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TRACK-6 Pandora 3

 身体が傾いだ弾みで目が覚めた。暗い穴の淵から落ちるような錯覚は夢だったのだろうか。

ガルデは瞼を開ける。光に目が眩み、反射的に顔を背けた。それからゆっくりと正面に向き直り、瞬きを 繰り返しながら両目を開く。

 今度は光の中に女性の顔があり、藍色の瞳でガルデを心配そうに見つめていた。

「目が覚めましたね。気分はどうです?」

 慈愛に満ちた優しい声で、そっと話しかける女性はドミニクだった。

 なぜドミニクの顔がこんな近くにあるのだろう。そもそも自分は今、どういう状態なのか。そしてここはどこなのか。

 様々な疑問がガルデの頭の中にどっと押し寄せてきて、ドミニクの問いかけに対する返事が、すぐには出てこなかった。

 東雲色サンライズイエローまなこをキョロキョロと動かし、ドミニク以外で現状況を確認できるものを探す。

 わかったのは、仰向けに寝ている体勢であること、背中が固い素材のものに接しており、下から伝わってくる振動と物音、ひっきりなしに左右に揺れていること。そしてこの揺れと物音には覚えがあること。

 どうやらACUの運搬車両の中のようだ。だが、こんな所にいる理由がわからない。

 背中では固さを感じるわりに、後頭部だけは柔らかい感触がするのも妙である。

 頭がぼうっとする。ガルデは鈍痛のする額に右手をあてがった。腕を上げたとき、手の甲が柔らかいものに触れたので、それが何なのかを確かめようと目を凝らした。

 手が触れたであろう柔らかいものは、ガルデの目の前にあった。大きくて丸い二つの膨らみが、ガルデの顔に影を落としている。膨らみの向こうにドミニクの心配そうな顔があった。

「どうしました? 頭痛がするのですか?」

 その瞬間、“柔らかいもの”の正体を察したガルデは、尻尾を踏まれた猫のような声を上げて飛び起き、床に転倒した。転げた勢いで後頭部を強打し、数秒悶絶する。

「大丈夫ですか、ガルデ? 今、頭打ちましたね?」

 ドミニクが腰を上げようとするのを、ガルデは慌てて止めた。

「だだだだ大丈夫です! あ、あの、俺、す、す、すみません!」

 ガルデは急いで立ち上がり、赤く火照る顔を見られまいと、ドミニクに背を向けた。車両の揺れにつられぬよう、手近なものに掴まる。

「どうして謝るのですか?私はなんともありませんよ」

 ドミニクの口調は、心からガルデを気にかけている様子が伝わってくるが、豊満な胸にガルデの手が触れたことには気づいていないようだった。それとも気づいていないふりをしてくれているのか。

 だからといって、女性の身体のデリケートな部分に、わずかでも触れた罪が消えるわけではない。

 ガルデは右手を自身の胸に当て、祖国の神アズラに懺悔すると、何度か深呼吸を繰り返してから、ドミニクの方に向き直った。頬はまだ熱いのだが、赤面していないことを祈る。

「取り乱してすみません、もう大丈夫です」

 改めてドミニクを見ると、彼女は車両の座席に座っていた。頭だけ柔らかい感触がしていたのは、ドミニクの膝枕のおかげだったのだと気づき、ガルデは恥ずかしさのあまり車両から飛び降りたくなった。

 ふとドミニクの隣を見ると、リカがちょこんと座っていた。孔雀藍ピーコックブルーの両目を見開いて、不思議そうにガルデを眺めている。恥の上塗りである。

 ガルデは胸中で無様な自分を叱り飛ばしてから、咳払いをひとつして気持ちを切り替えた。

「ところで、これはACUの運搬車両ですよね。俺たちはどうしてここに? どこに向かってるんです?」

 ガルデが質問すると、ドミニクとリカは顔を見合わせた。

「覚えてないのですね。あなたも含めたACUの方々は〈VERITEヴェリテ〉の襲撃を受けたんですよ。話を聞く限り、襲ってきたのはベゴウィック・ゴーキーとエブニゼル・ルドンですね」

 ドミニクから二人の名前を告げられた瞬間、ガルデの脳裏に閃光が走り、滞っていた記憶が鉄砲水のように押し寄せてきた。


 ベゴウィック、エブニゼル、重力、土と鉄の檻、囚われた仲間、そしてオツベル。


「オツベルは!? オツベルはどうなったんですか!? 中佐や他のみんなは無事なんですか!?」

 意識が途切れる直前に聞いた、彼女の悲痛な叫び声が耳の奥に蘇る。

 ドミニクはガルデを見上げ、沈痛な面持ちで首を振った。

「グローバー中佐とACUの皆さんは無事です。負傷してはいますが、ほとんど打撲やかすり傷でした。ゼルに殺意はなかったようですね。でもオツベルは、彼らに連れて行かれたと、中佐から伺っています。私たちが現場に着いたときには、もう」

「そんな……」

 最悪の報告だった。

 ドミニクとリカが屋敷を訪れたとき、ベゴウィックとエブニゼルの姿はすでになかったそうだ。ACUの面々は〈サトゥルヌス〉の檻から解放されていて、負傷者の手当てと、撤退作業に集中していた。

 ガルデは陥没した地面の中で気絶していたそうで、クローバー中佐に引き上げられているところへ ドミニクとリカが行き合わせたらしい。

 墓場屋敷で起きたことと、オツベルがどうなったのかということを、ドミニクは中佐から聞いたのだった。

 今はACUの東支部が緊急時に利用する、待機施設に移動している。

 オツベルがベゴウィックたちに連れ去られたということは、あのクロエ・シュナイデルの手に落ちてしまうことを意味する。シュナイデルが、特別なメメントであるオツベルを、ただ鑑賞するだけで済ませるわけがない。

「俺が近くにいながら……、ベゴウィックとゼルを止められなかったばかりに……」

 湧き上がる苛立ちは、自分に対してのものだった。もう少しでベゴウィックを止められたはずだ。油断しなければ、我が身を盾にしてでもオツベルを守れた。参戦して来ずとも、エブニゼルの援護が入ることは想定すべきだった。

“勝てる”という慢心が招いた失態だ。ガルデは自身への呵責のあまり、車両の手近な壁を殴りたい衝動にかられて、右拳を振り上げかけた。しかしドミニクやリカの前で見苦しい真似をするわけにはいかず、握りしめた拳を左の掌に打ちつけ、やり場のない怒りを鎮めようとした。

 するとドミニクが、リカが座る方とは反対側のスペースをぽんぽんと叩き、ガルデに座るよう催促した。

「座って、ガルデ。そんなふうに自分を責めてはだめです。あなたは一人で、ベゴウィックやゼルからみんなを守ったんですよ」

「だとしても、オツベルを連れて行かれたんじゃ……」

 ガルデはため息をつきながら、勧められたスペースに座る。リカと二人でドミニクを挟む形になった。

「居場所を突き止めて助け出さないと。急がなくちゃ、オツベルが危ないんです」

「わかっています。でも焦らないで」

 ドミニクの手がガルデの肩に置かれた。

「エヴァンとレジーニにも連絡しました。待機施設の場所を教えています。中央区から直接こちらに向かうそうです」

 ガルデは頷き、車両の壁に頭をもたせかけた。タイヤから伝わってくる振動で、頭がぐらぐら揺れる。

「あの……」

 少女の声が、ドミニクの身体越しに聞こえた。ガルデは壁から頭を離し、少し前かがみになって声の主を窺い見た。

「どうして連れて行かれたんですか、……あの人」

 オツベルを“怪物”でも“メメント”でもなく、“あの人”と言い表したのは、リカなりのオツベルへの配慮なのかもしれないと、ガルデは思った。異形に対する恐れは拭えなくとも、自分を守ろうとしていた者が危険に晒されている状況に、心を傷めたのだろう。

 ガルデはリカに答えようと口を開いたが、逡巡してそのまま固まった。ありのまま伝えるべきか迷ったのだ。

 しかし、その迷いは一瞬で捨てた。隠しても意味はない。ガルデは喉で止めていた言葉を発した。

「屋敷の襲撃は君が目的だったんだ。でも途中で標的がオツベルに変更された。彼女が言葉を話すメメントだと知られたからだ。早く救出しないと、オツベルが何をされるかわからない」

 リカが眉をひそめ、口元に手を当てる。ガルデは不安げな少女を見つめ、その視線をドミニクに移し、頷いて決意を表す。

「必ず助ける」


        *


 アトランヴィル・シティ第八区と第九区の中間にある港に、貨物船を装い停泊させたアジト船の一室で、クロエ・シュナイデルはせわしなく動き回っていた。壁際の棚と部屋の中央を頻繁に往復し、これから始める作業の準備に余念がない。

 棚から棚へと移る足取りは踊っているかのように軽やかで、実際シュナイデルは陽気に鼻歌を披露している。彼女が身体の向きを変えるたび、白衣ならぬ赤衣の裾や長い髪が、花弁よろしく舞い広がった。

 傍目には、何か嬉しいことがあったようにしか見えない。しかし、棚や引き出しから取り出す様々な器具は、不穏かつ凶悪な様相を呈しており、どれをどう使うのかなど、聞きたくもないようなものばかりである。

 部屋の出入り口近くで様子を見ているベゴウィックには、注射器、メス、医療用鋏、ピンセットくらいしかわからなかった。明らかに工具としか思えない、ペンチやニードルやノコギリも用意しているが、一体何に使うつもりなのか。

 ドアを挟んだ反対側では、エブニゼルが青白い顔で俯いている。耐え忍ぶように肩を縮こまらせ、両手はレザージャケットのポケットに突っ込んでいた。

 ベゴウィックは部屋の中央に目を向ける。医療用の大きなリクライニングチェアが設置されており、シュナイデルの上機嫌の理由が座って――否、拘束されていた。ベゴウィックとエブニゼルが連行してきた“喋るメメント”だ。

 メメントは、リクライニングの肘掛けと足置きに両手足を、胴体は背もたれに押し付けるように、それぞれ鉄輪で固定されている。このメメントは捕獲してからアジト船まで輸送する間、巨体をいかんなく発揮して暴れ、何人ものVERITEヴェリテクルーを負傷させた。ベゴウィックの重力操作で無力化させるのは簡単だったが、少しでも隙があれば逃げ出そうとするので、船まで運び込むのに骨を折った。

 そうしてシュナイデルの前に突き出すと、彼女は黄色い奇声を発して歓喜し、お礼のつもりかベゴウィックとエブニゼルの頬にキスをした。まったく嬉しくない。エブニゼルはシュナイデルが見ていないところで、そっとキスの跡を拭っていた。

 あれだけ暴れていたメメントは、今やおとなしく拘束されたままでいる。シュナイデルの異様な雰囲気に恐れをなしたのかもしれない。

 シュナイデルは時折、医療器具をメメントの目前に突きつけた。しかもわざわざ、形状からして危なそうな器具を選んで。そのたびにメメントは怯えて呻き、大きな身体を震わせるのである。

 ベゴウィックの経験上、メメントが人間を恐れるなど考えられない。しかしあのメメントは、間違いなく“恐怖”を知っている。感情があるのだ。

 ヒトの言葉を話し、感情を持つメメント。シュナイデルが強い興味を持つのも無理はない。だが、ACUに保護されていた理由は何なのか。ガルデを助けようとしていた様子を見ると、少なくとも今からシュナイデルが行おうとしている怪しい作業と同じような目に遭わされていた、ということはなさそうである。

 ベゴウィックとしても、なぜそんな特殊なメメントが存在するのか、他に例はないのかなど、気になる点は多少あった。しかし、華奢な女科学者を前に怯え震えるメメントを見ているうちに、ささやかな好奇心は哀れみに変わっていった。このメメントは、マッドサイエンティストのおぞましい実験の餌食になるのだ。いっそ殺してやった方が慈悲深いと言いたくなるほどの。

 他のメメントであれば、煮られようが焼かれようが細切りにされようが、毛ほども気にかけないのだが……。


(胸クソ悪ィな……)

 嫌悪を覚えるのは、あのメメントに感情があると知ったからだろうか。ベゴウィックですらそんなふうに感じるのだから、あちらで顔面蒼白になっているエブニゼルは何をか言わんやである。

 シュナイデルが茶色いアンプルを一本手にし、慣れた所作で蓋を割り開けた。折った蓋をぞんざいにゴミ箱に投げ入れ、代わりに針の太い注射器を取り上げる。

「喋るメメントが現れるなんて、進化スピードがますます加速してるわね。研究のし甲斐がありそうだわ」

 シュナイデルは左しかない黄水晶色シトリンカラーの目を、猫のように細めてにんまりと笑いながら、注射器の針をアンプルに浸して薬液を吸い上げる。

 シュナイデルが注射筒シリンジを指で弾き、気泡抜きをしているところで、エブニゼルは青い顔のまま足早に退室した。

 ベゴウィックの胸中で、ざわりと苛立ちが波打つ。あんな調子では、そのうち任務に支障が出るのではないだろうか。エブニゼルの不始末の尻拭いは御免である。

 シュナイデルはエブニゼルの退室に気づいていないようで、視線は依然、実験器具とメメントに注がれている。

「あたしを驚かせるなんて大したもんよ。ご褒美にとびっきりの臨床試験してあげるからね」

「それのどこがご褒美だ、拷問だろ」

 ベゴウィックは思わず突っ込んだものの、女科学者はまったく意に介さなかった。

「知能の高いトワイライト・ナイトメアですら、言葉を話さなかったわ。このウドの大木ちゃんが、どんな変異情報を生体パルスから受け取ったか知らないけど、この事実から一つの推論が生まれることになる。なんだかわかる?」

 問いかけのように聞こえたので、ベゴウィックは何か言ってやるかと口を開いた。しかし言葉を発するより早く、シュナイデルが一方的に喋り出した。

「メメントは“他種族とのコミュニケーションをとるために進化することが可能”なのよ。それも、より知能の高い種族とのコミュニケーションをね。つまり人間の“言葉”を習得することで、メメントは人間と対等に、やがてはその上に立つ存在になり得るってわけ。実際、身体的には端から人間を上回っている。あんたたちマキニアンを除けばね、今のところはだけど。あとは見合う知性が養われれば、世界の生態系の頂点に君臨するのは容易いでしょうよ」

「この世界がメメントに支配されるってのか。だったら俺たちが駆逐すりゃいいじゃねえか」

メメントがのさばり、大地を埋め尽そうというのなら、その前に滅ぼせばいい。マキニアンはそのためにいる。

 しかしシュナイデルは、ベゴウィックの自信を鼻であしらった。


「あんたたちマキニアンが、いつまで戦えると思ってんの? 定期メンテを繰り返しても、耐用年数はせいぜいあと三、四十年程度が関の山ってとこでしょうよ。その間メメントは何してる? 急速な進化と個体数増加を繰り返し、そのうち討伐が追いつかなくなる。環境適応力が高いから、いずれはマキニアンに対抗し得る種が生まれるわよ。やがてあんたたちマキニアンに限界がくる。将来的には新型の戦闘員なりクロセストなり存在してるかもしれないけど、その頃にはもう手遅れね。生態系はメメントに蹂躙され、人間の末路はメメントの苗床になるか、腐らせて食用にされるか、苗床を増やすための繁殖用になるか、いずれかだわ。どう? なかなかの地獄じゃない? そしてその地獄の玉座に座るのは〈アダム〉なのよ」


 地獄絵図と語りながらも、シュナイデルは楽しげだった。たとえ世界がメメントによって滅びようと、自分だけは関係ないとでも言わんばかりだ。

 シュナイデルの持論には一理ある、とベゴウィックも思う。とはいえ、全面的には納得できない。

「お前の言うとおり、世界がいずれメメントのものになるってんなら、今〈VERITEヴェリテ〉でやってることに何の意味があンだよ。俺たちが目的を果たしたとしても、その先にあるのがメメントの巣に成り果てた世界だ? 冗談じゃねえ」

「脳ミソ筋肉のベゴウィックちゃん。心配しなくても、あたしたちのやってることにはちゃんと意味があるし、成し遂げられなければならない。答えは単純」

 シュナイデルがメメントの服の袖を捲り上げ、象皮のような強靭な腕が露わになる。


「支配者を支配すればいいのよ」


 言うや彼女は、注射針を思い切りメメントの皮膚に突き刺した。みるみるうちに薬液がメメントの体内に注入されていく。

 あれほどの巨体でも注射針が刺された痛みはあるのか、それとも薬液による反応か、メメントは獣じみた咆哮を上げ、激しく身体を震わせ始めた。リクライニングに拘束されているので、いくら暴れてもメメントは逃げられない。床に固定されたチェアの支柱がガタガタと揺れ、今にも床から抜けそうだ。

 シュナイデルは薬液がメメントにもたらした反応を眺め、満足げに頷いた。

 拘束されているためにのたうち回ることもできず、悶え苦しみ絶叫し続けるメメントの有り様は、ベゴウィックですら顔をしかめずにはいられなかった。

「お前、そいつに何を打ったんだ」

 女科学者はベゴウィックに笑いかけるだけで、問いには答えなかった。中身が空になった注射器を、銀のトレーに投げ入れ、薄いゴム手袋を嵌める。

「ここから先は企業秘密。ほら、さっさと出てけ出てけ」

 シュナイデルは野良犬を追い払うように、手袋をした両手をひらひらと動かして、ベゴウィックに退室を促す。

 これ以上見ている気もなかったベゴウィックは、シュナイデルに対して“イカれている”と首を振りながら部屋を後にした。




 メメントの痙攣は続いている。体躯に合わせて薬の量を調整したのだが、効果は絶大のようだ。

 先ほど打ったのは、シュナイデルが独自に開発した、メメント用の薬剤である。「トワイライト・ナイトメアをも眠らせる薬を」という物騒なひらめきから作り出したため、理論的にはほぼすべてのメメントに有効である。名称はとりあえず〈ダンスマカブル〉としている。

 投与後しばらくは、激しい痙攣、意識混濁、苦痛による凶暴化などの副作用が見られる。〈ダンスマカブル〉には、対メメント武器クロセストの素材であるクリミコンを応用している。言うなれば、クロセストの毒薬だ。

 そのため〈ダンスマカブル〉でメメントを殺すことも可能だが、現時点では武器として実用化するほどの量を生産できない。よって実験用の麻酔、あるいは緊急処置用の毒薬としての用途しかない、というのが目下この薬の改善点である。

 しばらく観察していると、メメントの痙攣が治まってきた。すると次に脱力症状が現れ、強張っていたメメントの全身がだらりと緩んだ。

 シュナイデルは赤衣のポケットからレコーダーを取り出した。天井に備え付けたカメラを起動させ、メメントの周囲をゆっくりと歩き、レコーダーに語りかける。


「クロエ・シュナイデルが記録。ゴーキーとルドンに捕獲させた“喋るメメント”のレポート。投与した〈ダンスマカブル〉は有効、痙攣ののち脱力。連行中の様子を聞くに、自分の身を守る以外の目的で、人間に襲いかかることはないらしい。攻撃性は極めて低く、性質も従順。完璧な二足歩行。人語を解し用いるという、これまでに類を見ないメメントである。間違いなく共生体シンビオントだが優良種スペリオルほどの知性があるかは不明。ひとまず劣等種インフェリオルに分類しておく。マスクは容姿を隠す以外に、呼吸補助のためと思われる」

 

 シュナイデルはレコーダーをメメントの顔に近づけた。

「ハーイ、ウドの大木ちゃん。あなたに名前はあるの?」

 薬の副作用による脱力感で、抵抗する気力も湧かないメメントは、たどたどしいながらもシュナイデルの質問に答えた。

「オ……、オツ……ベル……」

 老若男女が混ざったような声が、マスクを通してもごもごと聞こえる。呻き声ではないまともな言葉を聞いて、シュナイデルの頬は自然と綻んだ。

「オツベルくん、オツベルちゃん、どっちだろ。まあいいか、身体を見りゃわかるでしょ。どうせ服もマスクも邪魔だ」

 レコーダーを赤衣の襟に留め、身をかがめてマスクの中を覗き込む。ゴーグルから垣間見える素顔は、人によっては直視が躊躇われるだろう。

 シュナイデルはオツベルのマスクに掌を当て、猫なで声で話しかけた。

「ねえオツベル。あたしはあなたが何者なのか知りたいの。ひいては、メメントの真の姿をね。あなたに訊けばいろいろわかると思うから、協力してほしいな~」

 ぶりっこのように小首を傾げてみせても、〈ダンスマカブル〉が効いているメメントからの反応はない。

「まあ言葉じゃなくて、身体に訊くって意味だけどね」

 シュナイデルはリクライニングチェアの横に移動し、メメントの大きな肩を気安く叩いた。

「聞いてオツベル。ベゴウィックに話したことは的外れじゃないわ。この世界はいずれあなたたちメメントが溢れかえって、人類は下位生物に落とされる。そうでしょ? 知ってるわよね? だけど世界の頂点に立ったメメントは、あたしたちが支配するの。この意味わかる?」

 己の言葉に酔いしれながら、おもむろにマスクの留め金に手をかける。

「あたしがそうするの。世界の支配者を支配するすべを、このあたしが造るのよ。シャラマンじゃない、このあたし」

 かつて師事していた天才は、シュナイデルの思惑どおりに動いてくれなかった。気弱なくせに、追い詰められると妙な反骨精神を発揮する、厄介な男だ。

 何事も自分の楽しみを最優先するシュナイデルだが、アンドリュー・シャラマンへの対抗心だけは捨てきれなかった。

 その対抗心を消化するため、そして科学者として最高の研究と実績を積むため、何よりも人生謳歌のため、シュナイデルはソニンフィルドのもとにいる。

「あの人はいいスポンサーよ。あたしの研究に、金は出すけど口は出さない。おかげで思い切り研究できるし、三食昼寝付き。職場環境としては〈イーデル〉より上等よ。あと、身体の相性も悪くない。思想についてはどうでもいいわ、興味ないし」

 ひとしきり独白した女科学者は、うんうんと満足げに頷いた。

「さて、それじゃ仕事仕事。オツベルちゃん、あたしにあなたのすべてを見せて。そうしたら、ステキに改造してあげるからね」

 留め金を外す。メメントの頭部を覆っていたマスクをはぎ取り、曝け出した素顔を見て、シュナイデルは歓声を上げた。




 吐瀉物が水に流され、排水口に落ちていく。決していい眺めではないが、自分自身が吐き出した汚物の行く末を、見届けなくてはならない気がした。

 何度も口内をすすぎ、水を飲んで顔を洗う。水を止めて洗面台から頭を上げると、青白い顔をした死に損ないが映っていた。

 荒かった呼吸は治まった。吐き気はまだあるような気がするが、胃の中は空っぽだ。目の周りは赤くなっているし、嘔吐でミネラルが失われ、身体が震えている。まるで病人だ。

 洗面台の縁に両手を置いたエブニゼルは、鏡の中の自分を見つめる。

「情けない」

 かすれた声で呟いた。

 捕獲したメメントが縛りつけられ、恐怖におののき啼き叫ぶ様は、憐れみを通り越して悲惨だった。そしてその悲惨さは、かつて自分が置かれていた環境を思い出させた。

 監禁拘束され、自由を奪われ、お前は無力なのだと思い込まされることで、抵抗する気力が湧かなくなる。命令に逆らえば、返ってくるのは酷い暴力。

 身体は穢れ、心も枯れ、あの頃のエブニゼルは、生きながら死んでいるも同然だった。

 今は、違う。違うはずだし、違わなければならない。

 でなければ、ここにいる意味がない。いつ死んでもいいと思っていたゴミのような人生から、生き続ける選択をした意味がなくなる。

「しっかりするんだ」

 もう一度、己を叱咤する。

 自分を拾い上げてくれたあの人のためにも、自分にできることをやる。そう決めたのだ。

「あの頃とは違う。オレはもう奴隷オモチャじゃない。兵士でもない。オレは……」

 

 今のお前は何者だ――。

 

 鏡に映る瞳の奥、かつての己が膝を抱えてこっちを見ている。

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