懺悔では足りない
十年前、〈パンデミック〉の影響を受け、東でトワイライト・ナイトメアが誕生したように、西側でも何かが起きていたのではないか。そう推測したのはレジーニだけではなかった。
元〈イーデル〉の研究員にして、マキニアンの“生みの親”。〈細胞置換技術〉の開発者、アンドリュー・シャラマンもまた、同じ考えに至っている。
〈パンデミック〉を生き延びてから今日まで、シャラマンは模索し続けてきた。この先起こるであろう“災厄”から、一人でも多くの人類を救う方法を。
そのためには、シャラマンでさえまだ到達していない、メメントの真実を解き明かさなければならなかった。
そして、メメントの真実に迫るには、ある人物の行方――もしくは存在確認――が必要だった。
七月、アトランヴィル・シティ第九区での一件の後、エヴァンたちの前から姿を消したシャラマンは、再び探索の旅に出た。
エヴァン・ファブレル――養子として迎えるはずだった青年。唯一にして最後の希望。ようやく会えた彼のそばにいたかったが、シャラマンにはシャラマンなりにやらねばならないことがある。
それに、今エヴァンの近くにいても何も出来ない。彼らが抱える疑問点のいくつかには答えられるだろうが、それだけだ。そばにいても出来ることがないのなら、離れた所でやれることをやるしなかい。これまでのように。地道な探索行だが、シャラマンには他に術がないのだ。
大陸西エリアのカムリアン・シティを訪れたのは、〈観測所〉と呼ばれる政府管轄施設を調べるためである。この施設は十年前、地震が起きたあとに建てられたもので、しかもその位置は、〈パンデミック〉跡地の同緯度線上にあるのだ。メメントや〈アダム〉と無関係とは思えない。
心強いことに、今度の旅には同行者がいる。彼が何を考えて同行を承諾したのか、頼んでおきながら疑問に思うシャラマンだが、ともかくも、彼の存在が大きな助けになることは間違いない。
事実、裏社会の知識のある彼なくしては、〈観測所〉の情報を持つ人物の居場所までたどり着けなかっただろう。
*
「おいシャラマン、今の聞いたか? 俺たちは歓迎されているらしいぜ」
サイファー・キドナは口の端を歪めた。彼の目は赤いレンズのゴーグルに覆われているので、表情の全体は分からないが、おそらく皮肉っぽく笑っているのだと、シャラマンは判断した。
サイファーは皮肉を好む。自分自身も皮肉を言うし、言われることも楽しんでいる。
だがシャラマンは、サイファーの皮肉に便乗するつもりはなかった。
「歓迎……とは一体、どういうことでしょうか、神父様」
シャラマンは聖職者に対する敬意を忘れず、穏やかな口調で尋ねる。シャラマンとサイファーの二人が、この廃れた教会堂を訪れることを、彼が事前に知っていたとは思えない。何しろ二人は、ただそこへ行けと言われただけで、詳しい事情も分からぬままやってきたのだから。
シャラマンは数歩前に進み出る。
「私たちは、ある情報を求めて、ここデヴォナを訪れました。ようやく掴んだ手がかりは、『ニサリア教会堂裏手の廃堂へ行け』というものでした。あなたは我々が来ることをご存知だったのですか?」
教壇の上の若き神父は、鷹揚に首を振った。
「いいえ、存じません。しかし私は、間違いなくあなた方を……あなたを待っていたんです。この五年間、ずっと」
神父は何かを請うように、片腕を上げ、こちらに向けて伸ばした。その腕が示す先には、サイファーが立っている。
神父の意図が分からないシャラマンは、戸惑いつつ、サイファーと神父を交互に見た。
マキニアンであるサイファーは、海兵隊時代に赴いた戦地で、焼夷弾の光を浴び、目が見えなくなった。細胞装置による聴覚強化と、シャラマンが改良したゴーグルのおかけで、音や空気の機微、熱感知による周辺状況確認は可能だが、神父の細かな動きまでは分からなかったかもしれない。
シャラマンはサイファーに小声で教えた。
「神父は、君を示している。君を待っていたというが、知り合いか?」
「そんなわけねえだろう」
にべもない返答のあと、サイファーは自ら神父に問うた。
「おい神父さんよ。俺を待っていたそうだが、どういう意味か説明してもらおうか」
神父は口をつぐみ、目を閉じた。だがそうしていたのはほんの数秒ほど。目を開けた彼は、静かな歩みで教壇の前に移動した。その手に銃が握られているのを見た瞬間、シャラマンの心臓はどきりと跳ね上がった。
「ご心配なく。あなた方を撃つためのものではありません。私の話を聞いてくださいますか? そうすれば分かるでしょう」
なだめるように微笑んだ神父は、シャラマンたちの承諾を得ることもなく語り始めた。
本名をサム・ヘインズリーといい、彼が神に仕えるまで、どこで何をしていたのか。今、何のためにこの教会にいるのかを。
話が進むにつれ、足から力が抜けていくのを、シャラマンは感じていた。淡々と告白を続ける若き神父が、かつての軍部精鋭〈ブラスター〉の一人であり、あの〈パンデミック〉を引き起こしたマキニアン一掃作戦の場にいたとは。
〈イーデル〉に勤めていたシャラマンは、あの日あの時、中央研究室にいた。突然の襲撃に、シャラマンを含む非力な研究員たちは抵抗するすべがなかった。だが〈ブラスター〉の標的はマキニアンのみで、研究員らは拘束されただけで済み、その後、国防研に移送された。
怒号、断末魔、嘆き、諦め。あの場に飛び交っていた数々の叫びが、シャラマンの耳に焼きついて、今もなお、彼を苦しめている。ふとした時に耳の奥で蘇り、悪夢にうなされる夜も珍しくない。
よろめいたシャラマンは、参拝者用の長椅子の背もたれに手を置き、なんとか身体を支えた。
「私はあの時ほど、自分を呪ったことはない。私がオートストッパー機能を提案したのは、一般人をマキニアンから守るためであると同時に、マキニアンを守るためのものでもあったんだ」
マキニアンの能力は凄まじい。異形メメントに対抗するための破壊力が、万が一にも人間に向けられたとき、凄惨な結果になるのは自明の理だった。
軍部の兵をも圧倒するマキニアンが、恐怖の対象として見られれば、そこに不協和音が生じるだろう。
軍部兵とマキニアン、双方が足並みを揃えてこそ、真の世界平和への道が開ける。マキニアンを生み出す〈細胞置換術〉の開発者の責任として、シャラマンが提案・実施したのが〈オートストッパー機能〉だったのだ。
これでマキニアンが、非武装者に対して細胞装置を振るうことはなくなる。つまり、無闇に他者を傷つけることのない、友好関係を築ける存在だと認めてもらえる。甘い理想だと知りつつも、シャラマンはそう信じた。
ところが、シャラマンがどんな願いを託したとしても、それはまったくの無駄だった。結局政府は、マキニアンを危険分子と見なしたのだから。
もしオートストッパーの枷がなければ、マキニアンたちはむざむざ殺されることもなかっただろう。その代わり大量の軍部兵が、マキニアンに殺されただろうけれど。
どちらにしても、結末は血にまみれた地獄だ。
「あなたはもしかして、マキニアンの開発者、アンドリュー・シャラマン博士なのですか?」
ヘインズリーに尋ねられたシャラマンは、頷くことで肯定した。
「そうでしたか」
神父は短く呟き、目線を床に落とした。
彼にも言い分はあろう。自分と同じように、悔恨の念をぶつけられる場所を見出せないまま、もがき苦しんだに違いない。〈ブラスター〉の一員としてマキニアン一掃作戦に携わったからといって、 シャラマンには、サム・ヘインズリーを恨む気にはなれなかった。罪なら、自分も充分すぎるほど背負っている。
二人の男が後悔の念に苛まれている中、当のマキニアンであるサイファーだけは、冷静さを保っていた。彼はヘインズリーに対する怒りをあらわにするでもなく、小指で耳の穴を掻いている。
が、そのうちつまらなそうに鼻を鳴らすと、手探りで近くの長椅子に座った。やや首を傾けたのは、音や声をよく聞こうとするときの彼の癖だ。
「はッ、気に入らねえな。要するにテメェ、マキニアンのこの俺に、自分を殺してもらおうって腹か? それで罪をチャラにしたいのか。だから“歓迎する”なんだろう、え?」
マキニアン部隊〈SALUT〉の中で、もっとも高い能力を持つ十一人を〈処刑人〉という。〈処刑人〉ともなれば、メンバーの顔を軍部に認知されていてもおかしくはない。
サイファーは、その〈処刑人〉に最後に加入したマキニアンだ。この廃堂に入った瞬間、ヘインズリーがサイファーをマキニアンだと見抜いたのは、ひとえにヘインズリーが元軍部兵士で、〈処刑人〉のメンバーの顔を覚えていたからなのだろう。
「おい神父、このクソ野郎。そいつァちょっと虫がよすぎるってもんだぜ。テメェを殺るのは訳ないが、それで晴れるのはテメェの気分だけだろう。神父の真似事してりゃ、あの世でカミサマの膝に乗せてもらえるとでも思ってンなら、勘違いもいいとこだ」
「ええ、分かっています。私の願いは、とても身勝手で無責任です。でも、それを承知で願うのです。私は……一人では死ねないのだから」
神父の言葉の意味が分からず、シャラマンはサイファーの方を見た。が、当然のようにサイファーからの反応はない。
すると神父ヘインズリーは、おもむろに左手を胸の位置まで上げ、掌を開いた。そして銃を握る右手も上げると、左手に銃口を向け、躊躇うことなく引き鉄を引いた。
銃声が堂内に響き渡り、シャラマンの耳を劈く。床に落ちた薬莢がカランと鳴り、硝煙と鉄の臭いが鼻先をなぞった。
突然の出来事に、シャラマンはただただ唖然とするしかなかった。サイファーはまったく動じていない。見えないとはいえ、銃声が聞き分けられなかったなどということはないだろうに、銃が使われたことにすら関心を示していないようだ。
「な、なんということを! あなたは一体何を……!」
手当てをするつもりで――といっても、大した救急用具は持っていないが――駆け寄ろうとしたシャラマンを、ヘインズリーは左手をかざして制した。たった今、自ら銃で撃ちぬいたその手を。
足を止めたシャラマンは、ヘインズリーの左手に目が釘付けになった。
神父の左手の中心は、銃弾によって痛ましい穴が開いてしまっている。穿たれた穴は血にまみれ、床に赤い雫をぼたぼたと滴らせていた。出血のあまり、銃創が見えなくなってしまうほどだ。
だが、ヘインズリーはまったく表情を変えない。痛みなど感じていないかのように、平然としている。
「見てください、これを」
神父は懐からハンカチを取り出し、かざした左手の血を拭った。白かったハンカチは、みるみる赤く染まっていく。
これほどの出血を、たった一枚のハンカチで止めることは不可能だ。しかし――。
ヘインズリーは血まみれのハンカチを床に落とすと、再びシャラマンに左手を見せた。
血が拭い取られた掌には、傷ひとつなかった。銃弾が貫通した痕跡など、一ミリも残っていない。
シャラマンは目を見開き、ヘインズリーと掌を交互に見つめた。絶句したままのシャラマンに代わり、ヘインズリーが口を開く。
「私の身体は、人間のものではなくなったのです。始めはもっと時間がかかっていました。しかし日が経つにつれ、徐々に治癒にかかる時間が短くなっていきました。この程度の傷なら、数秒で癒えてしまいます。もはや痛みも感じません」
「あ、あなたは、モルジットに侵されているのか」
震える声で、やっとそれだけ言えたシャラマンだった。
「てことは、神父、テメェは死んだらメメント行き決定ってことだな」
不謹慎にも楽しそうなサイファーの物言いに、シャラマンは顔をしかめた。
モルジットは、生物の死骸に宿るものだとされてきたが、必ずしもそうとは限らない。
単純に、死骸の方がモルジットが侵蝕しやすく、その場合、死後は確実にメメント化する、というだけだ。
生きながらにしてモルジットに侵されることもある。しかも、前例は少なくない。
生きたままモルジットに侵蝕された生物がたどる道は、実はいくつかに分かれている。
最もレベルの高い変異体は〈融合者〉という。生物本来の細胞や遺伝子が、モルジットと完全に融合した状態で、肉体変化を起こさず、なおかつ生物の方がモルジットを支配しているケースだ。
融合者は生来の肉体を保つ代わりに、特殊な能力を得る。能力の発現には個体差があるが、共通するのは「生体パルスへの干渉能力」だ。
生体パルスはメメントの情報伝達手段である。そこに干渉できるということは、意図的にメメントに指令を下すことも可能であり、必然的にメメントの支配階級に立つことになる。他にも能力覚醒例はあるが、融合者そのものの数は極めて少ない。
生物とモルジットが融合しながらも、モルジットが優位に立った場合、生物の肉体は死後変異を起こし、別の存在と化す。こちらは〈適合者〉と呼ぶ。
適合者は更に二つのパターンに分かれる。メメント化する〈コラプション〉と、自我を持つ〈共生体〉である。
共生体は、コラプション同様に死後変異し、生前の生態を失ったものの、自我と個性を備えた生命体として確立したケースである。
共生体の特徴は様々で、メメントのように人間を襲う者もいれば、まったく興味を示さない者もいる。特徴の極まった例が、かのトワイライト・ナイトメアなのだ。
適合者がコラプションとなるか共生体となるかは、あるレベルのモルジット侵蝕段階に達したとき、確率と個体差によって決定する。
モルジットの侵蝕レベルは、大きく七段階ある。
第一に、自然治癒力の上昇。この時点では、軽症程度なら瞬時に癒えてしまう。
第二に、身体機能の上昇。運動能力が飛躍的に強化される。
第三段階で、再び自然治癒力が高まる。このレベルになると、もはや致命傷さえたちどころに治ってしまう。よほどのことがなければ――例えば脳に重大なダメージを負うなどがない限り、死ににくい身体になってしまうのだ。
そして、コラプションか共生体かの分岐点は、この第三段階にある。結果は、死亡しなければ判らないという、残酷なものだ。どちらにせよ、すでにヒトとしての安らかな死は得られない。
かつての同僚、フェルディナンド・メイレインは、対メメント用の武器クロセストの開発者だった。
クロセストは、モルジットを徹底研究・解析することで編み出したものだ。フェルディナンドは、その研究のノウハウをもとに、肉体中のモルジットを排出させる薬を作り上げていたそうだ。
ただし、モルジットが侵蝕しきっていない状態でなければ効果が出ない。第一段階の症状が表れた時点で、何の役にも立たなくなってしまう。
シャラマンが思うに、薬は未完成なのだ。フェルディナンドは志半ばで命を奪われ、彼の後継者もいない。友の遺志はシャラマンが受け継ぐことも出来たが、〈イーデル〉のような専門的な研究設備が整っていなければ、高度な薬を作り出すことなど、到底できるものではない。
サム・ヘインズリーは、すでに第三段階に達している。融合者となる確率が極めて低いとなれば、自我なき化け物になるか、自我はあれども人外の何かになるか。運命はその二つしかない。
ヘインズリーは、すっかり傷の癒えた左手を見つめている。
「メメントが、生物の死骸が変異したものであることは、もちろん知っています。自分の身に起きた異変を知ったとき、私の頭の中にあったのはメメントのことでした。私は死んだら化け物になるのだと、それしか考えられなかった」
ヘインズリーは視線を上げたが、瞳は澱んで虚ろだった。
「死後にメメントとなるのであれば、何の対策もなしに自害できない。メメントと化した私を倒す手段が用意されていなければ、周辺の人々を手当たり次第に襲ってしまう。だから私は一人では死ねず、クロセストを持つ者か、あなたのようなマキニアンが訪れてくれるのを待つしかありませんでした」
サイファーは嘲笑うかのように、ふんと鼻を鳴らした。
「元〈ブラスター〉のテメェが、わざわざ政府管轄にある〈観測所〉の近くにいる理由ってのは、その〈観測所〉の存在を探り当てたマキニアンが来る可能性に賭けたからか。ずいぶん気の長い話で」
「それでもこうして、あなた方はここにやってきた。天のお導きです」
「うるせえ、そんなわけがあるか。クソッタレな天だか何だかが人間世界に興味持ってるなら、そもそも俺たちが必要になるような世の中にはなってねえだろうよ。テメェがそうなったのは自業自得だ。哀れみが欲しけりゃ、部屋に篭もってテメェで慰めてろ」
サイファーの辛辣な物言いに、ヘインズリーは苦笑する。
「ええ、あなたの言うとおり、自業自得です。私など、何をどうしたところで許されはしない。仲間だけでなく、子どもを殺したのだから」




