TRACK-4 死を悼む象 1
つけたテレビはたまにちらりと見る程度で、ほとんどBGM化している。チャンネルはAMDテレビ、日曜朝の情報番組だ。
堅実さとユーモアのセンスに恵まれた名物アンカーが、軽快な口調でずっと喋っている。しかし、彼がどんなにウィットに富んだコメントをしても、エヴァンの耳を通過するだけだ。
ガレットの最後の一切れを口に入れつつ画面を見やると、気象情報のコーナーが始まったところだった。
同番組一番人気のお天気キャスターが言う。今日は南東の風が吹き、湿度も低く、一日からりとした晴れでしょう。絶好の行楽日和です、家族、友だち、恋人と一緒におでかけしましょう。
(おでかけしたくてもできねーよ、ちくしょう)
ゆっくり噛んだガレットを、エヴァンは仏頂面で飲み下す。するとテーブルの向かいから、様子を探るような静かな声がかけられた。
「ねえ、ひょっとして、おいしくなかった?」
顔を向けると、整った眉を柔らかに顰めたアルフォンセが、深海色の瞳で心配そうに、こちらの様子を伺っている。
エヴァンは慌てて首を横に振った。同時に両手もぶんぶん振る。
「違う違うごめん! アルのごはんは超うまいよ! もう全部好き、なんでも食うよ俺!」
しかめっ面で食べていたので、食事がまずかったのでは、と誤解させてしまったようだ。
もちろん、彼女の料理がまずいなんてことはありえない。
今朝の朝食は、ベーコンと卵のガレット、トマトとジャガイモのスープ、シナモンスコーンだ。食欲旺盛なエヴァンのために、ガレットは一回り大きく作ってくれていた。スープはとろっとした喉越しがたまらないし、スコーンは一口食べれば、シナモンの風味が口いっぱいに広がった。
朝、エヴァンが目覚める頃に部屋を訪れたアルフォンセは、わざわざ材料を持ち込んで、せっせと作ってくれたのである。
彼女がエプロンを着けてキッチンに立ち、くるくる動いて朝食をこしらえる姿を、エヴァンはベッドに横たわったまま、飽きることなく見つめていた。
出来ることなら、朝の目覚めも一緒でありたかったものである。
とにもかくにも、愛する彼女が自分のために腕をふるって作ってくれたのだ。まずいわけがない。例え失敗して、焦がすなりなんなりしたとしても、アルフォンセの手によるものなら、なんだって食べられる。
「今日のガレット、超最高。アル天才」
「そう? でも、さっきから機嫌がよくなかったみたいだから」
アルフォンセは、困ったように首を傾げた。
機嫌があまりよくないのは、その通りなのである。それを悟られまいとして、いつもと同じように振る舞っていたつもりなのだが、彼女には通じなかったようだ。
「テレビも、見てるようで見てないし、なんだか上の空だから、おいしくなかったのかなあ……、って思ったの」
「それはない絶対にない完全にありえない。心配させてごめんよ。全部、性悪メガネのせいだから」
「もしかして、レジーニさんのこと?」
「そう。“この世のすべての性悪を一手に担うメガネ”、またの名を“レジナルド・アンセルムもうすぐ三十二歳フリー”のせい」
あるいは“女子大生お持ち帰りドスケベスーツ”でもいいだろう。
三十分ほど前のことだ。
アルフォンセが朝食を作る様を、緩みきった顔で眺めていたところ、水を差すように携帯端末の呼び出し音が鳴り出した。
幸せな時間を邪魔され、舌打ちしつつ着信画面表示を見れば、相棒の名前が示されている。
無視するとあとが怖いので、電話には応じる以外にない。話の内容は、昨日の一件についてだろう。
シャイン・スクエア・モールでの騒動がひと段落したあと、一度レジーニと連絡を取り合った。エヴァンが、マキニアンと思われる男と遭遇したことを報告すると、レジーニは、例の少女を保護してマンションに連れ帰ったことを話した。
あの少女が、ただのレジーニの“追っかけ”でないのは、もう分かっている。目の前にした瞬間、懐かしいような知っているような、奇妙な感覚を覚えた。何より、特別な力が彼女には備わっているようで、おそらく自分自身の出自と、何らかの関わりがあると考えられる。そのくらいの推測はエヴァンにも出来た。
電話に出ると、レジーニは余計な前置きをせずに本題に入った。
少女の名前はリカ・タルヴィティエ、ワーズワーズ大学の学生だという。オズモントの勤める大学だ。
食事をさせ、落ち着いた頃に話をするつもりだ、とレジーニは言う。彼女からある程度事情を聞き出し、内容によってはエヴァンとの対話も必要になるだろう、と。
エヴァンとリカの間にどんな繋がりがあるのか分からないが、まったくの無関係だというのは無理がある。その繋がりを明らかにするには、双方の対話が不可欠だ。
ただ、記憶が欠損しているエヴァンと少女が話したところで、判明することがあるかどうかが問題だった。
なんにせよ、いつでも呼び出しに応じられるよう待機していろ、というのがレジーニの指示だった。
せっかく天気に恵まれた日曜日。〈パープルヘイズ〉も店休日だ。アルフォンセと楽しくデートして、昨日の憂さを晴らすつもりでいたのに、その計画が台無しになってしまった。
指示という名の命令を無視すると、後々どうなるか想像に難くない。
結果、エヴァンの機嫌は損なわれた、というわけだ。
事情を話すと、さすがはアルフォンセである、おおらかに理解を示し、ゆっくりと頷いた。
「そうね。もし、そのリカという女の子とエヴァンの間に、何か共通点があるとしたら、それが分かるだけでもいい収穫だと思うわ」
アルフォンセの聞き分けの良さに、エヴァンは唇を尖らせた。
「そうかもしんねーけど、日曜日なんだぜ? こんなにいい天気なのに。二人っきりで遊びに行けると思ったのに」
おもちゃを取り上げられてふてくされる子どもよろしく、椅子にもたれかかるエヴァンである。
アルフォンセは柔らかな笑みを浮かべ、宥めすかすようにエヴァンの手に自分の手を重ねた。
「二人でのおでかけなら、いつだって出来るじゃない。レジーニさんには、あなたが必要なのよ。協力しなくちゃ」
「だ~け~ど~よ~」
「リカさんという子は、守ってあげなくちゃいけない相手だと思うの。メメントを操ってしまう能力があるんでしょう? もし、夕べ襲ってきた相手が彼女のことを知ってしまったら、きっと放っておかないわ。レジーニさんなら、その点も心配しているはずよ」
「……うん」
アルフォンセの見解は納得できる。たしかに、リカの能力は見過ごせないものだ。
「それにあなたのことも、何か分かるかもしれないわ」
白くほっそりとした指が、エヴァンの指と絡み合った。繋がれた指と掌から、彼女のぬくもりが伝わってくる。
視線を上げれば、こちらを真っ直ぐに見つめる、深海色の瞳。
「俺の“昔”なんて、どうでもいいのに」
ため息とともに、本音を漏らした。
「きっとロクな過去じゃない。忘れたままでいいよ」
軍部に所属していた頃の記憶など、欠如したままで構わなかった。過去の自分が何者だったのか、もう知る必要はないし、知りたくもない。
エヴァンにとっては“今”が大切なのだ。凍結睡眠から目覚めて今日に至るまでのすべての出来事が、エヴァンの宝だ。
新しい暮らし。気の置けない仲間。なんだかんだ言いつつ、隣にいるのが当たり前になった相棒。
そして、最愛の女性。
過去を明らかにしてしまえば、これらの宝が夢幻となって消えてしまうのではないか。そんな不安が腹の底の片隅で、ひっそりと、しかし確実に根を下ろしている。
“今”のすべてを失うくらいなら、過去などいらない。“今”を失くしたら、それこそ自分が自分でなくなる。
エヴァンには、そう思えて仕方がないのだ。
不安をかき消したくて、アルフォンセの手を握り締める。その手に、彼女のもう一方の手が重ねられた。
「大丈夫。私も一緒に背負うから」
アルフォンセはそう言うと、花のような大輪の笑顔を見せるのだった。
腹を決めれば、じっとしていられないのがエヴァンだ。部屋にいるより外に出ていた方が、急な呼び出しに応じられる。
恋人の気性をよく理解しているアルフォンセは、新妻のように甲斐甲斐しくエヴァンを送り出した。
一人残ったあとは、朝食の片づけをする。そちらが済んでから、部屋を軽く整理整頓した。
脱いだものを放ったままにしていたり、コミックを積み上げっぱなしにしているなど、エヴァンの大雑把な部分が、部屋のあちこちで如実に現れている。少々困った悪癖だが、そんなところがなんだか愛おしい。
あらかた終わらせると、ソファに座って一休みした。
すぐ側のチェストの上に、エヴァンが飼っている小亀と小エビの水槽が置かれている。エヴァンは、この小さな同居人たちをとても可愛がっており、日々の世話を欠かさず行っていた。
アルフォンセはソファの背もたれに両腕と顎を乗せ、水槽の中の小亀たちを眺めた。こまめに掃除をしているらしく、水槽にはコケが少しも付いていない。
(この子たちは、私の知らないエヴァンの顔を知っているかしら)
アルフォンセがいない時、過去に悩むエヴァンの姿を、この小さき者たちは見ているのだろうか。
いつも明るく元気に溢れ、常に前を向いているエヴァン。その彼の背後に、怪しい“過去の亡霊”が迫っている。
エヴァンは、過去などどうでもいい、と嘯いているが、いつか向き合わなければならない時がくると分かっているはずだ。
だが、抱えているであろう不安や恐怖を、彼は決して他人に見せない。アルフォンセはもとより、相棒であるレジーニや、親のようなヴォルフにすら、悩みを隠している。
誰にも迷惑や心配をかけたくないからだろう。その気遣いが、かえってアルフォンセの不安を煽っているとも知らず。
エヴァン自身が心の奥底で理解しているのは、避けては通れない道だと悟っているからに他ならない。
遠からず彼には、己の過去と決着をつける日が来るだろう。
その時の訪れが、アルフォンセは何より怖かった。
過去がエヴァンを連れて行ってしまう。そうなったら、二度と戻ってこないかもしれない。
“過去の亡霊”は、今やデータとなって、アルフォンセにその存在の接近を突きつけていた。
エヴァンの定期メンテナンスを行った際、不明なプログラムを発見したのが発端だった。最近では、彼のステータスが飛躍的に上昇している。マキニアンの平均値と、エヴァンのこれまでの平均値を参照しても、異常と言っていいほどの変化だ。
これだけ急激な変化が起これば、異変に対する自覚症状があって然るべきである。ところがエヴァンは、自分の肉体の異常変化に、まったく気づいていないのだ。
まるで、これこそ本来の能力である、とでも言うかのように。
内部では恐るべき異変が起きているというのに、本人には自覚がない。
封印されしもう一人のエヴァンが、一歩また一歩と近づいてきている気がする。
それがどうしようもなく怖いのだ。
レジーニが保護している、メメントを操る能力を持つという少女との出会いも、何かの予兆のように思えて仕方がなかった。
アルフォンセは両手を握り、唇を噛み締める。
「エヴァンはどこにも行ったりしない。私たちを置いて行ったりしないわ」
それは彼女の願いであり、仲間たちの願いでもあった。




