TRACK-3 少女と異形 7
浮遊感に包まれている。
雲の上を漂っているようでもあり、ぬるま湯に浸りきっているかのようでもある。
温かくて心地いい。
母親に抱かれている感じにも近い。
幼い頃、膝の上や腕の中で眠っていた時のような。
そんな心安らぐぬくもりだ。
もっとこのぬくもりを感じたい。寝返りを打って、手を伸ばす。ぬくもりの元を求めて、まさぐる。
でも、何も、誰もいない。
「ママ?」
そばにいるはずの母を声に出して呼んだ瞬間、意識は急速に浮上した。
目を開けた途端、窓から射すまばゆい光が目を刺激した。反射的に顔を背ける。瞼の裏でちらちら瞬く光の粒が治まるのを待ってから、今度はそっと目を開けた。
視線の先にあったのは、どこかの部屋の一面だった。クリーム色の壁紙に、枠のない嵌め込み鏡が一枚。デザインのシンプルなチェスト、椅子が一脚、それしかない。
(ここはどこ?)
自分の部屋でないことは確かだ。リカはゆっくりと上体を起こした。
知らない部屋のベッドで眠っていたらしい。その事実に衝撃を受けたリカの心臓は、にわかに早鐘を打ち始めた。
視線を落として自身を見てみると、やはり見覚えのない紺色のパジャマを着ていた。厚手の生地で、リカにはかなりサイズが大きい。新品のようだが、おそらく男物だ。身頃も袖も余っている。ズボンは腰紐が結ばれているものの、裾が踵に届いている。
(どういうこと? 私、どうしてこんな所で、こんな格好を……)
何があったのか思い出せない。リカは頭を抱え、必死で記憶を辿った。
昨日は何をしていた?
たしかスーと二人で、シャイン・スクエア・モールに行ったはずだ。いつもと変わらない過ごし方で時間を潰し、日が暮れる前にスーと別れた。
その後は?
その後に、電話がかかってきた。誰から?
少しずつたぐり寄せた記憶の糸から、低く凛とした男の声が響き出した。
――なぜ僕を捜す?
声は呼び水となり、澱んでいた記憶に流れをもたらす。
電話の後、あれらが天井から何体も降ってきて、モール内が一瞬にして恐慌状態に陥ったのだ。
そんな中で、“彼”が再び目の前に現れた。
やっと会えたあの人――レジーニは、三年前と同じように、蒼い機械の剣をふるって化け物に立ち向かっていって――、
彼を助けたくて、能力を使った。
「ああ、そっか……それで」
リカは額に手を当て、軽くため息をついた。
無理して力を行使したせいで、気を失うかどうかしたのだろう。記憶が途切れているのは、きっとそのせいだ。
あの力は体力を消費する。使い続ければ力尽きてしまう。夕べは、今までにないほど多くの化け物を一度に屠った。失神するほどの反動があったとしても不思議はない。
では、気を失った自分が、どうやってこの部屋に来られたのだろう?
考えてみたが、答えはひとつしか出てこない。
リカは改めて自分の状態を見直した。よそのベッド。男物のパジャマ。着替えは自分では出来ない。
たちまち頬が熱くなる。
「う、嘘……やだ、どうしよう」
もう一度部屋を見渡してみたが、自分の服は見当たらなかった。
リカはベッドから足を降ろした。床にコットンのスリッパが揃えられていたので、素直に履く。
少しふらつく足で、そろりそろりと部屋を横切り、ドアの前に立った。ノブを持ったがすぐには開けず、耳を近づけて人の気配を探る。誰かがいるのかいないのか、いまいち分からない。
数秒待ってから、思い切ってノブを回し、ドアを開けた。
視界の端に何かが映ったので、そちらに顔を向ける。
すらりと背の高い男がそこにいた。グレーのルームパンツだけを履き、タオルで髪を拭いている。鍛えられた裸の上半身からは、ほのかに湯気が立ち昇っていた。
リカに気づいた男は、気まずそうに碧眼を細めた。
「おっと」
「きゃあああああああああ!!!」
喉から悲鳴が迸ると同時に、勢いよくドアを閉めた。あちらから簡単に開けられないように、両手でしっかりノブを握り締めて固定する。無駄な行動だが、そんなことを冷静に考える余裕はない。
頬と耳は茹でられたように赤く熱を帯び、心臓は弾けんばかりに鼓動を打つ。
若い男の裸の上半身を、あんな間近で見たことなどない。免疫のないリカにとっては、視覚的にも精神的にも刺激が強すぎた。美しく均整のとれたボディラインが、脳裏に焼きついて離れない。
向こう側からノックされた。リカは思わず、ノブを握る手に更に力を込めた。
「驚かせてすまない。もう服を着たから、落ち着いたら出ておいで」
努めて優しく言おうと心がけているらしく、少したどたどしい口調だった。ドアに身を寄せて息を潜めていたリカは、どうするべきか判断できず、すぐには動けなかった。
しばらく経ってから、勇気を振り絞って、そっとドアを開ける。彼はもういなかったが、まず頭だけを外に出し、様子を伺った。
寝室の正面は、広々としたリビングだった。右手にはベランダがある。大きな窓ガラス越しに見えるのは、ジオラマのような街並みだ。
どうやらここは、高層ビルの上階の一室らしい。しかも、おそらくは高級なマンションだ。インテリアに詳しいわけではないが、リカの素人目にも高価だと分かる洗練された家具で、室内はシンプルにまとめられている。
奥には別のドアがあった。目線を左側に移すとそちらはキッチンで、カウンターの中にレジーニがいた。今は白いロングTシャツを着ている。両袖を肘まで捲り上げて、何やらこしらえているようだった。
リカが顔を出したことに気づくと、彼は一旦手を休めた。
「やあ」
薄く笑みを浮かべる彼に、リカはぎこちない会釈で応えた。
「さっきは失礼した。いろいろ聞きたいことがあるだろうが、ひとまず後回しにしよう。シャワーを浴びたければ、好きに使っていい。バスルームはそこだ」
シャワーには心動かされた。肌が少し汗ばんでいて、さっぱりしたいと思っていたのだ。
だがここはまがりなりにも、成人男性の部屋なのである。許可が下りたとはいえ、バスルームを借りるというのは、貞操観念の面から見ていかがなものだろうか。
そんなリカの迷いを察したのか、彼は苦笑して肩をすくめた。
「警戒しなくてもいい。食事の用意にまだ少し時間がかかるんだ。その間に汗を流してくればいいと思っただけさ。気になるなら、そこのソファで待っていても構わない。あと、君の服は洗濯して、今乾燥中だ。埃やら奴らの体液やらが散っていたからね」
リカは静かに寝室を出て、料理をするレジーニをしばし見つめた。やがておずおずとキッチンの前に移動し、
「バスルーム、お借りします」
ぺこりと頭を下げる。
彼は柔らかい目線でリカを一瞥すると、「どうぞ」と頷いた。
バスムールはリビングから見て左手にあった。洗面台の側に、ふかふかの白いバスタオルとフェイルタオルが、きちんと畳んで用意されていた。リカがすぐにでもシャワーを使えるように、準備しておいてくれたらしい。
洗濯機が、小さな音を立てながら働いている。
パジャマの上を脱ぐと、ほっそりした自分の身体が鏡に映された。下着の替えはさすがにないだろうから――あったとしても、それはそれで困惑する――我慢してまた着用するしかない。
痩せっぽちな自分の裸体を眺めたリカは、そこで思い出した。気を失っている間に着替えさせられたということは、この貧相なボディラインを見られたということだ。
「ああ、もうやだ、最悪」
再び火照ってきた顔を、両手で覆う。
念願叶って憧れの男性に会えたというのに、まともな再会は果たせず、あまつさえ女性としての魅力に欠けた姿を見られたなんて。
男性のセミヌードを肉眼で見たのが初めてならば、自分の素肌を男性に見られるのも初めてだった。相手が彼であったことを、喜ぶべきか嘆くべきか。
リカは鬱々とした気分で、シャワー室に入るのだった。
温かい湯を浴び、汗を流してさっぱりすると、落ち込んでいた気分も多少晴れた。ぶかぶかのパジャマに袖を通し、ドライヤーで髪をあらかた乾かしてからバスルームを出る。
リビングに戻ると、テーブルの上に朝食が用意されていた。くるみブレッド、ベーコンとブロッコリーのキッシュ、にんじんのサラダ、豆のスープ。メニューは平凡だが、どれもきれいに作られていて、食欲をそそられる。盛り付けも、お店で出されたものと遜色ないほど丁寧だ。美味しそうな匂いにつられて、リカの腹はきゅうっと鳴った。
「食べられそうなものを用意したつもりなんだが、食欲は?」
グラスにオレンジジュースを注ぎながら、レジーニが尋ねた。
「あ、あります。これ、全部作ったんですか? すごい」
リカは料理が苦手だ。はっきり言えば下手である。オムレツを作ろうとすると必ずスクランブルエッグになるし、スープにチャレンジすれば、極端に薄いか極端に濃いか、どちらかにしかならない。
要するに言葉通り「匙加減が分からない」のである。だから、まともに料理が出来る人は、誰であろうと尊敬に値する。
レジーニは、大したことではないというように肩をすくめた。
「店屋惣菜はあまり好きじゃなくてね。こう見えて味には自信がある。良ければどうぞ」
勧められるままに椅子に座ったリカは、「いただきます」と述べ、フォークを手に取った。
どれも美味しそうだが、まずはにんじんサラダを頂くことにした。しゃきしゃきのにんじんと、フルーツビネガードレッシングが口に楽しい。
次にキッシュだが、卵がふわふわで優しい食感だった。ベーコンが角切りなのが贅沢だ。
くるみブレッドも豆のスープも、文句なしに美味しい。普段レンジアップ食品や、買ってきた惣菜ばかりという食生活のリカにとって、手料理は大変にありがたいものだった。母親のキッシュが懐かしくなる。
ふと視線を感じて顔を上げた。向かいの席で同じメニューを静かに食べていたレジーニが、食事の手を止めてじっとこちらを眺めていた。
我に返ったリカは、慌ててフォークを置き、ナプキンで口を拭く。
「す、すみません。あんまり美味しいから、つい夢中になって」
「いや、いいんだ。口に合ってよかったよ。スープ、まだあるけど?」
おかわりがあるならほしいけれど、乙女心としては恥ずかしくて言えない。どうしようか迷っていると、レジーニが右手を差し出した。
レジーニは特に何も言わず、かすかにそれと分かる笑みを口元に浮かべている。彼の言わんとすることを察したリカは、頬を赤らめながらも、素直にスープボウルを彼に渡すのだった。
ごちそうになったお返しに、せめて片付けだけでもしたかったリカだが、気にせず休んでいろと言われ、おとなしくリビングのソファで待つことにした。
片付けをすませたレジーニは、ホットコーヒーのマグカップを手にこちらへやってきた。
リカがお礼を言ってマグカップを受け取ると、彼は斜向かいに座った。
「気分は? 少しは良くなったかな」
「はい、もうすっかり。ありがとうございました、いろいろ良くしてくださって」
レジーニは一瞬目を逸らし、ばつが悪そうに顎を掻いた。
「察しはついている思うが、その、着替えさせたのは僕だ。つまり……」
「いえ、分かってます、大丈夫です。私、気を失うかどうかしたんですよね」
「夕べのことは、どこまで覚えている?」
リカは少し間を置き、記憶を整理してから答えた。
「あなたから電話をもらって、あれが天井からたくさん降ってきて……。あなたともう一人の人が戦っていて、私は……」
その先を、はっきり言葉にするのが怖かった。自分が普通でないことはとっくにばれている。だが、改めてその“普通でない”ことを彼に告げるのは辛かった。
「君には何か、特別な力があるんだろう?」
今更隠す意味はない。リカは頷く。
「昨日、もう一人いただろう。パーカーを着た猿が」
リカの脳裏に、金髪の青年の姿が浮かぶ。言われてみれば茶色混じりの金髪がキンシコウっぽいかもしれない、ひょいひょい飛び回ってたし、などと思った。
(そういえば、あの人。なんだか不思議な感じがした)
初対面のはずなのに、知っているような懐かしいような、奇妙な感覚を覚えたのだ。
レジーニの言葉が、リカを物思いから引き戻した。
「あいつは何かを感じ取っていた。君が、メメントに何かしたらしい、とね」
「メメント?」
「あの化け物どもの名称だ」
そんな呼び名があったとは知らなかった。
「その人はどうして、私が何かしたんじゃないかって分かったんですか?」
「さあ。ただ、漠然と感じたんじゃないかと思う。あいつは少し特殊なんでね」
レジーニはマグカップに口を付け、一口飲んでから続けた。
「君とあいつには、おそらく何らかの共通点がある。僕らにはお互い、話すべきことがたくさんありそうだ。あまりいい話ではないだろうが」
そう言うと、レジーニはマグカップをセンターテーブルに置き、リカの顔を覗き込んだ。
「君のことは、覚えていたよ」
冴えた碧眼はエメラルドのようで、吸い込まれそうに美しい。
でも、どこか哀しげだ。
リカもカップを置き、レジーニを真っ直ぐ見つめる。
「あの時は本当に、ありがとうございました」
やっと伝えられた。
言えば泣いてしまうかと思っていたけれど、胸の内を行き過ぎていったのは、清々しい風だった。




