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TRACK-1 光、あるいは影 4

「またお前か」

 ドアを開けた先に立つ訪問者を見るなり、エヴァンはうんざりした声を上げた。

また・・とは何よ。人のことしつこいセールスマンみたいに言わないでくれる?」

 淡い色味の金髪を一つ結びにした訪問者マリー=アン・ジェンセンが、両手を腰に当ててエヴァンを見上げた。襟ぐりの広い赤いニットに、グレー基調のチェックスカート、黒のオーバーニーソックスという、今時の女の子然としたファッションだ。

 細い首もとには、三つ並んだタンポポのペンダントが下がっている。彼女の誕生日に、エヴァンが贈ったものだ。

「用があるからここに来てんの。でなきゃ好き好んであんたのことなんか訪ねないわよ」

 マリーはつん・・と顎を上げる。

 斜向かいの部屋に祖父母と暮らすこの少女は、今年の春に中等部に進学し、夏に十三歳の誕生日を迎えた。そのためか、ここ数ヶ月でずいぶん成長したように、エヴァンには思えた。 

 出会った頃と比べて身長は伸びており、手足もすらりとしている。もともと整っていた顔立ちはぐっと大人びてきた。

 だが言葉遣いは相変わらずだ。どういうわけか彼女は、エヴァンに対してのみ態度が厳しい。顔を合わせれば憎まれ口を叩き、何かにつけて揚げ足を取る。

 祖父母想いの優しい子で、アルフォンセとは姉妹のように仲良しなのはエヴァンも承知しているのだが、何の罪があって自分だけ見下されているのか、さっぱり分からないのである。

 エヴァンは腕を組んでドアの縁に寄りかかり、生意気な少女を軽く睨んだ。

「この前アルと二人っきりンところを邪魔してくれたばっかだろ。かわいくねー口の利き方してると、男子に嫌われっぞ」

 お返しとばかりにそう言うと、マリーは目尻を吊り上げ、華奢な右拳でエヴァンの腹にパンチした。が、鍛え抜かれた腹筋には、何のダメージもない一撃だ。こうして殴られるのも日常茶飯事である。

「うっさいわね! そんなことあんたに心配されたくないわよ!」

「あらマリー、どうしたの?」

 エヴァンの背後からアルフォンセが顔を出した。するとマリーは、ちょっと恥じ入ったように頬を朱に染め、エヴァンを殴った右手を背中に隠した。

「こんばんは、アル。邪魔して悪いんだけど、ちょっとこの人借りていっていい?」

「なんだよ、この場で済む用じゃねーのか」

 マリーの用とやらをさっさと終わらせ、耳かきの続きをしてもらうつもりでいたエヴァンは、舌打ちして後頭部を掻いた。

 その態度を、アルフォンセがやんわりたしなめる。

「マリーに舌打ちなんてしちゃ駄目よ。ね、マリー、どうかしたの?」

 改めてアルフォンセに尋ねられたマリーは、勝ち誇った表情でエヴァンを一瞥した。

「さっすがアルは心が広い。器の小さいバカとは違うわね」

「うっせー、一言多いんだよお前。何の用だよ」

「キールマンさんが困ってるの。アパートの裏手の下水道に変なのがいるから、見てきて」

 キールマンはこのアパートの大家である。夫婦でアパートを経営しており、若くて体力のあるエヴァンを、時々頼ってくるのだ。

「変なのって、何だ」

「知らない。だから、それを調べてほしいってことよ」

「そういうのさ、どっかちゃんと通報するトコあんじゃねーの?」

 面倒くさいとばかりに、エヴァンは唇を尖らせた。ひたすら、アルフォンセとの憩いのひと時に戻りたいのである。

 マリーは呆れ顔で、首を横に振った。

「あんたねえ、大家さんが頼ってるっていうのに、よくそんな薄情なことが言えるわね。日頃お世話になってる人でしょ。そのお返しで手伝おうって気にならないの?」

 至極真っ当な反論を、十歳年下の少女に決められたエヴァンは、返す言葉もなくたじろいだ。

「そ、そりゃあそうだけどよ」

 居心地が悪くなり、今度は顎を掻く。するとアルフォンセが、袖を引いて顔を近づけ、囁いた。

「行ってあげて、メメントだったら大変」

「ああ、それもそうか」

 これもまた真っ当な意見だ。エヴァンは素直に納得し、マリーの方へ向き直った。

「分かった。キールマンさんとこに行こう」

 迷いなきエヴァンの一言に対し、少女は胡散臭そうに目を細めた。ふっくらした唇は、何か言いたげに薄く開いている。

「何だよその顔。行くってば」

「……まあ、いいけど」

 ため息をひとつついて、マリーは肩をすくめた。くるりときびすを返せば、束ねた金髪が猫の尻尾のように揺れる。

「ったく、なんなのよこの差は」

「は? 何つった?」

 歩き出したマリーが、背を向けたまま何かを呟いたのだが、あいにくエヴァンの耳には届かなかった。何を言ったのかと訊ねても、彼女は答えてくれないのだった。


 

 

 アパートの十二階から、エレベーターで一階へ降りる。その間、エヴァンとマリーは言葉を交わさなかった。というより、マリーの方から、話しかけづらい空気を放っていたので、会話しようにも出来なかったのだ。

(何を怒ってんだコイツ)

 少女の不機嫌の理由は分からないが、火に油を注がぬためにも無言を貫いた方が身のためだと察した。沈黙は居心地が悪かったものの、マリーの謎の不機嫌をこじらせるよりはましだった。

 アパートの外に出ると、ひんやり肌に気持ちよい夜風が、二人の髪を撫でた。夏は終わり、秋がゆるゆると近づいてきている。

 アパート裏手に行くには、隣のビルとの間の狭い通路を抜けなければならない。街灯を頼りにマリーが先を行き、エヴァンはその後に続く。

 少女の背中は、話しかけるな、と無言で語っていた。しかし、通路の中ごろまで進んだ時、マリーは立ち止まって、半分だけ身体を振り向かせた。

「あ、あのさあ」

「ん、何だ?」

 エヴァンもまた足を止め、少女の言葉の続きを待つ。

 マリーは俯き、両手の指先でペンダントを弄んでいた。少女の様子は、先ほどまでのつんけんした態度から、打って変わってしおらしい。話すのをためらっているらしく、もじもじしている。

「何だよ」

 エヴァンはマリーの小さな肩を軽く突いた。普段なら「触んないでよスケベ!」くらいは言うであろうところなのだが、今回は何も言わない。これはいよいよもって変だ。

 マリーは大きく息を吸って吐き出すと、やっと続きを口にした。

「この前、その……わ、悪かったわよ。アルの誕生日の時のこと」

「え?」

「急に押しかけて、割り込んでごめんって言ってるの」

「ああ、そのこと…………って、え?」

 一旦頷いたエヴァンだが、すぐに耳を疑った。マリー=アン・ジェンセンが、自分に対して「ごめん」と、謝罪の言葉を述べたことに、驚かないわけにはいかなかったのだ。

 これまでどんないたずらを仕掛けても、どんな悪口を言おうとも、マリーは決してエヴァンに謝ったりはしなかった。それが今はどうだろう。拗ねたようなふくれっ面ではあるが、はっきりと、間違いなく謝罪したのである。

 日頃のお返しに軽口を返してやろうと思ったが、やめた。マリーが初めてエヴァンに対して頭を下げたのだ。よほど反省したのだろう。その気持ちをからかうべきではない。

「お、おう……。まあ、あれだ、お前もアルの誕生日を祝いたいって思ってくれたからこそだし、別にもういいよ」

 なんとはなしに背中がむず痒い。

「アル、お前がプレゼントしたポーチ、嬉しそうに使ってるぞ」

「そう」

 マリーは口元をほのかに綻ばせ、小さく頷く。

「あのさ、エヴァン」

「ん、なんだ」

「あんた、今、幸せ?」

 両手を後ろに回し、右足のつま先で地面をとんとん叩きながら、マリーが問うた。なぜそんなことを訊くのかは分からなかったが、誠意をもって答えた。

「ああ、すげえ幸せだ」

「アルがいるから、でしょ?」

「そりゃそうさ。だけど」

 愛する女性ひとがすぐそばにいることは、この上ない幸福だ。だが、エヴァンにとっての本当の幸せを築き上げているものは、それだけではない。

「今生きてることとか、仲間や友達がいることとか、食い物が美味いとか、かっけぇロック聴いたりとか、晴れた空がすげー綺麗だなって思えることとか。そういうさ、色んなことが周りにあって、輪っかになって俺を取り巻いてるわけでさ。その輪っかン中にいられるのって、すげー気持ちよくて、守んなきゃいけねーんだって思う。うまく言えねーけど、幸せってそういうことなんじゃねーかって」

 胸の中に、漠然とだが確かに抱いているこの熱い想いを、どう伝えればいいだろう。異形と戦うだけの人生だったはずの自分に、様々なものが幸福を与えてくれた。アルフォンセを愛し、宝物のように大切にしているのと同じように、エヴァンはそれらもまた、慈しみ大切にしている。何一つ欠けてほしくない。

 たどたどしく素直な気持ちを述べるエヴァンを、マリーは眩しそうに見つめた。

「あたしもいるの? その輪の中に」

「当たり前だろ、何言ってんだ」

 きっぱりと即答した。ごまかしでも建前でもない。エヴァンの“大切な輪”の中には、この小悪魔も必要なのだ。

 それまでどこか不安げだったマリーの表情に、ぱっと光が射した。ほんのりと頬を桃色に染め、何かに納得したように数回頷く。

「そっか。分かった」

 マリーが何に納得し、何を分かったのか、エヴァンには見当がつかなかった。けれど、少女は穏やかに微笑んでいるので、これでいいのだろう。

 二人の間に流れていた刺々しい空気は、いつのまにか初秋の夜風が運び去ってくれていた。




 マリーとともにアパート裏手を訪れると、街灯の下で大家のキールマンが待っていた。

「お待たせ、連れてきたよ」

 少女が声をかけると、俯いていたキールマンが顔を上げる。エヴァンを見るや、柔和な顔立ちに安堵の表情を浮かべる。

「おお、よく来てくれたね」

 手招きする大家の側へ近づき、エヴァンは尋ねた。

「下水道に変なのがいるって?」

 キールマンの足元に、地下への降り口が開かれていた。街灯だけが頼りの中、大地にぽっかりと開いた黒い穴は、奈落に通じているのではと思わせる寂寥感を漂わせている。

 エヴァンは片膝をつき、降り口を覗き込んだ。真っ暗な地下からは、水の流れる音が聴こえるだけだった。

「昼間にゴミ整理をしていたんだ」

 大家は語る。ゴミ置き場はすぐそこにある。

「ちょっと中断して、そのことを忘れてしまってね。夜になって思い出したから、慌てて続きをしに来たんだ。そうしたらさっき、地下から何か物音がしたんだよ」

「地下から?」

 エヴァンはキールマンを見上げ、鸚鵡返しに繰り返した。

 地下下水道への降り口扉は通常閉じられていて、しっかりとロックされている。水道局の調査や、よほどの用がない限り、開かれることはなかった。鍵を管理しているのはもちろんキールマンだが、彼とて無闇に降り口を開いたりはしない。

 地下数メートルから、閉じられた扉越しに音が聴こえるというのは、なかなかの異常事態である。

(んなこと出来るのはメメントしかいねぇよな)

「音の正体を調べようと思って、ちょっと降りてみたんだ」

 キールマンの一言に、エヴァンは冷や汗を垂らした。

「降りたのかよ! 危ねーじゃん!」

 本当にメメントが潜んでいたら、今ここにキールマンは立っていない。無事だったことは喜ばしいが、万が一を考えると肝が冷える。

「まあそうなんだが、私は大家だから、こういうことは一応調べないとね」

「何かあったのか?」

「うん。実は、奥の方で影が動いているのが見えて、慌てて戻ったんだよ」

 急いで地下から這い上がってきたところに、ゴミを出しに来たマリーと鉢合わせたというわけだった。

「見間違いかもしれないし、ひょっとしたら不審者が潜んでいるかもしれない。情けないことだが、あれ以上進んでいくのは怖かったから、君にお願いしようとマリーと話し合ったんだ」

「変な奴がいたとしても、あんたならどうにか出来るでしょ?」

 マリーはエヴァンの隣に立って、暗闇の穴を覗く。

 本当にメメントがいたとしても、不審者が息を潜ませていたとしても、どちらにせよアパートの近くに怪しい影が蠢いているのは見過ごせなかった。この場合、普通なら警察に連絡するところだろうが、相手がメメントであれば対処できるのはエヴァンだけだし、人間相手であっても何ら不利はない。

 キールマンがため息をついた。

「危険だし、やっぱり警察に来てもらおうか。最初からそうするべきだった」

「いや大丈夫、俺が行ってくる」

「本当にいいのかい?」

「まかしとけって。あとで報告に行くから、部屋で待っててくれよ。マリーも戻ってろ」

 エヴァンは、キールマンが持っていたハンディライトを借り受け、降り口の縁に立った。

「気をつけてね」

 控えめなマリーの声を背に受けたエヴァンは、返事の代わりに片手を上げて応え、黒い穴に飛び込んだ。


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