クロスロード
マキニアン同士の戦いの火蓋が切って落とされた一方、もうひとつの“戦い”も幕を開けていた。
シルーレ市街の幹線道路を、一台のバンタイプ電動車が猛走する。法定速度はとうに超えており、車線変更を繰り返して何台もの先行車を追い抜いていた。
一般道路を猛スピードで走る車など、都会では珍しくもない。バンに抜かされたドライバーたちは、割り込みに舌打ちするものの、それ以上機嫌を損ねはしなかった。よくあることだし、あのスピードならいずれ警察に目をつけられる。事故を起こす前に、さっさと捕まえてくれるだろう。
なによりあの運転。爆走するバンを目撃したドライバーは皆、こう思った。あんなにおぼつかないハンドルさばき、運転しているのは酔っ払いか、よほどの愚か者に違いない。
ドライバーたちの予想に反し、バンを運転しているのは、大陸でも屈指の頭脳を持つ科学者である。ただし、追っ手を振りきるため法定速度を大幅に違反せざるを得ない状況に、ハンドルを握る手と心臓を震えさせている愚か者でもあった。
シャラマンの額には、厭な汗が滲んでいた。手のひらもじっとりしていて、そのうちハンドルを滑らせてしまうかもしれず、気が気ではなかった。
「ああまったく、どうして私がこんなことを……これは夢だ、悪い夢に違いない……」
不安を和らげるために言葉を発するが、開いた口から心臓が飛び出しそうだ。
「おっさん、何をブツクサ言うてんねん」
運転席のシートの陰から、童顔の男が顔を出す。ついさっき、バンに無理やり乗せた二人組のうち、小柄な方の男である。
「さっきあんだけ啖呵きってたやんけ。観念して運転集中せえ」
励ましのつもりだろうか、シャラマンの肩をばんばん叩く。体格に似合わず力が強い。
「何の用があって、いたいけな賞金稼ぎを誘拐したんか知らんし、どこの連中が追って来てんのかもわからんけどな、こうなったからにはきっちり逃げてもらうで。ほれ、しっかりアクセル踏まんかい。どんどん抜かせ抜かせ」
「スピードはこれで精一杯だよ」
現にシャラマンは、自身のドライバー歴で最高速度を出している。交通規則を遵守するシャラマンにとって、今の状況は無謀な大冒険以外の何物でもなかった。
しかし彼は――たしかマックスという名だったか――容赦がなかった。
「どこが精一杯や、まだまだ出せるやんけ。そこ空いた、隣のレーン行け早よ。アクセル!」
威勢のいい巻き舌で指示を下す。迫力負けしたシャラマンは、返事もそこそこにアクセルを踏み込んでハンドルを切り、右のレーンに移った。十分な車間距離をとらない急な車線変更に、割り込まれた後続車が抗議のクラクションを鳴り響かせた。
「も、申し訳ない!」
相手に届かない謝罪を、思わず叫んでしまう。すかさずマックスの叱責が飛んできた。
「なに謝っとんねんゴルァ! よその車の心配しとる場合とちゃうやろ! 自分らが逃げきることだけ考えんかい!」
「そ、そうは言ったって、一歩間違えたら大事故になるじゃあないか! 第一私は、こんなアクション映画みたいな現場とは縁遠い人間なんだ!」
「いいご縁ができたやないかい。はい次そこ空いた!」
指示されるまま、今度は左のレーンに割り込む。クラクションのブーイングが再び巻き起こった。
シャラマンの心臓は、口から飛び出しそうなほど早鐘を打っていた。これまでの人生、交通違反をしたことなどなかったのに、今はクラクションを鳴らされるような暴走運転をしている。こんな運転をしていたら、そのうち絶対に事故を起こすに決まっている。いや、その前に警察に追いかけられてしまう。でも捕まるわけにはいかない。
普段は科学者らしく、理路整然と物事を考えられるシャラマンだが、本来の自分とはあまりにもかけ離れた非常事態のせいで、パニックに陥っていた。
「捕まる……絶対捕まる……だめだ、捕まるわけには……ああ無理、私にはできない、吐きそう。自動運転にすべきだ……」
「自動運転にしたらスピード出せへんやんけドアホ。ビビリやなあ、しっかりせえや。あんなアブなそうな髪モサモサ男をツレにしとるくせに」
マックスが呆れた口調で言った。髪モサモサ男とは、サイファーのことだろうか。
「マックス、あんまりスパルタせえへんよ。シャラマンさん、見たとこ裏社会の人やないみたいやし」
そこへもう一人の声が加わる。マックスとともにバンに乗せた長身の男、ディーノだ。
運転のため前方に集中しているシャラマンは、バックミラーを覗いて後部席を確認した。運転席に張りついて息巻くマックスとは対照的に、ディーノはのんびりした様子で座っている。二人とも、無理やり車に乗せられ、追われているというのに、緊張感とは程遠い態度だ。
「スパルタもするっちゅーねん。俺らの命運が、このヘタレなおっさんにかかってんねんぞ」
「あ、言うてるそばから、なんか来た」
ディーノの不穏な一言にぎょっとしたシャラマンは、うしろを振り返りかけて、「前を見んかい!」とマックスに怒鳴られた。
「追っ手が来たのか!?」
切羽詰って尋ねると、ディーノの落ち着いた声が返ってきた。
「二台は確実ですわ。でも、別ルートで挟み討ちにされる可能性もあるなあ」
「ど、どうすればいい」
思わず二人にアドバイスを求める。追跡からの逃れ方など、大学の講義にはなかった。こんな体たらくで〈VERITE〉と張り合おうとしているのだから、シャラマンは自分自身に嫌気が差した。
「しゃーない、手ぇ貸したるわ」
マックスがため息をつく。その言葉を合図に、二人は位置を交代した。マックスが後部座席に戻り、ディーノが運転席のシートの端から顔を出す。
「そしたら、えーと、シャラマンさん。言うとおりに運転してくれはります?」
「わ、わかった」
シャラマンは一も二もなく同意した。拒否したところで、自分だけの力ではどうにもできない。場慣れした者の意見には耳を傾けるべきだ。
「東方面のハイウェイに乗りましょう。カムリアンを出るんです。モサ男さんとはどう合流するんです?」
「問題ない。彼の方がこちらを見つける。ハイウェイだね、よし」
「遠回りになるけど、ルートは指示通りにお願いします。まずは西方面ハイウェイに」
「逆方向じゃないか」
「捲くんですわ。こちらがどこを目指しとんのか、向こうが掴んでないことに賭けましょう」
シャラマンはハンドルを握り直し、ひとつ深呼吸をした。かくなるうえは腹をくくるしかない。最初の指示に従い、シャラマンはアクセルを深く踏み込んだ。
ディーノは迅速なルート選択で、シャラマンを誘導した。車載ナビには一切頼っていないにも関わらず、どの道を行けばどこに出るか、ディーノは正確に把握しているらしい。まるで脳内に地図が描かれているかのようである。
シャラマンはやっとこの緊迫感に慣れ、徐々に落ち着きを取り戻していった。そうなると頭の中もすっきり晴れてきて、冷静に状況を理解できるようになった。
バックミラーで確認すると、ディーノの言ったとおり、二台の電動車が猛スピードで追い上げてきていた。シャラマンよりも荒い走行で、しかし段違いのテクニックで、ぐんぐん距離を縮めてくる。
右折左折を繰り返し、緩やかな下り坂道路に入った。輸送トラックが前方を走っている。その先は交差点だ。
「合図したら前のトラック追い越して、最初に目についた曲がり角へ」
ディーノが簡潔に指示を出す。シャラマンはトラックのうしろに接近した。交差点が近づいてくる。反対車線を走る車の姿が途切れた。
「今!」
合図の一声。シャラマンは素早くハンドルを切って反対車線にはみ出し、スピードを上げてトラックを追い越した。
突然目の前に飛び出してきたバンに驚いたトラックが、ブレーキをかけて速度を落とした。追跡車両はトラックを避けるべく、大幅に反対車線にはみ出す。
シャラマンは息つく暇もなく、トラックを追い越して最初に見かけた横道へ、ただちにバンを滑り込ませた。タイヤとアスファルトが激しく摩擦し、焦げた臭いと耳障りな音が立つ。
横道は狭い一方通行だった。暴走するバンに轢かれないよう逃げる歩行者に、シャラマンは胸中で謝り続けた。
横道を抜け、再び大通りに出る。ディーノのナビゲーションを頼りに進み、バンは西方面ハイウェイに乗った。
「もう追いついてきよったで」
リアガラスからうしろを見張っていたマックスが警告を発した。
「ここが勝負のしどころや、おっさんキバれよ」
口調はぶっきらぼうだが、彼なりに檄を飛ばしたつもりらしい。
ハイウェイの直線道路は障害がない分、逃走には有利である。だがそれはすなわち、敵にとっても有利になるということだ。
追跡者たちはスピードをあげ、みるみるうちに接近してきた。ついに発砲攻撃も始まり、バンの車体が何箇所も被弾した。
カーチェイスに慣れてきたシャラマンだが、発砲にはさすがに肝を冷やした。が、逆に発奮したのがマックスである。
「おーおー、ようやっと撃ってきよったか! こうでないとなあ!」
なにがそんなに楽しいのか、シャラマンには理解できない。
「シャラマンさん、やれますか?」
抑えた声色でディーノが尋ねた。ハイウェイに乗ってすぐ、シャラマンは彼からひとつの作戦を伝えられた。それを実行する覚悟があるかと訊いているのだ。
正直なところ、うまくやれる自信はなかった。しかし、弱気になっている場合ではない。
「ああ、やろう、大丈夫だ」
「よっしゃ、いきましょう」
ディーノの広い手が、励ますようにシャラマンの肩に置かれる。
シャラマンはバックミラーとサイドミラーを何度も覗き、追跡車両がどのくらい近づいているのか確認した。いまや両者の間に他の電動車はなく、いつ体当たりを喰らわせられてもおかしくない。
バンが非分離車線区画を通りがかった。その瞬間、シャラマンはハンドルを思いきり左に切った。かけたブレーキでタイヤが怪鳥のごとく吼える。
上下車線を区切る緑地帯に乗り上げ、樹脂ポールを薙ぎ倒し、傾いた重心のせいでバランスを崩しそうになりながらも、シャラマンは反対車線への移動を成功させた。
この強硬手段は想定外だったようだ。追跡者たちも慌てて方向転換しようとしたが、無駄だった。バンが急カーブを決めた直後、マックスがハンドガンで追跡車両のタイヤを撃ち抜き、パンクさせていたからだ。
シャラマンは内心で興奮していた。映画の中でしか見られないカーアクションを、自分はやってのけたのだ。研究しか知らなかった、こんな自分が。とても信じられない。
思わず笑い出したくなる衝動をどうにか抑え込み、シャラマンは運転に集中力を戻した。
シャラマンたちのバンは、来た方向を猛スピードで戻り、やがて無事、東方面のハイウェイに乗り入れた。
カムリアン地方の入り口は、北、東、南の各エリアへと続くハイウェイを結ぶ、大きな十字路になっている。たいていの通行者はこのハイウェイを利用するのだが、混雑を避けて旧道三三五号線を選ぶ者もいる。あまり知られていない三三五号線は、北と東に伸びており、カムリアンとは狭い一本道だけで繋がっていた。この道から南へ出るルートはない。
ディーノのナビゲーションで、三三五号線まで車を走らせたシャラマンは、広い路肩を見つけて停車させた。
エンジンを止めた途端、緊張の糸が切れ、シャラマンはハンドルに突っ伏した。両手が震え、膝が笑っている。首の付け根が痛い。急ターンを成功させたときの高ぶりはとうに治まり、追っ手を捲けたことに安心して意識が遠のきそうだった。
「シャラマンさん、大丈夫ですか?」
シートのうしろから、ディーノが心配そうに声をかけた。
「ああ……なんとかね。もう二度と車は運転しない」
嘆息まじりに答えたが、うまく発音できてない気がする。
「ビビリの堅気にしたら、ようやった方ちゃうの。Jターンでも決めとったら大したもんやったけどな」
けらけら笑いながらシャラマンの肩を叩くのはマックスである。
「さてと、どこぞのアホンダラどもとはお別れできたし、ここらで事情聴取といこうやないか」
陽気な口調から一転、マックスは脅すように華麗な巻き舌を披露した。
「おっさん、どういう理由で俺らを拉致ったんか話してもらおか。追ってきよったんはどこの連中や。何が目的や」
マックスはディーノを押しのけ、運転席のシート越しにシャラマンを睨みつけてきた。学生のような童顔なので怖くはないが、言葉遣いのせいか迫力がある。
「わ、わかっている。きちんと順を追って話そう。ともかく場所を」
変えよう、と続けようとしたとき、後部座席のドアが開け放たれた。一瞬、車内が緊張感に包まれる。
開かれたドアの外に立っていたのは、サイファーだった。マックスが「うわ、モサ男や」と呟く。
「サイファー、無事だったか」
「ようシャラマン、よくもまあ逃げ延びられたもんだな。で、“モサオ”ってのは俺のことか?」
「髪がモサモサしとるのはお前だけやろ」
まったく物怖じせず、マックスが堂々と答えた。サイファーは鼻を鳴らすと、身をかがめてバンに乗り込んだ。しかも、マックスとディーノがすでにいる座席にである。
「よっこらせと」
「よっこらせちゃうわ! お前が乗ったら狭なるやんけ! うしろ行けやうしろ!」
マックスが抗議の声を上げたが、サイファーはおかまいなしだ。ただでさえ長身のディーノもいるというのに、彼以上に体格のいいサイファーが増えたことで、座席はぎちぎちの鮨詰め状態になった。
「だ、大丈夫かね、君たち?」
シャラマンは首をうしろに巡らせた。左右の窓際に長身の男が二人、真ん中に小柄な男が一人。窮屈そうにぴったりはまっている様子は、傍目にも暑苦しい。
「これが大丈夫に見えんのかワレ」
巨体に挟まれたマックスが、不機嫌も露に呪詛を吐く。ディーノは少し困ったような顔をするだけで、文句は言わなかった。サイファーに至っては、一切を気にしていない様子である。
「ま、まあ……無事に合流できてよかった。場所を移動して、落ち着いてから話し合おう」
シャラマンの提案に、ディーノが挙手した。
「そんなら、この先にドライブインがあるはずですよ」
「よく知ってるね。ではそこへ行くとしよう」
マックスが目を見開いて叫ぶ。
「むさい男四人でメシとか、何の拷問や!」




