TRACK-3 少女と異形 8
その屋敷が、いつから“墓場屋敷”などと呼ばれるようになったかは知らないが、少なくとも呼び名を付けた人物のネーミングセンスはあまりよろしくない、ということだけは明白であると、少女二人は頷き合った。
「シルエットが墓石に見えるからって、ストレートすぎる呼び名だよね」
黒ずんだ煉瓦造りの屋敷を見上げ、ユイは素直な感想を述べる。今日はデニムのショートパンツにロゴ入りTシャツ、オレンジ色のスタジアムジャンパー、スニーカーという服装で、大きなリュックを背負っている。
「通称の付け方なんてそんなものでしょ」
ロゼットは醒めた言葉を返し、ゆるいウェーブの髪を指先でくるくると弄った。こちらはフリルブラウスに濃い茶色のロングスカート、編み上げショートブーツと、女の子らしい格好だ。
昨日に引き続き、よく晴れた日曜日の午前。絶好の行楽日和だというのに、学校の友達と公園にもショッピングモールにも行かず、二人は辺鄙な場所にいる。
サウンドベル南の住宅街の片隅に、こんもりと木々の生い茂る一帯がある。天蓋のような樹葉に覆われているせいで、陽が届かず、昼でも薄暗く肌寒い。
そんな暗緑の地にひっそりと佇んでいるのが、通称“墓場屋敷”と呼ばれる古い空き家である。
義姉ドミニクとともにサウンドベルに腰を落ち着けて間もなく、近所を散策していた最中に見つけた場所だ。
全体は黒っぽい煉瓦で出来ており、館の下半分を蔦が覆っている。窓枠やドアは白木で組まれ、風雨に晒されて大半が腐っていた。窓ガラスは砂埃まみれだ。
屋敷を囲んでいたはずの庭の植物は、人の手入れがなくなったので、周囲の木々や雑草に溶け込み野生化していた。
屋根はアーチ上に丸い造りである。そのため、日没時に背後から陽を浴びると、逆光によって影を纏い、巨大な墓石のように見えるのだ。
立地の不気味さと、幽霊が出るという噂も手伝って、誰からともなく“墓場屋敷”と呼ぶようになったそうである。
が、幽霊が出ると言われていようが何だろうが、ユイとロゼットにとっては怖い場所ではない。館を発見した時、そのうちじっくり内部を探検しようと決めていた。
それがこんな形で活用することになろうとは。
「行こっか。あんまり待たせるのかわいそうだし、きっと喉が渇いてるよ」
言うとユイは、背負ったリュックを揺らした。
ロゼットが無言で肩をすくめてみせると、ユイは先に立って墓場屋敷に踏み入った。
蝶番の壊れた玄関ドアの先は、朽ち果てたエントランスホールだ。
吹き抜けの天井からシャンデリアがぶら下がっている。かつては屋敷のシンボルとして君臨していたかもしれないが、現在は蜘蛛の巣にまみれて見る影もない。今にも落ちてきそうだ。
調度品類は撤去されずそのまま残され、ほとんどが壊れていた。床のあちこちから雑草が生え、外の庭と変わりない状態になりつつある。
お化けが出てきても何も問題ないが、いきなり床が抜けるのは困る。ユイとロゼットは慎重な足取りで、屋敷の奥へ進んだ。
エントランスホールを突っ切った先は、暖炉のある応接間だ。オーク材の重厚なテーブルが中央を陣取り、クッションの敗れたウッドフレームソファが周りを囲んでいる。マントルピースの上に風景画が飾られているが、絵の具が乾燥して表面はボロボロだ。縦長の窓を覆うカーテンも、破れて垂れ下がっている。
「おはよう」
部屋の入り口で、ユイが声をかけた。
数秒の後、一番奥のソファの陰から、大きな物体がぬうっと立ち上がった。
二メートル近い巨体を縮こまらせ、ゆっくりと少女たちの方に向き直る。
姿を見せた異形に、ユイは片手を挙げて再度挨拶した。
「やあ、おはよう。ちゃんと眠れた? ていうか、君たちって睡眠とるの?」
マスクとローブで正体の隠れたメメントは、答える代わりにもじもじと胴体を揺らした。
「まあいいや。そんなところにいないでこっちにおいでよ。お水、持ってきた」
言いながらユイは、オークのテーブルにリュックを下ろす。中身の重さに、テーブルがみしっと音を立てた。
リュックの中身は、四本の水入りボトルだった。一本がおよそ二キロの重さのボトルを、ユイは四本背負って運んできたのである。大人の男でも“重い”と感じる程度だが、マキニアンの彼女には何の苦労もなかった。
メメントは、水に引き寄せられるように、のそりのそりとテーブルに近づいてきた。しかしためらっているのか、なかなかボトルに手を伸ばそうとしない。
ユイはボトルを一本持ち上げ、蓋を開けてからメメントに差し出した。
「遠慮しなくていいよ、はい」
にこりと笑ってみせる。するとメメントは、大きな手でおずおずとボトルを受け取った。
「ア、ア、アリガト……ゴザイマ、ス」
マスク越しに、たどたどしい人語が発せられた。男の声とも、女の声ともつかない、野太く奇妙な声である。
メメントはマスクの隙間から飲み口を差し込むと、底を上に向けて持ち上げた。
よほど喉が渇いていたのか、吸引力が凄まじいのか、ボトルの中の水はみるみるうちに減っていく。飲み干すまでに一分とかからなかった。
見事すぎる飲みっぷりに、少女たちは思わず顔を見合わせた。
ユイは気を取り直し、空になったボトルをメメントから受け取って、代わりに二本目を渡す。
二本目はゆっくりと、少しずつ減っていった。
巨体のメメントがおとなしく水を飲む様子を、ユイとロゼットは不思議そうに見守った。
マキニアンである自分たちと、狩る対象であるはずのメメントが同じ空間にいて、戦いもせず言葉を交し合う。なんとも奇妙な状況だ。
言葉――。
ただ水だけを欲しがったおとなしいこのメメントは、言葉を話す。
どんなにおぼつかなく、たどたどしく、緩慢な喋り方であろうとも、人間に理解できる言葉を発するメメントの存在は、大いなる驚きに値する事実だ。
昨夜、アーバン・レジェンド・クラブの集会所から、見世物にされていたメメントを連れ出したユイとロゼットは、ひとまずこの墓場屋敷に匿った。
隠したところで、さあこれからどうしよう、などという計画はなく、哀れな怪物が好奇の目に晒されているのを、黙ってみていられなかったという、衝動にかられた行動だ。だが、二人に後悔はない。
メメントは終始怯えていたが、この部屋まで連れてきて、危害を加える者が誰もいないことを理解すると、ようやく落ち着きをみせた。少女たちから距離を置き、部屋の片隅で一人、所在無げに立ち尽くす。
その間ユイとロゼットは、これからこのメメントをどうするべきかを話し合った。
すると、驚くべき出来事が起きたのである。
「モウシワケ……アリマセン……」
始めは、誰の声で、どこから発せられたのか分からなかった。
謝罪の言葉を述べたのが、子ウサギのようにびくびくしている巨体のメメントだということが分かると、少女二人は――ロゼットでさえ――目を丸くし、口をあんぐりと開けたのだった。
整った顔を歪める二人に、メメントは告げる。
「ワタクシハ、オツベル……ト、モウシマス……」
二本目のボトルも、間もなく空いた。ユイは三本目の蓋を開け、メメント――オツベルに差し出す。
しかしオツベルは、すぐに受け取ろうとしなかった。
「どうしたの? もういらない?」
問いかけても、大きな身体をもじもじと揺らすだけで答えない。
「ひょっとして遠慮してる? ボクらのことは気にしなくていいから、飲みなよ」
「オ、オ金ヲ使ワセテシマッテ……、モウシワケナイノデス」
「もー。だから、そんなこと気にしなくっていいんだってば。大丈夫大丈夫。さ、ほら」
ユイは朗らかに笑うと、マスクに覆われたオツベルの顔を覗き込んだ。オツベルは俯いて顔を背けたものの、三本目のボトルをおとなしく受け取った。
ユイとオツベルがそんなやりとりをしている間、ロゼットはリュックから使い捨てのペーパークリーナーを取り出すと、埃が積もったオークテーブルやソファのクッションを、丁寧に拭き清めていた。
それなりにきれいになったところで、ソファに腰を下ろしてみる。脚がぎしりと鳴いたものの、少女の軽い体重を支える耐久性は残されていた。
並んでソファに座った少女二人は、オツベルと向かい合う形になった。
「ねえ、オツベルは水しか飲まないの?」
ユイは首を傾げる。これだけの巨躯を維持する体力を、水分だけで補えるとは、にわかには信じがたい。
昨晩、やむなく墓場屋敷にオツベルを残してくことにした二人は、何か欲しいものがあるかとオツベルに尋ねた。てっきり食べるものを欲しがるかと思っていた二人だが、オツベルは水だけを望んだのだ。
「ハイ……、ワタクシハ、水サエアレバ結構デス」
「肉とか食べないんだ? 野菜も? 魚も?」
「ワタクシノ胃腸ハ、ソウイッタ食ベ物ヲ……受ケ付ケルヨウニハ、デキテオリマセン……」
「それは意外だったわ」
ロゼットが肩をすくめると、ユイは頷いて賛同する。
「でも思い返せば、メメントが何を食べるかなんて、考えたことなかったよ」
「何かを食べてるところ、見たこともなかったものね」
「たぶん、思い込んでたからだ。メメントは人や動物を殺すから、きっとその死体を食べてるんだって」
「それ、一理あるかも」
とかく化け物と呼ばれる異質の存在は、人間や動物を獲物として食すものである、というイメージが定着している。
メメントもその御多分に漏れない。実際にメメントの食事風景など見たことはなくても、そう思い込んでいた。
「アナタガタガ……“メメント”ト呼ブ形態ノモノタチハ、肉ヲ食ベマスガ、腐肉ノミデス」
「私たちがメメントと呼ぶ“形態”?」
オツベルがか細い声で言った言葉に、ロゼットは耳聡く反応した。
「それってまるで、メメントにはいろんな形態があるって言ってるみたいよ」
「なにそれ? どういう意味?」
理解できないユイは、眉間にしわを寄せる。
「オツベル、あなた、メメントなの? それとも、もっと違う何か?」
聡明なロゼットの瞳が、居心地悪そうに身じろぎするオツベルを見据えた。
「私たち、あなたみたいなメメントを知らないわ。あなたのように言葉によって人間と意思疎通ができて、水しか飲まなくて、自分を捕まえた連中に反撃もしないメメントなんて想像つかない。おまけ名前まである。オツベルっていう名前、メメントに付けられる分類名なんかじゃなく、あなたの名前なのよね?」
ロゼットの追求に、オツベルは答えない。手にしたボトルを、落ち着きなく撫で続けている。
「ちょっとロージー、そんな風に追い詰めるのはよくないよ。オツベル、困ってるじゃないか」
たまりかねたユイが、ロゼットをたしなめた。しかしロゼットは、毅然とした態度を崩さない。すっくと立ち上がり、ユイの腕を掴んで、廊下に引っ張っていった。
「ロージー、オツベルは怖がりなんだから、もう少し優しくしてやんなよ」
「あのね、私は充分ソフトに接してるわ。これがオツベルじゃなかったら、とっくに〈ヴィジャヤ〉で撃ってる。よく考えて。言葉を話すメメントよ? 話し方はああだけど、今までのメメントの知能とは雲泥の差がある。個体生物として高い知性と、何より意志を持って行動してるの」
ロゼットは細い右腕を上げ、部屋にいるオツベルを示した。
「私たちの知らないうちに、メメントが変化してる。この先、想像もつかない事態が起きるかもしれない」
「想像もつかない事態って……?」
「想像したくないわ」
二人の間に重い空気が流れた。
部屋を覗くと、話題の渦中にいるオツベルが、身動きひとつせず、じっと二人が戻ってくるのを待っている。
沈黙を破ったのはユイだった。
「オツベルにメメントのこと訊いたら、教えてくれるかな」
「教えてもらえるようにするの、何が何でも。今まで分からなかったメメントのこと、他ならぬメメントから聞き出せるかもしれないんだから」
「意地悪な言い方はダメだよ。質問する時は優しく、だからね。捕虜だとか、利用するだとか、そんなことのために助けたんじゃないんだよ」
「分かってるわよ。でも、もう私たちだけの秘密にしておくわけにはいかないわ」
「そうだね」
ユイは肩を落としてため息をついた。
「絶対ドミニクのカミナリが落ちる」
「氷の拳骨もあるかも」
ロゼットの表情が物憂げに曇った。




