TRACK-5 錯綜 6
都会の夜空は、目を凝らしても一向に星が見えない。地上のネオンが眩しすぎて、星々の瞬きを消してしまう。
ただの一つも見えないというわけではない。人の営みが生む輝きに負けじと、光を放つ健気な星が、碧の夜闇にぽつりぽつりと浮いている。
自然豊かな故国の空を知るガルデには、少し寂しい景色だった。
秋の夜風に身を晒して、ガルデは墓場屋敷の敷地内を見回っていた。〈VERITE〉にこの隠れ家の場所を掴まれていない限り、他に脅威となるものはほぼないが、安全確認をしておくに越したことはない。
再び夜空を仰ぐ。南西の方角に、ひときわ強く光る星を見つけた。あれは故国でも見ることのできる星だ。ドゥニヤの獅子神アズラの瞳のひとつだと言われている一等星である。
「ここからでも見えるなんて」
思いがけず発見した故国との繋がりに、そっと頬を緩める。束の間、獅子神の星に祈りを捧げ、ガルデは屋敷の中に戻った。
打ち棄てられて久しいだろう屋敷には、当然のごとく電力が通っていない。暖炉の使い方はわかるが、いざというとき火の始末に時間をとられる。応接室を照らすのは、バイクに常備していた携帯照明のみに止めておくことにした。
秋ともなれば、夜には肌寒い。暖炉以外の防寒手段がないか屋敷内を探してみると、客間のクローゼットに詰め込まれた毛布を見つけた。埃まみれだが、払ってしまえば充分使える。臭いもしみついていて、お世辞にも清潔とは言えないが、野外活動に慣れたガルデにしてみれば、暖をとれるだけましだった。
「オツベル、毛布があったよ」
一番サイズの大きな綿毛布を差し出すと、オツベルはうやうやしげに受け取った。しかし、
「アリガトウ……ゴザイマス。デ、デスガ……ワタクシハ、……ソンナニ、サ、寒クアリマセン、ノデ、ドウゾ、ガルデガ使ッテ……クダサイ」
手にした毛布をそのまま返そうするので、ガルデは心配ないというように肩をすくめた。
「大丈夫、俺の分はあるから。寒くなくたって、夜の空気は冷たいよ。肩から引っ掛けておくといい」
もう一枚の毛布を掲げて見せると安心したのか、オツベルはそれ以上固辞しなかった。
応接室のソファに、向かい合わせで座る。中央のテーブルに置いた携帯照明の灯りが、部屋の壁に大きな影絵を創っていた。
オツベルは頭から毛布を被り、じっと携帯照明を見つめている。顔がマスクに覆われているので、視線の先は正確に把握できないが。
おとなしく過ごしているその姿は、いつもどおりの彼女である。昼間のように、驚異的な身体能力を発揮して長距離を移動し、敵に突進していくような行動は、これまでのオツベルからは考えられないことだった。そもそもACU本部から脱走したこと自体、異常行動だと言えた。
ガルデの脳裏を、リカ・タルヴィティエという少女の姿が過ぎる。オツベルの昼間の暴走は、エブニゼル・ルドンに拉致される寸前だったリカを助けるためだった。
リカを救い出し、この屋敷に戻って来てしばらくの間は、オツベルの興奮状態がなかなか治まらなかった。いつにも増して言葉がたどたどしく、しきりとリカの側に行きたがったのだ。
そんな様子のオツベルを見るのは初めてだった。
ガルデの宥めに応じ、ようやく鎮まったところで、突発的な行動の理由を尋ねてみた。しかし、あれほどリカに固執していたにも関わらず、なぜあのような行動をとってしまったのか、オツベル自身にもわからないというのである。
(リカ・タルヴィティエ。彼女はモルジットを視ることができて、メメントを操る能力もあるというけれど……)
それが事実ならば、リカは〈融合者〉だということになる。数パターンあるモルジット侵蝕変異体の中で、最上位に位置する存在だ。
〈融合者〉には念動力、テレパシーなどの特殊能力があり、メメントの情報伝達手段である生体パルスに干渉することも可能だという。
であれば、エブニゼルに拉致されそうになったリカが、助けを求めて生体パルスに干渉し、オツベルが信号を受け取った、ということになるのだろう。
ただリカには、自分が生体パルスへの干渉能力を発揮したという自覚がないらしい。
(ひょっとして……、オツベルがACUを飛び出したのも、リカが関係しているのだろうか)
居住まいを正し、肩からずり落ちた毛布を掛け直す。
静かな部屋の中、夜風が当たって揺れる窓ガラスの音だけが、小気味よく響いて聞こえる。
音の少ない空間でささやかな灯りを囲んでいると、ドゥニヤの大平原での野営を思い出す。ACUに入隊する前、一年間だけ過ごした、故国の大地と空の下で眠ったことを。
*
〈パンデミック〉を引き起こした要因、軍部によるマキニアン一掃作戦の戦禍から、ドミニク・マーロウと幼いシェン=ユイ、ロゼット・エルガーの三人を逃したあと、ガルデはケイド・グローバー中佐率いる隊の捕虜となった。
中佐はのちにACU――Alienelements Countermeasuve Unit(異分子対抗部隊)を立ち上げるのだが、その部隊にガルデも入隊してほしいと勧誘してきた。
処分されるだろうと覚悟していた矢先の申し出である。命拾いしたと感謝すべきなのだろうし、実際ガルデは、グローバー中佐に恩義を感じた。
だがガルデは、すぐには承諾できなかった。〈SALUT〉を滅ぼした軍部所属の部隊に入ることに、少なからず抵抗があったのだ。
しかし、人類を脅かすメメントを駆逐するという、マキニアンの使命を全うするためには、ACUに入隊するしかない。
葛藤し、決心がつかなかったガルデは、あることをグローバー中佐に頼み込んだ。
「考える時間がほしい、というのか」
やや垂れた目を細めたグローバー中佐は、武骨な太い腕を組む。ガルデに向けられる眼差しは厳かな光を湛え、数々の死地をくぐり抜けてきた兵であることを物語っている。鼻筋から左頬にかけて刻まれた傷跡もまた、彼の武勲のひとつなのだろう。
「君がマキニアンであることで起こりうる問題はいろいろ考えられるが、そのあたりのケアはもちろん」
「いえ、そういうことではないんです中佐」
マキニアンのガルデのACU入隊を、快く思わない者たちがいることは承知の上だ。それはすでに前提として受け入れているので、ガルデにとっては大した問題ではなかった。
「では一体?」
「入隊は前向きに検討します。ただ、その前に確認したいんです」
「何の確認だ」
「自分がこの先、何を守るために戦うのか。それを確かめておきたいんです」
仲間もろとも〈SALUT〉という寄る辺を失った今、果たして自分はこれまでどおりに、人類安寧のために戦えるのか。ガルデには疑問だった。
マキニアンとしての使命感はある。だがその使命感は本物なのだろうか。陸軍兵士たちの中にただ一人のマキニアンとして混じってもなお、絶やすことなく燃やし続けられる真実の熱意だろうか。
マキニアンの仲間がいたからこそ、戦えたのではないのか。仲間という存在に、寄りかかっていただけではないのか。
たった一人の特殊な人間となって初めて、ガルデは己が真情に疑いを抱いたのだった。
自分を見つめ直すのに、ふさわしい場所がある。ガルデが常々、いつか訪れてみたいと願っていた所であり、しかしながらその地を踏むことは叶わないだろうとあきらめていた場所だ。
南方大陸中央部、アナドゥール・シティ北部にあるドゥニヤ地区。
ガルデの一族のルーツである。
願いを聞き入れてくれたグローバー中佐は、ガルデに一年という長い猶予を与えた。それだけ時間があれば、何らかの答えを出せるだろう、と。裏を返せば、その一年で答えを見つけなくてはならない、ということだ。
このとき、ガルデは十五歳。生まれて初めて、我が身に流れる血の源流である、ドゥニヤの大平原に降り立った。
ドゥニヤ地区は、南方大陸中央部アナドゥール・シティ北部の内陸地帯だ。乾燥していて、一年を通し気候は温暖。連なる岩山と広大な平原、森に湖と、自然に恵まれている。
ガルデの祖先はドゥニヤの由緒ある狩猟一族だったが、近代化の波と不況のあおりを受けて、土地を手放さなければならなくなり、事実上廃業してしまった。曾祖父母の代のことだった。
曾祖父母は新天地を求めて、この大陸に移住し、文化の違いをなんとか乗り越えて定着した。彼らの長男は、移住先の土地の娘と結婚し、男児をひとり儲ける。その子は成長すると、別の街の女性を娶り、同じように息子を授かった。これがガルデである。
ガルデが幼い頃、祖父は折に触れて祖国ドゥニヤの話を繰り返していた。暮らした年月は短いけれど、祖国の自然の雄大さと美しさは忘れられないという。
鷹の鳴き声、羊毛の匂い、馬のしなやかな首筋。
日暮れに燃ゆる地平線。冬の明け方の白い息。春夏に香る草花の緑。茜に染まる秋の森。
山から吹き下ろす風によって空気は澄み、夜に見上げる空は一面、ダイヤモンドの粒のような星が散りばめられている。
記憶の中の原風景を語る祖父の目は、いつも遠い郷里を見つめていた。
写真や動画もあったけれど、実物の美しさには到底及ばない、いつかお前に見せてやりたい、というのが祖父の口癖だった。
現在のドゥニヤは、シティの近代化に沿いつつも、昔ながらの生活を継続している。祖先から連綿と続く伝統を守ることが、ドゥニヤの民の誇りなのだと、祖父は胸を張って言った。
飽くことなく聞かされた見知らぬ祖国に、幼いガルデもまた思いを馳せるようになる。大人になったら必ずドゥニヤを尋ねることが、夢のひとつになった。
マキニアンとなる道に進んだことで、潰えてしまったかに思えたその夢を、ガルデはついに叶えたのである。
*
「ドウカ……サレマシタ、カ?」
不意に声をかけられて、ガルデは物思いから覚めた。目を瞬かせて向かいを見やると、オツベルが不思議そうに首を傾げていた。
「ド、ドコカ……具合ガ悪イ、ノデスカ?」
「いや、違うんだ。ちょっと、故郷のことを思い出してたんだよ」
「ガルデ、ノ……故郷……。イ、以前、少シ、オ話シシテ……クダサイマシタ、ネ」
「そう、ドゥニヤ。俺はこの大陸で生まれ育ったから、正確には故郷じゃないけどね。灯りを囲んでいるうちに、ドゥニヤで経験した野営を思い出したんだ」
ガルデはあたかも炎に当てるかのように、携帯照明に右手をかざした。手のひらがオレンジ色に染まる。
「野営……ハ、ナンノタメノ野営デスカ?」
「俺がお世話になった一家の恒例行事でね、夏の終わりに鷹狩りの旅をするんだ。一族の男衆が一週間、相棒の鷹や鷲を連れて、馬で山や平原を進むんだよ。ちょうど、新しく迎えた鷹たちの調教が済む頃で、一族の男児にとっては、旅の同行は一人前になったと認められる儀式の意味合いもある」
その旅はのちに、ガルデにとっても大きな意味を持つ経験となった。
*
ドゥニヤでの滞在先について、ガルデにはひとつだけ当てがあった。
曾祖父母が大陸に移住する前に養子に出した次男――ガルデにとっては大叔父にあたる人物の家である。
マキニアンになったことで、事実上死亡している身であるから、自分はあなたの又甥です、などと名乗り出るわけにはいかない。ガルデは素性を隠して大叔父のいるバラメル家を訪ねた。
残念ながら大叔父は亡くなっていたものの、当代家長である婿のフスレウが、ガルデを迎えてくれた。
自分は大陸で生まれ育ったが、一度でいいからドゥニヤの暮らしを経験したい、どうかここで一年だけ働かせてほしい。身許を伏せてそう話すと、フスレウは快く受け入れてくれた。ちょうど男手が不足していたそうだ。
バラメル家は畜産業を営んでおり、羊の牧場を持っていた。少年の時分から軍部に身を置いていたガルデにとって、バラメル家で教わった仕事のすべてが新鮮だった。
羊や馬の世話は驚きと発見の連続であり、豊かな自然が見せる表情は毎日違う。
日々の平穏と糧を、大地と風の獅子神アズラに感謝し、慎ましくもたくましく生きるドゥニヤの民。脈々と受け継がれてきた素朴な営みが、ガルデには非現実的な世界のように思えた。
バラメル家の鷹狩りの慣習〈兎追い〉は、開拓時代から続く行事だという。家を出発してから帰るまでの一週間、馬で移動し、狩りの獲物を主食とする。時には、他家の男児を同行させることもあるそうで、ガルデの参加を訝しむ者はいなかった。
馬の乗り方もバラメル家で教わった。借りた若い鹿毛馬に跨り、バラメルの男衆とともに、ドゥニヤの平原を駆け抜けた。
狩り場では気高き鷹たちが、兎や狐を仕留める。得た恵みへの感謝を、狩った生き物とアズラに捧げる。
日暮れにテントを張って野営をし、日の入りとともに目覚め旅を再開する。
大地を渡り、風を纏い、自然の移ろいに従って行動する。どこまでも続く平原と、サファイアを溶かしたような澄んだ空の下、こんな生き方があったのかと、ガルデは胸が震えるのを感じたのだった。
〈兎追い〉の復路のある晩、ガルデが野営の最初の火番を務めたときのこと。
炎を見つめるガルデの脳裏には、〈SALUT〉での生活と、ドゥニヤを訪れてからの日々の記憶が、ぐるぐると渦巻いていた。
これからどうあるべきか。曾祖父母と祖父の故郷を訪ね、自分のルーツを知り見つめ直すことで、真に望むものが何なのか、はっきりするのではないかと思っていた。しかし未だ、自分は迷いの中にいる。
マキニアンとなったこの身体はもう、元には戻らない。普通の人間のように生きていくことは難しい。
ならばマキニアンとして、果たすべき使命を全うするのが筋だ。大義のためには、たとえ〈SALUT〉を裏切った軍部に属する機関であろうと、わだかまりを捨て去らなければならない。
それを頭ではわかっていても、感情がついてこなかった。
こんな気持ちのままでは、ACUに入隊できない。いっそすべてを忘れて、このままドゥニヤに留まろうか。平穏な毎日を享受しながら、必死に答えを探してきたが、想いは一向に定まらなかった。
自分は仲間を裏切ろうとしているのだろうか。たった一人のマキニアンとして、何のために戦えばいいのか。
過去の悪夢を清算して割り切れるほど、当時のガルデは大人になりきれていなかった。
悶々としたまま、目線を上げた。見渡す限り、一面の星空が広がっている。この壮大な景色も、大陸ではほとんど見られなかった奇跡である。
あちらとこちらでは景観が大きく違うのに、どちらも同じ“空”なのだ。
ふと、散り散りになった仲間たちのことが思い出された。特に、最後に一緒だったドミニク、ユイ、ロゼットのことを。
みんな今頃、どこで何をしているのだろう。彼らは新しい生き方を見つけられたのだろうか。どこかで平穏に暮らしているのなら、それに勝る幸いはない。
ひょっとしたら今、この時。
自分と同じように、星空を見上げているかもしれない。
もし、そうなら――。
仲間たちだけではない。マキニアンになってから一度も会わなかった家族も、もしかしたら――。
そう思った瞬間、家族や仲間たちの存在が身近に感じられた。
たとえ遠く離れていても、二度と会うことはなくても、見上げる空が同じなら繋がっているのだ。そんなふうに思えた。
「大地あるところ、常にアズラの風が吹く。ならばいずこにあろうとも、ドゥニヤの子はアズラとともにある」
故郷を離れても、風吹く大地にあるならば、ドゥニヤの民は故郷と繋がっている。古くから謳われる、アズラの教えだ。
(そうか……そうなんだ)
肉体はそばになくとも、世界のどこかで大切な人々が生きている。
いつか家族に、メメントの魔の手が伸びてしまうかもしれない。現在メメントの出現はファンテーレに集中しているが、他の大陸での出現例が皆無というわけではないのだ。
ACUに入隊し、ファンテーレで責務を果たすことは、その人たちを守ることに繋がる。ひいては、美しいこのドゥニヤを守ることに繋がる。
薄闇に光が射し、行き止まりだった道が拓かれたような気持ちだ。
(俺は……)
離れてしまった大切な人々のために戦う。
何をすべきか、やっとわかった。
ドゥニヤでの一年を終え、ファンテーレに戻ったガルデは、固い信念を胸にケイド・グローバー中佐を訪ねた。もう迷いはなかった。
*
「ドゥニヤではいろんなことを教わったよ。行ってよかったと思ってる」
夢のようだった一年間を思い、ガルデはオツベルに笑いかけた。
「初めて訪れた所だったけど、バラメルの人たちとは、間違いなく同じ血を受け継いでいるんだってわかった。不思議だよね、親族だなんて名乗っていないのに」
「同族ノ、本能……ノヨウナ……モノデスカ?」
「そうかもね。顔立ちは似ていたし、食事の趣向も似ていた。それに、子守唄も同じだったな。子どもの頃、母さんやばあちゃんが歌ってくれていたのを思い出したよ」
オツベルが少し前のめりになった。彼女が動くと、古いソファの革がこすれて音が立つ。
「コ、子守唄……トハ、何……デスカ?」
「親が子どもを寝かしつけるときに歌うものだよ。いくつかあるんだけど、うちとバラメル家に伝わっていたのは同じ歌だった」
「親ガ、子ドモニ……」
「俺はなかなか寝ない子どもだったらしくてね。早く寝ない子はダンガナに喰われるぞって脅かされて、やっとベッドに入るような調子だったらしい。それで、子守唄で寝ついてたそうなんだ。手のかかる子どもだよ」
ダンガナはドゥニヤの伝承のひとつで、早く寝ない子どもをさらって食べてしまうと言われる夜鬼だ。
オツベルはきっと、ダンガナが何かを訊いてくるだろうとガルデは予想した。だが彼女が興味を持ったのは、別のことだった。
「ガルデ……、オ、オ願イガ、ア、ア、アリマス」
「なんだい?」
「ソノ……子守唄……トイウ、歌ヲ、ウ、歌ッテ……クレマセンカ?」
「え、唄うの?」
思いがけない頼みに、ガルデは少し面食らった。オツベルは前のめりの姿勢で、ガルデから色よい返事が来るのを待っている。マスクで表情がわからなくとも、彼女が心底歌ってほしいと望んでいることは感じ取れた。
「あんまり人前で歌うことなんてなかったからなぁ」
ガルデは照れ隠しに頬を掻く。
「音痴でも笑わないでくれよ」
軽く咳払いをして息を吸い込み、最初の節を歌い始めた。
お眠り 大地の子
獅子のたてがみが頬を撫で
夢の中で金色の草原が
風に揺られて待っている
ドゥニヤの古き旋律は、ゆったりと単調で、子どもの耳にはまろやかに聴こえる。今のガルデにとっては、二度と会えない家族や、遠き祖国のバラメル家を思い起こさせる呼び水だ。
一般人の中から人材を捜し出すために実施された“適性検査”によって選ばれたガルデは、十三歳でマキニアンとなる運命が決定した。
家族と離れて――しかも死んだことにされて――軍部に入り、あまつさえ肉体強化を施されるという経歴は、年端も行かぬ少年には壮絶な歩みである。
――仲間とともに化け物を倒し、平和を取り戻すために戦う。
年齢に釣り合わない人生を送るしかなくなった少年には、うしろを振り返る余裕も与えられないほどの大義が必要だった。
思えばひたすら任務に打ち込んでいたのは、自分が選んだ道は間違いではなかったのだと、自分自身に証明させたかったからなのかもしれない。
お眠り 大地の子
雄山羊の背に乗ってお行き
金色の草原を渡って
明日も善き日を迎えられるよう
子守唄には、アズラが見守ってくださるから安心しておやすみ、という母親の愛情が込められている。子守唄を口ずさむとき、誰もが母や郷里を想うだろう。
それは、どこの出身だろうと変わるまい。
歌い終えたガルデは、肩を上げて深呼吸した。空気を取り込む喉が震える。いつのまにか、瞼が熱を帯びていた。まばたきすると、温かい何かがひと筋、目頭を伝い落ちて唇を濡らした。
「ガルデ……」
オツベルが静かに呼びかける。ガルデは掌で涙を拭い、問題ないというように微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。ちょっと、いろいろ思い出しただけだから」
子守唄を歌っただけで、こんなに郷愁にかられるとは、自分でも意外だった。エヴァンやドミニクたちと再会できたことが、捨てざるを得なかった過去の日々を振り返らせたのかもしれない。
ぎしり、と革のこすれる音がしたので顔を上げる。ソファから立ち上がったオツベルが、テーブルを回りこんでガルデの隣に座り直した。ソファクッションが深く沈み、ガルデの目線が少し低くなる。
移動してきたオツベルは、しばらく無言のまま、どこともつかぬ方向を、ただじっと見つめていた。
「オツベル、どうかしたのかい?」
ガルデはオツベルを覗き込むように顔を傾ける。オツベルは膝に乗せた両手を、握ったり開いたりさせながら呟いた。
「ガルデハ……イイ子、デス……」
オツベルは更に小さな声で、同じ言葉をもう一度言った。
彼女がどのように、ガルデの心境を汲み取ったかはわからない。けれど、彼女なりに精いっぱい励まそうとしている。口数は少なくとも、その気持ちは十分伝わってきた。
「ありがとう、オツベル」
オツベルはもじもじと身じろぎすると、遠慮がちに頷いた。