密度が、徐々に膨張し濃くなっていくのを、肌で感じていた。おそろしいことに、濃厚なパルスに包まれるのは、心地よくさえあった。
そのパルスの膨張がピークに達し、風船が弾けるように破裂した途端、さまざまな記憶が大量になだれ込んできた。自分のものと、そうでないものの記憶がめちゃくちゃに入り混じり、たちまち消えていった。
あまりにも一瞬の出来事だったため、誰のどんな記憶が侵入してきたのか、気にかける暇さえなかった。
ただひとつ、彼女の記憶だけを残して。
息を切らしながら、激しく鼓動する心臓に手を当てる。身体がかすかに震えていた。
体感したのは、溺れたことだけではない。もっと悲惨で、もっとおぞましい記憶が濁流のごとく襲ってきて、エヴァンは抗うこともできずに追体験してしまったのだ。
エヴァンは目線を上げ、オツベルを見る。彼女の身体も震えていた。大きな手で頭を抱えて俯き、悲痛な呻き声を漏らし続けている。オツベルにも、エヴァンと同じことが起こったのだ。
エヴァンが追体験したのは、他でもないオツベルの記憶――彼女がオツベルになる前の、アンジェラ・タルヴィティエの記憶。リカの生みの母の記憶だ。
ハーヴィー・グランツに襲われたとき。
そして、崖から海に身を投げた、その瞬間の記憶なのである。
「嘘だろ……、なんでこんなことが」
口を開くと、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。咳込み、唾を吐き出したが、嘔吐はなんとか我慢した。
肌が焦げるような不快感が、まだ全身にまとわりついている。他人の記憶の追体験とはいえ、力づくで男に組み敷かれるなど、地獄以外の何ものでもない。一秒だって思い出したくない。
(気持ち悪ィ……、最悪だ。アンジェラはあんな目に遭わされたのかよ)
本人の心を無視し、暴力をもって蹂躙するのは、女であろうと男であろうと、人間の尊厳を切り裂く最低の行いである。
エヴァンが一瞬、男の我が身にさえ嫌悪感を覚えたほどだ。被害を受けたアンジェラはどれほど傷つき、悲しみ、悔しかったことだろう。
オツベルのすすり泣きが聞こえてきた。鼻を鳴らす嗚咽は、やがて慟哭に変わり、膝から地面に崩れ落ちた。
「オツベル!」
エヴァンは彼女を支えるために駆け寄ろうとした。しかし、そこではっと気づく。
(俺とオツベルが同じものを視たのなら……)
あの子にも、視えたはずだ。
エヴァンはリカがいるはずのゴンドラを見上げる。
少女は影のようにうずくまっていたが、おもむろに立ち上がるとゴンドラの手すりに手を置いた。そして、手すりの開閉部を押し開き、空中に片足を差し出した。
「リカやめろ!」
エヴァンが走り出したときには、リカの細い身体は宙に投げ出されていた。背後から、彼女の名を叫ぶレジーニの声が聞こえた。
走る速度を限界まで速めても間に合わない。
異変が起きたのは、リカの身体がゴンドラと地面の中間ほどに達したときだった。彼女の落下速度が急激に弱まり、見えない手に支えられているように、ゆっくりと降り始めたのだ。
エヴァンは駆け寄る足を止め、リカが音もなく降下してくるさまを呆然と見つめた。
隣に相棒が追いついてきた。レジーニはリカを凝視したまま、エヴァンに問う。
「エヴァン、一体何が起きた」
「わかんねえ。たぶんだけど、俺とオツベルが戦ってたせいで、生体パルスが膨張して、三人分の記憶が混ざり合ったんだと思う」
そうとしか言いようがない。エヴァンにも理解できない現象なのだから。
「記憶が混ざり合っただと?」
レジーニが怪訝そうに、エヴァンの言葉をなぞった。
「それで……、それで俺、視えたんだ。ほんの一瞬だけど、視えちまった」
「何を視た」
「リカの母親が、グランツに襲われたときの記憶を。俺に視えたのなら、たぶんリカも……」
レジーニが息を飲む。それ以上の説明は不要だった。
リカの両足が地面に触れ、ふわりと着地した。少女はそのまま座り込み、放心した様子で、どこともつかぬ方向を見つめる。
エヴァンの中で、厭な予感が渦巻いていた。よくないことが起きようとしている。そんな思いが頭から離れない。
「レジーニ、早くリカのところに行ってくれ。このままじゃあの子がヤバい」
「どういう意味だ?」
「なんでわかるのか俺にもわかんねえけど、とにかくマズいことが起きる気がしてしょうがねえんだよ! だから早く……」
そのとき、けたたましい騒音が周辺で鳴り響いた。騒音の正体が、絶叫するフェイカー軍団だとわかったのは、奴らが一斉にこちらに向ってきたからだった。
それまでACU隊員たちを襲っていたフェイカーの群れが、一体残らず標的をこちらに切り替えたのだ。
だが、襲う狙いはエヴァンやレジーニではない。厭な予感が当たってしまった。
エヴァンはフェイカーを迎え撃つ体勢を整えながら、相棒に訴えた。
「レジーニ、行ってくれ! お前ならあの子を救えるはずだろ! 奴らはリカの望みを叶えにきた! 守るんだ!」
「リカの望みだと!?」
「『死にたい』って思っちまったんだよ! だからフェイカーはリカを殺しにきたんだ!」
リカは、自分がゴンドラから落ちたことも、生物学上の“父親”と同じ能力が目覚めたせいで転落死しなかったことにも、まったく気づかなかった。
今のリカにとっては、何もかもが関心の外にあった。
頭と心は、ただ一つの真実に囚われている。あまりにも残酷で、悲痛で、むごたらしい真実。
垣間見えてしまった“母親”の記憶が、ヘドロのようにねっとりと絡みついている。
耳元に吐きかけられた、男の生臭い息。飢えた野獣のような、汚らわしい呼吸。下腹部の痛みと異物感。まばたきすらできないほどの間に追体験した“母親の記憶”は、リカの心をずたずたに引き裂いた。
自分は、おぞましい行為の果ての結果なのだと、思い知らされてしまった。
すべてを否定してしまいたい。自分という存在を定義するすべてを。
「どうして? どうして私を産んだの? 私は望まれた子どもじゃなかったのに……」
地面についた手の上に、ぽたりと一粒、涙が零れ落ちる。
「私が産まれたせいで“お母さん”は死んだ。私が産まれたせいで、おかしな力に悩まされ続けてきた。私が産まれたせいで、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。それなのに私……、私、なんで生きてるの……?」
産まれた意味がわからない。こんな忌まわしい命に価値などないのに、どうして生きなければならないのだろう。
価値がないなら、
いっそ――、
(死ねたらいいのに……)
リカの脳裏をよぎった思いは受理された。
融合者の命令として。