音の支配者
三人を乗せた電動車が去っていく音を、サイファーは背中で聞いていた。
ただの科学者であるシャラマンが、玄人の追跡からどれだけ逃げ続けられるかわからないが、最悪捕まっても殺されることはないはずだ、とサイファーは考える。シャラマンの頭脳は、〈VERITE〉にとっても貴重である。組織の科学開発班に加えるべく、以前から彼の行方を追っていたのだ。
後部座席に押し込めたうるさい二人組については知らないが、あれだけ威勢がいいなら、ただで捕まりはしないだろう。
ともかく、逃げ延びていさえすれば、あとで合流できる。サイファーのゴーグルは、シャラマンによる改良で、特定対象物の追跡機能が加えられた。これでシャラマンの車の進行を追うことが可能だ。
「あなたが誰かを助けるなんて、想像もしてなかったわ」
唐突に女の声がした。
予想とは違う人物の登場に、サイファーは少々意外に思った。見えない目の代わりに、熱感知と声を頼りに相手の位置を確認する。
その女は、サイファーから七、八メートル離れた所に立っていた。八頭身のプロポーションにボディスーツを纏い、背中までの長さの髪をなびかせている。
「助けてるわけじゃない。面白そうだから付き合ってやってるだけだ」
サイファーが肩をすくめると、女――パーセフォン・レイステルは、険しい顔つきで小さくため息をついた。
パーセフォンはサイファーと同じ、〈処刑人〉の一人だ。彼女の細胞装置は攻撃特化型ではないが、かといって油断していい相手ではない。
「サイファー、あなたシャラマン博士と何をする気?〈観測所〉を探っているようだけど、それで私たちに対抗してるつもりなの?」
「さあな。何がしたいのかはシャラマンに訊けよ。俺はお前らが何をしようがどうでもいい。世界征服でもなんでも勝手にやってろ。ただし、俺の邪魔さえしなけりゃな」
パーセフォンの囁きのような舌打ちは、しっかりとサイファーの耳に届いた。
「私たちが求めているのはそんなものではないと、あれほど説明したでしょう? 支配は手段でしかない。わからない?」
「あいにくと学がないもんでな。ソニンフィルドのご高尚な思想とやらは、まったく理解不能だね。お前らと〈政府〉、やってることは変わりないだろ」
パーセフォンの口から、呆れたような二度目のため息が漏れる。
「あなたに理解を求めるのは、そもそも間違いだったようね」
「今さら何言ってんだ。で、そっちはどうなんだ。あの二人組を狙う理由は、〈観測所〉の情報を流出させないためなんだろ、おおかた」
〈VERITE〉は大陸各地に諜報員を放っている。主な活動は政府が絡んだ場所や事案の調査だが、大陸全体の情勢を把握するためでもあった。
当然〈観測所〉にも早々と目をつけ、諜報員を潜伏させているはずだ。
「それもあるわ」
パーセフォンは、はぐらかくことなく頷いた。
「でも、シャラマン博士にもいろいろと訊きたいことがあるの。それと、あなたもよ、サイファー」
「男を四人も必要とは、欲求不満か、え?」
サイファーのやや下品なからかいを、柳に風と受け流したパーセフォンは、肩にかかった髪をうしろに払った。
「〈VERITE〉に戻って、サイファー。これは命令よ」
「命令? ソニンフィルドか? それとも副官殿か? どっちでもいいが、戻る気はないぜ」
「あなたの意思は関係ない」
パーセフォンが身体を斜めに構えた。彼女が動いたのを気配で察したサイファーは、太い首をぐるりと回し、筋肉をほぐす。
「冷たいことをいうじゃねえか、え?」
「私たちのもとに戻りなさいサイファー。あなただけでなく、いずれ残りの連中にもそうしてもらうことになるのだから」
「嫌だね」
サイファーは袖をまくって右腕を上げ、パーセフォンに掌を向けた。盲目であっても、相手の立ち位置を把握するすべはいくらでもある。ただしパーセフォンに対しては、これから厄介なことになるだろうが。
サイファーの右腕が細胞装置〈ハイドラ〉によって金属化し、五つの管手に分裂する。それらの管手は環状に収束し、五つの銃身を構えるガトリングガンへと変貌を遂げた。
対するパーセフォンの肉体にも変化が起きている。胸の高さに掲げた細い腕が、サイファーと同様に金属化したのに加え、ぴたりと揃えた指先が伸びて結合し、ブレードを形作っていた。
「ま、実力行使してみることだな」
「ええ、そのつもり」
パーセフォンが軽やかに大地を蹴った。そのあるかなしかの微音をとらえたサイファーは、彼女の動きを追うように銃身を向け、ガトリングガンを放つ。
火花を伴って射出される砲弾が、破壊音を轟かせて周辺に炸裂する。ボディスーツ姿のパーセフォンは、サイファーの周りを巡るように走り、華麗な身のこなしでことごとく砲弾を躱した。
砲撃から逃げつつもパーセフォンは、徐々にサイファーとの距離を詰めようとしている。回避動作の隙間を縫って、腕の先のブレードからエネルギーショットを撃ち、サイファーの油断を誘おうとしていた。
パーセフォンの狙いを始めから察しているサイファーは、砲撃の手を緩めず、熱感知と音でエネルギーショットを回避した。
追手がパーセフォンだと分かったそのとき意外に思った理由は、彼女が支援型のマキニアンだからだ。電撃の具象装置を持つ〈ハイドラ〉のような細胞装置と、真っ向から打ち合うには戦闘力が足りない。
しかし、パーセフォンがサイファーを捕らえるために、そもそも正面衝突する必要はないのだ。
サイファーのガトリングガンを、身軽なパーセフォンは余裕で躱し続ける。砲撃は彼女の代わりに周辺器物を破壊し、破片や埃を盛大に巻き上げた。
パーセフォンがサイファーの背後に回る。片足を軸にして素早く振り返った直後、サイファーの赤いゴーグルをエネルギーショットの閃光がかすめた。ゴーグル全面に熱反応が表示され、目標が感知不可になった。
その一瞬のうちに、彼女が接近した。
彼我の距離は約五メートル。パーセフォンの顔の両サイドにアンテナが出現し、オレンジ色の光のラインが点る。
サイファーの目にその変化は見えないが、パーセフォンに接近を許した時点で、何が起こるか予測はついた。
サイファーはかすかに舌打ちしたが、音は聞こえない。自身の発する音だけではない。周辺の環境音すべてが消失している。
パーセフォンの細胞装置〈カエキリア〉の消音フィールドが発動しているのだ。
彼女のスペック〈カエキリア〉の最大の機能は音操作である。〈ハイドラ〉や〈イフリート〉などの攻撃特化型に比べ、前線戦力には心もとない。だが、生体とも密接な関係のある音を操作し、戦局を有利に運ぶ点においては、非常に重要な役割を担っている。
野生動物以上に五感の優れたメメントにとって、音操作は致命的ダメージに直結する凶器だ。
視力を失ったことでその他の感覚が研ぎ澄まされたサイファーにも、同じ作用があるといえる。ゆえに、パーセフォンはサイファー確保要因として最適なのである。
〈カエキリア〉の消音フィールドの有効範囲は、ブースターがなければせいぜい半径十メートル程度。だが相手が一人ならば、それで充分だ。
耳が痛くなるほどの無音空間に立たされたサイファーは、熱反応とかすかな空気の流れで、パーセフォンの居場所を探る。
背後でわずかに空気が動いた。サイファーは即座に踵を返し、ガトリングガンの腕を振り下ろす。
サイファーの背後に迫っていたパーセフォンが、両腕を交差してそれを受け止め押し戻し、ミドルキックを放つ。
サイファーはその足を掴んで止めた。が、パーセフォンは掴まれた足を軸にして、サイファーの横顔に回し蹴りを見舞った。
倒れずに踏みとどまったサイファーは、右腕のガトリングガンを五本の管手に戻して電流を纏わせ、パーセフォンに向けて射出。
パーセフォンは素早くサイファーから離れ、多頭竜のごとくうねりながら迫る管手を回避する。躱しながら彼女は、両腕のブレードを駆使して攻撃も試みる。パーセフォンのブレードと接触するたび、〈ハイドラ〉が纏う電流が紫の閃光を散らした。
消音フィールドの効力のせいで、激しい対決は静寂の中で繰り広げられた。
管手の一本を弾き飛ばして隙を作ったパーセフォンが、右腕をサイファーの顔に向けて真っ直ぐ突き出した。ブレードは指の形状に戻り、更に長く伸びる。
伸ばされた彼女の指が、サイファーの顔に巻きついた。ゴーグルの視界を塞がれ、熱感知が頼りのサイファーの視野が奪われる。
わずかな空気の流れが、サイファーにパーセフォンの動きを辛うじて読ませた。彼女の左のブレードが迫るのを察したサイファーは、左腕を振り上げて紙一重で払いのけ、切っ先が身体に突き刺さるのを防いだ。
すかさず繰り出したサイファーの右拳が、パーセフォンの鎖骨付近を殴打。追い討ちをかけた正面蹴りが彼女の胴にヒットし、豪快に後方へ吹き飛ばす。
顔を掴んでいた手が離れるや否や、サイファーは自らもバックステップを繰り返し、パーセフォンとの距離を空ける。
唐突に周辺の音が復活した。〈カエキリア〉の消音フィールド圏外に出たのだ。ゴーグルの熱感知は正常に作動し、蹴りをくらって屈みこむパーセフォンの輪郭をした熱反応を、ディスプレイに表示している。サイファーは再び〈ハイドラ〉のガトリングを起動させ、容赦ない砲撃を彼女に浴びせた。
直後、パーセフォンの周辺で大量の煙が発生した。パーセフォンの姿は、たちまち煙の中に消えた。
(なんだ……?)
事態を訝しんだサイファーはガトリングを止めた。砲撃で舞い上がった土煙とは違う。姿をくらませるために、パーセフォンが煙幕弾を使ったのか? だが、彼女は〈ハイドラ〉の機能をよく知っている。煙幕では熱感知からは逃れられない。
ふと、ゴーグルが煙幕そのものの熱を感知していないことに気づいた。そして、煙の向こうにいると思い込んでいた彼女の輪郭も。
(ただの煙幕じゃないのか)
眉間にしわを寄せたその瞬間、背後から急速に迫る気配を察知した。
サイファーが振り返るのと、接近していたパーセフォンが跳躍したのはほぼ同時。サイファーの広い肩に飛び乗ったパーセフォンは、しなやかな両足で彼の首を絞めると、対格差をものともせずに投げた。
サイファーの長身が、弧を描いて地に落ちる。地面に叩きつけられる間際、瞬時に受け身をとったが、続く攻撃は避けきれなかった。気配だけを頼りに、何かが来ると察したサイファーは、とっさに右横に転がる。しかし、鋭く伸びて硬化したパーセフォンの爪が、左の頬と耳をかすめた。
数回転がって、サイファーは身を起こした。膝立ちのまま、パーセフォンの位置を探る。顔の左を濡らす血と痛みは無視した。この程度なら、マキニアンにとっては“負傷”の範疇に入らない。放っておけばすぐに塞がる。
接近していたはずのパーセフォンは、今や近くにいない。ゴーグルのディスプレイには、何の反応も表示されていない。
(ゴーグルのセンサーに引っかからないだと?〈カエキリア〉にそんな機能があったか?)
サイファーの記憶する限りでは、ない。だが〈VERITE〉にはクロエ・シュナイデルがいる。シャラマンの助手だった彼女なら、改良を加えるなどたやすいだろう。
それとも他に小細工でもあるのか。
「私があなた相手に、何も対策をとらないと思って?」
ふいにパーセフォンの声が聞こえた。声の反響から位置を割り出そうとした。が、声は四方八方から跳ね返り、発声源が掴めない。これも〈カエキリア〉の力だ。
音を頼りにできないなら熱反応しかないのだが、パーセフォンの姿は、いまや完全に周囲に溶け込んでいた。
わずかでも状況を把握しようと、神経を研ぎ澄ませた。一瞬、空気に動きがあった。サイファーが反応したときには、すでにパーセフォンが間合いに踏み込んでいた。
強烈なハイキックと回し蹴り、ブレードと爪の猛攻が続く。聴覚と視覚を封じられたサイファーは、パーセフォンが動くたびに流動する空気を、肌で感じとるだけで精一杯だ。辛うじて回避しているものの、この状態ではすべての攻撃は防げない。
消音フィールドの効果で周囲は無音、さらにパーセフォンの体温も検出されない。パーセフォンの“サイファー対策”は周到だった。
(そういうことか)
かつてのチームメイトから浴びせられる激攻に耐える中、サイファーはからくりに気づいた。
パーセフォンはボディスーツを着用している。おそらく、そのスーツの表面温度を、周辺環境の気温に応じて調整できる機能があるのだろう。そうすることで環境に紛れこむことができ、熱感知から逃れられる。
単純であり、小賢しくも有効な手段だ。こと、サイファーに対しては。
己が持つ能力を余すところなく駆使して戦う。たとえその能力が、人によっては“卑怯”と受け取られるようなものでも、サイファーには関係なかった。
相手が誰で、どんな攻撃を仕掛けてこようが、こちらも全力で応じるだけだ。
身体能力を活かし、得た能力で思う存分戦いに臨む。その時間、その高揚感。
戦場こそが、己の生きる世界だと、サイファーは強く実感する。
口元が自然と緩んだ。




