TRACK-1 光、あるいは影 2
メメントと呼ばれる異形が存在する。
闇に潜み、命あるものを襲い喰らう、忌むべき脅威である。
それらがいつどこで、どのようにして誕生したのか、明らかにはなっていない。
メメントに関して判明していることは、ほんのわずかだ。
それらは、人類にとって恐るべき敵であること。
それらは、あらゆる生物の屍骸が変異したものであること。
変異の原因は、モルジットと呼ばれる不可視の物質の働きによるものであること。
モルジットは生物の屍骸を、生前とは異なるまったく別の生命体に変えてしまう物質だ。この世界に在るどの物質とも似ていない、さりとてウィルスとも違う、未知なるモノであった。
モルジットの正体を突き止めようと、〈政府〉の研究機関〈イーデル〉では、長い間研究が重ねられてきた。が、その本性を暴くことは叶わなかった。
代わりに〈イーデル〉の研究者たちは、メメントを倒すための手段を編み出した。
それが、モルジットを調べる課程で生成した、新たなる物質“クリミコン”で創り上げた武器〈クロセスト〉である。
クロセストは、様々な効果を発生させる“具象装置”システムを内蔵しており、これによってメメントを屠る。
クロセストの使用を許されていたのは、軍部所属のとある部隊のみであった。だがその部隊は、十年前に消滅した。
現在は新たに結成された特殊チームが、秘密裏にメメント駆除の任務にあたっている。もちろんクロセストを駆使して。
しかし――。
軍部以外で、密かにクロセストを行使する者たちが、社会の裏側にいた。
二体のステガノプスが、レジーニの前後を囲んだ。どす黒い舌を出して、口の周りをべろりと舐めている。舌先から粘度のある唾液が垂れ、床に落ちた。すると、じゅっという音がして、唾液の落ちた箇所が焦げた。
その様子を見ていたレジーニは、片眉をくいっと上げる。だが、怯んではいない。
彼は前方のステガノプスを冷ややかに見据え、後方にも神経を尖らせる。剣のグリップに仕込まれた発動器をONにすると、〈ブリゼバルトゥ〉の刀身に蒼い光が宿った。
剣の周りに、ダイアモンドのような氷の粒が纏わりつく。怪物殺しの機械剣が、その真価を発揮しようとしていた。
前方のステガノプスが、奇声をあげて跳躍した。腕を伸ばし、レジーニの頭上に鋭い爪を振り下ろす。
レジーニはその攻撃を〈ブリゼバルトゥ〉で受け止めた。ステガノプスが着地した瞬間、剣を引いて胴を薙ぐ。しかし同時にステガノプスが後方に跳んだため、与えた傷は浅かった。
ところがメメントは、けたたましい叫び声をあげながら、胴を掻き毟り始めた。浅いながらも斬りつけられたその痕が、凍りついて痛みを刺激しているのだ。
背後から気配を感じたレジーニは、とっさに右に身体を避ける。後ろから覆い被さらんと跳びかかった二体目のステガノプスが、標的を失い体勢を崩した。
レジーニは無駄のない足運びで、素早く立ち位置を変え、ステガノプスの右腕を斬り上げた。
胴から断ち切られた腕が、天井まで吹き飛ばされた。片腕になったステガノプスは、おぞましい絶叫を上げてよろめく。後方に回り込んだレジーニは、無防備な背中に〈ブリゼバルトゥ〉の一閃を喰らわせた。
背中の斬り口は一瞬にして黒く爛れ、メメントが苦痛の絶叫を上げた。〈ブリゼバルトゥ〉の刀身は、まさしく氷の如く冷たく、触れるものを凍りつかせる。ステガノプスの体細胞は、斬られた瞬間に破壊され、壊死したのだ。
のたうちまわる二体のメメントを、碧眼で見据えるレジーニは、しかし油断せず敵との間合いを確保した。
ステガノプス自体は大した脅威ではない。注意すべきは、あの酸の唾液だ。皮膚にかかれば火傷は必定である。ではどうするか。
使わせなければよい。
一体目のステガノプスがこちらに向かってジャンプし、一気に間合いを詰めた。着地と同時に、鋭い爪を勢い任せに振り回す。レジーニはその攻撃を〈ブリゼバルトゥ〉で難なく受け流した。
ステガノプスは腕を弾き返されてもしつこく攻め続ける。しかしパターンが単調なため、次の動きは容易に読めた。
メメントの動作が徐々に粗くなる。腕の振り幅が大きくなり、隙だらけになってきた。爪の先すら当たらないことに苛立っているのだろう。
(そろそろか)
レジーニは碧眼を細め、次の一手が仕掛けられる瞬間を待った。
ステガノプスの手が〈ブリゼバルトゥ〉を掴む。憎き獲物を捕らえたとばかりに雄叫びを上げたメメントは、大口を開けたまま背を反らした。喉元を膨らませ、何かを吐き出そうとしている。
そこに生じた一瞬の隙。レジーニは〈ブリゼバルトゥ〉を掴ませたまま、メメントの方へ踏み込んだ。メメントは背を反らしていたため、体勢が崩れ、その場にとどまりきれなかった。
レジーニはステガノプスに〈ブリゼバルトゥ〉を放すタイミングを与えず、ダッシュをかける。逃れられないメメントはレジーニに押され、そのまま壁際に追い詰められた。
壁が近くなったところで、レジーニは剣を引き、メメントの腹に回し蹴りを喰らわせた。ステガノプスの背が壁に衝突したと同時に踏み込み、〈ブリゼバルトゥ〉を敵の顔面中央に突き立てる。泥のようなメメントの体液が噴き出し、後ろの壁に飛び散った。
ステガノプスが断末魔の怒声をあげ、全身を痙攣させる。〈ブリゼバルトゥ〉から冷気が放出され、剣を突き立てた部分から急速に凍りついていった。ステガノプスは他のメメントに比べて体内水分量が多いため、氷結速度が速かったのだ。
おぞましいメメントの氷像が完成した。レジーニが横に払うように剣を引き抜くと、氷像の頭部は木っ端と砕けた。頭部に入った亀裂はたちまち全身に行きわたり、像は無惨に崩れ落ちた。
メメントの最期を見届けることなく、レジーニは体勢を変えながら左手で剣の柄頭を握った。柄頭は本体と分離し、その先端には蒼い冷気のナイフが光る。
レジーニは振り返りざまに氷のナイフを投げた。ナイフは真っ直ぐに飛び、レジーニに迫ろうとしていた片腕のステガノプスの左目に、吸い込まれるように突き刺さった。
片腕ステガノプスが狂い叫びながら、目を抉るナイフを取ろうともがく。レジーニはがら空きになった胴を、〈ブリゼバルトゥ〉で容赦なく貫いた。
ステガノプスの絶叫が途絶え、口から長い舌がだらしなく垂れ下がる。舌の先を酸の唾液が伝う。〈ブリゼバルトゥ〉の冷気が、メメントの胴体を凍らせていく。
最期の足掻きだろうか。片腕ステガノプスが震える腕を伸ばし、レジーニの腕を掴もうとした。
水かきの生えた手がスーツの袖に触れる寸前、レジーニはメメントの左目に刺さったナイフと、〈ブリゼバルトゥ〉を同時に引き抜いた。
ナイフを本体に戻し、剣先でメメントを、とん、と突く。
凍ったメメントは抵抗なく傾き、床に倒れた瞬間ガラス細工のように粉砕した。
砕け散ったメメントは、分解消滅により硫黄の臭いを放つ蒸気と化す。その様子に冷めた一瞥をくれたレジーニは、
「スーツに触るな。FABIANのオーダーメイドだぞ」
お気に入りのジャケットの襟を、すっと正すのだった。
かつて。
メメントの駆除を執行するのは、軍部に属するとある一部隊のみであった。
隊員は皆、〈細胞置換技術〉という特殊なナノテクノロジーにより、身体機能を強化されていた。言い換えれば、その技術によって強化された人間だけで構成する部隊として結成されたのだ。
その身体細胞は、細胞装置と呼ばれる一種のナノマシンに置き換えられている。細胞装置は個体差に合わせて設定された〈スペック〉に基づいて分子構造をコントロールし、隊員の肉体を様々な武器に変形させるのである。武器への分子変換のみではなく、基本的な身体能力も驚異的に飛躍する。
まさしく超人たちが集っていた、その部隊の名は〈SALUT〉。所属する強化戦闘員の名称は〈マキニアン〉という。
彼らをマキニアンたらしめんとする細胞装置は、クリミコンで生成されている。つまり彼らは、ヒトの姿をしたクロセスト、と言っても過言ではない。
マキニアンたちの使命は、人類の敵であるメメントを駆逐すること。
ただそのためだけに、彼らは生み出された。すべては〈政府〉の意志決定による計画だった。
しかし――。
自分たちの世界を守らせるために生み出したマキニアンという存在が、いつか〈政府〉を脅かす危険因子となるのでは、と危惧した〈政府〉保守派は、身勝手にも部隊壊滅を企てたのである。
そうして、今から十一年前。軍部の正規陸軍による「マキニアン一掃作戦」が決行された。
作戦執行当時、一体何が起こったのか。
多大な犠牲者を出し、メメントを大量発生させる引き金となり、のちに〈パンデミック〉と呼ばれるようになるその日に、本当は何があったのか。
極秘作戦であったため、軍部には詳細な記録が残されておらず、真実を知る者はいない。
ただ、〈政府〉の狙い通り〈SALUT〉は消滅し、部隊を管理していた〈イーデル〉も解体され、国家防衛研究所――国防研に吸収された。
マキニアンという存在は、闇の中に消え失せたのである。
だが。
滅びてはいなかった。
コンビニエンスストアの散らかった棚の間を、エヴァンは足取りも軽やかに歩く。
埃だらけの店内を無防備に歩いている姿に、警戒している様子は微塵も感じられない。
スナック菓子コーナーの棚の前に来た時、彼は足を止めた。
にやり、と不敵な笑みを浮かべた次の瞬間。前方と後方の棚陰から、二体のステガノプスが飛び出した。
二体は牙を剥き、爪を振り上げ、エヴァンを挟み撃ちにしようと仕掛けてきた。
エヴァンは避けようともせず、二体が突き出した腕を、それぞれ片手だけで容易く掴んで止めた。
メメントたちは掴まれた腕を引き離そうと暴れるが、エヴァンは微動だにしない。
「へー、挟み撃ちかよ。いい度胸じゃん」
エヴァンは両腕を大きく振り、二体のステガノプスを逆方向に投げ飛ばした。二体のメメントは宙に舞い、棚を薙ぎ倒して地に落ちた。
間髪入れずダッシュしたエヴァンは、立ち上がりかけたメメントを猪突の勢いで蹴り倒し、そのままマウントポジションを決めた。
紅い鋼鉄の右拳を、組み敷いたステガノプスに見せつけるように高らかに掲げる。鉄拳は炎に包まれ、敵を砕き散らさんと燃え上がっていた。
「はい、お口“あーん”して!」
言うや否や、灼熱の拳をメメントの顎に叩き込んだ。たちまち頭部全体が炎に巻かれる。肉を焼き、体液を蒸発させる厭な臭いが、周囲に立ちこめた。
頭部を燃やされるステガノプスが、けたたましい断末魔を響かせた。が、すぐに静かになった。エヴァンの細胞装置〈イフリート〉の業火によって、その頭部が焼け落ちたからだ。
「いっちょ上がり!」
ものの一分足らずで敵一体を倒したエヴァンは、気を良くして口笛を吹いた。
立ち上がりざま、身体を軽く左に捻って半回転する。直後、さっきまでエヴァンがいた位置に、もう一体のステガノプスが天井から降ってきた。
いなくなった獲物を捜して、ステガノプスが方向転換する。エヴァンは逃げることなくその場に立つ。メメントに睨まれても、ひょいと肩をすくめるだけだった。
メメントがエヴァンに向けて威嚇の咆哮を上げる。
「お。お前やる気あるな」
対するエヴァンは口の端で笑うと、右の人差し指を曲げて挑発を返す。
双方は同時に駆け出した。先に攻撃したのはステガノプスだ。凶器である爪でエヴァンの目や喉元を狙い、両腕を鞭のようにしならせる。その動きは闇雲であるが、腕が振られるたび風を切る音が立つほどだ。常人ならば軌道を捉えるのも困難だろう。
だが、マキニアンであるエヴァンにとっては、ステガノプスの動きを見ることなど造作もないことだった。むしろ遅いくらいである。
メメントの連続攻撃を、エヴァンは腕を使って的確に防ぐ。弾き、受け流し、押し返し。一見すると防戦に徹しているようだが、軽快なフットワークで後退しつつ、実は相手を自分のペースに引き込んでいた。
防いでいるように見せかけ、その合間合間に小技を返す。返すたびに前進。そうなると、メメントの方が退くことになる。これを繰り返し、メメントのペースと呼吸を乱すのだ。
敵が決めの一手を繰り出す瞬間、それが反撃の合図だ。
ステガノプスが繰り出した渾身の突きを潜り抜け、瞬時に懐に入り、右フックを顎に喰らわせた。メメントの顎が砕かれて歪み、牙が数本、弾丸のように飛んでいった。酸の唾液も飛び散り、付着した棚や壁を焦がしたが、エヴァンはそれを見ていなかった。
メメントがよろけたところに、隙を与えず踏み込んで、ボディにパンチの連打を浴びせる。腹に強烈な一打を与えた時、ステガノプスが苦痛で身体を折り曲げた。
鋼鉄の紅き右拳に炎光が宿る。かがみ込んで繰り出されたアッパーは、歪になったメメントの顎をとらえた。燃え盛る一撃は、怪物を天井まで吹き飛ばす。
落ちてきた時には、その肉体はすでに炭化しており、床に衝突するや煙のように霧消した。
「っしゃ! 絶好調!」
勝利のガッツポーズをとるエヴァンの背に、氷のような声が投げつけられた。
「何が絶好調だ。あと一匹はどこへ行った」
振り返ってみると、カフェとコンビニエンスストアを繋ぐ入り口に、レジーニがもたれかかっていた。
「おー、そうだった。五匹目がいたっけ」
相棒に指摘されたエヴァンは、茶色混じりの金髪頭を掻きながら、あたりをぐるりと見渡し、
「あ、いた!」
窓の外を指差した。
店の照明に照らされた薄闇の中に、ステガノプスの後ろ姿があった。飛び跳ねるような動きで、充電場の向こうへ走っていく。
「逃がすかよ!」
エヴァンは壊れた窓から外へ飛び出し、逃走する最後の一体を追いかける。
その様子を、レジーニはただ見ているのみである。
彼が見守る中、薄闇の充電場にまばゆい火の塊が生じ、弧を描いて吹き飛んでいった。
落下した時、炎とは違う光が閃いた。
次の瞬間、凄まじい轟音とともに爆発が起こった。爆音で地面が揺れ、熱風がガラス窓や棚を振るわせた。
充電場は炎に包まれ、星の瞬く夜空に向かって紅い柱を昇らせる。
その炎柱の側から「うひょーう!」という能天気な声が聞こえてきた。
「あの馬鹿猿め。外から目立つようなことは起こすなとあれほど……」
苦虫を噛み潰したような表情のレジーニは、へらへら笑いながら戻ってきたエヴァンの顔に、仕置きの蹴りを与えたのであった。
この世には表と裏がある。
一般人が暮らす社会のその裏には、知られざるもう一つの世界が広がっている。
裏社会に生きる者たちは、己が培ってきた能力を活用し、生計を立てていた。
ある者は情報を売り、ある者は強奪品を卸し、ある者は何かを運び、ある者は命を奪う。
そしてある者は、恐るべき怪物と戦う。
希少な武器を操り、もっとも過酷な道を選んだ彼らは、こう呼ばれている。
〈異法者〉と。