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TRACK-6 Pandora 1

 建て替えられたばかりだという警察中央庁新舎は、さながら大都会に聳える鎮守城のようで、街を守護する機関の頂点にふさわしい風格を漂わせていた。

 刑事部強行犯課リック・モリス警部のオフィスは本棟三階にあり、窓からは中央区の街並みが望める。


「どうぞ。安物の豆ですが、味は悪くないと思いますよ」

 モリス警部が、ブラックコーヒーで満たされたカップを、二つ差し出した。エヴァンは椅子に座ったまま受け取って警部に礼を言い、一つを相棒に渡す。

 カップを手にしたレジーニは、さっと香りを嗅いでひと口飲んだ。表情に変化はない。特に美味くもまずくもなかったのだろう。

 エヴァンはミルクと砂糖を混ぜてから飲んだ。たしかに、美味くもまずくもなかった。

 今では〈パープルヘイズ〉でコーヒー係を任されているエヴァンだが、珈琲豆の細かな違いなどはよくわかっていない。自分が飲んでみて美味しかった豆、という勘頼りでブレンドしている。しかし客には好評だ。

「うん、悪くない」

 エヴァンが率直な感想を述べると、モリス警部は「そうですか」と軽く頷き、太鼓腹の重そうな身体をデスクチェアに沈めた。彼のデスクには、ネームプレートとデスクライト、ラップトップコンピューター、電話、積み上げられたファイルが置かれている。刑事ドラマでよく見る光景そのままで、エヴァンの気分はちょっとだけ高揚した。


 エヴァンとレジーニが警察中央庁に着いたのは、五分ほど前のことだ。エントランスホールの窓口で警部を呼び出してもらい、待つこと数分で彼はやってきた。

 ガルデがアポイントを取ってくれていたおかげだろう、警部はエヴァンたちを見るなり、事情も聞かずに自分のオフィスまで案内してくれた。

 警察の建物になど足を踏み入れたことのないエヴァンは、裏稼業者バックワーカーという身の上でありながら警察庁にいるという状況に、場違いだと思いつつも好奇心でうずうずしている。廊下を歩いている途中、興味を引かれたあちこちに目を向けていると、「きょろきょろするな」とレジーニに何度も小突かれた。


「警部、本題に入る前に、ひとつよろしいですか?」

 レジーニが近くのチェストにカップを置き、慇懃に尋ねた。

「警察内部には、あなたのような方が他にも? つまり、今回のように外部の人間に協力するような人が」

 質問を受けたモリス警部は、太い眉毛をくいっと吊り上げた。

「いたとしても紹介はしませんよ。あなた方に助力するのは、ACUの捜査官からの要請があったからです」

「我々が裏稼業者だと知った上で、ですか」

 表社会にとっての裏稼業者は、生業なりわいの種類に関わらず、犯罪者と同義と見なされることが多い。警察においても、その評価は変わらないはずだ。だとすれば、そんな裏稼業者に手を貸す行為は、警察官としての職務規定に反するのではないだろうか。

 モリス警部は顔色ひとつ変えなかった。

「奇妙に思うでしょうが、世界は白か黒かで割り切れることばかりではないと、あなた方ならよくおわかりのはずです。私も、あなた方も、やらなければならないことをやっている。それだけです」

「なるほど」

 モリス警部の返答は明快なものではなかったが、レジーニにはそれで充分だったようだ。

 会話が途切れたので、エヴァンはここぞとばかりに身を乗り出した。質問ならこちらにもある。今が絶好のチャンスだ。

「俺も訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 横から相棒が、鋭い眼差しを投げてくるのを感じるが、慣れきったエヴァンは無視した。モリス警部が、どうぞというように片手を上げる。

「あのさ、刑事さん」

「警部です」

「はいはい警部ね。あのドラマ見てる?『ザ・チェイサー』。あれの何話だったっけ、たぶん第十四話だ。主役のジャック・ファギーがさ、終盤で犯人に言われた痛ってえ!!」

 左の爪先に強烈な痛みを受けたエヴァンは、反射的に悲鳴をほとばしらせた。痛みの原因は、レジーニが革靴の踵で思いきり踏みつけたからだ。老舗ブランドは踵の作りが丈夫である。

「なにすんだよ! 爪先潰れるかと思ったぞ!」

 エヴァンは左足を右膝の上に乗せ、庇うようにさすりながらレジーニを睨んだ。レジーニはそれ以上の迫力で睨み返してくる。

「そんなくだらない話をするために、ここまで来たんじゃない! やる気がないなら廊下にでも立ってろ!」

「やる気満々だからそんな小学生の罰みたいなことしませーん! ずっと気になってたこと、ひとつ訊くくらいいいだろ。せっかく本物の警察官が目の前にいるってのに。お前あのドラマ見てねえのかよ」

「ありきたりなフィクションを見るくらいなら、ネイチャードキュメンタリーでゴリラの生態でも見ていた方がましだ」

「それはそれで面白そうだな」

 低く唸るような咳払いがして、エヴァンとレジーニは同時にデスクの方に顔を向けた。半眼のモリス警部が、やれやれとばかりに首を振っている。

「今日ここへ来たのはその質問をするため、ということでよろしいですかな?」

「いえ、もちろん違います。今のは忘れてください」

 レジーニが慌てて否定し、ついでのようにエヴァンの上腕を殴った。

 モリス警部は肩をすくめ、目の前のラップトップを開く。

「まあ、いいでしょう。お二人とも、もう少しこちらに寄っていただけますか」

 モリス警部が手招きする。エヴァンたちが椅子ごとデスクに近づく間に、警部はコンピューターを起動させた。

「事前に伺った話では、十九年前に起きた婦女暴行事件について詳細を知りたい、ということでしたね」

コンピューターを操作しながら確認する警部に、エヴァンとレジーニは異口同音に「そうだ」と頷く。

「その事件が、ACUが捜しているメメントとやらと、どう関係しているのかはわかりませんが……。当のメメントは見つかったのですよね?」

「ええ。今は安全な場所で、ACUに保護されています」

 レジーニはじれったそうに早口で答えた。モリス警部が見ているコンピューターに、何が表示されているのか気になるのだろう。

 コンピューターを操作する警部の手つきが緩慢になる。

「たしかに、該当する事件はありました。よく覚えていますよ。私がここに配属されたばかりの頃に起きた事件ですから」

「と言うと?」

「犯人の名はハーヴィー・グランツ、事件当時は四十二歳。被害者はアンジェラ・タルヴィティエ、二十歳。私が、当時の相棒と担当したのです」

 モリス警部は開いたままのコンピューターを反転させ、ディスプレイをエヴァンたちの方に向けた。


 ディスプレイには、一人の男のマグショットが表示されていた。ボサボサで艶のない黒髪に、土気色の顔。双眸は虚ろながらぎらぎらと怪しく濁る光を湛え、エヴァンとレジーニを暗く睨んでいる。マグショットの右端に、男の名前が記されていた。


“Harvey Granz”


 エヴァンも負けじと、画面の中の男を睨む。この胡乱な眼差しの男が、一人の罪無き女性を襲い、死に追いやるほどの苦しみを与えたのだ。同じ男として、これほど許せないことはない。

 隣に目をやると、レジーニが眉間にしわを寄せ、エヴァンよりも厳しい目つきで画面の中の男を見据えていた。かつて、最愛の女性を暴行の果てに殺された彼にとって、婦女暴行犯は何より許しがたい存在だろう。

「事件の概要を説明しますと、午後九時過ぎ、一人暮らしの被害者アンジェラが自宅アパートに帰ったところへ、グランツが押し入り犯行に及びました。通報があったのは午後十時三十分頃。双子の妹のイザベルが、姉と連絡がとれなかったため、アパートを訪れたことで事件が発覚したのです」

 モリス警部はデスクの上で両手を組み、説明し始めた。口調に淀みがないのは、本人が言ったとおり、当時のことを鮮明に覚えているからだろう。

「逃亡したグランツを、我々は三日後に発見し逮捕しました。求刑は拘禁刑二十五年。ただし、心神喪失により処罰は下されませんでした。不起訴処分です」

「グランツには精神障害があったと?」

 レジーニがディスプレイから顔を上げた。エヴァンはどちらに向けるともなく疑問を口にする。

「精神障害があったら、刑罰を受けられねえのか?」

 答えたのはモリス警部だ。

「精神障害のために善悪の判別がつかず、自らの行いの是非を判断できない状態だとして、これに刑罰を下すことができないのです。残念ですが、刑法で定められています」

「なんだよそれ、そんなのアリか!? だって……」

 エヴァンは湧き起こる憤懣に堪えかね、椅子から腰を浮かせた。酷い犯罪が行われたにも関わらず、犯人に何の咎めもないのは解せない。エヴァンは勢いに任せてモリス警部に迫りかけたが、レジーニに腕を掴まれて止められた。

「座れ。警部に文句を言っても仕方ないだろう」

「そ、そりゃそうだけど」

「わかっているなら座れ。話が進まない」

 相棒に冷静に諭され、エヴァンは渋々座り直した。理不尽な法律には納得がいかないが、それは今議論すべきことではない。

 エヴァンの言動を黙って見ていたモリス警部は、レジーニに促されて話を続けた。

「被害者のアンジェラは妊娠し、女児を産んだのですが、産褥期の回復が芳しくなく、そのまま入院生活をすることになりました。産まれた子は、彼女の妹が引き取ったと聞いていますが、そのあたりはご存じですか?」

 エヴァンは思わず、知っている、と答えそうになった。だが口を開きかけた瞬間、レジーニが「いいえ」と首を振ったので、慌てて言葉を飲み込んだ。レジーニは、リカのことを警部には教えないつもりのようだ。

 エヴァンの仕草に目ざとく気付いたモリス警部が、不審げな眼差しを向けてくる。何か言わなければ怪しまれそうだ。

「あー、えっと……、さんじょくきって何?」

「妊婦の身体が、妊娠前の状態に戻っていく時期のことを言います。出産によって著しく体力を失っていますからね。産後は安静にしていなければならないんです。しかしアンジェラは産後の肥立ちが悪く――つまり、なかなか体力が戻らず、心身疲労と虚弱状態から回復しなかったのです。そこから鬱を発症し、彼女は自ら命を絶ってしまいました。病院近くの岸壁から、海に身を投げて。遺体は見つかりませんでした」

「グランツはどうなったんです? 精神障害が認められたのなら、然るべき施設に収容されたんですよね?」

 レジーニが問うと、警部はもちろんだというように頷いた。

「奴はそもそもから、メイベル病院精神科に長年収容されていたんです。そこから脱走し、犯行に及んだんです。逮捕後は再度メイベル精神科に収容されました。事実上の終身刑であり、二度と脱走はできません。」

「本当に?」

「ええ、間違いなく。なぜならグランツは、すでに死亡している」

「なんですって?」

「逮捕収容から一年後に死んだのです。死因は心不全と報告されていますが、真偽の確認は取れませんでした」

 モリス警部は、デスクチェアを軋ませて立ち上がった。コンピューターのディスプレイとエヴァンたちに向けたまま、太い手を伸ばしてキーボードをのそのそと操作する。

 画面表示が切り替わり、灰色の四角い部屋が映し出される。俯瞰映像であることから、防犯カメラの記録だと察せられた。部屋の中央には机と二脚の椅子があり、そのうちの一脚にはハーヴィー・グランツが座っていた。反対側には、今より少し若くてスリムなモリス警部の姿がある。

「私はグランツの調書を取るため、奴が死亡するまでの一年間に、何度もメイベル病院を訪ねました。不起訴処分が決定したとはいえ、どうにも気になっていたので。グランツの話はいつも支離滅裂で、ひとつひとつを理解するのに苦労しました。これからお見せするのは、取り調べの中でもまともに話せた日の記録です。音声は調整しているので、聞き取りに問題はないと思います」

 警部がキーを押して再生が始まる。映像の中で、若きモリス警部が口火を切ったあとは、警部の厳かな口調とグランツの虚ろな声がひっそりと交わされた。


        ※


「ハーヴィー・グランツ、入院生活はどうかな?」

「どうって……、さあね。たぶん、マシだと思う。俺のこれまでのゴミみたいな暮らしと比べたら。ただ、隣の部屋の奴がうるさいんだ。毎晩叫んでる」

「君の部屋は隔離病室だ。両隣の部屋などないよ」

「いやあるんだ、いるんだって。いるんだよ、ここには」

「そうか、ならそうなんだろう。それじゃあ、質問を始める」

「聞こえるんだよ刑事さん、なあ、どこにも逃げられないんだ。わかってる、わかってるんだ。ずっと前からそうだった」

「質問だグランツ、集中しなさい。君の経歴を話してくれ」

「俺のなんだって? 俺はここにいる。あいつらも一緒に」

「“あいつら”とは?」

「ずっと俺のことを見てる。俺が生き残ったからさ。でもしょうがないだろ? どうしようもなかった。俺が生きてるのは、たぶん……、ああ、うん、そうだ、そう、そのとおり。俺は生きてる。でも死んだ」

「グランツ、こっちを見ろ、私を見るんだ。“あいつら”の話はもういい。君自身のことを話すんだ」

「俺?」

「そうだ。いくら過去を遡っても、君の経歴が出てこないのはなぜだ。出身地、学歴、家族、友人知人、何ひとつ網にかからない。まるで死人のように」

「そりゃ当然だ。俺は死んでるんだから」

「どう意味だ」

「そのままの意味。俺は死者だ。死んだことになってる」

「つまり、戸籍上は死亡している……ということなのか? 身分証明を売り渡したのか?」

「なに? 身分証……違う、そんなんじゃない。そんな、刑事さん、ドラマじゃあるまいし。ぜんぜん違う。事実はもっと、こう、なんていうか、スケールが大きい。ああ、くそッ、ここにもあるのか、シッシッ」

「どうしたんだ、虫でも飛んでいるのか」

「虫ならいいけどな。病院の裏手、墓地があるだろ? だからたかる・・・んだよ」

「何がたかるというんだ。グランツ、しっかりして私の問いに答えろ」

「しっかりしてるよ、今日は気分がいいんだ。あれがはっきり視えてる。刑事さんのうしろにもあったぞ。今振り返ったってだめだ。もう消えてるし、あんたには視えないだろ? あんただけじゃなくて、誰にも視えないんだよな。どこででも漂ってるのに、みんなそれを知らない。俺たち以外は誰も」

「グランツ、いいかげんにしろ! 私にわかる言葉で、私にわかる話をするんだ」

「怒鳴らないでくれよ、悪かったって……。机を叩くのもやめてくれ、大きな音は耳によくないんだ」

「なら、君のこれまでの経歴を話せ」

「ああ、ああ、わかったよ。俺は〈政府都〉モン=サントールで生まれた。家は平凡で、つまらない、しかも貧乏。親父はいつもお袋を殴ってた。で、俺は、五歳の時に死んだってことになった」

「それはどういう意味なんだ」

「気がついたら、自分の家じゃない所で、何人かの大人と、たくさんの子どもたちと一緒に暮らしてた。いつ、なんで、こんな所で生活するようになったのかわからなかったけど、自分ちよりずっとましなメシが食えたのはよかった」

「親と引き離されたというのか? そのときに、君は死んだことにされたと?」

「たぶんね」

「両親は君を捜さなかったのか? 五歳の息子を?」

「どうだかな。捜したとしても見つけられなかったから、俺はずっとあの施設で生活してたわけだ」

「君は誘拐されたのか」

「貧乏な家のみすぼらしいガキを誘拐して、それで何の得になるってんだ。俺はマウスさ。檻に閉じ込められ、必要なときに取り出され、実験に使われるネズミと同じ。他の子どもたち全員がそうだ」

「実験だと?」

「毎日規則正しく生活して、学校みたいな授業もあるけど、一日の半分は白い部屋で妙なことをされていた。大量の薬を打たれたり、飲まされたりした。薬は嫌いだった。飲むと頭がふわふわして、ちゃんと歩いていないような気分になるんだ。体調が悪いと吐き気がする。何度も吐いた」

「つまり、君たち集められた子どもは、人体実験を施されていたと言いたいのか?」

「そう、人体実験ってやつだ。成果は少しずつ現れていった。手で触れずに物を動かしたり、部屋にいながら遠方の景色が視ることができる、そんな子どもが出てきた。だめな子もいた。そういう子どもは、いつの間にかいなくなっていた。たぶん、死んだんだと思う。どっちかっていうと、だめな子どもの方が多かった」

「君は? 君にも何か、その……特殊な力が芽生えたのか?」

「俺のはちょっとすごいぜ。“光る霧”が視える。そいつは死骸に侵蝕して、化け物に変えちまうんだ。今じゃどこでも漂ってる。でも視える奴はいない」

「化け物だって?」

「そうさ、化け物だ。いるんだよ、世間が知らないだけで。この能力は、俺だけのものだった。俺が手に入れた力に、大人たちは大喜びしてた。この力をさらに強化させようと、俺にはそれまで以上の薬と実験が与えられた。辛かったよ。毎日毎日。子どもながらに死にたいと思った。でも、あの子が来てから状況が変わった」

「あの子?」

「あの子はすべてを持っていた。俺たちにできることも、できなかったことも、あの子にはすべて可能だった。俺は、自分は誰よりも成功・・している存在だと思ってたんだ。でも結局、俺も成功し損ねた一人にすぎなかったんだと思い知ったよ」

「グランツ、“あの子”とは一体誰なんだ」

「施設の大人たちが、本当に必要としていたのはあの子だった。あの子が現れた以上、俺たち“失敗作”は用済みだ。俺が生き残ったのが幸運だと思うかい? 違うね。みんなと一緒に死んでればよかったんだ」

「グランツ、一体なんの話をしている」

「だから俺の話をしているだろ。俺はガキの頃に変な連中に連れ去られて、変な施設で実験を繰り返され、おかしな能力を身につけさせられた。あの子が現れたせいで、用済みになった子どもたちは皆殺しだ。俺だけ生き残ったのは、たまたま地下室に閉じ込められてたからだ。いたずらのお仕置きでな。

 俺を不起訴にすべきじゃなかったな。俺は心神喪失なんかじゃない。あんたらが知らない世界を知ってるってだけだ。あんたらはなにもわかってない。殺してくれればよかったんだ。あのとき死んでいればよかった。そうすりゃ、地獄みたいな三十五年間を過ごさずに済んだのに」

「ハーヴィー・グランツ、君の言葉には何ひとつ信憑性がない。子どもの頃に誘拐されて、人体実験で超能力に目覚めたとでも言うのか? 化け物だの光る霧だの、そんなものは存在しない」

「そうかい、俺が妄言を吐いてると言いたいんだな刑事さん。

 なら、これはどう説明する? 今あんたの手の中から、勝手にペンが飛び出したのは? そしてそのペンが宙に浮いたまま、あんたの目を狙っているこの状況は? ペンがひとりでに動いて宙を飛んだのを、あんたはしっかりと見たな。これも妄想か? え? 俺にもこのくらいはできるんだ。片手で持てる程度の物しか無理だがな。そうは言ったって、このペンであんたを殺せるんだぜ。

 幽霊でも見たようなツラするなよ、刑事さん。あんたの目の前で起きていることは現実だ。幻覚じゃないから安心しな。だが、これでわかっただろ。あんたが知らない真実があるんだ、この世界にはな。もし俺を殺す気になったら、〈異法者ペイガン〉って奴らを呼んだ方がいいぜ、念のために」


        *


 モリス警部の目の前に浮いていたペンが、その切っ先の向きを変えた瞬間、画面に蜘蛛の巣状のヒビが入り、ディスプレイは砂嵐しか映さなくなった。ペンがカメラのレンズを破壊したのだろう。モリス警部は映像再生を終了させた。

 エヴァンは胸のざわつきをどうにか抑えた。警部の目がなければ、椅子から立ち上がって騒いでいたところだ。

 代わりにレジーニの方を見る。相棒もエヴァンに目を向け、わずかに頷いた。

 見せてもらった映像からは、予想以上の収穫があった。普段頭を使うことを相棒に任せきりにしているエヴァンにも、これがどういうことなのか理解できる。

 

 リカの能力は、ハーヴィー・グランツから受け継がれたものだ。グランツはリカと同じように、メメント発生の原因である“光る霧”――モルジットを視ることができる。ただし、リカのようにメメントを操作する力もあったかどうか定かではない。その代わり、いわゆる念動力サイコキネシスとも言えるだろう能力が備わっていたようだ。

 記録映像は、モリス警部の手中からペンが飛び出し、彼の眼前まで浮き上がった一部始終をはっきりと撮影していた。あれが奇術のトリックなどではないことを、エヴァンとレジーニはよくわかっている。同様の能力を、グランツを遥かに凌ぐレベルで行使していた人物を知っているからだ。


 死神の如き白い少年――シェド=ラザ。


 だとするならば。 

 グランツの言葉は妄言ではない。グランツは幼少期に拐かされ、謎の施設に収容された挙句、度重なる人体実験の果てに異能を得てしまったということになる。

 リカの能力の出自はここだ。人体実験によって備わったグランツの異能が、暴行被害を受けたアンジェラの母胎を介して、娘に遺伝したのだ。


(こんなの、どうやって説明すりゃいいってんだよ)


 真実はあまりにも残酷すぎた。十八歳の少女に話せる内容ではない。

 エヴァンはたどり着いてしまった真実を、自分とレジーニの胸の内だけにとどめておきたいと思った。レジーニはどう考えているのだろう。顔色を伺ってみると、眉目を曇らせ、もう何も映していないコンピューターのディスプレイを睨みつけていた。この場にグランツがいたなら、〈ブリゼバルトゥ〉で斬り刻んでやらんとばかりに。

「この映像が、何か役に立ちますかな?」

 モリス警部が静かに尋ねた。エヴァンたちの態度が明らかに変わったことに気づいているだろうに、警部は「どうかしたのか?」などと聞いて踏み込んで来ようとしない。自分が手を出す範囲を広げない、心得た人物だった。

 レジーニが顔を上げて頷く。

「ええ、いろいろとわかりました。グランツは、アンジェラを暴行した動機を、なんと言っていましたか?」

「あまり具体的な証言ではありませんでした。ただ、『生きる上で仕方がなかった』と」

「そうですか。もうひとついいですか?」

「なんでしょう」

「グランツが実験を受けた施設が、どこにあるどんな場所なのか、それはわかりますか?」

「グランツの言葉を信用するなら、その施設はモン=サントールにあり、〈光の教会〉と呼ばれていたそうです。周辺の街からは離れた場所にあって、表向きには孤児院の体裁をとっていたらしいです。グランツが証言した地域を調べましたが、たしかに、該当するだろう建物の跡はありました」

「跡、というと」

「建物は崩壊していたんです。火事で焼け落ちた跡でした」

 モリス警部は、感情を押し殺すように唇を引き締めてから、言葉を続けた。

「映像の中でグランツがなんと言っていたか、覚えていますか?『用済みになった子どもたちは皆殺し』。おそらく〈光の教会〉は、その施設機能を世間に知られないために、火事を装って……」

 海千山千の警察官といえども、その先を口にするのは躊躇われたようだ。警部の唇は、再び固く閉ざされた。

 忌まわしい出来事を、言葉にする必要はない。〈光の教会〉で何があったのか、容易に想像できる。施設に集められ、実験の餌食となった子どもたちは、証拠隠滅のために惨たらしく殺されたのだ。

「酷すぎんだろ……、なんてことしやがる」

 この怒りが誰にも届かないとわかっていながらも、エヴァンは拳を震わせずにいられなかった。身勝手すぎる人間の犠牲になった子どもたちがあまりにも哀れで、同じヒトとしてやるせなくて、拳を握り締めることで憤怒を制御するしかない自分に、苛立ちを覚える。掌を開いた途端、隙間風のような虚無感が、エヴァンの胸中に吹き込んだ。

 そのときふと、映像の中のグランツの一言が、脳裏をよぎった。

「なあ、グランツが言ってた“あの子”って誰なんだ? その子がいたから、他の子どもが用済みになったって感じで言ってたよな?」

 モリス警部は弱々と首を振る。

「私も奴に何度か訊いてみたのですが、グランツはあれきり、“あの子”についてなにも話しませんでした」

「同じように連れてこられた子どもなのだろう。おそらく〈光の教会〉で求めていた結果が、その子だけに著しく現れたんだ。施設を焼き落とす前に、その子は連れ出しているはずだ」

 と、レジーニが見解を言った。

「〈光の教会〉の母体は、政府サンクシオンの研究施設〈イーデル〉だろう。政府機関なら、収容した子どもたちの籍を“死亡者”として改竄することも、施設そのものの機能を周囲から隠匿することも造作ない。いくら遡っても、グランツの経歴が炙り出せないわけだ」

 レジーニはシニカルな笑みを浮かべる。

〈イーデル〉は、マキニアンという生体兵器を生み出すだけでは、満足できなかったようだ。



 モリス警部の見送りは、エレベーターまでだった。あまり丁重に振る舞われるのも気が引けるので、その程度で済ませてくれてよかった。

「この話、リカには言わない方がいいよな。あの子には辛すぎると思う」

 エヴァンが、駐車場に停めていたレジーニの黒いスポーツカーに乗り込みながら、嘆息混じりにこぼすと、相棒は「そうだな」と言葉少なに同意を示した。リカが背負わされた深いごうに、レジーニも少なからずショックを受けているようだ。いつになく、うわの空である。

 エヴァンはもう一度ため息をついた。辛気臭いのは性に合わないが、今は憂鬱な気分を払いきれない。

「リカの能力の原因はわかったけどさ、肝心のオツベルとどう関係するかはわからなかったよな。次はどうするんだ?」 

 運転席のレジーニは、ハンドルに手を置いたまま、エンジンをかけずに物思いにふけっている。まだリカのことを想っているのだろうか、と様子を見ていると、ふいにエヴァンに顔を向けた。


「なぜ、お前じゃなかったんだ?」


「はい?」

「オツベルは、なぜリカに固執するんだ」

「だからそれを調べようとしてんだろ。大丈夫か?」 

 眉をひそめるエヴァンをよそに、レジーニは明後日の方へ視線を投げた。

「オツベルがリカを探してACUを脱走したのなら、彼女の存在を感知するきっかけがあったはずだ」

「ああ、まあ、だよな」

「ACUの本部から第九区まで、そうとうな距離がある。それほど離れていても感知できたのなら、リカの能力は僕らが思っている以上に強いのかもしれない。だが……」

「だが、なんだよ」

 レジーニはハンドルから手を下ろし、上半身ごとエヴァンに向き直った。


「もしリカの能力がそんなに強いのなら、シェドがワーズワースを襲撃したとき、ただで済んだはずがない。彼女もあの日、あの場にいた。平日で講義があったからな。リカもシェドの姿を見たか、あるいは存在を感じただろう。シェドもおそらくそうだ。なのになぜ、シェドはリカを見逃したんだ?」


 問われたエヴァンは、答えに窮した。シェド=ラザが姿を現した理由はただ一つ。エヴァンと戦い、殺し合うためだ。

 そのことを自ら口にするのは、ものすごく厭だった。

「そりゃー……、まあ、俺が狙いだったから……?」

「そうだ、お前がいたからだ。シェドはお前以外は眼中にない。リカの存在を感知したとしても、彼女が自分の脅威になりえないから見逃したんだ。それなら、お前とリカの生体パルス能力を比較したとき、お前の方が勝っていると言えるんじゃないのか?」

 生体パルス能力とやらが自分にも備わっている、という自覚がエヴァンにはなかった。そんな能力あるはずがない、と自分に言い聞かせていた。だがシェドのことといい、地下水道でオツベルと初めて接触したときといい、これ以上目を背けていられないかもしれない。

 レジーニは持論を続ける。


「お前とシェドがコルネリア教会で戦っていたとき、僕が対峙していたメメントが突然異常をきたした。お前たち二人のパルスの衝突が、メメントになんらかの作用を起こしたとするなら、オツベルがそのパルスを介してリカの存在を知った可能性も考えられないか? それでもオツベルは、強いパルスの持ち主ではなくリカに惹かれた。彼女だからだ」


「だから、なにを言いたいんだよお前。もうちょっとサクッと言ってくれって、わかるように」

 結論を述べる前に、くどくど持論を展開するのは、エヴァンが思う相棒の悪い癖の一つだ。しかし、他人の文句ごときで調子を崩すレジナルド・アンセルムではない。


「モリス警部の言葉を思い出せ。グランツに暴行されたアンジェラがどうなったか」


 ――彼女は自ら命を絶ってしまいました。病院近くの岸壁から、

 ――海に身を投げて。

 ――遺体は見つかりませんでした。


「お前はオツベルから話を聞いたんだろう? 自分がどこで目覚めたのか。そして彼女には、メメントになる前の記憶が残っている」


 ――ワタクシハ……海デ目覚メマシタ……。デスノデ、前ノワタクシハ、海デ死ンダノデショウ……。


 それはパズルのピースのようだった。これまであちこちに散っていた情報というピースが、ひとつずつ当てはめられていく。そうして出来上がった完成図は、どこかいびつで、けれどもピース同士はぴたりとはまっていて揺るぎない。

「……つまり……、いやでも、そんなことってあるのか?」

 組み立てられたパズルの絵図は、エヴァンを動揺させるのに十分だった。

「ないとは断言できない。僕たちはまだ、奴らメメントのすべてを知らないんだ」

 レジーニはエヴァンをというより、自分を諭すように言い、左でハンドルを握り締め、右手でエンジンのスタートキーを押した。

「オツベルに残された記憶が、本能を呼び覚ましたのかもしれない。母性という本能を」


        *


 裏稼業者バックワーカーの若者二人組を、エレベーターまで見送ったモリス警部は、エレベーターのドアが閉まり、二人の姿が見えなくなってから自分のオフィスに戻った。

 裏稼業者たちにふるまったコーヒーのカップを片付け、ラップトップコンピューターの蓋を閉じる。

 そのとき、あることを思い出して、片付けの手を止めた。

「ああ、そういえば……」

 グランツが例の“あの子”について、ひとつだけ話してくれたことがあったのだ。

 警部は、そのことをさっきの二人組に伝えるため、追いかけようとオフィスを出ようとした。が、すぐに考えを改めた。

 思い出したといっても、たいしたことではないのだ。彼らが調べていることとは、なにも関係がないだろう。引き留めてまで伝えなければならない内容ではない。

「グランツが言っていたな。“あの子”の名前は、たしか〈フェイト〉だと」

 ふと窓から眼下を眺めると、黒いスポーツカーが、警察中央庁の正門を出ていくのが見えた。

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