TRACK-4 死を悼む象 8
かの有名な神出鬼没のモーターサイクルチーム〈イモータル・フィンガーズ〉がハイウェイで大行進する時、他の車やバイクは、まるで申し合わせたかのように路肩へ寄り、道を譲るという。
それはさながら、神の御業によって割れる海のようであり、大陸全土にその名を轟かせる巨大チームが、王者の風格を見せつける、一種の奇跡だった。
彼らの御幸には警察さえも敬意を払い、取り締まりを見逃す、などとまことしやかに囁かれているが、さすがにそれは眉唾だろうというのが、一般的な認識である。
たとえ相手であろうとも、堅実に職務を果たさんと日々精進する警察諸氏には頭が下がる思いだが、もしよろしければこの場は見逃してもらえないだろうか、とエヴァンは声を大にして言いたい。
ハイウェイではなく一般道路を西に向かって爆走している、ガルデとエヴァンを乗せたバイクは、目下パトカーとの追いかけっこの最中だった。
流線型のバイクは、法定速度を当然のようにオーバーしながら、車と車の間をびゅんびゅんすり抜けていく。ガルデの巧みなハンドル捌きで、辛うじて接触は免れているものの、同乗者のエヴァンとしては気が気でない。
車はもちろん避けてはくれない。名高き〈イモータル・フィンガーズ〉でもないただの暴走バイクに、払う敬意などありはしないのだ。
背後には二台のパトカーが張りついており、しきりと停止命令を繰り返している。が、それに従うガルデではない。
「おいガルデ! パトカー来てるぞパトカーが!」
エヴァンは後ろを振り返り、二台のパトカーがすぐそばまで迫っているのを見て、ガルデの肩を叩いた。
声はヘルメットに内蔵された無線で届いているはずだが、ガルデは振り返りもしない。アクセルグリップを回し、更に加速した。バイクは空気を切り裂くような快音を轟かせ、パトカーを突き放す。
「おいおいおいおいおい、やべーんじゃねえの? これ、スピード違反で捕まるってヤツじゃねえの?」
免許を持っていないエヴァンにだって、そのくらいは分かる。
『そこの二人乗り、止まりなさい。ただちに端に寄って停車しなさい。これは命令です』
パトカーから、再び停止命令が下された。追われはじめてから再三受けた警告だが、当然ガルデはことごとく無視している。
「なあ、このまま追っかけられてると、ちょっと面倒なことになるんじゃねえか?」
『停止命令をすべて無視してますからね。次の命令を受け流せば、停止した途端に逮捕ですよ』
ガルデは後方に一瞥をくれ、バイクを最右レーンに寄せた。
『ですが、止まれません。エヴァン、次の出口でハイウェイを降りるんでしたよね』
「そうだけどよ、お前のバイク、ナンバー記録されたんじゃね?」
パトカーに搭載されたカメラが、しっかりと車両ナンバーを撮っているはずである。そのナンバーを手がかりに、警察はガルデやエヴァンの身元を割ることが可能だ。
それだけは避けたい。あとで相棒に知られたら、と考えるだけで、エヴァンの背筋は凍りつく。
そんなエヴァンの心配をよそに、ガルデは、
『大丈夫です。ナンバーからは、俺の身元に辿り着かないようになってます。それに、警察中央庁にコネがありますから、どうにかなります』
しれっと答えた。
「警察にコネって……お、お前! いつからそんなワルい人間みたいなことを言うようになったんだっ!」
『大きな目的のためには、多少目をつぶらなくてはならないこともあります! あなたも今は裏社会に生きる身なら、このくらい覚悟しててくださいっ!』
きっぱりと言い放ったガルデは、ハイウェイの出口が近づくや、ハンドルを大きく切って出口に突っ込んだ。
二台のパトカーはまだ追ってくる。
(ごめん、おまわりさん! コイツ本当はいい子だから! 今ちょっと暴走してるだけだから! だからご勘弁!)
エヴァンはただただ、心の中で謝罪するしかないのである。
*
「なるほど、墓場屋敷ね」
くびれた腰に両手をあて、寂れた黒煉瓦造りの廃墟を見上げるドミニクは、呼び名の由来に納得して頷いた。
朽ち果て、人の寄りつかなくなって久しい建物は、死んだも同然。つまり呼称通りの墓だ。
「まったく、あの子たちったら……」
うら若き少女が訪れるにふさわしくない場所だ。こんな所に呼び出した義妹たちに呆れていると、蝶番の壊れた玄関ドアから、二人の少女がひょっこり顔を出した。
「い、いらっしゃ~い」
ひきつった笑顔で手を振るのはユイである。ロゼットは彼女の後ろにおり、ドミニクと目を合わせると肩をすくめた。
「なにが“いらっしゃい”ですか。誰も住んでないとはいえ、これは不法侵入ですよ」
ドミニクが眉をひそめてみせると、ユイは唇を尖らせた。
「しょうがないじゃないか、他に行くところがなかったんだから」
「しょうがない、ではありません。そもそもメメントを匿うだなんて、いったいどういう発想なの。ちゃんと説明なさい」
ユイは背後に顔を向ける。ロゼットが頷くと、観念したように頷き返した。
「わかった。でも、先に約束して。絶対になにもしないでね。ボクとロージーを信じて。いい?」
「ええ、信じます」
ドミニクは迷わず応じた。やることは突拍子もなかったが、義妹たちも愚かではない。なにか行動を起こすときは、彼女たちなりの考えがあるのだ。
ユイに手招きされ、ドミニクは墓場屋敷に足を踏み入れた。
中に入ると、なるほど、たしかにメメントの気配だけは感じられる。しかし、どこのあたりにいるのかは分からなかった。
義妹たちに案内されたのは、壊れたマントルピースの暖炉がある応接室だった。
使われなくなった部屋の奥のソファの、そのまた向こうの陰で、なにかがごそごそと蠢いているのが見える。その蠢くものがメメントであることは、もうドミニクにも分かった。
「オツベル、出てきていいよ。この人は味方だから。ボクらの義姉さんなんだ」
ソファの向こうの蠢くものに、ユイが声をかける。すぐには反応がなかった。
「大丈夫だってば。ねえ」
再度呼びかけると、ようやく動いた。
大きな風船が膨らむかのように、ソファの陰からむっくりと、それは起き上がった。
身の丈約二メートルの、黒いローブとマスクを装着した異様なメメントは、胸のあたりで両手をすり合わせ、居心地悪そうに巨体を揺らしている。その姿は、初対面の大人を前に、緊張して声も出ない小さな子どものようだった。
ドミニクは口を開け、目を瞬かせてメメントを凝視した。
敵意は感じられない。むしろ仕草と相俟って、怯えているように見える。衣類を着ていること、マスクをしていること、こちらを襲う気配がまったくないこと。それらすべてが、このオツベルと呼ばれたメメントと、これまで遭遇してきたものたちとが、まったく違う存在であることを証明していた。
先の電話での会話で、ここまでの経緯――ユイとロゼットがメメントを匿うに至った一連の出来事――は聞いていたが、いざ目の前にすると、マキニアンとしての闘争本能と、善悪を判断する基準とがごちゃ混ぜになって、ドミニクは思考力を手放したい衝動に駆られた。
「ね、おとなしいだろ? あんな子がひどい扱いを受けるなんて、我慢できなかったんだ。だから……」
弁解しようと口を開いたユイだったが、ドミニクは片手を彼女の前に掲げ、それを止めた。
皆まで言わずとも理解できる。好奇心と探究心に突き動かされて怪物を捕らえ、それを公衆の目に晒す人間。人外とはいえ危害を加えず、ただ怯えているだけの異形。両者が並んだとき、どちらが悪役になるかは、考えるまでもない。
「あなたたちの言い分は分かりました。それで、あのメメントをどうするつもりだったのです?」
ドミニクは、電話のときには聞けなかった疑問を、義妹たちに投げかけた。すると二人は顔を見合わせ、曖昧に首を傾げた。
「まさか、何も考えてなかったの?」
「だって……、オツベルを助けることしか頭になかったから。今後のことは、だからドミニクやみんなと相談しようと思ってたんだ。でも、ぜんぜん何も考えてないってわけじゃなくて、なんていうか、ボクたち協力し合えないかなって」
「なんですか、協力とは。ともかく、あとでじっくり話し合いますからね」
助けたあとについては無計画、ということは予想していたのだが、改めてそう言われると脱力してしまう。
話し合う、と言われた少女たちは、しょんぼりと肩を落とした。お説教からは逃れられないと、がっかりしたのだろう。
ドミニクは気をとり直し、数歩前に出た。オツベルはドミニクが動くと、がっしりした肩をびくっと揺らした。が、逃げようとはしない。
「はじめまして、ドミニクといいます。この子たちの保護者です。あなたは、オツベルとおっしゃるのですね?」
子どもに接するように、優しく話しかけた。するとオツベルは、もじもじと身じろぎして、ゆっくり頷いた。
「ハ、ハイ……、オツベル、ト、申シマス」
男のものとも女のものともつかない、野太い声が返ってくると、ドミニクは目を見開いて少女たちを振り返った。
人語を喋る、とまでは聞いていなかった。ドミニクの言わんとすることを察したロゼットが、「そういうことなの」とばかりに頷く。
「ア、アノ……。ゴ、ゴ迷惑ヲオカケシテ、大変、申シ訳アリマセン」
オツベルは巨体を縮こまらせ、蚊の鳴くような声で謝罪を述べた。
「オツベルは何も悪くないよ。だからもう謝らなくていいから」
ユイはオツベルに駆け寄り、ローブ越しに腕に触れた。小柄なユイは、オツベルと並ぶと、大木にしがみつく子リスのようだ。
「あなたは一体、どこから来たのですか、オツベル」
ドミニクは、ユイを見下ろすメメントに尋ねた。だが、それに答えたのはオツベルではなく、ロゼットだった。
「それ、私たちも何度か訊いたんだけと、ちっとも話してくれないの。この街にいる理由もね」
と、そのとき。屋敷の外から、けたたましい音が聞こえてきた。何者かの話し声もする。
少女二人はドミニクの顔を見た。「誰かが来た。どうしよう」と目で訴える義妹たちに、ドミニクは頷き「大丈夫」だと、アイコンタクトを送る。
連絡をしてからそう経っていないが、おそらくエヴァンが到着したのだろう。“連れ”も一緒にいるはずだ。
足音と気配が近づいてくる。出入り口に一番近いロゼットが、そっと応接室のドアを開けた。
「お、ロージー」
耳になじんだエヴァンの声だ。
「こっちよ」
ロゼットが手を振ると、間もなくして、扉の向こうからエヴァンが顔を出した。
エヴァンは部屋を見渡し、ドミニクとユイがいることを確認した。ユイの側の巨体に目を留めると、怪訝そうに眉を顰める。
そんなエヴァンを押しのけ、もう一人の青年が応接室に入ってきた。
青年の姿を見た瞬間、ドミニクの脳裏に様々な記憶が蘇った。
初めて会ったときも、最後に別れたときも、彼はほんのティーンエイジャー、まだ少年だった。
光の加減で金色にも茶色にも見える髪や、朝焼けにも似た東雲色の精悍な目はそのまま残して、少年だった彼は立派な大人になっている。
自然と目尻から滲み出てくる雫を、ドミニクは指先でそっと拭った。
青年はオツベルに気づくと、安堵したように表情を緩め、大股で歩み寄ろうとした。
「ああ、オツベル! やっと見つけた。今までどこでどうして……」
言いながら彼は、ドミニクの横を通り過ぎる。が、すぐに足を止め、振り返った。
青年は、南方大陸人特有の掘り深い顔で、じっとドミニクを見つめる。
ドミニクは微笑み、ゆっくり瞬きした。
「ガルディナーズ=ミュチャイトレル=ヌルザーン、久しぶりですね。私が分かりますか?」
青年――ガルデは、東雲色の目を大きく開き、ドミニクの前に立つ。あの頃より背も伸びたようだ。
彼は何か言おうとして、口だけはぱくぱく動かすものの、なかなか声が出ない。相反して、瞳はだんだん潤んでいく。
「ドミニク……マーロウ、……ですか?」
ようやくそれだけ言葉に出せた。
ドミニクは満面の笑みで頷き、ガルデに両手を差し出す。
途端、ガルデの双眸から涙が溢れた。とめどなく流れるそれを拭いもせず、ガルデはドミニクの胸に飛び込む。
やがて聞こえてきた嗚咽は子どものように無垢で、ドミニクはたくましくなった背中を抱き締めながら、金茶の髪を撫でるのだった。