TRACK-5 錯綜 4
握り返したバージルの右手は、大きく温かく、少し乾燥していた。妻が経営するティーカフェを手伝っているため、日々の水仕事で荒れ気味なのだろう。あまりケアをしていないようで、自分には気を遣わないところも相変わらずだと、レジーニはゆるく微笑んだ。
握手を済ませると、バージルが感慨深げにレジーニを眺める。
「すっかり雰囲気が変わったな」
「そうかな」
「最後に会ったのは娘が生まれた直後だったから、もう四年前か。俺の知らないうちに、いい経験を積んだようだ」
「どうだろう。まあ、最近はそう退屈でもないが」
レジーニが肩をすくめると、バージルは苦笑した。
「言葉が天邪鬼なのは相変わらずだな。座ろうか、ローがお茶と茶菓子を用意してくれているそうだ」
バージルが右手で示した庭の奥には、赤い屋根の東方風東屋が建っている。茶卓と椅子が二脚あるだけのこぢんまりした東屋だが、使用人の掃除が行き届いているようで、雑草は生えておらず落ち葉一枚もない。
東屋のそばには小さな池があり、数匹の錦鯉がのんびりと泳いでいる。しばし鯉たちの遊泳を眺めていると、東屋に近づいてくる者の気配を察した。
ローの使用人の若い娘が、茶器と菓子盆を載せたトレイを運んできたところだった。屋敷内で時おり見かける娘だ。彼女は茶卓にトレイを置くと、静かに一礼し、東屋を離れていく。その際、こちらに意味ありげな目配せを送ってきたのだが、レジーニは気づかないふりを決め込んだ。
屋敷内で見かけるたびに、同じような視線を投げかけられる。どんな意味が込められているか察しはつくものの、応じたことはない。世話になっているローの使用人に、手を出すつもりはなかった。
バージルがお茶を淹れ始める。ティーカフェ経営者を妻に持つ身として当然と言わんばかりの、慣れた動作だ。東方茶の淹れ方も熟知しているようで、手つきは如才ない。
「さすがにローは目利きだ。いい茶葉を出してくれた」
言いながらバージルが差し出すカップには、清らかな浅緑色の青茶が淹れられていた。レジーニはそれを受け取り、飲む前に香りを嗅いだ。甘い桃の香りがする。口に含めばさっぱりした喉ごしで、仄かな桃の香が後に残った。
「君の噂は、時どき耳に入ってくるよ」
茶卓にカップを置いたバージルが言った。
「相棒を持ったと知った時期は、ジェルゴの〈異法者〉の間でも話題に上っていた。レジナルド・アンセルムが見込んだのはどんな男なのか、とね」
「あいつにそんな話題性があるとは思えないが。そもそも、僕にどういう相棒がいいか、ヴォルフに進言したのはあんただと聞いたぞ」
「おや、バレてたか。でも、それで一年以上続いているというから、俺の目立ては間違いじゃなかったわけだ。どうだい、コンビを組むというのは」
レジーニは片眉を上げる。
「あんたの苦労がわかった気がする」
こう言うなり、バージルが声を上げて笑った。
彼の目尻に数本の笑いジワが刻まれる。昔と比べれば確かに老けてはいるものの、シワすら魅力に変えられる男盛りと言えるだろう。
バージルと出会ったのは、今から七年ほど前のことだ。彼はレジーニの、〈異法者〉としての指導者だった。
レジーニがエヴァンに“試用期間”を設けたように、レジーニ自身も駆け出しの頃、三ヶ月の試用期間を課せられ、バージルの指導を受けたのだ。
共に過ごした時間は、試用期間を含めてもたった数ヶ月。決して長くはないが、自分にとっては充実した日々だったのだと、当時を振り返るレジーニである。
かつてのボスに裏切られ、最愛の恋人を喪い、虚無感とやり場のない破壊衝動に捉われていたレジーニは、“暴れられる意義”を求めて〈異法者〉の道に足を踏み入れた。
そんな、足元の危ういレジーニを見かねてか、ヴォルフが引き合わせた相手がバージルだった。
うかつに近づく者には牙を剥き、触れようとすれば噛みつく野良猫のようなレジーニを、バージルは根気強く指導した。
生意気で口の減らない若造を、よくも見離さなかったものだ。我がことながら、レジーニはそう思っていた。
エヴァン・ファブレルという、歩く爆竹のような相棒を持った今なら、当時のバージルの気苦労が理解できる。器の広さも。
試用期間が終了し、レジーニの独立が決まると、バージルは〈長〉の命で、アトランヴィル・シティからジェルゴ・シティに活動拠点を移すことになった。現在彼は、ジェルゴ〈異法者〉の第一線に立っている。
ジェルゴへ発つバージルを見送って以降、彼と会ったのは一度きりだ。生まれたばかりの娘を見せに、妻を伴って〈パープルヘイズ〉を訪ねてきたときである。
そうして今日、四年振りの再会を果たしたのだ。
「家族は元気なのか?」
尋ねたレジーニに、バージルが柔らかく微笑んで頷く。
「二人とも元気だよ、ありがとう。ティーカフェはそれなりに順調だし、娘は幼稚園で読み書きを習い始めたばかりだ」
家族を語るバージルの表情は、どこにでもいる父親そのものだ。
妻のセリーンとは面識はあるが、娘のシャーリー=アビゲイルは赤ん坊の頃しか知らない。妻の祖母に由来する名前を授けた娘を、バージルは蝶よ花よと慈しんでいるようだ。甘やかしている姿が目に浮かぶ。
バージルに関して、ひとつ思い出すことがあった。
「そういえば、弟子をとったと聞いたが」
この質問にもバージルは笑ってみせたが、先ほどとは違って苦笑である。
「とったというか、なんというか。俺の“仕事”の現場を見られてしまって、『弟子にしてほしい』と押しかけてきてしまったんだ。家族はなく、行く当てもないというから仕方なくその日は泊めたんだが、セリーンに情が湧いてね」
「それで引き取った、ということか」
レジーニの言葉に、バージルは苦笑したまま軽く頷いた。
バージルの性格上、一人の人間を裏稼業者の弟子として受け入れるというのは、苦渋の決断だったに違いない。聞けば押しかけ弟子は、まだ十五歳の少女だという。娘を持つ身としても、十代の子どもを日陰者にしなくはなかっただろう。
それでもその少女を迎え入れたのには、彼なりに考え抜いての結果なのだ。
レジーニもそのくらいの年頃には、小悪党の仲間入りを果たしていた。子どもにも子どもなりの決意がある。それがどんな事情に起因するものであれ。
「その子の名前は? ものになりそうなのか?」
「イオリ・ツバネ。筋はいいし、覚えるのも早い。素質はあるよ。ただ、少し変わった子だ」
東方系の名前である。それなら忘れにくいだろう。将来、〈鷹〉の技を継いだ東方系の女性〈異法者〉の名を、音に聞く日が来るかもしれない。
バージルがお茶のおかわりを、それぞれのカップに注いだ。
「さて、君の近況も聞きたいところだが、そっちは話が長くなりそうだな」
ティーポットを脇に寄せたバージルは、ライダースジャケットの懐から一通の封筒を取り出し、レジーニに差し出す。
「先に本題を」
レジーニは頷いて封筒を受け取り、中身を開けた。
封筒には、数枚の手紙が入っていた。罫線だけが引かれたシンプルな白い便箋に、読みやすい几帳面な字が書き並べられている。
レジーニは内容を読む前に、バージルを一瞥した。これから読む時間をもらえるか? という意味を込めた目線だ。バージルがその意図を汲んで頷く。
改めて便箋を見る。差出人の名前はどこにも書かれていないが、誰の手によるものかは察しがつく。ディーノ・ディーゲンハルトだ。マックスは、長文を書く、などという作業はやりたがらないだろう。
マックスとディーノに、大陸西側の政府管轄施設の調査を依頼したレジーニは、調査内容の報告手段を、手書きで、と指定した。電話では傍受されるおそれがある。メールも安全ではない。ならば、今時わざわざ手書きの報告書をしたためる者はいまい、という社会通念を利用するのがいいだろう、と考えた。
そうしてまとめられた報告書を、マックスたちではない別の人物に運んでもらう。その“運び手”にバージルを選んだのだ。
今や妻子ある身のバージルを巻き込むのは、さすがに気が引けたものの、他に適任者は思いつかなかった。信用できると確信が持てる相手でなければ、こんな仕事は頼めない。
四年ぶりに連絡をよこした後輩の頼みを、バージルは二つ返事で引き受けてくれた。その際、ある程度の事情は説明している。それでも彼は「手を貸す」と言ってくれたのだ。
マックスたちとバージルへの借りは、いつか必ず返さなければならない。
ディーノが綴った報告内容に目を通す。
やはり、カムリアン・シティの政府施設には秘密があったようだ。そこは〈地熱観測所〉と呼ばれているらしいのだが、施設の実態は不明だという。ただ一つ明らかなのは、正体不明の存在を隠匿していることだけだと、ディーノは書いている。その存在とは、おそらくメメントだろう、とも。
便箋と便箋の間に、一枚の写真が挟まれてあった。画質が粗く、輪郭は不明瞭だが、何か異質なものが写されていることはわかる。
所狭しと並べられた機材、天井高く聳える鉄柵。その内側で屹立するのは、逆U字型の巨大な物体。チューブ状の物体が何本も絡まり合い、赤と青の二色からなる巨大な一本を形成している。
あまりにも異様すぎる形状に、レジーニは思わず眉をひそめた。ディーノの報告によると、この異様な存在こそ、〈観測所〉で隠されているメメント〈ヴァノスとアテリアル〉だという。
〈異法者〉となって今日まで、実に様々な姿かたちのメメントと遭遇してきた。この先どんなメメントが現れようとも驚かない自信はあったが、これは想像の範疇を超えている。
おそらくこの〈ヴァノスとアテリアル〉は、トワイライト・ナイトメアのように、何らかの役割を担う特別な個体なのだろう。
その役割とは一体?
政府は何のために、この巨大なメメントを滅さず囲っているのか。
さすがにそこまでは調べられなかったと、ディーノは綴っている。政府の目的は知りたいところだが、この画像を入手しただけでも大きな収穫だ。
(オツベルに見せれば、こいつがどういうメメントなのかわかるだろうか)
報告の最後は、補足で締めくくられていた。そこに記された内容を読み、レジーニは片眉を吊り上げる。
マックスとディーノが〈観測所〉の情報を入手したことで、〈VERITE〉なる組織に追われたのだが、その窮地を救ったのが、アンドリュー・シャラマンとマキニアンのサイファー・キドナだというのだ。
シャラマンはマキニアンを生み出した〈細胞置換技術〉の開発者で、エヴァンの養父となるはずだった人物だ。そしてサイファーは、一年前〈スペル事件〉を起こした張本人である。
サイファーはエヴァンとの対決の果てに、崖上から海に落ちた。この程度でマキニアンが死ぬとは考えられないので、どこかに落ち延びているだろうとは思っていたが、まさかシャラマンと共に行動しているとは。
シャラマンは何かを探し求めているようだった。探索行のボディガードとして、海に落ちたサイファーを保護したのかもしれない。
マックスとディーノは、シャラマンたちに同行することにしたという。レジーニの依頼は完遂したが、シャラマンに助力を乞われ、それを受け入れたというのだ。
現在は、〈ヴァノスとアテリアル〉の正体を暴くべく、政府都モン=サントールに向かっているそうだ。
(あの二人、なんのつもりだ?)
レジーニは胸中で首を傾げた。
本当なら、バージルに報告書を預けた時点で、マックスたちの仕事は終了している。あのコンビ――特にマックスは、余計なことにまで手を出さない主義のはずだ。それなのに、彼らの本分を超えてシャラマンとサイファーに協力するというのは、一体どういう風の吹き回しなのだろう。
このまま関わり続けるなら、ともすればレジーニやエヴァンよりも、事の中枢に近づく可能性がある。
より一層、危険な深淵に踏み入るなど、レジーニの知る限り、およそマックスとディーノらしからぬ決断だ。何が彼らをそうさせたのか。
ひょっとしたらシャラマンに雇われた形なのかもしれないが、これ以上は考えても仕方がない。
気を取り直し、便箋の最後の一枚を見る。これまでの几帳面な文字とは打って変わって、罫線を無視した大きな字が、強い筆圧で大雑把に書かれていた。
『俺からの請求書に震えとけカスコンビ!』
間違いなくマックスだ。レジーニのみならず、エヴァンからも報酬を払わせるつもりらしい。どれだけ吹っ掛けられるのか、少し戦慄した。
報告書を読み終えたレジーニは、バージルの様子を伺う。池を眺めていた彼が、視線に気がつき顔を上げた。
レジーニは手の中の報告書とバージルを交互に見る。これを彼に見せるべきか、逡巡した。
今ならまだ、こちらが一方的に手伝わせただけということで、これ以上深入りさせずに済む。バージルを家族のもとに帰してやれる。
(僕なら、自分が何に巻き込まれたのか、知っておきたいと思うが……)
心の迷いを、報告書を弄ぶことで紛らわせる。すると、バージルが右手をすっと差し出してきた。
「まさか、見せないつもりじゃないんだろう?」
「アンフォーニアまで行かせておいて、ここで引き返せ、というのは虫がよすぎるかな」
「そのとおり」
一瞬の躊躇なく頷くバージルに、レジーニも迷いを捨てた。
報告書と写真をまとめて手渡す。受け取ったバージルは、まず写真を見て眉をひそめた。それから便箋に視線を移す。文字を追う彼の目の動きは速く、レジーニほど時間をかけずに読み終えた。最後の添え書きに吹き出したのは言うまでもない。
「全財産絞り取られなければいいな」
「言い値で報酬を払うと言ったのを後悔してるところだ」
レジーニの言葉に破顔するバージルだが、すぐに表情を引き締めた。便箋を丁寧にたたみ、写真とともに封筒にしまって、レジーニに返す。
「メメントは生物の死骸が変化した異形。〈異法者〉が倒すべき存在。そこに何の疑問も抱かなかったわけじゃない。俺たちはもっと早くに、メメントが本当はどういうものなのか、調査すべきだった」
「もっともな意見だが、メメントが発生する原因さえ、僕らは知らなかったんだ。調べられたとしても、もっと時間がかかっただろう」
レジーニとバージルだけではない。〈異法者〉たちは皆、メメントがなぜ存在するのかを、一度ならず考えるものだ。しかしながら、その発生要因がモルジットなる未知の成分であることなど、誰も知る由もなかった。突き止める糸口すら掴めなかっただろう。
レジーニがメメント誕生に関する事実を知り得たのは、他でもない――、
(エヴァンがいたから、か)
思えばすべては、エヴァン・ファブレルが十年の眠りから覚めたことで始まったようなものだ。
記憶の欠けたエヴァンには、自分がメメントを巡る一連の出来事の中心にいる、という自覚がない。もし、エヴァンが失われた記憶を取り戻せたら、そのときは――何かが起こるのだろうか。
「なんだか落ち着かないよ」
ひととき物思いにふけっていたレジーニの意識は、バージルの呟きで引き戻された。落ち着かない、というのは自分を指しているのだと思ったが、そうではないようだ。茶菓子の包み紙を、手慰みにくるくる巻いたり捻ったりしながら、バージルが言葉を続ける。
「最近ジェルゴでも、何となく雰囲気が変わった気がするんだ。一見すると何も変わってないようなんだが、そうだな……肌に伝わる空気感というか、漠然としたものではっきりとはしないのだけど」
彼が言わんとすることは、何となくわかる。言葉で説明するには難しい変化というのは、往々にしてあるのだ。それは、長年裏社会に生きる者が自然と会得した本能のようなもの。時にその本能は、我が身を守る警鐘となる。
「ひとつはっきりしているのは、メメントが確実に強くなっている、ということだ。以前倒したことのある個体でも、ここ一年以内に再出現した奴は、前回に比べてずっと強くなっていた」
「それは、他の〈異法者〉も?」
「ああ。みんな、同じような経験があるそうだ。今はまだ対処できているが、この先もっと強化していくとなれば、俺たちは早々に対策を考えなければ」
メメントが以前より強くなっている――それはレジーニも感じていたことである。劇的な変化ではないので、火急の問題ではないだろうと高を括っていたが、軽視するのは間違いだったようだ。
「他に気づいたことは?」
レジーニが尋ねると、バージルは包み紙をトレイに置き、茶卓の上で両手を組んだ。
「話すほどのことじゃないかもしれないんだが」
「何だい」
「不思議な男に会った」
半月ほど前のことだという。
月の明るい夜だった。いつものとおり、メメント駆除の依頼を受けたバージルは、現場の廃墟に向かった。出没するメメントは、経験を積んだ〈異法者〉なら特に苦戦することなく倒せる、中級レベルの個体だったそうだ。
ちょうど、イオリをステップアップさせてもいい時期だと考えていたバージルは、実地訓練として彼女を連れて行った。
イオリはかなりはりきっていて、やる気が空回りするのではないかというバージルの心配をよそに、なんとかメメントを屠ることに成功した。大幅に手助けしたんだが、とバージルは少し笑う。
目的を果たし、帰ろうとしたときだった。突如、別の個体が出現し、彼らの前に立ち塞がった。それは腐った牛に似た頭部と、肥大した人間の四肢を生やす四足歩行の大型メメントで、バージルがこれまでに見たこともない個体だったという。
外見からの想像どおり、溢れんばかりの体力の持ち主で、バージルとイオリは瞬く間に追い詰められた。弟子を守りながらでは満足に戦えない。バージルはイオリを一人で逃がそうとした。
イオリは、師匠を置いていくことに抵抗を示し、なかなかその場を離れようとしなかった。そんなやりとりをしている間も、巨体メメントからの攻撃は続く。
ついには袋小路にはまってしまい、退路が断たれてしまう。前方にはメメントが迫る。逃げ場はない。
バージルはなんとかイオリを逃がすため、差し違える覚悟でメメントの懐に突っ込もうと身構えた。
ところが。
いつの間にか、彼らとメメントの間に、何者かが割り込んでいたのだ。
その人物が現れるのを、バージルもイオリも見ていない。ほんの一瞬、師弟が視線を交わすたった一秒足らずの間に、音もなく現れたとしか言いようがなかった。
背を向けてはいるが、月光に照らし出された輪郭から、男であることが察せられた。腰までの丈のマントを羽織り、右手に細長い武器を握っていた。
男はバージルたちを振り返らず、無言のままメメントと対峙し続ける。
君は誰だ。
問いかけようとしたそのとき、メメントが咆哮を轟かせながら、後ろ足で立ち上がった。振り上げた前肢で男を踏み潰そうというのか。バージルが警告を発しようと口を開いた、刹那。
銀に輝く閃光がひと筋見えた。何の光だろう、と思ったのもつかの間。
どうっと重々しい音を立ててメメントが倒れ伏し、たちまち分解消滅が始まった。
男がメメントを倒したのだ。が、一体何が起きたのか、まったく見えなかった。
男の手中にあったはずの武器は消え失せ、メメントから立ち昇る悪臭の蒸気の中、彼は身体半分だけをバージルたちの方に向けた。
月の逆光で、どんな顔立ちなのかは判別がつかない。男はその姿勢のまま、浅く会釈する。
――見ず知らずの流れ者が出過ぎた真似を、と思われましょうが。
低く静かな、それでいて一言一句はっきり聞き取れる声だった。
――そこの娘さん、同郷の出とお見受けいたしやしたので、その誼みと手前勝手に加勢仕った次第にございます。
――横入り、ご寛恕くだせえまし。
男はもう一度、今度は深く頭を下げた。
君は誰だ。バージルはようやく尋ねることができたのだが、
――御免なすって。
バージルの誰何を振り切り、男はマントを翻して去っていった。あとに残されたのは、消滅しかけのメメントと、男に対する疑問だけである。
語り終えたバージルは、ジャケットのポケットに手を当てる。
「吸ってもいいかな?」
レジーニが手振りで「どうぞ」と許可すると、バージルはほっとしたような顔で、ポケットから煙草を取り出した。
そういえば顔を合わせてから今まで、バージルは一本も吸っていない。ヘビースモーカーではなかったにしろ、昔どおりならとっくに二、三本は潰しているところである。
彼のことだ、おそらく普段妻子の前では禁煙しており、煙草を我慢する習慣が定着しているのだろう。
バージルは咥えた煙草を噛みしめるように吸い、ゆっくりと紫煙をくゆらせる。
「俺たち以外で彼を見た人がいないか聞いてみたんだが、誰もいなかった。幻でも見たんじゃないかと言われれば、そうかもしれないと頷きたくなる。瞬きも許されない、そんな一瞬だった」
携帯灰皿に灰を落としながら、バージルは残念そうに独りごちた。
「礼を言いそびれてしまったな」
(その男、ひょっとして……)
レジーニはバージルの話を、頭の中で反芻する。
巨体のメメントを一撃のもとに倒すなど、いかな熟練の〈異法者〉であろうと不可能に近い。そんな所業をやってのけることができる何者かがいるとするなら、それは……。
「その助太刀に入った男だけど、名前や素性はわからないが、正体には心当たりがある」
バージルが顔を上げた。
「本当か?」
「おそらくマキニアンだろう。かつて軍部機関にあって、極秘にメメント討伐を担っていた強化戦闘員だ」
マキニアンの生き残りは〈処刑人〉の十一名、そしてユイとロゼットを加えた十三名のみのはずである。このうち、現在サウンドベルに滞在しているのが、エヴァン、ドミニク、ユイ、ロゼット、ガルデだ。マックスたちと共にいるサイファーや生存不明のシェド、〈VERITE〉の一員であることが確認された二名を除けば、残りは四名。そのうちの誰かではないかと考えられる。
イオリを指して“同郷の出”と言ったのならば、その男自身も東方系人だろう。東方系人のマキニアンがいたかどうかドミニクやガルデに聞けば、月下の男の正体を割り出せるはずだ。
煙草を一本吸い尽くしたバージルが、携帯灰皿で吸い殻をもみ消す。
「そのマキニアンについては初耳だが、君は詳しいみたいだな」
「まあ、詳しくならざるをえなかったというか……、なんの因果か相棒がマキニアンでね」
レジーニがため息混じりに肩をすくめると、バージルは愉快そうに口の端を上げ、屋敷の方を指差した。
「ひょっとして、あそこで月餅食べてるのが、そうかい?」
示された方向に顔を向けてみれば、相棒が外廊の柱の陰に隠れるようにして立っているではないか。食べかけの月餅を片手に、好奇心旺盛な眼差しでこちらを伺っている。
レジーニは、二度目のため息を深々とついた。
「あそこで月餅食べてるのがそうだ」
仕方なく肯定すると、バージルが笑いを噛み殺しながら手招きした。止めようとしたが時すでに遅く、エヴァンが駆け足で東屋に飛んできた。残りの月餅を頬張ったのか、口をもぐもぐと大きく動かしている。おやつ時の幼児かお前はと、レジーニは急に痛み出したこめかみを抑えた。
エヴァンが近づいてくると、バージルは立ち上がって右手を差し出す。エヴァンはその手を握り返そうとして一旦止め、ジーンズの太ももで右手をごしごしこすってから握手に応じた。
「君が噂の相棒か。バージル・キルチャーズだ。以前は君らと同じように、サウンドベルで仕事していたんだ」
「俺はエヴァン・ファブレルだ、よろしくな。あんたのことはヴォルフたちから聞いてるよ。スゲーいい〈異法者〉だったんだってな」
「ヴォルフたち? レジーニからは何も?」
バージルがいたずらめいた一瞥をくれるので、レジーニは目を細めて睨みつけた。
一方のエヴァンは、緋色の眼を輝かせてバージルを見上げている。優しい人間だと察知した犬のような眼差しだ。
「あいつ、今日ここであんたと会うことすら、教えてくれなかったんだぜ。相棒であるこの俺に、昔世話になった人を紹介しねえなんてさ、薄情にもほどがあるって、あんたも思わねえ? ま、それはいいや。あのさ、ローが晩飯食っていけってさ。鷹が帰ってきたからごちそうしなきゃって張り切ってるぜ。鷹ってあんたのことだよな。二つ名があるのって裏稼業者っぽくて、すげーかっこいいと思う!」
それまで口元をむずむずさせていただけのバージルだったが、堪えきれずにとうとう吹き出した。複雑な心境のレジーニをよそに、バージルはひとしきり笑うと、得心がいったとでも言いたげに頷く。
「なるほど、君が変わるわけだ」
なんとでも言え、とレジーニは諦めた。




