TRACK-3 少女と異形 9
「最初に能力を使ったのは、たぶん六歳の時だったと思います。覚えている限りでは、ですけど」
うつむき加減のリカは、記憶を確認するように、ゆっくりと言葉を綴った。
洗濯した服の乾燥が終わり、今はパジャマから着替えている。自分の持ち物で身を包んだせいか、それとも状況に慣れたのか、目覚めた時よりもリラックスしているようだった。腹が満たされたおかげもあるだろう。
「そんなに小さな頃から、あんな能力があったのか」
レジーニが顎に片手を当て低く唸ると、リカは弁解するように両手を激しく振った。
「い、いえ、子どもの頃は、今ほど強くなかったんです。小さな、ええと、メメント一体くらいにしか効かなくて」
記憶にある中で初めて倒したメメントは、昆虫の四肢を持つ犬に似た形状だったそうだ。
当時はその存在が何なのか分からなかったものの、不思議と恐ろしくはなかったという。
自分の方が上だ。そう漠然と感じたからだと、リカは語った。
「自分の方が上……とは、どういう意味だ?」
「分かりません」
リカが力なく首を振ると、赤毛がひと房肩に落ちた。
「ただ、何となくそう感じたんです。あの犬みたいな変なモノは私に何もしてこない、私の方が上だからって。それだけは覚えてます」
自分がメメントを殺せる存在だということを、本能で察したのだろうか。幼い子どもは、物事を理屈ではなく、ありのままの形で受け入れるものだ。
「その感覚は、今でもあるのか?」
リカはもう一度首を振った。
「ありません。たぶん……自分が他の人と違うってことを自覚した頃から、その感覚は無くなったような気がします」
リカは膝の上に両手を置き、左右の指をもじもじと絡ませている。
やはり、特殊能力の話をするのは、抵抗があるのだろう。しかし、ここは耐えてもらわなくては。
質問が“尋問”にならないよう口調に注意しつつ、レジーニは問う。
「君の能力について、単刀直入に訊こう。メメントに何をしたんだ?」
化け物たちの身に起きた現象について、一見するとリカは何もしていないようであった。突然メメントが自傷行為に陥り、勝手に消滅したようにしか見えなかった。
そのように仕向けたのが、リカの能力なのだろう。
リカはただ、メメントをじっと見ていただけだ。
「えっと……、うまく説明できないんですけど」
前置きしてから、彼女は慎重に答えた。
「考えるっていうか、念じるんです、相手に向かって」
「どんなふうに」
「例えば……、『消えて』とか」
「そうすると、メメントが自傷行為を始め、自滅する、と?」
リカは下唇を軽く噛み、こくりと頷いた。
念じるだけで化け物を自滅に追いやるとは、驚異的な能力である。一種の超能力のようなものだろうかと、レジーニは考えた。
子どもの頃は一度に一体にしか効かなかったというが、夕べの様子を思い出すと、複数体が同時にリカの“命令”を受けていた。
このことから、彼女の能力は幼少期と比べて数段強化されている、と言える。
(メメントに影響を与える能力。それは以前にもあったことだ)
去る七月――。
エヴァンを殺すために降臨した白きマキニアン――シェド=ラザは、メメントの大群を自在に操り、手駒として利用していた。シェドが行使した技とリカの能力は、規模の差こそありはすれど、同じものではないだろうか。
メメントは、生体パルスという生物信号を発しているという。その生体パルスに影響を与え、メメントを意のままにできたのがシェドだ。
であれば、リカも同様だ。彼女の持つ能力も、生体パルスに影響を与えるものなのだから。
おそらく、エヴァンにも同じ力が備わっているはずだ。幸いというべきか、相棒はこの能力には無自覚だ。平時ならば、だが。
シェドとの一騎打ちの際、エヴァンはその能力を発動させている。でなければ、到底シェド=ラザを退けることなど出来なかっただろう。反動で仮死状態に陥ったくらいだ。
(エヴァンとシェドが同じ力を持っているのは理解できる。だが、リカは? なぜ一般人である彼女に、二人と同じ能力が?)
一度は、彼女もマキニアンなのでは、と疑った。しかし、こうして言葉を交わし、一挙手一投足に注意してみると、その疑いは払うべきだという結論に至った。
リカにあらかじめ、メメントやマキニアンなどに関する知識があったとは思えない。仮に、打算で知らんふりを決め込んでいるだけだとしても、レジーニに対して偽りを演じるメリットはない。
ただの人間に驚異の力が備わるとしたら、その原因はどこにあるだろう。
疑問に対する一つの仮説が、レジーニの脳裏に浮かぶ。
おぞましい仮説だ。だが、ありえないとは言い切れない。
むしろ、大いにありうる。
マキニアンが、どこでどう誕生したのかを考えれば。
リカの背後に潜んでいるだろう暗い背景が垣間見え、レジーニは無意識に彼女から視線を逸らした。
リカの唇の隙間から、物憂げなため息が漏れる。
「小さい頃は、自分の能力が特別なものだなんて思ってなかったんです。だけど、親や友だちの誰一人、怪物のことを知らなくて……。話せば話すほど、おかしいのは自分の方なんだって思うようになりました。だから初めは、みんなの代わりに怪物と戦うのが自分の役目だ、なんて考えてました。実際、私だけだったんです。こんな能力があって、あれが視えてたのは」
「あれとは?」
レジーニが尋ねると、リカは怪訝そうに眉を顰めた。
「あの……、レジーニさんには、視えてないんですか?」
彼女が何について話しているのか理解できず、レジーニは首を振った。
するとリカの顔が、絶望の断崖に立たされたかのように青褪めた。孔雀藍の瞳を、あさっての方向に彷徨わせ、震えるため息をつく。
「あなたなら……、あいつらと戦う力のあるあなたなら、視えてると思ったのに……。結局、私だけだったんだ」
大きな双眸が潤んでいく。眦から朝露のような雫がこぼれる寸前、リカは両手で顔を覆った。
「もういや。どうして私にだけこんな力があるの。怪物を殺す力なんか欲しくなかった。こんな能力いらない」
語尾がかすれている。肩を震わせ、声を殺してリカは泣く。
これまで必死に抑え込んできた思いに、耐えきれなくなったのだろう。
今にも消えてしまいそうな気がして、レジーニは彼女の肩を掴んだ。
「落ち着けリカ。僕を見ろ」
声をかけてなだめると、リカはゆっくりと顔を上げた。涙を湛えた孔雀藍の目が、親からはぐれた小鳥のように、レジーニを見つめる。
「君は特別な存在なのだろうけれど、怖がることはない」
リカは怯えている。世界中で自分だけが抱えているかもしれない異常な問題に、どう対応していいか分からないからだ。
分からないことほど、異様で恐ろしいものはない。
彼女は六歳から現在に至るまで、たった一人で怪物メメントと向き合わなければならなかったのだ。自分に備わっている能力の正体も分からずに。
三年前の夜。レジーニは、そんな彼女の前に現れたのだ。
怪物の存在を知る人間が他にもいたと知った時、リカはどれほど安堵しただろう。いわば“仲間”なのだから。
初めて出会えた“仲間”。ならば、なりふり構わず捜し出そうとするのも、無理のないことだ。
「僕は君の話を信じる。だが、恐れてはいない。君に視えて僕に視えないものが何なのか、教えてくれ」
勇気づけるように頷いてみせると、リカは指の腹で涙を拭った。ゆっくり二度ほど深呼吸し、口を開く。
「きっとあれにも、ちゃんとした名前があると思うんですけど、私は〈輝く霧〉って呼んでます」
「〈輝く霧〉?」
「怪物を……メメントを生み出すんです、その霧が。まるでサンピラーやダイヤモンドダストみたいにキラキラしてて、空気中を漂ってます。動物の死骸の周りが、一番多いです。死骸の周りで渦巻いていて、しばらくすると消えます。でもたまに、死骸の中に入り込んで定着する時があって、そういう場合に怪物になってしまいます」
「ちょっと待ってくれ」
レジーニはリカの口に手を当てるようにして、彼女の言葉を遮った。
「〈輝く霧〉だと? それが“メメントを生み出している”だって?」
「は、はい」
戸惑い気味に頷くリカを、レジーニはまじまじと見つめた。
それが真実なら、彼女にはとんでもないものが視えていることになる。
「君には、モルジットが視えているのか?」
その物質は、不可視のものであるはずだ。
それが視えているというのは――。
長年〈異法者〉として活動してきたレジーニでも、メメントを生み出す原因が、この不可視の物質にあることを、去年まで知らなかった。
モルジットがどんな条件下の環境で発生するのか、それだけでも判明すれば、メメントの謎を解き明かす重大な手がかりになるだろう。
「リカ。君に視えている〈輝く霧〉は、モルジットというものだ。通常、肉眼で捉えることは出来ない。だがモルジットが、生物の死骸をメメントにしてしまうことは、科学者によって明らかにされている」
「はい……」
「モルジットが、どんな時に発生するか分かるか? どういう場所で?」
するとリカは、疲れたようなか細いため息をつき、窓の方に顔を向けて外の世界を見やった。
「そこら中、です」
*
日曜日のネルスン運河沿いの遊歩道は賑やかだ。
人々はのんびりと散歩を楽しみ、時に足を止めて運河を悠然と行く船を眺めている。
第九区の名所の一つ、エルマン・ブリッジがよく見える場所でもある。あちらこちらで観光客たちが、橋を背景に記念撮影をしていた。
緑地帯にはたくさんのベンチが設置されており、弁当を広げる家族や、読書にふける高齢者が陣取っている。
そのベンチの一脚を、ベゴウィック・ゴーキーは独り占めしている。両腕を背もたれの上に乗せ、我が物顔でふんぞり返っていた。
右手にハンバーガーの包みを持ち、時おり口に運びつつ、目の前を行き交う人々を不穏な目つきで眺めている。そんな彼のもとへ、一人の男が近づいていった。
痩せぎすで、ベゴウィックより歳若い。髪は左側が短く刈り込まれ、右側は首筋まで伸びているアシンメトリーだ。黒いレザージャケットにロゴTシャツ、腰に緑のチェックシャツを巻き、タイトなレザーパンツとブーツという、いかにもなパンクルックである。
パンクの男はベゴウィックの隣に座ったが、正面を向いたまま一言も喋らなかった。
しばらくの沈黙の間、ベゴウィックがハンバーガーをひたすら食べるだけだった。
やがてハンバーガーを食べ終えたベゴウィックは、包みを丸めて隣の男に投げつけた。
「来たんなら何か喋れよ!」
包みはパンクの男の肩に当たって落ちた。パンクの男はそれを拾うと、一番近いダストボックスに律儀に捨てた。
「シュナイデルから連絡があった」
近寄りがたい雰囲気とは裏腹に、男の口調は抑揚がなく静かである。
「夕べの〈フェイカー〉の戦闘データには、概ね満足らしい」
「あっそう。それで?」
「あんたに預けた〈フェイカー〉のうち、三十体ほどが欠損したわけだが、その分の補填はしないそうだ」
「言われなくてもいらねーよ。どうせ『使い捨てに未練はない』とかなんとかほざいたんだろ」
「試運転とは言っても、あんたにまかせた一群はただのデータサンプル採集用だから、どれだけ死んでも構わない、とも言っていた」
「あーそう」
「ついでにあんたが死んでも問題ない、とも言っていた」
「ケンカ売ってんなら買ってやるぞ、ゼル」
「言ったのはオレじゃない」
「あーうぜえ!」
吠えるように暴言を吐き出すと、ベゴウィックは苛々と貧乏ゆすりを始めた。
「くそまどろっこしい仕事なんざ、引き受けるんじゃなかったぜ。さっさとあの粗悪体をとっ捕まえりゃいいじゃねえかよ。ラグナの人格は消えてんだ、簡単だろ」
「総統は、まだその時ではない、と仰せだが」
“総統”を引き合いに出されては、ベゴウィックも黙るしかない。
苛立ちを隠しはしないが、ひとまず口をつぐんだベゴウィックを見て、パンクの男――エブニゼル・ルドンは話を続けた。
「ベゴウィック。あんたは一度失敗している。シェドを捕えられなかった。深手を負っていたにも関わらず、だ。その汚名をこの機にすすがなければ、総統からの信用は回復しない」
「うるせえ、分かってんだよ」
シェド=ラザとラグナ・ラルス――エヴァン・ファブレルが、この街で一線を交えた。勝負の軍配は辛うじてエヴァンの方に上がり、退けられたシェド=ラザは、北上して逃走した。
その追跡を命じられた一人が、ベゴウィックである。
しかし、手負いの相手と油断したのが間違いだった。消耗が激しいとはいえ、最強のマキニアンであるシェドを捕えるのは、容易なことではなかった。
結果、返り討ちに遭い、任務は失敗に終わった。
今回の任務を受け入れたのは、シェド捕獲の失敗を取り返すためである。不都合があろうとも、多少のことは我慢しなければならない。
とはいえ、少々回りくどい展開に、早くも辟易しているベゴウィックである。
「話はそれだけか、ゼル。わざわざ持ち場を離れてまで言うことかよ」
「いや、シュナイデルの話は、ここからが大事なんだ」
「だったら早く言え」
生真面目なエブニゼルは、話し方が慎重だ。どれだけせかしてもペースを崩さず、ベゴウィックの苛々は一向に治まらない。
「〈フェイカー〉の戦闘データから、二種類の生体パルスが検出されたそうだ」
「それがどうした」
「生体パルスを動かせるのは、〈アダム〉以外では二人しかいない。シェドとラグナだけだ。シェドは行方不明で、昨日の現場にいたのはラグナだ。二種類のパルスのうち、ひとつはラグナのもの。では、あとの一種類は誰のものだ?」
ベゴウィックは重たげに首を動かし、エブニゼルを見た。
「シェドとラグナ以外に、生体パルスを動かせる化け物がいるってのかよ。ああ、そういや、蒼いクロセストを持って戦ってた奴がいたな」
「何者だ?」
「ラグナと組んでるっつー裏稼業者だろうよ」
「なら、そいつだろうか」
「知るかよ俺が。そいつがいるからなんだってんだ」
「パルスの値は、シェドやラグナと比較すると、ずいぶん小さく弱いものらしいが、シュナイデルは三人目がいること自体を問題視していて、非常に興味を持っているらしい」
「うわあ。あのイカレ科学者、新しいオモチャを俺たちに手に入れろって言ってんのか? めんどくせえ」
「要はそういうことだが、そっちはオレが行く。あんたは引き続き、今の任務に当たってくれ」
「なんだよ、継続かよ。退屈じゃねえか」
「どっちみち面倒くさがるんなら、おとなしく任務続行してくれよ」
「真顔でツッコミいれるんじゃねえ!」
ベゴウィックに頭を叩かれるエブニゼルだが、表情に変化はない。来た時と同じように、静かに正面を向く。
「そのうち退屈じゃなくなる」