TRACK-4 死を悼む象 2
九月末のアトランヴィル・シティは、まだ残暑に包まれている。ほんの数週間前まで夏の真っ盛りで、区を問わず都市全体が、季節特有の熱気に浮かされていた。
肌にひりつく灼熱の陽光は、日を重ねるごとに弱まっていき、代わりに北寄りの風に手招きをした。あと二週間程度で、街中を秋風が駆け抜けるようになる。
「さてと。どうしたもんかな」
独りごちたエヴァンは、両腕を天高く突き上げて伸びをし、肩をぐるぐると回しながらその腕を下ろした。
目の前に広がるのは、サウンドベル東側の大通り。街の中心を貫く道路に他の区ほどの交通量はなく、行き交う人の姿もまばらだ。晴天の日曜日には、サウンドベルのようなおとなしい街から離れ、レジャーランドや繁華街へ繰り出すのが、町民の過ごし方である。
大通りを跨いで架かる立体舗道の上から、見慣れた景色を眺めるエヴァンは、時間を持て余していた。
レジーニから来るであろう呼び出しに即座に応じるため、身動きが取れやすい位置で待機しているのだが、いかんせん暇だった。
立体舗道はスカイリニアのステーションと直結しており、逆方面は商業ビルと繋がっている。舗道の更に上を走る高架線路は、下り線がリバーヴィル方面だ。上り線は第七区へ向かう。
レジーニの嫌味な高級マンションはリバーヴィルにある。この付近で待機していれば、十数分程度で駆けつけられる。そう考えてうろうろしていたのだ。
しかしながら、一時間二時間と待ってみても、なかなか連絡は来ない。商業ビル内のテナントショップを一通り見て、カフェでアイスコーヒーを一杯飲み、ゲームアプリで時間を潰していたが、そろそろ限界だ。待ち飽きた。
「あのメガネめえ。アルとデートするの我慢してまで待機してやってんのに。ぜんっぜん連絡よこしやがらねえ。誰のために無駄な時間過ごしてると思ってんだよコノヤロー」
携帯端末をいじりながら、エヴァンはぶつくさぶつくさ文句を垂れた。レジーニからは「すぐに来られるように外で待っていろ」とまでは言われていないが、気を利かせたのがアダになるのは腹が立つ。
「結局このままお呼びがかからないっつーオチじゃねーだろうな。帰るぞもう。帰っちゃうからな」
とは言うものの、本当に帰ってしまったあとに呼び出しがあり、来るのが遅いと怒られるのは怖いので、やっぱりもうしばらく待っていよう、と思うくらいには相棒の“躾”は身に沁み込んでいる。
もう少しその辺を歩いてくるか。などと考えつつ、立体舗道の手摺りに両手を乗せ、仰け反るように天をあおいだ時だった。
「ん?」
エヴァンは体勢を戻して、きょろきょろと周囲を見回した。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
知り合いでも通りかかったのかと思ったのだが、多くない通行人の中で、エヴァンに注意を向けている者はいなかった。
「気のせいか……」
空耳だろう、と肩をすくめる。しかし――。
「は?」
また“声”が聴こえた。エヴァンはもう一度、今度は用心深くあたりを見た。
誰かに話しかけられている。
「え? なんだよ」
聴こえたそれは、言葉といっていいかどうか分からないモノだった。信号音のようでもあり、ため息のようでもあり、テレビのノイズのようでもあり、虫の鳴き声のようでもある。
けれどたしかに、何かをエヴァンに訴えかけていた。
“声”は頭の中に直接響いてくる。両耳を塞いでも無駄だった。決して大音量というわけではなく、むしろ囁き程度にしか聴こえないのだが、ハエのようにまとわりついて、振り払うことが出来ない。
「くそっ! なんだってんだ!」
拳で頭を叩いて“声”を追い出そうとした。そんなエヴァンを、通りかかる人々が好奇と恐れの目を向ける。気の毒な人なのだろう、と哀れまれてしまっているらしい。
「ちくしょう、何なんだよ!」
あらぬ誤解を受け、潔白を証明したいのはやまやまだが、この頭の中で騒いでいる“声”をどうにかする方が先決だ。
“声”は言う。
――あちらへ向かえ。
矢印が視えたわけではない。だがあちらというのが、駅裏方面を示していることは、なぜか理解できた。
「訳が分かんねえ……」
エヴァンは舌打ちし、パーカーの乱れたフードを乱暴に整えた。
「勝手にヒトの頭ん中に話しかけやがって。いいじゃん、行ってやろうじゃん。待ってろよこんにゃろう」
具体的な道順は示されていないが、エヴァンの足取りに迷いはなかった。
スカイリニアの駅裏に回りこむと、建物に沿って南へ進む。突き当りの階段を使って立体舗道を降りる。そこから左に曲がって道なりに行く。
頭の中の“声”は、ここまで具体的なルートを伝えてこなかった。だが、まるで見えない紐が身体に括りつけられ、引っ張られているかのように、エヴァンは引き寄せられるのだった。
もはや、いちいち不思議がるのも面倒だった。このところ訳が分からない出来事が立て続けに起きている。
おかしなメメントに遭遇し、意味不明な夢を見、原因が分からない破壊衝動にかられ、再びおかしなメメントが集団で現れた。ついでに、かつて同じ組織に所属していただろうマキニアンまで。
ここへきて幻聴ごときで打ちのめされるほど、エヴァンの神経は繊細ではない。
導かれるままに歩き、たどり着いたのは、二十階建てのビルだった。テナントビルなので、外部者のエヴァンでも怪しまれずに立ち入ることができた。
このビルの屋上へ行けばいいらしい。“声”が訴える言葉を解釈すると、そういうことのようだ。
エレベーターに乗り込みボタンを押すと、一気に屋上まで昇った。外に出た途端、風が吹きつけ、エヴァンの髪を撫でていった。
屋上は余計な設置物がなく、見晴らしのいい場所だった。おかげで、手摺りの角でこちらに背を向けて立つ人物を、たやすく見つけられた。
耳に携帯端末を当て、誰かと話している。
「ええ、分かっています。……すぐにでも……、いえ、それは待ってください。今応援をよこされては街に混乱を……」
背格好はエヴァンと同じくらいの、若い男だろうか。茶色いウェービーヘアの頭頂部は、太陽の光を浴びて金色に輝いている。プロ仕様と思しき、緑を基調としたバイカースーツに身を包んでいた。
その後ろ姿に見覚えがあるような気がして、エヴァンは警戒も忘れ、ゆっくりと歩み寄っていった。
「彼女の一件は俺に任せると言ったじゃないですか。ただでさえ奴らが動きを見せ始めているんです。これ以上一般市民に……」
丁寧な口調ながら、少し苛立った風に話していた若者は、そこで言葉を切った。こちらの存在に気づいたのだろう。エヴァンも足を止める。双方の距離は十メートルと離れていない。
「報告は以上です」
若者は固い声で言い、通話を終了させた。端末を握った手をゆっくりと降ろし、ポーチにしまう。深呼吸したのか、肩が大きく上下する。それから意を決したように振り返った。
南方大陸人種の血を引いているらしい、目鼻立ちがくっきりと整った精悍な顔だ。朝焼けのような東雲色の双眸で、まっすぐこちらを見つめるその姿に、エヴァンは覚えがあった。
「お前……」
過去の記憶のほとんどを失いながらも、残された思い出はある。
それは、片付けられてがらんとした部屋の片隅に、ぽつんと置かれた子どもの“宝物入れ”のように、エヴァンの心の奥底にしまわれている。幼なじみのドミニクや、ユイとロゼットの記憶も、この中にあった。
今再び、“宝物入れ”の蓋が開く。
「お前、ひょっとして……」
“宝物入れ”で眠っていた記憶の中の彼は、十四歳の少年だった。〈SALUT〉に正式採用された、最年少のメンバーだ。
真面目で勇敢、正義感に溢れ、礼儀正しい、チームの良心のような存在だった。
同性の仲間内では歳が一番近かったからか、エヴァンとはすぐに意気投合し、ドミニクとも交流を深めていた。
十年経った今でも、あの頃の少年の面影がある。
懐かしさが胸に広がり、口元には自然と笑みが浮かぶ。
「ガルデか?」
ガルデ――ガルディナーズ=ミュチャイトレル=ヌルザーンは、痛みをこらえるかのように目を細め、顎をくっと上に向けた。エヴァンを見つめる表情は険しい。少なくとも、かつての友人に向けるべき表情とは言いがたかった。
十年ぶりの再会だというのに、二人の間に流れる空気は重い。エヴァンはその重い空気を無視し、一歩また一歩と近づいていく。
「俺だよ俺。覚えてる? エヴァン・ファブレル。〈SALUT〉にいたろ? おちこぼれだったけど」
ガルデは口唇を引き締め、エヴァンを値踏みするように見据えている。
「あー……、十年経ったのに老けて見えねえって? 俺、十年間氷漬けだったからさ、その間は歳取ってねえんだよね。だから、今じゃお前の方が年上になってんじゃねえかな」
「分かっている。覚えているさ、彼のことならね」
ようやく開かれたガルデの口から吐かれたのは、棘を含んだよそよそしい声だった。
エヴァンはその場に止まり、近づくのをやめた。
「えーっと……、なんかさ、機嫌が悪い?」
「機嫌が悪いか、だと? そうだな、悪いよ。よりによって……そんな姿で」
「え?」
「彼のふりをして油断させるつもりだったのか? 俺の友人を騙るなど、許せない」
「いや、ちょっと」
ガルデの表情は険悪さを増し、それに比例して敵意が増幅していく。
「ソニンフィルド、どこまでも卑劣な。俺を殺すか連行するか、どちらが目的にしても、堂々と刺客を放てばいいだろう。今更そんな手は通じないぞ」
ガルデはエヴァンではない誰かに向けて話しているようだ。会話が噛み合っていない。
「悪ィんだけど、ガルデ、何言ってるのかさっぱり分かんねえ」
「分からなくていい。君などに分かるものか」
ガルデは太い眉毛を歪めた。
「ラグナ・ラルス」
「は?」
瞬間エヴァンは、二人の間に流れていた違和感の正体を理解した。だが、間違った認識を正す暇はなかった。
眼前に迫るのはガルデの拳。エヴァンの正面を捉えている。鼻面をへし折ろうとするその拳を、エヴァンは腕ごと絡め取って止めた。その勢いを使い、ガルデの顎へ掌底を繰り出す。
ガルデは大きく背を反らして避けると同時に、絡めたエヴァンの腕を掴んで引き倒した。
前のめりになったエヴァンは、回転して受け身をとる。そのままもう一度回転し、立ち上がりながらガルデの方に身体を向けた。
「おい待てガルデ! お前……」
「問答無用!」
エヴァンの静止に耳を傾ける気配はない。ガルデは瞬きの間に距離を詰め、弾丸さながらの高速パンチを浴びせてきた。
ガルデの攻撃は、鋭さと速さが伴っている。まるで旋風がまとわりついているようだ。だが、ついていけない速さではないし、拳の重さで言うなら、もっとヘビーな相手は他にいる。ガルデの強みは別の部分にあった。
殴打と蹴りのラッシュを、回避と相殺、カウンターで応戦する。かわしきれなかった攻撃は脇腹と左肩で受けた。
「ガルデやめろ! 違うんだって! 話聞けよ!」
「黙れ! 惑わされるものか!」
猛々しい言葉と共に、ガルデの回し蹴りが胸部に決まった。後方に飛ばされたエヴァンは、たたらを踏みながらも、なんとか体勢を保つ。
蹴られた衝撃で肺から空気が抜け、胸を抑えつつ咳き込んだ。その隙に追撃されるかと顔を上げたが、ガルデはその場に立ったままだ。
ガルデの身体がほのかな金色の輝きを帯び、両腕と両足が鎧のような金属体へと変形した。両耳は三角形のヘッドギアに覆われ、髪は獅子の鬣のように逆立つ。後ろ髪は腰の下まで伸びて、一本の金属束となり、その先端は鋭く尖る。
変形を遂げたガルデは、腰を落として低く構えた。
十年ぶりに見る、ガルデの細胞装置だ。
「馬鹿、よせよ! そんな本気んなることねえだろ! 誤解だっつってんじゃん!」
「君相手に手を抜けるほど、自分の力を過信してはいない、ラグナ・ラルス。いつか戦う日が来ると覚悟していた。その時は全力で、刺し違えてでも止めると誓った。エヴァンのために」
(ダメだ、完ッ全に誤解してる。そうだった、コイツこういう奴だった)
エヴァンは頬を引き攣らせ、乾いた笑い声を上げた。
真面目で勇敢、正義感に溢れ、礼儀正しいガルディナーズだが、一つだけ困った悪癖があったのだ。それは――。
「構えろラグナ・ラルス!」
すさまじく思い込みが激しい、という点である。