TRACK-4 死を悼む象 6
「まったく、なんてこと……!」
エヴァンからの知らせを受けたドミニクは、携帯端末をソファに放ると、ウォークインクローゼットに飛び込んだ。
ほぼ真四角のウォークインクローゼットは、ドミニクたち三人娘が、共有で使っている。長年各地を転々としてきた彼女たちは、持ち物を最小限に留めてきた。そのため一般人女性のように、たくさんの着替えを持っていない。三人分の服を仕舞っても、収納スペースの三分の一にも満たなかった。
この先もこの街に住み続けるなら、少しずつ増やしていっていいかもしれない。クローゼットに入るたびに、ドミニクはそう思う。
男勝りなユイは、まだファッションに関心はないようだが、ロゼットは身なりに気を遣う子だ。二人とも年頃なのだから、普通の女の子のように――。
「いけない。考え事をしている場合ではないわ」
我に返ったドミニクは頭を振り、思考を払い落とした。
身体に巻いたタオルを無造作に剥ぎ取る。クローゼットの隅に立てかけたスタンドミラーに、見事なプロポーションの裸体が映し出された。豊かでハリのあるバストとヒップ。それらを強調するくびれた腰や腹は、積み重ねたトレーニングと戦歴によって鍛えられている。
女性なら誰しも羨むだろうその肢体に、適当に掴んだ下着をつけ、これまた適当に選んだ動きやすいカットソーと細身のパンツを着た。
「ガルデがこの街にいるなんて……、本当になんてこと」
端末画面に映し出された青年を思い出すと、目尻に温かなものが滲む。
気を失っていたとはいえ、十年振りに見たガルディナーズ=ミュチャイトレル=ヌルザーンの姿は、立派な大人に成長していた。
仲間が生きていてくれたのだ。これ以上の喜びはない。
ガルデを最後に見たのは、〈パンデミック〉の混乱からの脱出の時だった。
あの大混乱の中、ドミニクは幼いユイとロゼットを抱え、戦火の中を駆け抜けていた。ガルデも一緒だった。三人を護衛してくれていたのだ。
しかし、敵群に行く手を阻まれ、逃走経路が絶たれそうになった時、彼は自ら囮となって、ドミニクたちを逃がしたのである。
戻ってガルデを助けに行きたかったが、ユイとロゼットを連れていては、それも叶わない。後ろ髪を引かれる思いで、ドミニクは走り続けた。
逃走中、ガルデが追いついてくることも、他の仲間に出会うこともなかった。
ドミニクたち三人の放浪生活が始まったのは、それからである。
アパートを出て、エヴァンから教えられた場所に向かう。
(たしか、東側の大通りを……)
スカイリニアのステーションから、また更に移動しなければならなかったはずだ。
高架線路を辿っていくと、件のステーションが見えてきた。携帯端末の呼び出し音が鳴ったのは、ちょうどその時である。
発信者はユイだった。
『もしもし、ドミニク』
「ユイ? どうしたのです」
今日はロゼットと一緒に、クラスメイトの友人たちと遊びに出かけているはずだ。まだ午前中だというのに、どういう用件だろう。
『あ、あのさあ……今って時間ある?』
ユイの口調は、どこかおどおどしている。ドミニクは目を細めた。明朗快活なユイが、歯切れの悪い物言いをする時は、自分にとって不都合なことを告白しようとしている時だ。例えば、ドミニクに怒られるような何かを。
「時間ですか? まあ、少し込み入ってはいるけれど」
『あ、ほんと? じゃあ、話すの今じゃなくていいよね!』
義姉には時間の余裕がなく、苦い告白をしなくて済むと分かるや、ユイはあからさまに弾んだ声で返した。
ドミニクは、つんと顎を上げた。一刻も早くガルデに会いに行きたいのはやまやまだが、今ユイを見逃しては、後で追求した時に逃げられる。ここで甘い顔をしてはならない。
「ですが、義妹が相談があるという時に、そちらに時間を割けないほど私は薄情ではありません。何ですか? さ、おっしゃい」
『ええええええ? いやあ……忙しいならいいよお……。邪魔しちゃ悪いし』
「いいえ大丈夫。問題を先延ばしにするものではありません。お話し」
『あーーーーーーうーーーーーー……』
ユイはしばしぐずぐずと言い訳じみたことを並べ、なんとか逃げようと悪あがきを続けた。すると、ドミニクより先に業を煮やした者が、ユイの手から携帯端末を取り上げたようだった。
『もういい。埒が明かない。貸して』
ユイに代わって電話に出たのはロゼットだ。
「ロゼット? 一体何なのです?」
『ドミニク。用があるみたいだけど、こっちを優先してほしいの、緊急事態よ。あとでめいっぱい怒られる覚悟は出来てるから、今は落ち着いて聞いて。あのね……』
続くロゼットの話は、あまりに突拍子もない内容だった。
「なんですって!?」
思わず迸り出た叫びは、往来の人々の注目を集めるのに充分な威力を発揮した。
「どのくらいで来るかな」
エヴァンは呟きながら、携帯端末で時刻を確認した。ドミニクを呼び出して十分ほど経っている。着替える手間も含めて急げば、もうあと十分程度で来られるだろう。
エヴァンは目線を下げ、横たわるガルデの様子を伺った。まだ気を失ったままだが、ドミニクが駆けつけるより先に、目を覚ますかもしれない。
また勘違いで暴れられては困る。早く来い、と気が急くものの、今はどうしようもなかった。
「あ、そうだ。今のうちにレジーニにも電話しとくか」
向こうがいつまで経っても連絡してこないのなら、こちらから掛けるしかないだろう。
「ったくあの乱痴気メガネぇ。さんざん待たせやがって……」
相棒への文句をぶつぶつ積み重ねながら、端末を操作していると、視界の端で何かが動くのが見えた。
呻き声を漏らし、ガルデが目覚めた。両手を使ってゆっくりと起き上がった彼は、右手を額に当て、何かを払い落とすように頭を振る。
エヴァンは電話を掛ける手を止め、緊張の眼差しでガルデを見た。
「俺は、一体……」
自分の身に起こったことを思い出しているのだろう。ガルデは視線をさまよわせ、不思議そうに首を傾げている。
エヴァンはそんな彼に、恐る恐る声をかけた。
「ガルデ」
名前を呼ばれたガルデは、はっと息を飲み、エヴァンの方へ顔を向ける。眉間にシワが寄り、複雑そうな表情を浮かべ、じっと見つめた。
「なあ、ちょっとは冷静になれただろ? 俺が誰だか分かるよな?」
気の立った野良猫を相手にするように、エヴァンはそろりそろりとガルデに近づく。
「お前は、ラグナだ」
返ってきた答えに、やっぱりそうきたか、と落胆した。気を失わせても解除されないとは、なんと頑固な思い込みか。
「なぜ殺さなかった」
ガルデは疑わしげに、東雲色の眼を細めた。
「殺すわけねーじゃん、友達なのに」
「お前は違う」
ぴしゃりとはねつけられた。エヴァンは大げさにため息をつき、肩を落とす。
「なあ、俺をよく見ろよ。本当にラグナだと思うか?」
念を押すように問いを投げると、ガルデは困惑の表情を浮かべた。
「俺が氷漬けにされたの知ってたか? あれから俺は十年間眠ってた。目が覚めたのは、ほんの一年とちょっと前だ。で、目覚めた時、俺はエヴァン・ファブレルだった。ラグナはいなくなってた。まあ、あいつが完全に消えたわけじゃねえけど、今の俺がエヴァンだってことは間違いない。ドミニクが証明してくれる」
「ドミニク?」
ガルデの目が見開かれる。
「ドミニク・マーロウ? 彼女がこの街に?」
「いるよ。ここに呼んだから、もうすぐ来る。それからユイとロゼットも。覚えてるよな、あのちびっこ二人。すっかり大きくなって、今ジョシコーセーなんだぜ」
「シェン=ユイと、ロゼット・エルガー……」
呆然と名前を呟くガルデ。何かを思い出すかのように地面を見つめている。
「三人とも、骨が折れるくらい元気だ」
エヴァンはゆっくりと友人に歩み寄り、優しく語りかけた。
「眠らされる前に何かされたか、それとも氷漬けの影響なのかどっちか知らねえけど、俺、昔の記憶が曖昧になってんだよ。記憶が半分以上なくなってる。それでも覚えてることはあった。ドミニクやユイやロージーのこと。それから、お前のことも」
ガルデが顔を上げた。大きな瞳が潤んでいる。しきりと瞬きを繰り返し、目の前のエヴァンをじっと見つめた。
「彼女たちが、生きてここに?」
「ああ」
「あなたは、エヴァン……、なのですか?」
ようやくそう訊ねられ、エヴァンは苦笑しながら頷いた。
「そうだって、さっきからずっと言ってるだろ」
見開かれた東雲色の双眸から、小さな雫が落ちた。次の瞬間、腕を掴まれたエヴァンは、ものすごい勢いで引き寄せられ、逃げる暇もなくがっちりと抱きしめられた。
「ぐおあッ! ガルデ、くるし、きっつ、痛え!」
締め技と勘違いしそうなほどの力強い抱擁に、エヴァンは反射的にガルデの肩をタップした。
だが、ガルデの泣き声が聞こえてくると、抵抗するのをやめた。恥も外聞もなく、素直に泣く友人のために、エヴァンは少しの間我慢することにした。
数分後、落ち着きを取り戻したガルデは、ようやくエヴァンを解放した。窒息寸前の解放だったので、エヴァンは大きく深呼吸し、新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んだ。恋人のアルフォンセとさえ、まだあんなに熱い抱擁を交わしたことはない。
「すみませんでした。俺、てっきり、あの」
ガルデは泣きはらして充血した目を、ごしごしとこすった。顔が赤いのは、涙のせいだけではないだろう。激しい思い込みでさんざん勘違いした挙句、戦いをふっかけたのだから、恥じ入るのは無理からぬことだった。
肩を縮めて下を向いている様は、まるで叱られた猫である。頭に耳があったら垂れているに違いない。
「本当に、あの、すみません」
誤解が解けた途端おろおろし始めたガルデを、エヴァンは「まあまあ」と腕を振ってなだめた。
「いいっていいって、分かってくれたんならさ。そんな堅くなられちゃやりにくいから、な?」
「は、はい」
感情がはっきりしているガルデは、怒る時も泣く時も熱い。その分、落ち込んだら激しいが、立ち直りも早かった。
ガルデは自分の両頬を叩いて気持ちを入れ替え、改めてエヴァンと向き合った。
「エヴァン。またあなたに会えて嬉しいです。生きて再会できるとは思いませんでした」
「俺も嬉しいよ。お前、昔と全然変わんねーな。むしろ、ますます暑苦しくなってね?」
「そうですか?」
自分の熱さに自覚がないのも相変わらずだ。
「エヴァン、今までどこでどうしてたんですか? 凍結睡眠を施されたことは聞いてましたが、どうやって目覚めたんです? それにドミニクたちは?」
「そっちこそ、今何やってて、なんでこの街にいるんだ?」
エヴァンの脳裏にふと、ガルデも自分と同じように、どこかの裏社会で〈異法者〉として生計を立てているのでは、という考えが浮かんだ。が、すぐに消えた。性根の真っ直ぐなガルデが、メメントを倒すためとはいえ、反社会的な立場に身を置くとは思えない。
そんな彼が裏稼業者となったことを知ったら、どう思うだろうか。
「俺は任務でこの街に来たんです」
「任務?」
「ええ。なんというか、行方を追っていて」
「人捜し? 俺も手伝おうか?」
そう申し出ると、ガルデは思案顔になり、顎に片手を当てた。
「そうですね。あなたやドミニクも知るべきことかもしれません」
「何が?」
「実は……」
ガルデが話し始めようとした時、彼の声を遮るようにして、エヴァンの携帯端末が鳴り出した。通知画面を見れば、ドミニクからの電話である。
「ガルデ、ニッキーから電話だ! ちょっと待ってろ」
モニター通話にして、ガルデにも見えるように、端末を掲げ持った。ディスプレイにドミニクの顔が映し出されると、ガルデの小さな嗚咽が聞こえた。
「ニッキー見ろよ、ガルデだぞ! 早く来いって!」
二人が再会した時の反応を想像したエヴァンは、興奮気味に隣のガルデを指差す。
ディスプレイの中でドミニクの目が動き、ガルデを捉えた。彼女の表情が嬉しそうに輝いたが、それは一瞬のことだった。
『ガルデ、あなたとまた会えて本当に嬉しいです。でも残念ながら、喜びの再会は後回しよ』
「は、なんで?」
旧友との再会以上に大事なことがあるのかと、エヴァンはやや機嫌を損ねた。
『ユイとロージーが、大変なことをしでかしてくれたの。ガルデがいるならちょうどいい、二人とも、これから言う場所にすぐに来てください』
こちらの返事を待たず、ドミニクは一方的に、とある住所を告げた。幸い、エヴァンにも分かる場所だった。
「そこ知ってるぞ。でも、なんだってそんな所に行くんだ?」
当然の疑問をぶつけると、ディスプレイの中のドミニクは、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
『あの子たちときたら、メメントを一体匿っていると言うんです。それも、今まで遭遇したこともない特殊型のようで、人間の言葉を話すというのですが……』
「そ、それは本当ですか!?」
ガルデが声を張り上げ、エヴァンの手から端末を奪った。
「人語を解するメメントを匿っていると、そう言ったんですか? 間違いなく!?」
『ええ。たしかにそう言ってました』
ガルデの勢いに圧されたのか、戸惑い気味の声が返ってきた。端末はガルデが独占しているので、エヴァンにはディスプレイが見えない。
「おいガルデ、どうしたんだ? 何か心当たりあんのか」
ガルデはエヴァンの問いに答えず、端末を押しつけるようにして返却した。電話は切れている。
「行きましょう、案内してくださいエヴァン!」
大股でずんずんと歩き出したガルデを、エヴァンは慌てて追いかけた。
エヴァンたちが拳を交えたビルの側面に、一台のバイクが停められていた。流線の美しいスポーツバイクだ。
ガルデはそのバイクに真っ直ぐ向かい、颯爽と跨る。
「うお、お前こんなかっけえバイク乗ってんのかよ、いいなあ」
エヴァンは羨望の眼差しで、バイクと持ち主を交互に見た。相棒が乗るような電動車を買うには、まだ資金が乏しいが――その前に運転免許を取得しなければ――バイクくらいはそろそろ欲しいと思っていたのだ。
後ろにアルフォンセを乗せて、晴れた海沿いの道を走るのは、さぞかし気分がいいだろう。想像するだけで頬が緩む。
ガルデは収納ボックスからヘルメットを取り出すと、突っ立っているエヴァンに差し出した。
「乗ってください、早く」
言われるままヘルメットを受け取ったエヴァンは、後部席に乗った。
メットカムジャケットを着ているガルデには、ヘルメットは必要ない。スタンドカラーに指を当てると、中に収納されていた特殊素材が伸び、たちまちガルデの頭部を覆った。
ヘルメットには無線システムが付いている。内部のスピーカーから、ガルデの声が聞こえてきた。
『飛ばしますよ、ちゃんと掴まっててください』
言うが早いか、エンジンが唸りを上げた。
「お、ちょっと待て、座る位置がまだうおああああああああああああ!!!」
バイクは猛る戦馬のごとくウィリーしながら発進した。
大きく傾いたバイクに肝を冷やしたエヴァンは、必死でガルデにしがみついて、何とか振り落とされずに済んだ。
その代わり、相棒に連絡を入れなければ、という重要項目が、頭の中から零れ落ちたのだった。




