TRACK-3 少女と異形 6
一台のスポーツカーが、ハイウェイを疾駆する。夜の闇に溶け込んだ黒いボディにネオンが映り込み、流星のような尾を描く。
法定速度は優に超えており、他の車両の間を縫うように追い抜く。ハイウェイパトロールに見つかれば、たちまち補導されてしまう状況だが、そんなことに構っていられなかった。
週末になると、ハイウェイパトロールは投入隊員数を増やし、取締りを強化する。アトランヴィル警察ハイウェイパトロール隊の検挙率は、他のシティと比べても圧倒的で、レジーニでさえも脅威に感じている恐るべき部隊なのである。
レジーニは愛車のハンドルを操作しながら、時おり目の端で助手席を確認した。
隣の席でぐったりしている少女は、一向に目を覚ます気配がない。窓側に傾いた頭は、車の振動に合わせて揺れている。
ジャケットでくるみ、エアコンを付けてはいるが、冷え切った少女の体温は上昇しない。これ以上の体温低下がないだけまだましだが、体温が戻らないのも危険だ。
一刻も早く温めなければならない。手近なホテルかモーテルに身を寄せることを考えたが、すぐに却下した。人目につく場所は避けるべきだ。
幸いにも、レジーニのマンションがあるリバーヴィルは、グリーンベイの隣の地区である。マンションまでの距離も、そう遠くない。急いで電動車を走らせれば間に合うはずだ。
奇跡的にもパトロール隊に見つかることなくハイウェイを降りることが出来た。
知り尽くしたリバーヴィルの裏道を突っ切り、最短で自宅マンションに到着する。慌しく車を停め、眠り続けるリカを助手席から抱え降ろし、急いでエレベーターに乗り込んだ。
華奢な少女は肉体の冷たさも相俟って、このまま腕の中で儚く溶けてしまいそうな気がした。
それはただの幻想だ。現実主義の自分らしくもない思考だと、レジーニは皮肉めいた苦笑を浮かべる。
少女を抱く腕に、自然と力が篭もることには気づかずに。
部屋に入ったレジーニは、真っ直ぐ寝室へ向かった。ベッドの上にリカを寝かせ、楽な体勢に手足を整えてやる。靴と靴下は脱がせた。ベッドの足元に靴を揃え、靴下はひとまず椅子の上に放った。
靴を脱がせる際に触れた爪先は、雪の中を歩いてきたかのように冷たかった。手の指先も同様だ。肌は血の色を失い、ふっくらしていたはずの唇は青くかさついている。
厚めの毛布と羽毛布団をかけ、寝室の暖房を付けただけでは、体温上昇の効果がないかもしれない。
どうする、と一瞬考えたレジーニだったが、躊躇している場合ではなかった。
「怒るなら目が覚めてからにしてくれ」
レジーニは先に言い訳を述べ、リカの服を脱がし始めた。
カットソーとキャミソール、スカートを一枚ずつ脱がし、軽く畳んで靴下と共に椅子に置く。
レースがあしらわれたベビーピンク色の下着姿となったリカの身体は、とてもほっそりとしていた。身長と比べても、痩せすぎではないだろうか。きちんと栄養のある食事をしているのか、心配になるほどだ。
だが、そんな気遣いは後回しにしなければ。レジーニは気持ちを切り替え、眼鏡を外してサイドボードに置いた。ネクタイをむしり取って、椅子の背もたれに投げる。ジャケット、ベスト、シャツ、脱いだ順にネクタイの上に重ねていった。
裸足になり、ズボンのみ着用した状態でベッドに上がったレジーニは、毛布と羽毛布団をかぶせながら横になり、リカの冷えきった身体を抱き寄せた。
抱いた瞬間、レジーニの背中にうっすらと鳥肌が立ったものの、しばらくして収まった。
本当に冷たい。しかし、懸念していた低体温症にまでは至らなかったようだ。もし発症しているなら、もう指先が凍傷になっているはずである。ひとつ安心した。
リカの胸の膨らみは控えめで、抱き寄せてもレジーニの鍛えられた胸板には触れない。それは――女性に対して失礼にあたるかもしれないが――喜ばしきことだった。
やむにやまれぬ事情とはいえ、下着姿の年頃の少女と、一台のベッドで抱き合っているのである。その気がないとしても、男の本能を刺激する部分には、極力触れない方が望ましい。
もちろん、こんな状況下で無抵抗な少女に欲情するほど、レジーニは獣ではない。冷静さを保つ理性なら、過分に持ち合わせている。
(まさか、ロマンス小説の常套展開まがいのことを、この僕がする日が来るとは)
少女の痩せた背中に腕を回したレジーニは、今のこの状況を鑑みて、自嘲気味に笑った。
冷えた身体を温めるため、男女が裸になって抱き合うというシーンは、恋愛物の小説や映画では使い古されたパターンだ。
これまでは、現実にそんなシチュエーションがあるものか、と一笑に付していたレジーニだったが、実際に己自身がそのシチュエーションに陥ってしまった以上、考えを改めねばなるまい。
ふ、と一息吐いて、レジーニは腕の中の少女を見る。
目に飛び込んでくるのは、色味の薄い赤い髪。
かつて、この腕に何度も抱いた女性と同じ髪だ。
鳩尾のあたりが、ぎゅうっと縮んだ気がした。
彼女が目を覚ましたなら、自分がベッドの中で抱かれていることに気がつき、顔を上げるだろう。
その顔が、もし――。
(やめろ、考えるな、この愚か者が)
詮なき空想をした自分を、レジーニは胸中で叱責する。
髪の色が同じというだけで、会ったばかりの少女と亡き恋人の姿を重ねるのは筋違いだ。容姿は似ても似つかない。性格だって違う。こんな風に見てしまうのは、少女と亡き恋人、両方への侮辱に値する。
――ではなぜ、わざわざリカの側へ行ったのだ。
内なる声がレジーニに問いかける。
彼女の前に出て行くつもりはなかったとはいえ、あのような行為はするべきではなかった。自分を捜すのをやめさせる方法なら、他にもあったはずだ。死んだことにしてもよかった。
――彼女の写真を見た時から、頭にちらついて仕方がなかったのだろう?
――会いたくて会いたくてたまらなかった女性を思い出すから。
あの髪に触れたいと思ってしまったから。
そうなんだろう?
内なる声は、響き始めたら止まらない。かき消しても、煙草の煙のように纏わりついてくる。
レジーニは自己嫌悪に近い憂鬱さを覚え、舌打ちしたい気分になった。だが、眠っている少女に配慮し、我慢する。舌打ち程度で目を覚ますとは思えないが、そうするべきだと感じたのだ。
たしかに、リカの髪に惹かれたのは事実である。亡き恋人と同じ色の髪に触れてみたいと、一度も思わなかったとは言いきれない。
まだ二十代前半だった頃、将来を誓い合った恋人を、当時所属していたグループのボス、ラッズマイヤーに惨たらしく殺された。憎きラッズマイヤーへの復讐だけを糧に生きていたレジーニは、長い間心を闇の氷の中に閉じ込めていたのである。
その氷を溶かし……いや、打ち砕いたのは相棒だ。
認めるのは少々癪なのだが、おかげで過去と向き合い、前を向いていけるようになれたはずだった。
だが完全にではなかった。八年間も抱き続けてきた闇を、完璧に拭い去ることは難しい。レジーニの傷は、まだ瘡蓋のままなのだ。
(この子はあいつじゃない。もう考えるな)
レジーニは目を閉じ、視界とともに邪な思考を無の中に沈めた。
そんなことよりも、考えなくてはならないことは他にもある。
ショッピングモールを襲撃したメメントたち。あの中には、エヴァンが遭遇したという“変形するメメント”が何体か混じっていた。変形の過程を目の当たりにしたが、たしかにマキニアンの細胞装置に近いものだった。
あのメメントたちは、何者かによって意図的に放り込まれたのだ。エヴァンがいると知っていて。
エヴァンが戦闘後に追っていった“誰か”が、メメントを操っていた人物だろう。そしてその人物は、ファイ=ローから聞いた正体不明の組織に与しているはずだ。
まだ全容の知れない組織だが、本格的にエヴァンとの接触を図り始めたようである。
ここで気にかかるのは、「メメントを操る技」だ。
以前、メメントを意のままに動かし、破壊行為を行っていた者が、一人だけいた。
(シェド=ラザ……。奴も、その能力を持っていた)
先の夏において、レジーニたちの前に現れた、恐るべき戦闘能力を有する、白き少年マキニアンである。死闘の末、エヴァンは彼に打ち勝ったが、生死の境をさまよう重症を負う結果となった。
シェドの生死は定かでないものの、そう簡単には死なないだろうと、レジーニは思っている。
では今日、メメントを引き連れてきたのはシェドだろうか。
いや、違うだろう。もしシェドだったのなら、エヴァンを殺すために必ず姿を現すはずである。シェドはエヴァンに対して、異常すぎる執着心を持っているのだ。エヴァンと殺し合うためならば、どんな手段も選ばない。メメントを投下しただけで退散するとは考えにくい。
それに、シェドが接近しているなら、おそらくエヴァンは察知するだろう。
エヴァンとシェドには、何らかの接点があるらしい。ゆえに、彼らにしか分からない感覚が、互いの間に通っている、ということも充分考えられる。
(二人の間にある接点。それが能力に関わることであれば、エヴァンにもシェドと同じ力があると見ていいだろう。ただ、記憶が改竄されたせいで眠っている、というだけで)
そして今日、メメントを操る能力者が、もう一人現れた。
レジーニの腕の中で眠り続ける少女、リカ・タルヴィティエである。
モール内での戦闘において、メメントの数体が自傷行為を始めた。長年〈異法者〉として活動してきたレジーニでさえ、メメントが起こす行動としては、あまりに奇妙だと思えた。
エヴァンは「あの子が何かしたと思う」と言った。つまり、リカがメメントに対し、何らかの影響を与えた可能性がある、ということになるのではないか。
それが事実ならば、リカにも、シェドと同様の、あるいは近しい能力が備わっていることになる。
(リカにそんな能力があるとしたら、三年前のあの日、なぜ能力を発揮しなかった?)
三年前、彼女をメメントから救い出した夜。彼女は追い詰められたウサギのように震えるばかりだった。メメントは異常行動を起こさず、レジーニがいつもの通りに討ち取った。
(例えば、人間が持っている一般的な運動能力と同じように、特殊能力の発現レベルが、本人の体調やメンタル、発育状況などを反映するとなれば。あるいは、その時点でのリカの能力を上回るメメントが相手だった場合、能力の発揮が困難になるのかもしれない)
そればかりは、本人に確認するしかない。
リカ・タルヴィティエは、マキニアンか?
シェン=ユイ、ロゼット・エルガーのような、変形しない次世代のマキニアンの一人だろうか。
マキニアンならば、項と両腕の間接部分に、接続孔がある。これは、ユイとロゼットにもあった。
レジーニはリカの項を指でまさぐる。しかし、小さな金属部品が埋め込まれている様子はなかった。両腕の間接にも、それらしきものは確認出来なかった。
「君は一体、何者なんだ」
密やかな問いかけに、答えは返ってこない。
いつしか夜は更けて、レジーニはゆっくりと眠りの中へ落ちていった。