TRACK-4 死を悼む象 11
見慣れた部屋に入った途端、リカの口から自然とため息が出た。ここまで来れば安心だという思いと一緒に、全力疾走の疲れがどっと押し寄せる。
くたびれた足を引きずり、重たい腕をなんとか動かして、服を脱いだ。クローゼットから着替えを引っ張り出す。ずっと替えたかった下着を替え、フード付きのチュニックとショートパンツという、リラックスした部屋着姿になると、少しだけ解放されたような気になった。
ベッドに身体を投げ出し、しばしうつぶせになっていると、少しずつ気持ちも落ち着いてくる。身になじんだ部屋の匂いが、リカを日常に連れ戻してくれるようだ。
枕の上で顔を横向きにし、長いため息を吐いた。そのまま何をするでもなく、反対側の壁をぼうっと見つめる。スーとおそろいで買った壁掛けリースが、ちょうど視線の延長線上にある。
気持ちが落ち着いてくると、しでかした事の重大さが、罪悪感を伴ってリカにのしかかってきた。
レジーニの車を勝手に降り、必死に走って、公共交通も利用して、ホーンフィールドの自宅まで逃げてきてしまった。
今頃彼は、リカを捜しているかもしれない。それとも、言うことを聞かない小娘などには、愛想が尽きただろうか。
どの道リカは、助けてもらった恩を、仇で返したも同然だ。失望されても仕方がない。
「あああああーーーー……、やっちゃった……」
リカの安全のためと言われても、訳が分からないまま、見知らぬどこかへ軟禁されるのは怖い。どうすることもできない事態に手足を縛られ、あちらへこちらへと引きずり回されている気分だった。
自分をどこかへ閉じ込めようとしたのが、長年再会を夢見てきた“王子様”だという事実も、リカを打ちのめした。
リカの特殊な力を求めて、やってくるかもしれない何者かから守るためだと、彼は言った。
だが、六歳で能力目覚めてから十数年、誰かに狙われたことなど一度もない。
だというのに、今さら「狙われるかもしれないから、どこかへ隠れていてくれ」と言われても、分かりましたそうします、などと素直に頷けるものではない。
もしここでおとなしく軟禁に応じれば、「自分は普通ではない」ということを認めることになる。
いや、普通でないのは重々承知の上だが、それでも今日まで異能を隠し、普通の女の子として生きてこられたのだ。この先も隠し通せないとは限らないではないか。
追っ手のことも、狙われるかもしれないのであって、確実に狙われていると確定していないのだから。
だから、このまま今までどおり、普通に暮らしていればいいのだ。
(だけど……)
リカは寝転がったまま、顔を顰める。
レジーニの主張も理解できた。仮にリカが狙われるのなら、事が起きてしまう前に手を打つべきなのだ。彼は冷静に状況を読み、判断を下したに違いない。
来るかどうかも分からない追っ手への恐怖。
見知らぬどこかへ閉じ込められてしまう不安。
憧れだった人の強引な行動と、勝手なことをして申し訳ないという気持ち。
安易な想いで、あの人を捜しだそうとしたのが、そもそも間違いだったのでは。
様々な思いと感情が入り乱れ、一度は落ち着いたかに見えたリカの心は、また安定感を失いつつあった。
枕の側に置いた携帯端末が鳴りだす。いきなり耳元がやかましくなって、リカは飛び上がった。
まさかレジーニでは。一瞬そんな考えが頭を過ぎり、電話に出るのがためらわれた。
おそるおそる端末画面を見てみると、表示された発信者名は、よく知る人のものだった。リカは安堵と脱力のため息をつき、端末を耳にあてる。
「もしもし、ママ?」
はきはきとした、切れのいい声が返ってくる。
『リカ? よかった、出てくれて。もう少しで切るところだったわよ』
母イザベルの声を聞くのは、夏休みに第六区の実家に帰って以来だ。電話不精なリカだが、母の声を聞くとやはり安心する。
「ちょっと寝てたから。で、どうかしたの?」
『娘がなかなか電話をくれないから、こっちから掛けたのよ』
母の意地悪い物言いに、リカは苦笑した。
「ごめん、分かった。もうちょっと電話するから」
『どうだかねえ。まあいいわ。あのね、今日の午後、あなたのところに行く予定だったでしょ』
すっかり忘れていたスケジュールを、その一言で思い出した。イザベルが午後にこちらに来る約束を、先週していたのだった。時刻を確認すると、もう正午前だ。
『急で悪いけど、予定はキャンセルよ。ママのお友だちのオリーさんがね』
「オリーおばさん?」
『そう。彼女が怪我しちゃって入院したのよ。だからお見舞いに行ってくるわ』
「そうなの? 怪我の具合は?」
『さほどひどくはないそうよ。だけどほら、うちと同じで母子家庭でしょ。高校生のお嬢さん一人を家に残すわけにはいかないから、入院中はうちで預かろうかと思うの。リカの部屋、使ってもらうけど、いいわよね?』
オリーおばさんとは、幼い頃から仲良くしてもらっていた。リカは、母イザベルと二人だけの家族だ。母親同士が友人で、家庭環境も同じとあって、お互いに支えあってきたのだ。
オリーおばさんの娘シアナとは二つ違いで、子どもの頃よく一緒に遊んだものだ。活発でしっかり者の女の子だが、たしかに、何日も一人だけで夜を過ごさせていい年齢ではない。
「もちろん、シアナに使ってもらって。オリーおばさんの入院は、どのくらいになるの?」
『一ヶ月くらいって話よ。だから、あなたもこっちに帰ってきて、お見舞いに行ってあげなさい。顔を見せたら喜ぶわよ』
「そうだね、うん。でも……」
優しく朗らかなオリーおばさんの顔が、頭の中に浮かんできた。すぐにでも行く、と答えたいところだが、リカの口は躊躇した。
昨日の日中までなら、一瞬の迷いもなかっただろう。だが、事態が変わるのは、いつだって突然だ。
「ごめん、ちょっとごたごたしてて……その、レポートとか立て込んでるから、すぐには行けそうにないの。でも、絶対に帰るから」
母親に嘘をつくのは心が痛む。
母の顔を見ることが出来れば、きっと気持ちは安らぐに違いない。けれど、今は実家に帰るべきではない。そんな予感がしてならなかった。
『分かったわ。オリーにはちゃんと話しておくわね。心配しないで、やるべきことをきっちり済ませてから、こっちにいらっしゃい』
「うん。……ねえ、ママ」
もうしばし母の声を聞いていたくて、リカは何か話題を振ろうとした。真っ先に思いついたのは、自分自身のことだった。
「話は変わるんだけど、私、小さい頃、なんか変じゃなかった?」
『変って、どういうこと?』
「えっと、どういえばいいのか。例えば、他人には見えないものが視える、とか言ったりしてなかったっけ」
イザベルはくすくすと笑う。
『ああ、そんな時期はね、誰にでもあるのよ。誰だって小さい頃には“架空のお友だち”を創りあげるものなの。ママにも“フローラ”って子がいたわ。お花の国のプリンセスだったのよ』
フラワーデザイナーの母らしいが、尋ねているのは、もちろんそういうことではない。が、それ以上掘り下げるのはやめた。
リカは母親にも、能力の存在を隠し通してきた。今さら打ち明けて心配させたくはない。
『どうして急にそんな話を?』
イザベルが理由を訊くので、リカは慌てて話題を切り替えた。
「んー、別に意味はないんだけどね。それにしても、一ヶ月の入院って大変ね。ママの時も大変だったんだろうな」
『ママの時って?』
「私がうんと小さい頃、入院してたでしょ? もうほとんど覚えてないけど、病院のベッドにいるママの姿だけは、なぜか頭に残ってるの」
幼い時期の記憶とは、出来事の全容が残っていることは稀である。たいていは出来事の一部分だけが、鮮明な写真のように切り取られて、記憶の抽斗にしまわれている。
リカのもっとも古い記憶の一つに、「病院のベッドに横たわる母の姿」があるのだ。いつ頃のことなのかも、入院した理由も覚えていないが、母はひどくやつれていたように思う。
イザベルは、すぐに返事をしなかった。沈黙が続くので、どうしたのか尋ねようとリカが口を開いた時、母の声が返ってきた。
『それはママじゃないわ。あなたが覚えているのは、別の人よ』
「え、そうなの?」
思ってもみなかった事実だ。
『ずっと前に話したけど、覚えてるかしら。ママには双子の姉さんがいたの。リカが見たのは、その双子の姉さん、アンジェラよ』
言われてやっと思い出した。そう、母イザベルは双子だったのだ。
母の姉――リカの伯母アンジェラは、病気で長い間入院生活をしていた。会うのはいつも、病室のベッドの上。母と同じ顔をした、やつれた女の人だった。
伯母が亡くなったのは、いつのことだっただろうか。
「そっか。私、ずっとママだと勘違いしてたんだ」
『そうね。あなたは小さかったし、双子だから、間違って覚えててもしかたないわね』
姉を思い出したからだろうか。母の声が、少し沈んだように聞こえた。リカは申し訳ない気分になり、来週には実家に帰ると約束して、電話を切った。
リカは携帯端末をサイドボードに置き、もう何度目かになるため息をつく。
母との電話を終わらせた途端、部屋の中は静かになった。窓からは、町の音が風に乗って入ってくるけれど、BGMというには雑すぎる。
(風……?)
はっと顔を上げ、窓を見る。淡いシルキーブルーのカーテンが、かすかに風に揺れていた。
(窓……、いつ開けた?)
昨日出かける前、戸締りはしっかり確認したはずだ。
部屋に帰ってきてからは、真っ先に着替えてベッドに飛び込んだ。それ以外は、まだ何もしていない。
(いつから開いてたの?)
心臓が、どくんと跳ね上がる。
窓を閉めなければ。リカはベッドから降り、窓に駆け寄ろうとしたが、足が震えてよろめいてしまった。
倒れる寸前、どこからか腕が伸びてきてリカを支えた。
ぎょっとして顔を上げると、見知らぬ男が目の前にいた。アシンメトリーの髪にパンクスタイルの、痩せぎすの男である。
反射的に悲鳴を上げようとした時、男の手がリカの口を塞いだ。彼はそのままリカの背後に回り、細い腰にもう片方の腕を回して、逃がさないよう抱えた。
リカの悲鳴は、男の手に阻まれて、もごもごという呻き声にしかならない。恐怖で動悸が激しくなり、呼吸が荒れる。
逃れようと必死に身をよじったが、まったく効果はなかった。男はリカにも負けないほど痩身であるが、腕力はかなりのものだ。
「あまり手荒なことはしたくない」
淡々とした男の声は、羽交い絞めにされているせいで、リカの耳にかかる。
「首を縦に振るか、横に振るかで答えろ。君は〈融合者〉か?」
出来るだけ大きく、首を横に振った。融合者などという言葉、聞いたこともない。
男のかすかな舌打ちが聞こえた。
「生体パルスに干渉する力を持ちながら、しらばっくれても説得力はない。今のは肯定と判断する」
リカは激しく首を横に振った。本当に何も知らないのだと訴えているのに、男は非情だった。
「来い」
男はリカを拘束したまま、窓辺に引きずっていく。リカは足をばたつかせたり、口を塞ぐ手を殴りつけたり、せいいっぱい抵抗したが、男の腕を振り払うことは出来なかった。
窓に近づいていく。目に滲んできたものが、視界をぼやけさせた。
(本当だった。あの人が正しかったんだ)
リカを狙う者は本当にいたのだ。何が目的なのか知らないが、この男はリカのアパートを突き止め、侵入し、どこかへ連れて行こうとしている。
連れて行かれた先で何をされるのか、考えたくもない。
(全部、あの人の言うとおりだった)
彼は最初から最後まで、リカの身を案じていた。
シャイン・スクエア・モールで「自分に関わるな」と言ったのは、踏み込むべきでない領域に踏み込ませないため。
どこかへ匿おうとしたのは、今まさに起きている事態を回避するため。
それなのに、リカは彼の忠告を聞き入れず、勝手に突っ走った挙句、身を滅ぼそうとしている。
(ごめんさない……ごめんなさい……)
今さら謝っても遅い。
窓はもうすぐそこだ。男はリカの腰に回していた腕をほどき、窓枠を掴んだ。
リカはすかさず暴れたが、男は口を塞いでいる手一本だけで、リカをたやすく拘束し続ける。
その時、玄関のベルが鳴った。
素早く反応した男が振り返る。リカもまた、玄関ドアを凝視した。
二度三度、ベルが鳴らされたあと、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「リカ、いるかい」
一瞬、耳を疑った。ドアに阻まれて、少し声色は違って聞こえるが、声の主は――。
(レジーニさん!)
彼がいる。彼が、ドアの向こうにいるのだ。
リカは口を塞がれたまま、出来る限り声を出した。言葉とは言えない、音だけの発声だが、叫ばずにはいられなかった。
「助けて」なのか「逃げて」なのか、どちらを叫んでいるのか、自分でも分からない。ただ、ここにいることを、彼に知らせたかった。
「おとなしくしろ」
暴れるリカを、男が再び羽交い絞めにする。リカは一層激しく抵抗し、声をあげ続けた。
そうしていると、頭の奥で何かが弾け、閃光が散ったような感覚にとらわれた。
散った光は、リカを中心に、外へ向けて放出していく。そんな漠然としたイメージが視えた気がしたが、すぐに意識の彼方へ消えていった。
ドア越しに、リカを呼ぶ声が続いている。彼がまだ、そこにいるのだ。
男が、リカの口を塞いでいない方の腕を、ドアに向けて真っ直ぐに伸ばした。
次にリカが見たのは、目を疑う光景だった。男の手首から先が、砂のような微細な粒状に変形し、ドアの方へ漂っていったのである。
男の一部だった砂は、ドアの下のわずかな隙間に潜り込み、外側へ出て行った。数秒の間を置き、男が呟く。
「二十代後半から三十代過ぎくらいの男か。……あの男か」
砂は間もなくこちら側に舞い戻り、男の手首に集結していった。
「さて、どうするべきかな……」
男の手首が元に戻った次の瞬間、激しい破裂音が響き渡り、玄関ドアが乱暴に開かれた。




