TRACK-6 Pandora 6
オツベルの咆哮が轟き、ターミナル中の空気を震わせる。哀哭にも感じられたその叫びは鬨の声となり、フェイカーたちを共鳴させた。
怒り猛るエヴァンが、オツベルに――正確には舳先の上で睥睨するシュナイデル――向かって駆け出したのを皮切りに、周囲が一斉に動き出す。
レジーニは素早く目を動かし、リカが載せられたゴンドラまでの最短距離を模索した。フェイカーの群れを避けることはできない。一分一秒でも早く彼女のもとにたどり着くには、戦いながら突破するより他なかった。
クロセスト〈ブリゼバルトゥ〉の刀身が、青い光に包まれる。内部の具象装置の起動が完了したのだ。
こちらの準備を待っていたかのように、一体のフェイカーが奇声を発しながら、棍棒状の両腕を振り下ろしてきた。レジーニはブリゼバルトゥで攻撃を受け止めて下方に流し、切っ先をフェイカーの喉に突き刺した。途端、機械剣から冷気が放出され、フェイカーの首周りを凍てつかせる。レジーニが剣を引き抜くと、首は砕けて頭部が落ちた。
残された胴体をぞんざいに倒し、数歩進むも、再びフェイカーが行く手を阻む。
二体目はすべての爪をナイフのように強化させていた。両手を開いて得物を見せつけ、レジーニを切り裂かんと、やみくもに腕を振り回す。技とさえ呼べない大雑把すぎる攻撃を、レジーニは冷静に打ち払いつつ、徐々に後退していった。ブリゼバルトゥとフェイカーの爪刃が交差するたび、氷の粒が塵のように舞う。
フェイカーの両手が、ブリゼバルトゥの刀身をがっちりと掴んだ。レジーニは即座にその場で後退を止める。反動でバランスを崩したフェイカーが、前のめりによろめいた。レジーニは冷気の出力を上げ、剣に絡ませたまま、その爪刃を凍らせた。
フェイカーが忌々しげに絶叫する。レジーニは剣のグリップを握り直し、自分の方に引き寄せる。フェイカーの両爪が氷とともに粉砕し、あたりに結晶を撒き散らした。
敵は我が身に起きたことが信じられないようだ。失った腕を見ておぞましい悲鳴を上げ続けている。だが、かける慈悲は一滴もない。レジーニは剣を横に構え、その場で半回転しながらフェイカーの胴を斬り払い、先を急いだ。生死の確認は、背後に立ち昇る分解消滅の悪臭で事足りる。
新たなフェイカーは横から現れた。右腕をブレード状に変形させながら近づいてくる。先の二体に比べ、動き方に無駄がなかった。
フェイカーが距離を詰め、右腕のブレードをふりかぶる。打ち下された剣撃を、レジーニはブリゼバルトゥで応じる。金属同士のぶつかり合いで火花が散った。
フェイカーは正確な太刀筋でブレードを振るってくる。レジーニの動きに合わせて緩急をつけ、攻め時と退き時を心得ていた。フェイカーはどれも、単調な攻撃手段しか持たないと思っていたレジーニだが、評価を改めねばと気を引き締めた。
シュナイデルが、より多くの戦闘データを収集したがる理由も頷ける。フェイカーは戦い方をアップデートできるのだ。つまり、経験値として学習するのだろう。この三体目のフェイカーは、これまでかなりの戦闘実践を重ねてきたに違いない。
「まったく、あちらの科学者は、つくづく余計なものを創ってくれたな」
皮肉っぽく独りごちるレジーニの頭部に、フェイカーのブレードが迫る。レジーニはブレードが振り下ろされたタイミングで、ブリゼバルトゥで防御。鍔迫り合いのさなかに冷気の出力を上げ、堅固な氷を刀身に纏わせた。そのままフェイカーのブレードを持ち上げるように押し返し、守りががら空きになった腹部を蹴りつけた。
フェイカーの体勢が崩れた。レジーニは一歩で相手の懐に入り、返す刃で頭部に一撃を見舞った。氷の剣が怪物の頭蓋を砕き、歪な口から断末魔がほとばしる。
ブリゼバルトゥを引き寄せてフェイカーの脇をすり抜け、無防備な背中に留めの一太刀を浴びせた。刀身に纏わせていた氷が、フェイカーの傷をさらにえぐる。
怪物の背に足をかけて剣を引き抜いた瞬間、フェイカーの肉体は悪臭をはらんだ蒸気を放ち始めた。
呼吸を整えるのも束の間、背後から不気味な気配が接近するのを察した。振り返れば、四体目の敵がゆっくりと歩みを止めるところだった。
上背は優に二メートルを超え、胴体は歪な瘤のように膨張した筋肉で覆われている。巨塊のフェイカーは身体のどこも変形させておらず、木偶の坊のようにレジーニの前に立ち尽くしている。襲ってくる気配はないが、さりとて何もせず通してくれはしないだろう。
レジーニはふっと息を吐いて足を踏み出し、斜めに斬りかかった。剣はしかし、フェイカーの胸に弾かれ、かすり傷ひとつ負わせられなかった。体勢を変え、今度は逆方向から攻める。だが結果は同じで、フェイカーは小揺るぎもしない。恐るべき硬さだ。
ならばと剣先の向きを変え、喉元に狙いを定めて突き出す。しかし、頑強な外皮を貫くことは叶わなかった。
それまで微動だにしなかったフェイカーが、おもむろに両腕を持ち上げ、ブリゼバルトゥの刀身を素手で掴んだ。レジーニは次の行動を予測し、グリップから手を離そうとした。が、それより早くフェイカーがクロセストごと、レジーニを無造作に放り投げた。
地面に叩きつけられる寸前、レジーニは回転して受け身をとり、素早く立ち上がる。ブリゼバルトゥは手からこぼれ、フェイカーの太い足元に落ちた。
フェイカーが緩慢な動作で片足を上げる。その足の下に転がっているのは愛剣だ。巨体の怪物に踏まれてはひとたまりもない。レジーニは、今度は自ら地面に飛び込み、転がりながらブリゼバルトゥを掴んで、フェイカーの下をくぐり抜けた。
立ち上がり、背後を見返ったその瞬間、フェイカーの巨体が地面に沈んだ。振り上げた片足だけではない。全身が、コンクリートの大地にめり込んだのだ。
もはや肉の巨塊と成り果てたフェイカーの上に、何者かが飛び降りた。現れた人物は、繋ぎの服にニット帽を被った男で、小山のようなフェイカーの背上から、レジーニを見下ろしてくる。
「おっと、逃がしたか。こいつごと潰してやろうと思ったんだがな」
言葉は悔しげだが、声色に無念さは感じられず、嘲笑めいた薄い笑みを口元に浮かべている。この乱戦状態にあって、余裕のある言動。フェイカーを地面に沈めた張本人だろう。聞くまでもなく、〈VERITE〉に属するマキニアンの一人だ。ガルデやドミニクから聞いた話から察するに、名前はベゴウィック・ゴーキーと思われる。
「あんたラグナの、いや、今はエヴァンか。どっちでもいいが、あいつの所有者なんだってな。使えねえ道具押しつけられて災難だったろ」
口元が引き攣った。レジーニは痙攣した部分を指で軽く抑える。
道具か。なるほど。
剣が放つ冷気にも劣らぬ氷の眼差しで、レジーニは乱入者を見上げた。
「使えないなら使えるようにするのが甲斐性というものじゃないか? それとも君は、同族を嘲ることで遠回しに自らの価値を貶める、変わった自虐性の持ち主なのかな」
今度はベゴウィックが頬を引き攣らせる番だった。眉をひそめて歯を剥き出し、フェイカーの背から飛び降りた。
「俺は性能が違うんだよ。あのポンコツと同等にするんじゃねえ」
「つまり、自身も“道具”であることは否定しない、と?」
「減らず口が得意か? ムカつくから黙らせてやるよ色男」
ベゴウィックが握った右拳を左手で包み込み、関節を鳴らしながら歩み寄ってくる。マキニアンとの対決で時間を浪費したくはないが、回避できないのなら応じるしかない。レジーニはブリゼバルトゥを構え、近づいてくるマキニアンの動きに集中した。
ベゴウィックが組んだ両手を開く。走り出そうとする瞬間の、筋肉の強張りをレジーニが見て取ったそのとき、二人の間に何者かが割って入った。ドミニクだ。
「レジーニ、あなたはリカのところへ急いでください。彼の相手は私がします」
ドミニクが背中を向けたまま、首だけをわずかに後ろへ回して言う。彼女の肩越しに、ベゴウィックのしかめっ面が窺えた。
「おいおいおいおい色男、女にかばってもらって逃げる気か?」
そんな稚拙な煽りに乗ってやるほどお人よしではなかった。ドミニクがここを引き受けてくれるのなら、お言葉に甘えよう。ややプライドが揺れたものの、リカを救うための時間と天秤にかけることではない。
「すまない、ここは頼む」
「ええ、まかせて!」
ドミニクの頼もしい返答を受け、レジーニは再び走り出した。背後から怒号が聞こえ、襲ってきた風圧に足元をすくわれそうになる。振り返ってマキニアンたちの激戦を確認する暇はない。前進あるのみだ。
行く先々で繰り広げられる、人間と怪物との死闘。その合間を掻いくぐって突き進む。途中、奮戦するACU隊員を加勢して、数体のフェイカーを倒した。
視野の端に、ガルデの姿が映る。他のACU隊員とは格の違う身のこなしで、複数のフェイカーを圧倒していた。
彼に助勢は必要ないだろうと判断したそのとき、一体のフェイカーが彼の背後に忍び寄るのが見えた。ガルデは目の前の敵に集中していて、まだ気づいていない。レジーニはガルデの方へ足を向け、走りながらブリゼバルトゥを構えた。
気配を察したガルデが振り返った、まさにその瞬間、レジーニの剣がフェイカーの首をはね落とした。
ガルデは目を丸くしてレジーニを見つめたが、地面に転がる生首に気づくと状況を察したようだ。
「すみません、ありが……」
ガルデの礼の言葉は、すぐ近くで起きた爆発音にかき消された。爆風が押し寄せ、灰色の煙が視界を奪う。
ガルデが具象装置で拳に風を纏わせ、薙ぐように煙を払った。〈マンティコア〉の風が拭い去った煙の向こうに、痩せた男が立っていた。
その男――エブニゼル・ルドンは、レジーニとガルデがいることを知ると、ぎょっとして両目を見開いた。困惑気味に視線をさまよわせている。しかし腹をくくったのか、目線を上げて表情を引き締めた。
ガルデがレジーニを見やり、わずかに顎を引いた。
「行ってください」
それ以上の言葉は必要ない。レジーニは頷いて踵を返す。同時にガルデが、エブニゼルに向かって駆け出した。
狂乱の中、行く手を阻もうとする障害を蹴散らしながら、なりふり構わず走り続ける。
前方に、リカが乗せられたゴンドラが見えた。あともう少しだ。
高鳴る鼓動を、エヴァンは荒い呼吸で静めようとしていた。深呼吸しているつもりだったが、実際にはペースが早く、血液が沸騰しているかのごとく全身が熱い。
シュナイデルへの怒りが引き金となり、これまでにない高揚感に支配されつつある。それは、下水道で初めてオツベルに遭遇した日の夜に発露した、抑えがたい破壊衝動に近い、いや同質のものだった。正気を奪われたオツベルの咆哮が、あのときと同じ作用を起こしたのだろう。
湧き上がる暴力的な渇望に、理性が剥がれていきそうだ。シュナイデルへの報復は果たしたいが、それ以外のものを破壊したいわけではない。エヴァンは歯をくいしばって、内なるモンスターを押しとどめようとした。
辛うじて繋ぎとめている理性を手離したら、シュナイデルに操られているだけのオツベルまでも倒しかねない。囚われのリカを巻き込む恐れもある。
だが、いつまで耐えられるかわからない。
エヴァンは額に脂汗を浮かべて、壁のように立ちはだかるオツベルを見上げた。
「オツベル、そこをどいてくれ。あんたは傷つけたくない。うしろにいるクソッタレな女をブッ飛ばしてェんだよ」
興奮状態のオツベルに言葉が届くとは思えなかったが、そう言うしかなかった。
『オツベル』
依然、船の舳先でふんぞり返るシュナイデルが、拡声器を通してオツベルに呼びかける。
『やっちまいなー!』
腹立たしいほどにふざけた掛け声で、オツベルをけしかけるシュナイデル。その“命令”に従い、オツベルが雄叫びを上げながら突進してきた。
オツベルとは戦いたくない。たとえ今の彼女が、操られているだけだとしても。
しかし、凶暴な闘争心に侵食されていくエヴァンの本能は、向かってくるオツベルを“敵”と判断しようとしていた。エヴァンの中に眠っていた“何か”が、耳元で囁きかける。
――殺せ、あのでき損ないを。
唸りを上げて振り下ろされたオツベルの拳を、右手だけで受け止める。重みで地面が窪む。だが、エヴァン自身は倒れも揺らぎもしなかった。
オツベルは剛腕にまかせて、エヴァンを圧し潰そうと力を加えてくる。エヴァンはそのパワーに怯むことなく、腕一本で徐々に押し返した。
オツベルが一歩また一歩と後退していくたびに、今度はエヴァンが、加える力を増していった。
「どけっつったのに。どうしてもやるってんなら、しょうがねえ」
言うつもりなどなかった言葉が、無意識に口から吐き出された。これは自分の言葉ではない。本心ではない。だが……本能なのだ。
戦え、と何かが叫ぶ。
戦って勝ち取るのだ。
生存競争の、勝者の座を。
リカが目覚めたとき、あたりは戦場と見紛うばかりの混乱に満ちていた。
自分がどこにいるのか、なぜか高い位置にあるゴンドラに乗っているのか、それすらもわからない。車の中で待機していたはずなのに、今や恐慌状態の只中に、たった一人で放置されている。これでパニックを起こすなという方が難しい。
「なんなの……、なにが起きてるの?」
動悸の激しい胸を押さえ、ゴンドラの縁に手をかけて地上を見る。人間と怪物の戦いが、そこらじゅうで繰り広げられていた。火の手が上がっている場所もある。雷鳴のような銃声が轟く。人間の悲鳴、怪物の絶叫が、否応なしに耳に入り込む。
視線をもっと手前に移すと、目を疑うような光景が飛び込んできた。両腕を炎で包んだエヴァンが、誰かと激しく戦っている。その相手は、救出しにきたはずのオツベルだったのだ。
二人はまるで、積年の恨みを募らせた宿敵同士かのように、拳と拳をぶつけ合い、血を流していた。オツベルが巨体と剛力で推そうとしているならば、エヴァンは身軽さと炎を武器に技を駆使している。
戦いについての知識が一切ないリカにも、彼らが本気だと――命を奪いかねないほど全力を出しているのだとわかった。
「どうして、あの二人が戦ってるの? だって、味方同士だったはずじゃ……」
囚われのオツベルを助けにきたのに、そのオツベルが怪物たちとともに仲間に襲いかかっていったのか。一体どうして――。
レジーニは、どこにいるのだろう。
唐突に記憶が浮上する。リカが車内で待っていたとき、何者かの襲撃を受けたのだ。銃声と怒号が飛び交う中、リカは車から引きずり出され、甘いようなカビたような変な匂いを嗅がされた。薄れゆく意識の最後に見たのは大きな影。あれは……あの気配は、オツベルと似ていた。
オツベルが、リカを襲ったのだ。
心臓をぎゅっと掴まれたように息苦しい。
エヴァンとオツベルの戦いは熾烈を極め、彼らが衝突すると、空気の波のようなものが押し寄せてきた。
戦いが激化すればするほど、その波動は密度を増し、リカを飲み込もうとする。目の奥でちかちかと火花が散り、細い耳鳴りが脳を貫いた。
気持ち悪い。吐き気がする。
立っていられず、ゴンドラの床に座り込んだ。海風にあおられたゴンドラが揺れるせいで酔ったのか。
いや違う。あの波動のせいだ。理由はわからないが、そう感じた。
ぼやけた視界でエヴァンとオツベルを見る。赤い炎と獣の叫びに染まる彼らは、もう誰にも止められないだろう。どちからかが、あるいは双方が死ぬまで。
「やめて……」
波動はどんどん濃密になり、リカを苛んだ。波動の存在を感知しているのはリカだけだが、そんなことは知りようもない。
「もうやめて」
脳裏に奇妙な映像が浮かんだ。テレビの砂嵐や古い動画のような、ノイズだらけのざらついたイメージが、リカの意志とは関係なく流れ込んでくる。
――厭だ、視たくない。
「レジーニさん……どこ……、助けて……」
痛みだした頭を両手で抱えてうずくまった。波動の高まりは限界に達しようとしている。脳裏の映像が、次第に鮮明さと現実感で肉付けされていく。
視たくない。
誰のものかわからない記憶なんて。
広がり続ける波動に、周囲の人間の記憶が巻き込まれ、リカの中に入ってこようとしている。
拒んでも拒んでも、振り払えない。複数の人間に辱められるように、頭の中が蝕まれていく。
エヴァンとオツベルの咆哮が、遠のきかけた耳を劈いた。その瞬間、波動がピークに達した。
満天の星空。土に根を下ろす植物。光射す水中。分裂する細胞。立ち上がる赤ん坊。絡み合う裸の男女。殺し合う男たち。おびただしい血。焼かれる生き物。ひび割れた大地。汚れた水。燃え盛る炎。白い部屋。こちらを覗く目。死んだ犬。ぬいぐるみ。並べられた幼い少年少女。笑い声。ブランコ。墓穴。崖。銃声。悲鳴。破られた本。13のタグ。肉塊。誰もいないベッド。胎児。注射器。車椅子。鏡。背を向けた男の子。宇宙。
同じ顔の少女たち。走ってくる男。掴まれた手。のしかかる身体。下腹部。赤ん坊。海。落ちる。光。
風船が破裂するように、波動が弾けて消えた。
リカはゆっくりと顔を上げ、唇をわななかせながら目を開けた。
ゴンドラの下に、エヴァンとオツベルがいる。二人は戦いをやめて、リカを見上げていた。
エヴァンは驚いたように双眸を見開き、オツベルは大きな身体を震わせている。
リカは、オツベルから目を逸らせなかった。
視えて、しまった。
まやかしではないと、本能的に理解している。
否定しても無駄だ。あれが真実なのだから。
私は――。
私は、暴力によって出来てしまった子。
生まれるべきではなかった子。
本当の母親は、死んだ。
そして、生まれ変わった。
今そこにいる、異形の姿となって。




