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TRACK‐5 錯綜 5

 スプリングの効いたソファに腰かけたリカは、今日は一体どういう日なんだろうと、ぼんやり思った。


 振り返ってみると、とんでもない一日である。


 探し続けていた“氷の王子”レジーニのマンションで目覚めて、保護してくれるというのに、自由を奪われることに反発して逃げ出し、自宅に帰ると見知らぬ男に攫われ、あわやというところで怪物に助けられ、その後は、古びた屋敷に匿われた。


 シャイン・スクエア・モールで会った金髪の男も一緒だった。彼ら以外には初対面の女性が一人と、リカより年下と思われる少女が二人、南方大陸系人の青年がいた。そして、リカを助けてくれたあの怪物も。

 リカは攫われそうになったショックで、ろくに話もできなかったが、レジーニが怒っていることだけは肌で感じていた。当然だ、リカの浅慮が原因でこんな騒ぎになったのだから。


 レジーニがセーフティハウスに連れて行こうとしたのは、リカの安全を確保するためだ。現に誘拐未遂が起きてしまったのだから、リカが狙われているのは揺るぎない事実だと立証された。

 それなのにリカは、自身が置かれている状況を顧みず、“軟禁される”という部分だけに過剰反応し、レジーニから逃げた。彼が呆れ、憤りを抱かれても仕方がない。

 レジーニにどんな目を向けられているのか知るのが怖くて、彼の顔を見られなかった。


 結局セーフティハウスに行くことになり、ドミニクと名乗った女性に連れられ、とあるマンションの一室に籠っている。

 リカは地下シェルターのような場所を想像していたのだが、意外にもごく一般的な部屋だったので少し拍子抜けした。

 具体的な場所は把握できていないが、イーストバレーのどこかだ。窓の外に広がる景色は閑静な住宅街で、こんな所がセーフティハウスとして使われているとは誰も思うまい。

 家財はひととおり揃っており、冷蔵庫と貯蔵室には、飲料水と長期保存可能な非常食が収まっていた。

「一週間は過ごせるだけの蓄えがあるそうですよ、食料も日用品も」

 部屋中をくまなくチェックしたドミニクが、リカを安心させるように微笑んでみせる。

 リカの彼女に対する第一印象は「強そうな女性」だった。背の高さはリカとそう変わらないものの、ボディラインは雲泥の差。出るべき部分は出て、引っ込むべき部分はちゃんと引っ込んでいる。服の上からでも鍛えていると察せられる、メリハリのついた美しい肉体だ。自分の貧相な体型を思うと、羨ましいかぎりである。

「とはいえ、一週間もここにいることにはならないでしょう。今夜はゆっくり休んで、これからのことは明日考えましょう」

ドミニクは優しい眼差しで、リカの肩に手を置いた。

「あの、ありがとうございます。初対面なのに、いろいろ気にかけてくれて」

「いつ出会ったのかは関係ありませんよ。ここは安全ですし、何かあっても私が必ず守ります。さ、そこに座って、少しお休みなさい。お茶かコーヒーを淹れましょうか」

「え、いえ、そのくらいは自分で」

 そんな些細なことまで、わざわざしてもらうのは心苦しい。しかしドミニクは「まあそう遠慮せずに」と、かまわずキッチンに向かった。

 彼女の好意を無駄にするわけにはいかないので、それならばとリカは紅茶を頼んだ。ドミニクは自分用にコーヒーを淹れ、しばし二人でソファに並んで座り、お互いのことを話して過ごした。


 ドミニクは、マキニアンという存在について語ってくれた。

 メメントを狩るために生まれた強化戦闘員。かつては軍部機関に属していたが、その機関はすでに無く、生き残っているのはわずかに十三人だけ。

 ドミニクと、レジーニの相棒であるエヴァン、墓場屋敷にいた二人の少女――ユイとロゼット、南方系人の青年ガルデ、そしてリカを攫い損ねたあの男も、ワーズワース大学を破壊した白い少年もマキニアンだという。

 あの恐ろしい白い少年のことを思い出すと、心臓が氷の手に握られたかのように縮む思いだ。

「マキニアンって、今、その、対立してるんですか?」

 その対立に、自分は利用されようとしているのだろうか。リカが疑問を口にすると、ドミニクは沈痛な面持ちで瞼を伏せた。

「残念ですが、それを認めなければなりませんね。生き残ったマキニアンの半数が、〈VERITEヴェリテ〉という組織を結成しているのですが、一体何が目的なのか、まだわからないのです」

 憂いに曇るかんばせから、彼女がこの状況に心を痛めているのがわかる。かつて共に戦った仲間が、今や敵同士なのだから当然だろう。もしなんらかの理由でスーとの友情に亀裂が入ってしまったら……と、リカは自分に置き換えて想像せずにいられなかった。


 セーフティハウスに篭ってしばらくは、何事もなく穏やかな時間が過ぎていった。時どきドミニクと他愛ない言葉を交わす程度で、やることは特になかった。

 かといってテレビを見たり、携帯端末エレフォンを眺める気にもなれないし、呑気にそんなことをやっていられる身分ではない。

 時がゆるゆると流れるのに身をまかせていると、徐々に緊張感が抜けていき、今朝からの出来事が、まるで遠い過去のことであったり、他人の記憶を追体験したかのように現実味が薄れていく。


 何もかもが夢の中で起きたことのようだ。自分は何者にも狙われておらず、メメントに執心されているわけでもない、特別な力など何もない、ただの平凡な女子大生。

 でも、ああ、せめて彼のことだけは現実であってほしい。甘いムードなど欠片もなかったが、彼――レジーニと二人きりで過ごせたのは、それこそ夢のようなひとときだった。

 もっと違うシチュエーションで普通に出会えていたなら、ひょっとしたら……。


(なに考えてるのよ、そんなわけないじゃない。私とあの人がどうにかなるなんて、そんなこと……)


 レジーニは成熟した大人の男性で、たかが十八歳の子どもを相手になどしないだろう。会いたいと焦がれ続けはしたが、それは三年前に助けられたお礼を言いたかっただけだ。よく知りもしない相手を好きになったりはしない。


 そうよ、とリカは自分に言い聞かせる。これはただの“憧れ”。


 恋などではないのだ。



 ふと気がつくと、ドミニクの姿がない。トイレに行ったのだろうか。

 リカはため息をついて、ソファに横向きに寝そべる。世間では珍しいとされる淡色の長い赤毛が、レースのようにクッションの上に広がった。

 横になると、なんとなく疲れを感じて目を閉じる。明日からどうなるんだろう。一人で考えても仕方のないことが、頭の中でぐるぐる駆け巡った。

 憂鬱さが増しそうなので、厭な考えを吹き飛ばそうと目を開ける。


 すると――。


 眼前に、大海原が広がっていた。


(え……?)


 突然の光景に目をみはる。ソファから立ち上がろうとしたが、その必要はなかった。

 リカはすでに・・・立っていた。そしてソファは、どこにもない・・

 視線の果てには、海と空を隔てる蒼い境界線。目線を落とせば、足元の数センチ先から地面がない。眼下は波の荒れる海。崖の縁に立っているのだ。

 悲鳴を上げ、後退しようとした。しかし、喉からは微かなため息も出ず、身体は意に反して微動だにしない。


(一体どういうこと!?)


 ついさっきまでマンションの一室にいたはずなのに、こんなことがあるだろうか。

 夢を見ているに違いない。これは夢だ。

 でも、夢だとしても、この臨場感はどうだろう。崖下から強く吹きつける風と、その風に含まれる潮の 香りは、まるで実際に海辺にいるかのように、肌と鼻を刺激する。上空ではウミネコが甘えた声で鳴き、彼方の水平線に浮かぶ船の汽笛さえ聞こえてくる。


 これは、本当に“夢”なのか。


(ここにいちゃだめだ……)


 通常なら美しいと感嘆する壮大な景色が、今は自分を飲み込まんと待ち構える地獄の門に思える。

 早くこの場を離れなくては。そして、夢なら早く覚めなくては。

 そう思うのに、身体は相変わらず動いてくれない。それどころか、少しずつ崖の縁に近づこうとしている。慌てて足を後ろに退こうとしても、我が身は言うことを聞いてくれない。


(い、いや……!)


 爪先が崖縁からはみ出た。土の欠片が海に零れ落ちる。

 身体が意に反して、前に――崖の外に傾く。


 足が――、

 崖縁から離れる――。


 その瞬間、誰かに肩を掴まれた。



「リカ!」

 名前を呼ばれ、ゆっくり瞬きをした。

「リカ、私がわかりますか?」

 必死な様子の女性の声が、何度もリカの名前を呼んでいる。

 瞬きを繰り返しているうちに、眼前の景色が、崖海からマンションのリビングへと変わっていく。そしてリカの顔を、心配そうに覗き込女性の姿も、はっきりと視認できるようになった。

「リカ。目が覚めましたか?」

 リカは再び瞬きを繰り返し、目の前の女性を見つめる。

「ドミニクさん……?」

 彼女の名前を口にしたつもりだが、ちゃんと声が出たかどうか怪しかった。けれど、ドミニクが安堵して微笑んだので、聞こえる程度には発声できたのだろう。

「ああ、よかった。うなされていたので起こしたのです。大丈夫ですか?」

 ドミニクはリカの隣に座り、守るように肩を抱く。

「私、うなされてたんですか?」

「ええ。きっと悪い夢を見ていたんでしょう」

「悪い夢を……」

 ドミニクの言葉を小さく反芻する。“夢”だと口にした途端、さっきまで、抗えないほどの現実感をもってリカを蹂躙しようとしていた光景が、テレビの電源を落としたように、脳裏からプツッと消えた。

 あれはやはり夢だったのだ。いつの間にかうたた寝していたらしい。

 自分から海に落ちる――自殺する夢だ。なんとも後味が悪い。まだ身体が震えている気がして、両腕を胸に抱えた。夢にしてはあまりにもリアルで、かつて自分が実際に経験したことのように錯覚してしまいそうになった。もちろん、そんなことはありえない。

 気分はどうかとドミニクが訊くので、リカは大丈夫だと答えた。そのとき、キッチンの方から話し声が聞こえてきた。

 このセーフティハウスには、自分とドミニクしかいなかったはずだが。リカの怪訝な表情に気付いたドミニクが、ソファから立ち上がりながら言った。

「心強い助っ人が来てくれたんです。今、夕食を作ってくれているんですよ」

「助っ人? 夕食?」

「ええ。あんな豪華なお料理、私にはとうてい無理です。もうすぐ出来上がりそうですから、リカはそれまでゆっくりしていてください」

 労わりの笑みを残し、ドミニクはキッチンへ歩いていった。

 リカが窓を振り返ると、外はもう日が暮れていた。空は黄金色と群青のグラデーションに染まり、街を薄明に包んでいる。ずいぶん長いうたた寝だったようだ。

 リカは慌ててソファを立ち、ドミニクを追ってキッチンに向かった。食事の支度をしてくれているのを、のほほんと待っているわけにはいかない。料理などほとんどできないが、何か手伝えることはあるはずだ。




 スライスしたバケット、スモークサーモンとイカのマリネ、三種の豆とアボカドのサラダ、パセリを散らしたポテトフライ、きのこのチャウダースープ、トマトソースのショートパスタ。シンプルながら、見るからに美味とわかる料理が、召し上がれと誘惑する。

 四人分のランチョンマットを敷いたダイニングテーブルに、ごちそうの数々を並べて、ディナーの準備が整った。

「ううん、我ながら完璧だわ。盛り付けはエレガントでシンプルに。味はもちろん文句なし。これ以上ないくらいパーフェクト」

 両手を打ち合わせて満足げな声をあげたのは、大柄な女性――正確には女装した男性だ。優雅なホワイトブロンドの髪をきちんと結った彼女は、これらのごちそうを手掛けたシェフの一人である。

 もう一人は、ピッチャーのレモン水を四人分のグラスに注いでいる。ゆるく波うつボブヘアがよく似合う、たおやかな雰囲気に包まれた女性だ。

 テーブルに鎮座する料理のほとんどはこの二人、ママ・ストロベリーとアルフォンセ・メイレインが作ったもので、リカやドミニクが手伝う余地はまったくなかった。リカは使い終わった調理器を洗うくらいがせいぜいで、ドミニクはジャガイモの皮剥き程度しかやることがなかった。それほど、ママとアルフォンセの手際がよかったのだ。

 ママ・ストロベリーとアルフォンセは、リカとドミニクのために食事を作りにきてくれたのである。ママはレジーニが懇意にしている情報屋のドラァグクイーンで、アルフォンセはレジーニの相棒エヴァンの恋人だそうだ。

 温かな家庭料理を前にして、リカの腹は小さく鳴く。ずっと緊張状態が続いていたためか、空腹だったことを忘れていた。そういえば昼食も食べていない。

 テーブルを挟んだ向かい側に座ったアルフォンセが、料理を手で示す。

「リカさん、どうぞ。お口に合うといいんだけど」

「あ、ありがとうございます。いただきます」

 リカはフォークを手に取り、ショートパスタを食べる。トマトの酸味と甘みに、ほのかなガーリックの風味が加わったソースが絶品だ。

「おいしいです!」

 頷きながら率直に感想を伝えると、アルフォンセは嬉しそうに微笑んだ。

「リカちゃん、アタシの特製チャウダーも食べてちょうだいね。おばあちゃんから教わった秘伝のレシピなのよ」

 ママ・ストロベリーが弾んだ声で話しながら、スープをよそったカップをリカに差し出した。

 リカはお礼を言ってカップを受け取り、ひと口飲む。まろやかでコクのあるスープが、喉をとろりと流れていく。

「これもおいしい!」

 素直な一言が嬉しかったのか、ママ・ストロベリーが満足げに頷く。

「お嬢様のお墨付きをもらったわ。さ、アタシたちもいただきましょう」

 こうして四人のささやかな女子会が始まった。アルフォンセとママによる料理は、どれも素晴らしく美味で、リカだけでなくドミニクも感心しきりだった。

 レシピや、最近の他愛ない出来事などを話題に、ディナータイムは穏やかに過ぎていく。

 今日会って間もない人々と囲む食卓だが、不思議とよそよそしい感じはしなかった。三人が、自分を気遣ってくれているからかもしれない。リカはそのことに感謝の念を抱いているが、同時に申し訳ない気持ちもあった。

 ここにいる三人とレジーニを含めて、何人もの人がリカを守ろうと手を差し伸べてくれている。こんな、わけのわからない能力に振り回されている女子大生なんかに。関わることで、ひょっとしたら命を危険に晒すことになるかもしれないのに。

 自分は、この人たちに恩義を返すことができるだろうか。何も返せないまま、ただぬくぬくと守られているだけでいいのか。

 ふと、レジーニの顔が脳裏をぎった。勝手な真似をした自分に向けられる、彼の厳しい眼差し。後先を考えない行動がどんな結果を招くのか、今はわがままを通せる状況でないと理解していなければならないことを、まざまざと思い知らされた。


(私、このままでいいの? こんな能力ちからいらない嫌だって、駄々こねてるだけ。これじゃ何も解決しないんじゃない?)


 飲んでいたレモン水のグラスをそっとテーブルに置き、朗らかに笑い合うドミニクたちを見つめる。


(私にも、何かやるべきことがあるのかもしれない)


 それが何かは、まだわからないけれど。

 にわかに芽生えた使命感は、しかしまだ漠然としたもので、実態を掴むことがリカにはできなかった。




 なごやかなひと時も、終わりに近づいていた。みんなで手分けしてディナーの後片付けをし、食後のお茶を飲み終えた頃には、時計は午後九時近くを示していた。

 アルフォンセとママ・ストロベリーが帰宅したあと、ドミニクに促され、リカはシャワーを浴びた。

 セーフティハウスには、未使用のルームウェアも用意されていた。スウェットの男物でリカには大きすぎるサイズだが、もちろん文句は言えない。

 ふと、これらセーフティハウスの常備品が、いったいいつ誰が揃えているのか気になり、ドミニクに尋ねてみた。彼女によると、裏稼業者バックワーカーのネットワークの中には、緊急時のライフラインを確保しておく役割の人もいるそうで、彼らが定期的に補充整頓しているのだそうだ。なんとも便利な仕組みである。

 リカはタオルで髪を拭きながら、ベッドに腰かける。髪が長いので、しっかり水分を拭きとってからドライヤーをかけなければ傷んでしまう。

 ドミニクはリカと入れ替わりに入浴している。

 あらかたタオルドライできたので、ドライヤーを取りに行こうとしたそのとき、リカの携帯端末エレフォンが鳴った。

 ディスプレイに表示されたのは、登録していない番号だ。けれど、番号の並びには見覚えがある。

 リカは深呼吸をひとつして、ディスプレイをタップした。

「もしもし」

『やあ……、レジーニだ』

「はい」

 彼の声を聞いた途端、胸の内が疼く。安心するような、でもどこか怖いような、なんだか複雑な心境だった。

『少しは落ち着いたかい?』

「はい。ドミニクさんにも、アルフォンセさんにも、ママさんにもよくしてもらって、その、すごく感謝してます」

『そうか。ならよかった』

 ごく短い返事だったが、声色に棘がなかったので機嫌は悪くなさそうだ。謝るなら今しかない。リカは心を静めるように深く息を吸い、吐き出した。

「あ、あの」

『なんだい?』

「勝手なことして、ごめんなさい。私のせいでいろいろ迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」

 そもそもの始まりは、リカがレジーニに会おうとしたことにある。幼い憧憬に突き動かされるまま、あるいは淡い期待に踊らされて、踏み込んではいけない領域に入り込もうとした。その結果、多くの人に手間をかけさせてしまっていることが申し訳なかった。

『君が謝る必要はない』

 スピーカーの向こうで、ため息のような深い呼吸が聞こえた。

『僕が少し焦りすぎた。手段が強引だったよ。すまなかった』

 まさか謝罪されるとは思ってもいなかったリカは、かえって慌ててしまった。

「そんな! レジーニさんが謝ることなんてないです! だって私が勝手に……」

『そうだとしても、僕のやり方が正しかったわけじゃない。君を怖がらせたことに変わりはないんだ。悪かったよ』

「え、えっと……」

 この謝罪を受け入れるのは傲慢な気がする。かといって拒めば、レジーニの面目を潰してしまう。

 どう答えていいかわからず逡巡していると、レジーニの方から電話の終了を切り出した。

『それだけは伝えておきたかった。今夜はゆっくりおやすみ。それじゃあ』

「……おやすみなさい」

 通話が終わってからしばらくは、携帯端末が手離せなかった。薄くて四角いデジタル機器の中に、彼の声が残っているような気がした。


       *


 エルマン・ブリッジを望む河川公園の駐車場に立つレジーニは、携帯端末をポケットにしまうと、愛車のボディに寄りかかった。

 端末越しのリカの声からすると、すっかり落ち着いているようだ。食事もきちんと食べられたようで何よりである。

 彼女が気がかりだったのと、一言謝罪しておきたくて電話をかけたのだが、先に謝られてしまって、なんともきまりが悪い。もちろん、彼女から謝ってほしいことなど何もなかった。

「まったく、締まらないな……」

 独りごちて首を振るレジーニは、川辺の方からこちらに歩いてくる人物に気付き、居住まいを正した。

「ちゃんと『ごめんなさい』って言えた? お詫びの食事には誘ったのかしら?」

 ママ・ストロベリーが愉快そうに笑いながら、肩にかかったホワイトブロンドを背中に払う。

「謝罪はしたが、食事に誘うなんてするわけないだろう。彼女はまだ十八だぞ」

「十八歳を子どもと見るか大人と見るか、アナタの年齢からすると微妙なところよね。でも二年待てばOKなんじゃない?」

「二年待とうが何年待とうが同じだ。僕にそのつもりはない」

「でも、あの子はそう思ってないかもよ」

 ストロベリーはニヤニヤ笑いを絶やさない。レジーニはうんざりとばかりにため息をついた。

 ファイ=ローの屋敷で夕食をごちそうになったあと、レジーニはストロベリーと待ち合わせる約束をした。カクテル二、三杯で酔っ払ったエヴァンは、使い物にならないのでローの元に置いてきた。

 ママ・ストロベリーは、アルフォンセをアパートに送り届けてから、レジーニと合流した。

バージルがこの地に戻ってきていることを教えると、どうして早く言ってくれなかったのかと金切り声で文句を言われた。バージルはストロベリーとも旧知の仲で、彼女の店〈プレイヤーズ・ハイ〉のスタッフたちにも人気がある。

 バージルは「明日改めて店に顔を出すつもりだ」と言っていたので、そのことを伝えると、ストロベリーはあからさまに機嫌を直したのだった。

「ストロベリー、僕はからかってもらうために呼び出したんじゃない」

「わかってるわ。でも本題に入る前に、一言いいかしら?」

 ストロベリーがおどけた表情をやめ、静かにレジーニを見つめる。

「アタシはね、仲間のみんなに幸せになってもらいたいと思ってるの。お店の子たちや子猿ちゃんにアルちゃん、ドミニクちゃんたちも、ヴォルフやオズモント先生にもね。もちろん、アナタもよ」

 レジーニは、彼女が言わんとしていることを察し、とっさに言葉を遮ろうとした。しかしストロベリーは、レジーニが口を挟む隙を与えなかった。

「きっかけは何だっていいと思うの。そう、例えば、髪の色が同じだったからってことでもね。その気持ちが本物なら、大事に育むべきだわ。年の差は時間が埋めてくれる」

「そんな説教なら無用だ。そもそも僕は」

「説教じゃないわ、人生のアドバイスよ。友達としてね」

 夜景の明かりに照らされたストロベリーの、包み込むような優しい表情の中に滲むひと匙の哀惜を、レジーニは見逃さなかった。

 ストロベリーなら、リカを一目見れば察してしまうだろうとわかっていた。リカの珍しい髪の色が、レジーニの亡き恋人ルシアと同じであり、それがレジーニの心にどう影響するのかを。

 髪の色が同じだというだけで、リカに特別な感情を抱いたつもりはない。ただ、彼女を気にかけるきっかけになったことは、認めざるを得なかった。

 ストロベリーが言いたいことは理解しているし、彼女が自分を案じていることについては、友としてありがたいと思う。

 しかしだからと言って、会って間もない十八歳の少女を、恋愛対象として見られるかどうかは別問題だ。

「アドバイスはありがたく受け取っておくが、とりあえずここまでにしておいてくれないか」

「そうね。じゃあ本題に移るけど」

 肩をすくめたストロベリーは、コートのポケットに両手を差し込み、レジーニと並んで車に背を預けた。


 本題というのは、リカについてだ。彼女が特異な能力を得た原因が何なのか、その素性に隠されているかもしれない。本人に訊けば早いのだろうが、リカ自身が認識してない事実の中に、能力の秘密が埋もれている可能性もある。レジーニの推測が当たっているのかどうかも、そこに懸かっていた。

 そこで、裏社会きっての情報屋であるママ・ストロベリーに、リカの身元を洗うよう頼んだのだ。


「正直に言うと、本題こっちの方が話しにくいのよね」

 ストロベリーの横顔が、苦いものを含んだように歪む。

「家庭に問題でも?」

「いいえ。母子家庭だけど、親子の間に問題はないみたい。実家は第六区、母親はフラワーデザイナー。ただし未婚」

「未婚? 結婚しないままリカを産んだのか」

「そのことなんだけど」

 先を話すのがためらわれるのか、ストロベリーは珍しく言葉を探していた。

「リカちゃんは養子かもしれない。本人が知ってるかどうかはわからないけど」

 養子と聞いて、レジーニの胸はにわかにざわめいた。リカが養子だというなら、どこから引き取られたのかが重要になる。場合によっては、レジーニの推測を補強する事実になるのだが。

「かもしれない、とういうのは?」

「リカちゃんのママは未婚だって言ったでしょ。それと合わせて、とても無視できない事実があってね」

 ストロベリーが憂鬱そうにため息をつく。

「リカちゃんのママには双子の姉がいたの。名前はアンジェラ・タルヴィティエ。姉は十九年前、ある事件によって心身に重傷を負い、リカちゃんが幼いときに亡くなってる。自殺よ」

「母親に双子の姉? もしかして、リカは姉の子だと?」

「アタシはそう考えてる。そうなると、父親が誰なのか気になるわよね」

 ストロベリーが口をつぐみ、もの言いたげな目線を向ける。厭な空気が、レジーニの肌を粟立たせた。

 未婚の母。養子の可能性。双子の姉。心身に重傷を負う事件。

 自殺の原因は何だ。なぜ年端もいかない娘を置いて、死を選んだのだ。

 自ら命を絶ってしまうほどの何が、十九年前に――。


(まさか……)


 レジーニの頭の中で、点と線が結びつく。導き出された答えは嫌悪感を禁じえず、見当外れであってほしいと願いながら、ストロベリーを見返した。

 ドラァグクイーンは、レジーニが思い至った答えを読んだのか、無情にも頷いた。


「アンジェラは男に襲われて妊娠してしまったの。中絶しなかった理由はわからないけれど、彼女は女の子を産んで、産まれた直後に家族が引き取ったそうよ。それから数年後、ずっと入院していた病院から抜け出して自殺した。犯人は……」


 口に残る苦みをすべて吐き出そうとせんばかりに、ストロベリーは先を続ける。

「ハーヴィー・グランツ、警察中央庁で逮捕された。当時の事件記事でそれだけはわかったけれど、どんなに遡ってもハーヴィー・グランツの経歴が出てこないのよ。不自然すぎるわよね」

 ストロベリーの話を聞きつつも、レジーニの脳裏にあるのはリカの華奢な姿と、亡き婚約者の幻影だった。


(また……)


 ハーヴィー・グランツが何者なのかを突き止めなければならない。次にやるべきことは明らかになった。だがそれよりも、正体不明の男に対する憤りに、レジーニは知らず拳を握り締める。


 ――また、己が心に留める女性が、傷つけられるのか。

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